Under the rose -21-




なぜ急に気が変わって会いに行こうと思いついたのか、自分でもわからなかった。
Zとの最後のキスが、背中を押してくれたような気もする。

病院に着いて、受付で病室を聞いた。
面会時間が8時までなら、まだ余裕はある。
今日は祝日だから店の者は顔を出していないだろうと、後から理由付けてほっとしたりして。
ナースステーションに一番近い個室に名前を見つけ、一瞬躊躇ってからノックした。
応えはない。
眠っているのだろうか。
音を立てないようにそっと扉を開いて、身体を滑り込ませた。

白い部屋の中で、たくさんの管を付けながらゼフは眠っていた。
バラティエの厨房で仁王立ちになり、銅鑼声で檄を飛ばす鬼より怖いオーナーの面影は微塵もない。
痩せ衰え、老いさらばえた瀕死の年寄りが横たわっている。

サンジはぐっと喉を詰まらせ、口を真一文字に引き結んだ。
覚悟していたとは言え、この姿を目の当たりにしてはさすがに動揺を隠せない。
元より、何か言葉を交わそうと思って来た訳ではないのだが、この場で涙を見せることは例えゼフに意識が
なくとも許されないことだとも思った。
奥歯を噛み締め嗚咽を堪えて、黒く皺ぶいたゼフの目元をじっと見詰めた。

ぱちりと、音もなくその双眸が開く。
「何ぼうっと突っ立ってやがる、木偶の坊か」
想像よりはっきりとした声が出た。
サンジは仰天して、その場でよろめきたたらを踏む。
「じじい、起きて!?」
「気持ちよく寝てたのに、コソコソ入ってきやがって、クソが」
まったく変わらない乱暴な物言いだ。
だが横たわったまま発しているため、声に力はない。
「元気、そうじゃねえか」
「これで元気に見えるか、バカたれが」
もうダメだ、とサンジは立ったまま喘いだ。
視界がぼやけてゼフの顔すらよく見えない。
顔を背けたらその弾みで、涙が零れ落ちてしまうだろう。
「いい年してベソかいてんじゃねえよ」
「誰がっ」
耐え切れず背を向けた。
袖口で鼻と口を押さえ、嗚咽を噛み殺す。
もう涙も枯れ果てたかと思ったのに、どんどんと溢れ出て参った。

「おめえに、言っとかなきゃならんことがある」
「なに」
ぶっきらぼうな声を出すが、顔はもうくしゃくしゃだ。
「俺が倒れたのはこれで2回目だ、てめえにゃ知らせてなかったが」
「・・・」
サンジは自分が泣き顔なのも忘れて振り向いた。
ゼフの、いつもは厳しい目が穏やかに細められ見返してくる。
「てめえがあっち行ってる間に一辺、切れてんだよ。2回目はトドメっつうより必然だった」
よく見れば、ゼフの顔左半分に表情がない。
「ピエールんとこ叩き出されたって?いつまでも女にだらしねえからだ」
ぐしっと鼻が鳴ってしまった。
「典型的な新人いびりじゃねえか、まんまと罠に嵌まったてめえの間抜けさを恥じやがれ」
一旦言葉を切って、ごほんと空咳をする。
「ピエールも、若い嫁さん貰うと苦労するがな」
魅惑的なオーナー夫人。
兄弟子達に唆され容易く誘いに乗ったのは、未熟さ故だ。
「オーナーは・・・」
「血の気が多くてすぐ切れる、典型的な単細胞だ。嫁絡みで追い出したのはてめえで3人目だとよ」
自分が出て行って後も、ゼフとの仲は断絶されなかったのかとほっとした。
とは言え、それで自分が犯しかけた罪をなかったことにはできない。

聞きたいことはすべて聞けたと満足して、サンジはその場で跪き床に手を着いた。
「クソお世話に、なりました」
深々と頭を下げる。
これだけは言っておきたかったのだ。
この先自分がどうなろうと、恩人が生きてある内に伝えなければならない言葉がある。
例え地獄に堕ちるとしても、後悔だけは残したくない。

「抽斗の一番下、開けろ」
ゼフの声がして、サンジはゆっくりと顔を上げた。
ベッドの上で、ぶらぶらと点滴の管が揺れている。
右手を動かしているのだと悟って、すばやく立ち上がった。
言われるままに一番下の抽斗を開ければ、薬袋や洗面用具などが入っている。
「タオルの下だ」
綺麗に畳まれたタオルを捲ると、白封筒があった。
「てめえが来たらこいつを渡せと、パティ達には言ってあった」
誰もいない時に来やがって、と吐き捨てるように呟く。
「中を・・・」
見てもいいのかと聞くまでもなく、とっとと開けろと怒鳴り声が返った。
便箋に書かれていたのは、幾つもの店名と住所。
日本語とフランス語の両方で表記してある。
「なにもピエールの店だけが修行先じゃねえ。そっちがダメならこっちってえ、なんで頭働かせねえ」
「・・・あ」
「前にも言ったが、向こうじゃ大抵15歳から修行始めるんだ。てめえはもう19だろう、トウがたってんだからグズグズしてる暇はねえってな」
サンジはぎゅっと便箋を握り締めた。
「言っとくが俺はもう、紹介状は書かねえぞ。てめえが直接店行って交渉しろ。そこに書いてあんのは俺が一目置いてる店ばかりだが、だからこそ競争相手は多いぞ。おいそれと雇ってはくれめえ、後はてめえの気力次第だ」
「でも、俺はもう―――」
戻れないんだ。

「俺あ、これからリハビリだとよ」
ゼフは天井を睨み付けたまま、点滴の管を揺らした。
「こんな老いぼれに、少しずつリハビリして行きましょうね、だとよ。そうすりゃ少しは動くようになると。どんだけやり直しさせりゃあ気が済むんだ」
なあ、と首を動かさず視線だけ寄越す。
「人生なんてやり直しばかりだ。だからこそ、前に進んでいける」
サンジははっとして顔を上げた。
酷く老け込んで痩せたゼフだが、瞳の力強さだけは変わっていない。
ほんの少し柔らかく眇められ、瞼を閉じた。
「もう帰れ、俺は眠い」
サンジは便箋を畳んでそっと封筒に入れると、黙って頭を下げた。
そのまま踵を返し、病室を出る。

前を向いたまま早足で廊下を通り抜け、通用口から外へ出て夜の空気に触れた。
日はとっぷりと暮れて、緑が多い郊外の病院らしく静かな夜が広がっている。
空を見上げれば、星の瞬きさえ見えて。
サンジは立ち止まり、手にした封筒を胸元に持ってきて両手で抱き締めた。
無意識に握り締めていたらしく、封筒は皺くちゃだ。
けれどこの中に、ゼフが残してくれた“道”がある。

不幸な生い立ちのまま歪んで育ったサンジを拾い、育ててくれた恩人なのに。
“反抗”と言う名の甘えを教えてくれたのは、ゼフだった。
失意のままフランスから帰る道中、ゼフが倒れたことを知って怖気付き、駆けつけることもできなかったのに。
バラティエが一番大変な時に手伝えず、なんの力にもなれなかったのに。
それでも、ゼフは変わらないでいてくれる。



サンジは仰向いて星を眺めたきり、長いこと外に佇んでいた。
風は冷たかったが、寒さは感じなかった。
むしろ吐く息が熱かったから、Zの言葉通り熱が出てきたのかもしれない。
けれど空でも眺めて仰向いていなければ、新たな涙が零れ落ちそうで。
もう少し、幸せの余韻に浸っていたくて。
色々なことがありすぎた一日を振り返って、それでもサンジは幸福に微笑みながら夜空を見上げていた。












「初回限定版オンリーで、価格・発売数とも第1弾の約2倍。予約受付と同時に即日ソールドアウト」
Aは雀斑面をにんまりと緩めて、パソコンを閉じた。
「どうよ〜、俺ってやり手」
「阿漕ねえ」
Pはしなやかな仕種で肘を着いて、軽く煙草を吹かした。
「Zとの絡みが最後になるから、今の内に稼いでおこうって魂胆でしょ」
「次回からヘビーユーザーの3割が離れる可能性があるからね。念のため」

午後のカフェテラスで道行く人をぼんやりと眺めながらのティータイム。
小春日和とは言えさすがに肌寒く、Pは長い足に店の毛布を巻いて上半身だけ優雅にくねらせた。
「もうどんな方向に持っていくか決めてあるの?」
「うん、がらりと趣向を変えようかと思ってね、今サディちゃんと交渉中」
Pは大きな瞳をまん丸く見開いて、唇を尖らせた。
「徹底的にサンジを壊す気?酷い人」
「聞き捨てならないなあ、俺の目標は揺るぎなき美の追求だよ」
Pは瞳を伏せて視線を逸らせ、煙草を揉み消した。
一瞬立ち昇った紫煙は、すぐに風に紛れて消える。

「私には、貴方の方がZ以上にわからない男だわ」
「Z以上?そりゃあ光栄って言うか心外って言うか・・・」
微妙だと顎に手を当てて、眉を顰めた。
「サンジのこととても気に入っているみたいなのに、どうして商品としてしか扱わないの?以前の貴方なら気に入った子はプライベートでもすぐに口説いて手に入れたのに」
「サンちゃん、ああ見えて身持ち固いんだよ」
「容易く手に入らない子ほど、燃えるタイプではなくて?」
2本目の煙草に火を点けて、ふうと口端から煙を吐く。
「貴方こそ、本当は誰も本気で愛さないんじゃないかと思うわ」
「Zより?」
長い睫毛に縁取られた蟲惑的な瞳が、肯定するように眇められる。
「まあ、俺は欲しいものは必ず手に入れてきたからね」
そう嘯きながら、Aは自嘲するように笑った。
「けれど欲しがっちゃいけないものは、絶対に手に入らないんだ」
「―――・・・」

あ、と手を挙げてAはポケットを探った。
「失礼」
断ってから携帯を取り出す。
「Kだ」
着信を見てから身体の向きを変え、耳に当てる。
「うん、今Pとデート中。どうした?」
うん、うん?と相槌の語尾が上がったのに気付いて、Pは頬杖を付いたままAの横顔を注視する。
「シリアルナンバーは?・・・そうか」
了解と頷いてから携帯を切る。
打って変わって真面目な表情で、Pを見返した。

「第1弾DVDが、ネット上に流出した」
Pは煙草を咥えたまま唇を開け、歯で噛み締める。
「・・・潮時ね」
一瞬止んだ風の中で、二人の間をゆっくりと紫煙が立ち昇った。










ゼフが記してくれた店は5軒。
いずれも名の知れた、一流の店なのだろう。
紹介状もツテもなしにいきなり訪れて働かせてもらうことは、フランスならば可能かもしれない。
けれど、自分にそんな資格があるだろうか。

サンジは冷たいフローリングに寝そべって、ずっと飽きずに便箋を眺めていた。
Zが言ったとおり、当日の夜は熱が出たがすぐに引いた。
捲くった袖口から覗く肌には、黒ずんだ縄の跡がまだ色濃く残っている。
けれどこれも、あと2,3日経てば綺麗に消えてしまうのだろう。
そうして、表面上はすべてなかったことになるのかもしれない。

あのDVDはもう発売になっただろうか。
第5弾の予定は立ったんだろうか。
今から足を洗わせてくれと頼んだら、Aは聞き入れてくれるだろうか。
何度も逡巡して、携帯を手にしてはまた戻すを繰り返している。

自分にそんな資格はないとか、今更料理の世界に帰るなんて虫が良すぎるとか、どこかであの映像を見た人が、自分が厨房に立っている姿を目にしたらどう思うかとか、あの映像はいつまで残されるのかとか―――
色んな想いがぐるぐると頭の中を駆け巡る。
それでも、もう後戻りできないと何度も思ったはずなのに手にした便箋はサンジの目には一筋の光のように見えた。
ゼフは、サンジがあんなことをしていると知らないのだ。
むしろあの映像を見たら、今度こそ全身の血管が破裂するだろうから決して目にしてもらってはならないのだけれど。
あんな自分を見たら、さすがに愛想を尽かすだろう。
それでも、人生はやり直しの連続だなんて同じ言葉を投げてくれるだろうか。

床に置いた携帯がプルルと震えた。
直に響く振動にビクッと身体を起こして、フローリングの上を微妙に移動していく携帯を捕まえる。
Aからのメールだ。
振込み完了とかかなと思いつつ、メールを開いた。



「Under the Rose」

その一言だけが表示されていた。





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