月時雨



しとしととそぼ降る雨の中を、二人の男が足早に通り過ぎていく。


川縁の朽ちかけた船小屋の軒下に立ち止まり、ふと空を見上げた。
降り続く小糠雨を知らぬように、中空には傘を被った月影がぼんやりと浮かんでいた。

「狐の嫁入りかの。」
「月時雨でしょう。すぐに止みまさあ。」
ささっと小袖の露を払って、しばし雨宿りするようだ。


「狐といやあ、戎屋に毛色の変わった花魁がいるってえ話でしたね。」
「毛色も何も、紅毛人らしいじゃねえか。それも呆れたことに、男だとよ。」
「それがえらい評判だとか・・・」
「評判てえまずは物珍しさだけじゃねえか。戎屋ともあろう大店が、なんだって見世物みてえな真似をしたんだか・・・」
「けどそりゃあ見事だって聞きましたぜ。色の白きは淡雪のごとく、島田に結った髪はまるで光の渦みてえに金ピカだってえ話ですぜ。金銀珊瑚、どんな簪や笄もその髪に負けちまうってえ通いの旦那方は簪一つ贈るのにもあれこれ悩むとか。しかもその眼が、暗い行灯の光の中でもくっきりと浮かんで見えるくれえ、透き通った瑠璃より蒼い空の色だってえんだから、驚きだ。」
「おいおい、どこの受け売りなんだ。ったく、ろくなこと聞いてこねえなてめえは。どっちにしたって俺あ、陰間にゃ興味はねえよ。」
「陰間じゃありやせんぜ、太夫ですぜ。」
「男に太夫もクソもあるかい。いくら亡八でも酔狂がすぎらあ・・・」




ざわりと、河原の葦が揺れた。

男の一人がぎょっとして声を上げる。
いつの間にそこにいたのか。
船小屋に覆い被さるように茂る柳の木の下に、長身の男が立っていた。


流れる雲の切れ間から漏れた月明かりが、束の間その姿を浮かび上がらせた。
短く刈られた髪は灰緑色に見える。
美しい立ち姿に反してその男にはまったく気配がなかった。

「誰だ、てめえは…」
「播磨屋の、五郎兵衛だな。」
闇に溶けるような平淡な声だ。
案外と若い。

「へ、それがどうしたい。」
五郎兵衛は応えながら懐の短刀に手をかけた。
いざとなれば、手下を楯にして逃げるつもりだ。
大方金で雇われた浪人だろう。
人に恨みを買った覚えは多すぎて見当もつかないが、恐らく誰かが差し向けたに違いない。

「その命、貰い受ける。」
殺気を感じさせぬまま、男はすらりと刀を抜いた。

俄かに辺りが明るくなり、雲の切れ間から降り注ぐ白い光の中で、男の姿がはっきりと現れる。
緑の短髪。
腰には三本の刀。
開いた襟元から覗く晒しの下から、浅黒い肌の上を斜めに走る袈裟懸けの傷が見えた。

「・・・人斬りのっ!」
思い当たり、思わず声を上げる。
怯えた手下の背を押して五郎兵衛は脇目も振らずに一目散に走った。
背後でぎゃ、と短い悲鳴が聞こえたが構ってはいられない。
あれが噂に聞いた人斬りならば、もう自分の命は無いも同じだ。

―――冗談じゃねえ。
だが数歩駆け出しただけで、五郎兵衛の足は止まってしまった。
そのままゆっくりと崩れ落ちる。
対峙する間もなく、自らが斬られたことにも恐らく気付かず、五郎兵衛はそのまま事切れてしまった。






分厚い雲に阻まれてまた闇が訪れる。
男は血糊を懐紙で拭い鮮やかな手つきで刃を鞘に収めると、今は冷たい肉塊と化した男二人に一瞥もなくその場を立ち去ろうとした。


その時
さあ…と一陣の風と共に雨の飛沫が顔にかかった。








「ひいいっ」

短い悲鳴と共に小さな子供が提灯を取り落とした。
偶然通りがかったのだろう。
その後ろには駕籠かき達が中腰になってこちらの様子を覗っている。
「し、死んでるっ」
「人殺しっ」
男が一歩踏み出すと駕籠かきは駕籠を置いて逃げ出してしまった。
子供は健気にも駕籠に縋り付いてこちらを睨みつけている。


「どうしなんした?」
「いけませんあねさま、人斬りですっ」
震える子供を宥めるために、駕籠の中から伸ばされた手は闇に浮かぶほど白い。
簾を上げて子供を庇うように中に引き入れ、女が顔を覗かせた。
御高祖頭巾をすっぽりと被り、目元すらよく見えない。

また雲が流れ、白い光が辺りを照らす。
騒がれるようなら当身を入れるつもりで近付いた男に、女は「あ」と短く声を上げた。
すっと立ち上がり男へと近付く。

随分と背の高い女だ。
先ほど子供にかけた声も女にしては低かった。
その正体をいぶかしんで動きを止めた男の目の前で立ち止まると、女は懐に手を入れた。
取り出した懐紙で男の頬についた返り血をそっと拭う。
なめらかに動く手の白さばかりが目について、男は逃げることも忘れていた。
ふわりと立ち昇る香の匂いが鼻腔を掠める。

その白い手を取ろうと腕を上げた刹那、差し込む月明かりが女の目元をほのかに照らした。
白い絹糸のように光る睫に縁取られた切れ長の瞳。
銀色に透けて見える虹彩は男の顔を認めて微笑むように眇められた。

「・・・!」
「あねさん!」
悲鳴のような子供の声に、女は振り向いて指を立てる。
『しい』と口元に笑みを浮かべてもう一度前を向けば、そこに男の姿はなかった。

いつの間にか雨は止んで、湿った風が葦原を揺らすだけだ。

「・・・あねさま?」
子供は綺麗に切り揃えられたおかっぱを頭を傾けて恐る恐る歩み寄り、着物の袖を掴む。
「行って、しまいんしたね。」
「・・・そうさねえ。」
女は少し哀しげに頷くと煌々と光る十六夜の月を見上げた。





「―――ゾロ」


誰にも聞こえないように、彼にも届かないように

小さく呼んだその名を、喉の奥にそっと仕舞う。



虎落笛へ