月影さやかに



キッチンの丸窓から差し込む光が、今日の快晴を告げていた。
まな板の上で踊る包丁の音も軽やかに、サンジは鼻歌交じりで朝食の準備をする。
オーブンには焼き立てのパン。
寸胴鍋にはたっぷりの野菜スープ。
冷蔵庫の中には、新鮮なサラダに特製ドレッシングがスタンバイ。
フライパンではカリカリベーコンと目玉焼きが香ばしい匂いを放っている。
甲板から、テンポの速いバイオリンの音色が聴こえて来た。
ブルックがこうして朝の音楽を流してくれるお陰で、仲間たちの寝覚めは格段によくなったようだ。
元々ルフィは、キッチンから漂う匂いで起きて来ていたけれど。

「おはよう」
「おはよー」
「おはよう、サンジ君」
「おっはようナミすわんっ!今日も麗しいーv」
可憐な声に条件反射的に振り向いて、両手を顔の横で合わせながら身体をクネクネさせる。
本当に、ナミは綺麗だ。
涼しげなキャミソールから伸びる手足はすんなりと細く長く、はち切れんばかりにメリハリのあるボディは健康的な色気を発散させている。
明るい髪色と可愛らしい顔立ち。
大きな瞳は常に知的好奇心と物欲に溢れ、キラキラと輝いている。
ナミ以外の男共には目もくれず、サンジは一人くるくる回りながらナミを席までエスコートした。
「おはよう」
戸口から新たに魅惑的な声を掛けられ、はっとしてすぐさま飛んで返る。
「おはよう、ロビンちゅわん!今日もなんて素敵なんだーv」
両手で万歳しながら腰をくねらせた。
実際、じっと正視できないほどにロビンは美しい。
すらりとした立ち姿に豊満なボディ。
それでいてウェストは折れそうなほどに細く、すんなりと伸びた足にはガーターベルトがよく似合った。
アーモンド型の大きな瞳は謎めいた色を放ち、微笑を湛えた唇は妖しく艶めく。
まさに大人の色香全開の、美の女神だ。

「ああー俺はシアワセだーv 朝からこんな麗しい美女二人と朝食をともにできるなんて!」
「あのーモシモーシ」
「いいから席に着こうぜ」
サンジにとってその他大勢の男共が、各々勝手に着席しさっさと手を合わせている。
少し遅れはしたものの自主的に起きてきたゾロも着席したのを見届けて、サンジはくるりと振り返った。
「それじゃあ野郎共!召し上がれ」
そう言って手を広げ、そのまま固まった。

テーブルの上には何もなかった。
先ほどまで鼻歌交じりで準備していた、パンもスープもサラダもカリカリベーコンも。

「え?このクソゴムっ」
言いかけて、いつもルフィが座っている席に眼をやる。
誰もいない。
ルフィがいない。
はっとして周囲を見渡した。
さきほどまでテーブルに着いていたはずの、仲間たちが消えていた。
麗しいナミもロビンもその他大勢も

大欠伸していたはずの、ゾロも――――







はっと身体を震わせて、サンジは瞼を開けた。
目の端で揺れて見えるのは、天井から吊られたピンクのウィンドウベル。
薄い貝殻がカラカラと、風に吹かれてかすかな音色を響かせている。
「・・・夢、か」
現実に引き戻されて、サンジは仰向いたまま片手で顔を覆った。

懐かしい夢を見た。
大好きなレディ達の、そしてむさ苦しい野郎共の夢。
光に溢れたサニー号のキッチン。
仲間たちの笑顔、賑やかな食卓、目が回るほど忙しく楽しかった日々。
―――もう、戻れない

目元に当てた掌のがじわりと濡れた。
サンジはごしごしと手の甲で擦り、そっとフリルの裾を押し当てる。
「やべ、汗が目に入った」
誰も見ていないのにそう言い訳して、ゆっくりと身体を起こす。
ベッドのスプリングを軋ませ、素足で床に降りた。
ひんやりとした石畳の感触が心地よい。
サンジはその冷たさに誘われるように当てもなく歩き出し、部屋を出た。




中空にぽっかりと、丸い月が輝いている。
草も木もすっかり寝静まってしまったような静寂の中。
時折吹き抜ける風だけが、眠った樹々をあやすようにその枝を揺らしている。

―――みんなもどこかで、この月を見ているだろうか
同じように天を仰いで、散り散りになった仲間たちに想いを馳せているだろうか。
一人はぐれた心細さを胸に、また再び会えるかどうかわからない不安を抱いて。

サンジは我知らず合せた両手を、胸の前でぎゅっと握り締めた。
薄いオーガンジーの生地が、夜風に煽られて頼りなくはためく。


まるで月に誘われるように、ふらふらと歩を進める内にいつの間にか森の中に足を踏み入れていた。
島の中央にこんもりと茂った、小さな森だ。
いつもは小鳥やリス達が可愛らしく遊ぶこの森も、今はひっそりと静寂に包まれている。

「―――あ」
サンジは見慣れない輝きに足を止め、そっと近寄った。
森の中央に小さな泉ができていて、その水面に丸い月を映し揺れている。
昼間森に入ったときには、何もなかったはずなのに。
「こんなところに、水が・・・」
広場の窪地に湧いたのか、まるで水草のように底一面が緑に覆われていて、あちこちから水泡がぽこぽこと浮き上がっていた。

月明かりの下ですべてが見通せるほどに透明で清らかだ。
泉の傍で足を止め、そっとしゃんだ。
手を浸けてみれば思ったほど冷たくはなく、サンジの肌を包み込むようなまろやかな感触がした。
「天然の泉か。泥水も混じってなくて本当に綺麗だな」
一昨日雨が降ったから、その影響なのだろうか。
まだこの島についてわからないことが多いが、一番の謎はここの島民のことだから、あまり自然のことにまで頭が回っていなかった。

サンジは濡れた手のひらを、汗を掻いた首筋に押し当てた。
冷たすぎない水の温度が心地よい。
見ている間にもぽこぽこと水が溢れ出し範囲を広げている泉を前にして、サンジはひと汗流そうと思いついた。


その場で衣服を脱いで、素裸のまま泉に足を浸けた。
手と違って最初は少しひやりとしたが、すぐにその冷たさに慣れる。
少しずつ深いところに歩いていって、膝上まで来た辺りで腰を落とした。
小さな泉だから底は浅い。
こうして座り込んで肩や首に水を掛ければ、充分水浴びになる。

「あー、気持いい・・・」
温泉ではないのだが、首まで泉に浸かって月を見上げるのもなんとも風情のあるものだ。
黒い夜空にほんの少し浮かぶ雲が、時折月の前を横切るのに、その輝きの邪魔にはならない。
光が強すぎて、星の瞬きがあまり見えないのが残念なくらいだ。
月光をバックに伸びた樹の枝は真っ黒な影にしか見えず、その枝に掛けた服は月に掛かる雲か霞のようにたなびいている。




「こっちよ」
「まあ大変」
不意に空気がざわついたと思ったら、森の入り口からざわざわと人の声が近付いてくる。
お姉様方だと気付いていながらビクリと肩を震わせ、サンジは泉の中で身を縮こませた。

「サンディ」
「サンディ、どこ?」
ああ、やはり自分を探しに来たのか。
「ここっ・・・す」
半分水に浸かった口元から泡を吹きながら、サンジが小さく呟いた。
その声さえ聞き逃さずに、勇猛なお姉様方はどかどかと草を掻き分け樹木を押し倒さん勢いで飛び込んで来た。

「サンディ!」
「ああっ?!」
静寂の森に似つかわしくない雄叫びが夜空に響き、お姉様方の大群はわなわなと震えながらその場に次々とひざまずいた。
サンジは泉の中に体育座りしたまま、訳がわからず目をぱちくりさせている。

もう随分見慣れたが、この島では眠るとき全員スケスケのネグリジェ着用が義務付けられている。
熊のごときいかついお姉様方が、それぞれ淡い色のオーガンジーをはためかせながら身を捩り苦悶の表情を浮かべているのは、ちょっとしたピンクサロンというより地獄の阿鼻叫喚だ。

「え、どうした・・・の?」
「サンディ、なんてこと」
ローズマリーが両手を揉みしだいて、オロオロと身を捩っている。
自分は何か、とんでもないへまをやらかしてしまったのだろうか。

「サンディ、落ち着いて聞いてちょうだい。その泉は『愛の泉』なの」
「―――は?」
「満月の夜に突然湧き出る、不思議な泉なの。そして愛の泉は別名『名器の泉』と呼ばれているのよ」
「―――はあ?」

お姉様方は絶望したように天を仰いだ。
涙に濡れた頬が、月明かりの下にうっそりと浮かび上がる。
「この泉に身を浸した者は、望むと望まざるとにかかわらず『名器』になってしまうのよ。殿方を一度で虜にしてしまう、生ける愛の罠」
「・・・はあ」
「ああ恐ろしい、サンディがそんな魔性のオカマになってしまうなんて」
「本当の愛を知らずして名器になってしまうなんて、なんて可哀想」
さめざめと嘆くお姉様方を前にして、サンジはとりあえず泉の中で座り直して正座になった。
「あのーそれって本当のことなんですか?」
「いいえ、伝説よ。あくまで伝説に過ぎないわ」
「けれどもし本当だったら・・・サンディの清らかな身体がっ魔性の名器にっ」
そんなに名器名器って連呼しないで欲しい。
「いやでも、ほんとかどうかわからないし・・・ってか、俺以外にもこの泉にうっかり入っちゃった人とかいるんでしょ?」
すかさず5.6人のお姉様方が手を挙げた。
「え、結構いるじゃん。じゃあほんとかどうかわかるんじゃ・・・」
そこまで言いかけて、サンジは言葉を止めた。
名器になったはずのお姉様方は、まだ確かめたことがないのだ。

気まずい沈黙が流れる中、ローズマリーがタオルを手に泉に近寄った。
「とにかく、早く上がってらっしゃい。身体が冷えてしまうわ」
そう言われても、多くのお姉様方に注視されている中全裸でざぶざぶ水の中から上がるのは気が引ける。
サンジの戸惑いを察したか、他のお姉様方が一斉に立ち上がった。
「もう、手遅れなのは仕方がないわ。でもサンディ、くれぐれも気をつけてね」
「そうよ、もしもあなたの意にそぐわないことがあった場合、あなたの身体は自分の意思とは裏腹に相手の殿方を虜にしてしまうのだと覚えておいて。特に好きでもない暴漢の前では、絶対に身体を
 許しては駄目よ」
「そうして、意中の殿方の前でこそ本領を発揮するのよ」
「そうよ、いざという時のために」
「そう、いざって時が大事」
「いざと言う時」がなかったお姉様方は、そう言い置いてその場を立ち去ってくれた。



サンジはほうっとひと息ついて、腕を伸ばしローズーマリーからタオルを受け取った。
「どうもありがとう」
「ごめんなさいね、この泉のことをサンディに話していなかったわ」
心底申し訳なさそうに身を縮めながら、ローズマリーはサンジの裸を目にしないようそっと樹木の陰に隠れてくれた。
水分だけ軽くふき取って、枝に掛けられたネグリジェに袖を通す。
「伝説って言うからには、この泉はすごく珍しいもんなんだろう?ローズマリーは、いいの?」
「え?」
肌が透けるネグリジェ一枚を身に着けただけで安心して、サンジは髪を拭きながらローズマリーに近付いた。
「誰でも虜にできるような名器に、ならなくていいの?」
もし、いつの日か仲間たちの元に戻れる日が来たら、ローズマリーにも船医を落とせるチャンスが来るかもしれない。
その時の奥の手として、ルックスはともかく中身だけでも名器になっておいた方がいいんじゃないか。
サンジの思惑に、ローズマリーは穏やかに微笑み返して首を振った。
「あたしは、いいの」
「でも」
もうすぐ夜が明ける。
そうしたら、次に愛の泉が溢れるのはいつのことになるのかわからない。

「いいのよ、でも勘違いしないで。私は諦めてる訳じゃないの」
ローズマリーは、眠るときでも外さない巨大な付け睫毛を瞬かせてサンジを見つめた。
「彼を落とす時は、色仕掛けでも身体でもない、ほんとのあたしでぶつかってみるわ。それが真実の愛ってものよ、そうでしょ?」
本当のローズマリーでぶつかったら、彼は粉々に砕けてしまうのではないか。
そんな杞憂は口には出さない。
その代わり、サンジも力強く頷き返した。
「そうだな、やっぱり、愛ってそういうものなの・・・だね」
ローズマリーはごつい腕をサンジの肩にがしっと掛けた。
「でもサンディ、どうか気を落とさないで。名器になったらなったで、強力な武器と思えばいいのよ」
ガクガクと揺さぶられて、サンジは歯の根も合わない。
「そしていつの日か!ナミゾウさんかロビ彦さんを、その身体でがっちりキャッチよ!」

―――ああ、そんな日はきっと永久に来ないんだよローズマリー
絶望に立ち眩みしながらも、サンジは我が身を抱いてくず折れそうになる身体を支えた。
「ありがとうローズマリー、いつの日か・・・ね」
「そうよ、いざと言う時」
「いざと言う、時」
ローズマリーに励まされ、サンジは月明かりの下で白い拳をぎゅっと握り締めた。

そんな日が来るなんてあり得ないけど、もしも、もしも酔いの勢いや若気の至り・・・または熱情の捌け口としてでもこの身体を求められることがあったら・・・
しかも、その相手があいつだったら・・・
そうしたら、その時は―――
自信を持って、望めばいいんじゃね?


月を覆った雲が急に晴れて、まだ濡れたサンジの髪を細かな光の粒が包み込む。
その美しい光景に、ローズマリーはほう小さくため息を漏らした。
「愛しい殿方のハートを鷲?みにしたら、きっと私に報告してね」
「勿論よ、ローズマリー」

それは純粋な愛の力か。
はたまた愛の泉の効力か。

確かめる術などないとわかっているのに、サンジはもしかしたら来るかもしれない「その時」のことを思い浮かべ、ひっそりと胸を震わせた。

それは恐れなのか期待なのかそれとも希望なのか―――
サンジ自身にもわからない、けれど消えない心の疼きを、清かな月だけが密やかに見下ろしている。





END


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