父の日



母の日はメジャーだけど、父の日は割と地味だ。
赤いカーネーションに比べて黄色い薔薇は高級感ありすぎるせいか、溢れるほど目にしない気もする。
とは言え、サンジにとって父親代わりの祖父がいるから一応このイベントは外せない。
けれどどうしても素直に「ありがとう」なんて言えないから、せめて感謝の気持ちをこっそり込めて父の日にかこつけて無理やりプレゼントを押し付けるのが関の山だった。
「だからってなんで腹巻なんだ」
「これから暑い季節だからこそ、クーラーで寝冷えすっといけねえだろうが」
ぶつくさ文句を言いつつも、ゼフはサンジからの腹巻プレゼントを受け取ってくれた。
これで今年の父の日イベントは終了〜とばかりに、コーザと約束していた図書館に向かう。
本当はコーザんちに押しかけたいのだが、高校に入ってからはめっきりお互いの家への行き来がなくなってしまった。
ガキじゃあるまいし、いつまでも自宅のテリトリー内で遊んでられないって雰囲気だろうか。
けれどサンジは、本音を言えばコーザんちに行きたい。
いっそ下宿したいくらいだ。

図書館の自習室は緊張するほど静かでもなく、リラックスして勉強できた。
少し人の気配がある方が集中できる気がする。
向かい合って宿題に没頭し、サンジがわからないことをこそっと尋ねると、コーザも面倒臭がらずに丁寧に教えてくれた。
コーザは頭がいい割に教えるのも上手だから、教師に向いてるんじゃないかと思う。
そう言うと、コーザはガキ相手は苦手だと取り合ってくれない。
「なに、やっぱネフェルタリ系列会社に就職目指すの」
「まだわかんねーよ。ただ、選択肢の一つではある」
ビビの実家は手広く企業をやっていて、親族でいくつかの会社を経営していた。
一人娘だから、まだ中学生なのにもう将来設計まで求められているのも気の毒だけれど、これが現実だ。
「けど、コーザだって一人息子じゃねえか。お前が婿入りしたら、ロロノア家はどうなるよ」
「お前はお節介な親戚のおばさんか」
コーザに小声で突っ込まれ、サンジはモゴモゴと口ごもった。
ビビちゃんがコーザの嫁に来てくれたら、ロロノアさんだって嬉しいだろうに。

「今日だって父の日なんだから、こんなとこで勉強してないで日ごろの感謝をこめてお祝いでもしたらどうだ。そしたら俺だって付き合うぞ」
「なに言ってんだ?今日は頑張りすぎて智恵熱でも出たか」
コーザはノートに視線を落としたまま、さらっと流した。
「それに、もう俺からちゃんとプレゼントしたっての」
「へえ、なに?」
「時間ときっかけ。今日は親父のお見合いだ」
「なんだって?!」
サンジが絶叫して立ち上がったので、さすがにコーザもぎょっとして顔を上げる。
だが、頭に血が昇ったサンジはそれどころじゃない。
「お、おおおおおお前なに考えてんだ、息子の分際でなんだってそんなお節介を――――」
「ああもうこのバカ、こっち来いアホっ」
興奮しすぎて支離滅裂なサンジを引き摺り、コーザは自習室から飛び出した。



「お前なあ、図書館で騒ぐなよ」
「だって、コーザがいきなりなこと言うから」
さすがにサンジも恥ずかしくなって、中庭のベンチに腰掛けしょんぼりと俯く。
コーザは自販機から冷たい飲み物を買ってきて、そんなサンジに押し付けた。
「別に、親父だってまだ若いんだから見合いぐらいいいだろうが」
「けどよ・・・そういうの、コーザって抵抗感とかねえの?」
自分の邪まな想いを誤魔化すように、常識的観念から話を持っていく。
「自分の親の恋愛とか再婚とか、普通そう言うのって嫌なモンだろうが子どもの立場としは」

サンジは両親共に亡くしているからピンと来ないが、もしゼフに再婚話が持ち上がったら正直複雑だと思う。
あんなジジイにまさかと思いつつも、案外と年の割にモテているのを知っている。
もし具体的に再婚云々の話が出たら反対はしないけれど、多分ちょっと抵抗感はあるだろう。
「そりゃ、実際本格的に結婚とか同居とかの話になりゃあ、俺もちょっとは生活サイクルが乱れるから影響はあるけどさ。そもそも再婚じゃねえし」
「―――え?」
ペットボトルを持ってキョトンと首を傾げるサンジに、コーザは肩の力を抜くように軽く笑った。
「サンジは結構、俺んとこと馴染み深いしな。別にわざわざ言うことでもねえと思うけど、知らないままでも不自然だろうから言うよ。俺は親父のほんとの子どもじゃないんだ」
「・・・まさか!」
サンジの第一声はそれだった。
「だって、すげえ似てるのに・・・」
「ああ、そりゃそうだろ血は繋がってるから。正確には叔父さんだ」
「叔父さん?」
「俺は、親父の兄貴の子ども。つまり、甥っ子だってことさ」

少し湿気を孕んだ風が、さあっと中庭を吹き抜けていった。


コーザがロロノアさんの「甥」だと聞いて、サンジはしばし呆然とした。
別に、本当の親父さんじゃないからどうこうって訳でもないけど、それでもやっぱりなんかちょっと違う。
自分の今の正直な気持ちを表すなら「ほっとした」ってところだろうか。
ロロノアさんは結婚していなかった。
愛する奥さんと別れたり、死別した訳じゃ、なかったんだ。

「・・・そ・・・うなんだ」
「おう」
なんと言っていいかわからず、サンジはモジモジとペットボトルを弄んでから、そっとコーザの横顔を窺い見る。
「そのこと、コーザはちっちゃい時から知ってたのか?」
「んー、ほんとに知ったのは小学校の時だな」
サンジは、コーザとは中学からの付き合いだから小学校時代がどうだったのかは知らない。
「ほんとに生まれたての赤ん坊の時から親父に育てられてっから、本気で父親だと思ってたんだ、それまでは」
「・・・それが、なにをきっかけに・・・」
「社会だったかなんかの授業で、自分の生まれた時になにがあったでしょうって調べる授業・・・あったじゃね?」
そうだったかなあと、自分の小学校時代の記憶を辿る。
「生まれ年の5月3日・・・そっから一週間くらい後までを当時の新聞で調べたんだ」
「うん」
「そしたら、載ってた。事故が」
「・・・」
「運転してたのは、親父」
「――――っ!!」
ひゅっと喉の奥が鳴った。
衝撃で頭が真白になるのに、サンジの顔色を見てコーザは慌てて手を振る。
「いや、親父のせいで事故った訳じゃねえんだ。むしろもらい事故、親父に過失はなかった」
そう言われても、安堵できない。
「信号待ちの車列に、工事現場のクレーンが倒れてきたらしい。だから避けようがねえんだよ、完璧に運が悪かったんだ」
その事故でコーザの両親は亡くなり、ロロノア自体も重症を負ったという。
「奇跡的に俺だけ無傷だったんだってよ、運転席の後ろでベビーシートに寝かされてたらしい」
サンジはあまりの事実に、声も出せなかった。
いくら過失がないとは言え、その時のロロノアさんの気持ちを思うと、想像だけで胸が潰れそうになる。

「・・・責任、感じちゃったのかな?」
「かもな。俺から見たって、親父がそんな責任を負う要素はひとっつもねえと思うけど。けど、結果的に親父は俺を引き取った。一人で」
まだ独身だったのに。
まだ25歳と、年だって若かったのに。

「俺の本当の母親も、遠い親戚くらいしかいなかったって言うし。親父も、ほんとの父親も兄弟だから同じだけど、祖父さん祖母さんっていなかったんだよな。だから本当に、親父が男手一つで俺を育ててくれた」
大切な兄の忘れ形見なら、そうするより他なかっただろう。
事故の時居合わせたのならば、なおさら。
「・・・それで、ロロノアさん・・・」
「ん?」
「コーザの父親に、一生懸命なろうとしてたんだね」
「・・・うん」
父親としてこうあらねばと、気負う時もあったかもしれない。
夜泣きが激しいコーザを抱えて、途方に暮れた時もあったかもしれない。
コーザがいま、ここにこうして生きてきた16年間を思えば、サンジは涙が出そうになった。

「だから俺は、親父には幸せになってもらいたいと思うんだ」
コーザは静かに、けれど力強く呟く。
「親父には、親父の人生を生きて欲しい。俺はもうこんなにでかくなったんだから、これからは自分のためだけに、生きて欲しいんだ」
サンジには、そんなコーザの気持ちも痛いほどわかった。
ゼフはもう老境に差し掛かり、サンジは正真正銘の孫だけれど、もしもっとゼフが若かったらいつまでも自分に感けてないで第二の人生を送って欲しいと願ったかもしれない。
ゼフは料理の道一筋で、レストランが生きがいのようなものだからこのままでもいいと思うのだけれど、ロロノアさんは―――

「あの、ロロノアさん・・・」
「ん?」
「ロロノアさん、確か剣道世界一の称号持ってたよな。それって」
ロロノアさんの夢じゃ、なかったんだろうか。
「うん、事故で重症っつったろ。結構内蔵もやられてて、結局そのまま引退した。いまでも胸にでかい傷があんだぜ」
サンジは痛ましげに顔を歪めた。
「それに、いまは皺とか増えてきたからパッと見わかんねえだろうけど、左目にでっかい傷がある。目も、片方だけ義眼なんだ」
「―――・・・」
どうしよう、もう泣き出してしまいそうだ。

サンジが黙って俯いてしまったので、コーザは俄かにオロオロし始めた。
「あ、悪い・・・あの、別にお前を脅かそうとかそういうつもりじゃねえから」
「・・・」
別に脅かされてなんかねーよ。
そう言い返したかったのに、声が詰まって言葉にならない。
代わりにサンジは笑顔を浮かべ、首を振った。
「びっくり・・・したけど、大丈夫だから・・・」
そう言って、ゴホンと咳払いしてからペットボトルを呷る。

「コーザの気持ちは、よくわかった」
「そうか」
「うん、すごくよくわかった」
「・・・そうか」
どこかほっとしたように笑うコーザの隣で、サンジはじっと風に揺れる樹影を見つめていた。


その後、コーザとなにを話したのか正直よく覚えていない。
魂が抜けたようになったサンジを案じていたようだが、夕方ビビと約束があるからと、コーザは先に帰っていった。
じゃあまたなと、ちゃんと笑顔で別れられたような気はする。
あまり記憶が残っていないのだけれど。

閉館間近の図書館で、サンジは自分も家に帰る気になれずそっとレファレンスルームに入った。
カウンターで申請して、新聞記事の縮刷版を選び出してもらう。
16年前の、5月。
コーザに内緒でコソコソと過去を調べるようで気が引けたが、このままではモヤモヤして帰れない。

記事はすぐに見付かった。
5月10日の日付で、社会面に写真付きで報道されていた。
クレーンは信号待ちの車列の助手席側をなぎ倒していて、助手席に座っていた男性は即死だった。
後部座席の女性は重体、運転していた男性も重症。
赤ちゃんだけが奇跡的に無傷で、産院から退院途中の悲劇とある。
後続の車は運転手しかいなかったようで、軽症と書かれていた。

サンジは詰めていた息をほうと吐いて、縮刷版から視線を離す。
重体の女性は、コーザのお母さんだ。
この時点では重体だったけれど、亡くなってしまったのだろう。
そう思い、何枚かページを捲って13日の日付で小さく「重体の女性死亡」の記事を見つける。
亡くなったのは、12日だ。
―――12日?
サンジはスマホを取り出して、自分のスケジュールを確認した。
確か、前日の11日は中間考査。
翌日は、用事があるからコーザの家に遊びに行けなかった。
用事・・・多分、お母さんの命日だ。
この前日、ロロノアさんと学校で会えて、たくさんお話できたっけか。
俺、あの時なんの話をした?

さっと血の気が引いた。
そう、多分あの時コーザの誕生日の話をした。
ロロノアさんが父親になった日でもあるって。
そう言ったら、どこか寂しそうな顔で穏やかに笑っていたっけ。
けど、本当はロロノアさんは父親じゃなかった。
まさにあの日、あの日の翌日にロロノアさんは「父親」になる覚悟を決めたんだ。

サンジは額に手を当てて、長いこと俯いていた。
ショックのあまり、顔を上げることもできない。
俺は何も知らないで、なんてことを言ってしまったんだろう。



どれくらいそうしていたのか。
職員が見回りに来て、閉館時間が過ぎていることに気付く。
礼を言って縮刷版を返し、サンジはふらふらと図書館を出た。
日はとっぷりと暮れて、いつの間にか辺りは真っ暗になっている。
今日は早めに戻って店を手伝うつもりだったがそれも中途半端だ。

――――お見合い、どうなったんだろう。
ロロノアさんが、ほかの女性とお見合いするとか結婚するとか。
想像するだけでキリキリと胃が痛むけれど、自分がそれを嫌がる権利なんてどこにもないと思った。
まだまだガキで、何も知らなくて。
経験も苦労もなくて知識も浅はかで。
ロロノアさんとは、とても釣り合わない。
わかっていたはずなのに、改めて現実を突きつけられて絶望する。

お見合いがどうなったかなんて、聞きたくないな。
気になるけど、とても聞けない。
もしこれから、コーザが色々と報告してきたらどうしよう。
もう聞きたくないと突っぱねたら、変に思われるだろうか。

そんなことを考えながらトボトボと帰宅して、ついそのまま店舗の方に入ってしまった。
客でもないのに店のドアを開けてしまって、スタッフのドヤ声で迎え入れられて初めてはっとする。
「おいおい、どうしたちびナス」
パティがためらって声を潜めた。
その向こうで、ゼフが鬼瓦みたいに怖い顔をしている。
その手前に見覚えのある背中を見つけて、サンジはポカンと口を開けた。

「・・・ロロノアさん?」
「や、サンジ君お帰り」
なぜか、ロロノアさんが店で飯を食っていた。

「な・・・んで、ロロノアさん・・・が?」
「ちびナス、てめえ表から入ってくるたあ何事だ」
ゼフが短く叱咤する声すら、聞こえない。
サンジは口を開けてまじまじとロロノアさんを見詰めていたが、その瞳がぱちぱちっと瞬きした。
拍子に、潤んだ瞳からポロポロと涙が零れ落ちる。
ロロノアさんのみならず、スタッフもゼフまでもギョッとした。

「どうした、サンジ君」
慌てて立ち上がるも、周囲に非常事態を悟られないよう、あくまでさりげなく静かに近付く。
サンジは、俯いたままただ黙ってポロポロと涙をこぼし続けていた。
客の視線から庇うように傍に立ち、ロロノアさんはカウンター内のゼフに目配せする。
「・・・奥を貸してもらえますか」
ゼフは黙って頷き、察したパティが小さな声で「こちらへ」と誘ってくれた。
厨房の横から自宅へと続く廊下を、サンジの腕に手を掛けて移動する。
サンジはずっとされるがままで、時折しゃくり上げてはふらふらと歩いた。

一度来たことがあるからある程度は勝手のわかった、キッチンに腰を据えた。
椅子を横に並べてまずはサンジを座らせ、ロロノアさんもその隣に腰掛ける。
その頃にはサンジの涙も少しは収まってきた。
けれどしゃくり上げる声が抑えきれなくて、ひぐっうぐっと喉に詰まったような音を立ててはまたホロホロと涙の粒を零している。
ロロノアさんはシンクに掛けてあったタオルをとりあえず外し、サンジに渡した。
常に取り替えてあるせいか、乾いて綺麗なタオルだ。
最初は自分のハンカチでも・・・と思ったが、とてもハンカチだけじゃ追いつかない涙の量につい、笑みが零れる。
涙と鼻水が一緒くたにダーダーと流れていて、幼稚園の頃のコーザを思い出させた。

「・・・ず・・・びばぜ・・・」
ひっひくっと肩を震わせるサンジの背中を、ゆっくりと撫でてやる。
幾分落ち着いてきたとは言え、高校生の男の子がここまで涙を流すのは尋常なじゃない。
ロロノアさんは、腰を落ち着けてじっとサンジを見守った。
「ろ・・・ろろろあ、さ・・・しょく・・・じっ・・・」
「ん?」
「お・・・びあ・・・しょ、くじっ・・・」
そうしている内に、カルネがトレイを持って現れた。
「すいやせんロロノアさん、お食事の途中だったのに」
「ああ、いえいえ」
どうやら、ロロノアさんの食事をまとめてトレイに載せて持ってきてくれたらしい。
「ここでいただきます、ありがとうございます」
「すいやせん、あの、これちびなすの分で」
「わかりました、一緒に食べるよ、な?」
最後はサンジに向けて言われ、サンジはタオルで口元を押さえたままコクコクと頷いた。


「・・・すみませんでした」
ようやくまともに声が出るようになって、サンジははあと熱い息を吐いた。
もう、恥ずかしすぎて顔を上げられない。
このままどこかに消え去ってしまいたい。
ロロノアさんはサンジに水を薦め、自分はパクパクと食事の続きに取り掛かっていた。
サンジが気を遣うから、わざとそうしてくれているのだ。
それがわかって、またサンジの目頭が熱くなってしまった。
「・・・どうしたのか、聞いてもいいかな?」
優しく問いかける声を聞くだけで泣けてくる。
もう自分でも、なにがなんだかわからない。

「もしかして、学校で辛いことでもあったのか?」
ロロノアさんは神妙な顔をして、気遣わしげに聞いてきた。
「誰かに心無いことを言われたとか、その、いじめとか・・・」
「ち、がいます」
サンジは慌てて首を振る。
「学校とか、関係ないです。すごく楽しいし、割と仲良くやってて」
「それはよかった」
それならなぜ、と問いたげにじっと見られ、サンジはバツが悪そうに首を竦めた。
「あの・・・今日ロロノアさんのお見合いじゃなかったんですか?」
「・・・あ」
なんでそれをと言いかけて、思案気に顎に手を当てた。
「そうかコーザだな、またあいつは余計なことをべらべらと・・・」
「コーザの、父の日のお祝い代わりだったんでしょう?」
そこまで知ってるか、とロロノアさんは頭を掻いた。
「お見合い、お昼だけだったんですか?」
「ああまあ、・・・いや、まあ」
歯切れが悪い。
確かに、息子の友人にするような話でもなかろうが。
「一緒に昼飯を食ってしばらくは付き合ってたんだが、結局そのまま仕事があるとかなんとか話を切り上げて終わらせたんだ」
「・・・断ったんですか?」
「まあ、そうなるかな」
間に入ってくれた人には悪いんだけど、と誰にともなく呟く。
「俺は今のところ結婚する気はないし、変に気を持たせて相手の時間を削らせるのは悪いと思う。その場で俺には過ぎた話ですと断った」
サンジはほっと肩の力を抜いた。
けれど、気持ちは晴れない。
結婚を視野に入れられないってことは、それだけコーザの存在が依然としてロロノアさんの中で大きな位置を占めているということだ。
つまり、過去に囚われているということだ。

「ロロノアさんは、好きな人はいないんですか?」
まっすぐに尋ねてくるサンジを、ロロノアさんはどこか眩しそうに見つめた。
「ああ、今のところはいないね」
「いつから?」
「・・・さあ、いつからかな」
子ども相手に誤魔化すでなく、ロロノアさんは遠い目をした。


すぐに視線を戻して、サンジの顔を覗き込むように首を傾ける。
「さっきから俺のことばかり聞いているけど、サンジ君はどうなんだ?どうしてあんな悲しそうに・・・」
「お・・・れは」
そう言って、またせり上がってくるなにかを飲み下すように、こくんと水を飲んだ。
「聞いちゃったからです、コーザに」
「なにを、見合いの?」
「ロロノアさんと、コーザのこと」
一拍置いてから、ロロノアさんは「ああ」と納得したような声を出した。

「そうか、コーザが話したか」
「はい、すみません」
「サンジ君が謝らなくていいよ」
ロロノアさんの口調は、あくまで快活だ。
「事故のことも?」
こくんと頷くサンジに、ロロノアさんは痛ましげに顔を顰めた。
「むしろ、重い話を聞かせてしまって悪かったね。・・・コーザも、もうちょっと考えればいいのに」
「いえ、俺は平気です。聞かせてもらえて、嬉しかったし・・・」
まったく平気でなかったのに、そんなことを言ってみせる。
「だからって、俺がなにを出来るわけでもないし、なにか変わるわけでもないんですけど。でも、ちょっとコーザの気持ちもわかりました」
「・・・そうか」
「コーザ、本当にロロノアさんに幸せになってもらいたいんですよ」
「うん」
それはわかっていると、言葉にする代わりにロロノアさんは水を飲む。
その横顔をそっと窺い見た。
ロロノアさんの顔を見るだけでドキドキして心臓が破裂しそうになるから、あまり直視したことなかったっけ。
いま見えてるのは右側だ。
コーザが言っていたのは、左目―――

「幸せって」
「え?」
どきんと、心臓が跳ねた。
「俺の幸せを願ってくれんのはありがたいが、正直いまで充分幸せなんだぞ」
ロロノアさんは、横を向いたまま独り言みたいに呟いた。
「コーザと一緒に暮らして、あいつが日々大きくなっていくのを側で見ていられる。父親として。これは俺にとってとても幸せなことなんだがな」
将来の伴侶として妻を得なくても、不幸だと思わない程度に。
「あんまり幸せになれ幸せになれって言われっと、そんなにいまが不幸か?と言いたくなるのは、俺がへそ曲がりだからだろうか」
そう言って、ロロノアさんは生真面目な顔で振り返った。
その口調は軽くて、多分おどけて見せてくれたのだろう。
サンジもつられて笑顔になりかけたが、正面からまともにロロノアさんの顔を見てしまった。
年相応の深みを湛え、けれど染みや吹き出物などない滑らかな肌。
目尻には少し皺が見えて、細くて形のよい眉毛は左側だけ真ん中に筋が入ったように欠けていた。
それを目で追えば、一本の傷跡がありありと浮かび上がってくる。
瞼をまっすぐに切り裂いて、頬にも深く刻み付けられた傷は、微妙に肌の色を変えていた。
なんで、こんなにも酷い傷跡に、いままで気付かなかったのだろう。

「・・・サンジ君?」
ロロノアさんの慌てたような声に気付けば、またサンジは涙を流していた。
もうダムが決壊したかのように、次から次へと溢れ出て止まらない。
「大丈夫・・・か?」
「す・・・ずびばぜん・・・ぼんど、じ・・・」
身体中の水分が一気に抜け出てしまうんじゃないかと、自分でも心配になるほど涙が流れた。
喉のひくつきを押さえたら鼻から鼻水が出て、みっとないったらありゃしない。
再びタオルに顔を埋め、ひたすらに嗚咽を堪える。
当の本人たるロロノアさんがなんとも思ってないのに、赤の他人の自分がここまで嘆き哀しむなんて滑稽を通り越して却って失礼だと思うのに、自分でも止められない。
ふわりと、サンジの頭にロロノアさんの手が乗った。
そのまま優しく撫でてくれる。
躊躇いのない力強さが嬉しくて、子ども扱いされていることが哀しくて、サンジは奥歯を噛み締めながらタオルで乱暴に目を拭った。
「・・・大丈夫です、ほんとすみません」
「謝ってばかりだな、サンジ君は」
「すみません」
言ってから、また「あ」とタオルで口元を覆った。

ぐじぐじと鼻を啜るサンジを、ロロノアさんはどこまでも優しい目で見つめている。
気恥ずかしくなって、サンジは顔を背けたままごくごくと水を飲んだ。
目の前に食事が置かれているが、さっきから水ばかり減っていく。

「前に、学校で話をしただろ?」
「え、あ、はい」
また、胸がツキンと痛む。
あの時は何も知らなくて、能天気なことを言ってしまった。
「コーザの誕生日は俺の父親記念日でもあるって」
「・・・すみません、おれ」
「謝ることないよ、ああ言ってくれて俺は嬉しかった」
?と疑問符を浮かべて振り返れば、ロロノアさんは照れくさそうに笑っている。
「言われて初めて、そうかって思ったんだ。俺も父親になれたんだなと。本当に『父親』の立場になったのはコーザを籍に入れた日になるんだろうけど。恐らく、彼の両親とも亡くなってしまった日に俺はこの子の父親になろうと決心したんだ」
「・・・」
「そんな俺を父親記念日と、認めてくれてありがとう」
サンジは三度タオルを抱えて、テーブルに突っ伏してしまった。


泣くという行為は、とても体力を消耗する。
おまけに、なぜかものすごく眠くなってきた。
こんなんじゃダメだと思うのに瞼は腫れぼったくてうまく開けていられず、頭はますますぼうっとしてくる。
いつの間にか、ゼフがキッチンに入ってきていた。
「なんだチビなす、そのみっともねえ面は」
短く叱咤され、慌てて顔を上げるもすぐに気恥ずかしくなりそっぽを向く。
「お前はもう部屋に上がれ、寝ろ」
「まだそんな時間じゃあ…」
「ロロノアさんはうちに食事にいらしたんだ。邪魔をすんじゃねえ」
そう言われると何も言い返せない。
ここで話していても謝ってばかりだし、なんらうまいことは言えないだろう。
支離滅裂になるばかりだ。
サンジは諦めて静かに立ち上がった。
タオルを握りしめたまま、ロロノアさんの顔を見ないでぴょこんと頭を下げる。
「すみませんでした」
「こちらこそ、ありがとうサンジ君」
「失礼します」
「おやすみ」
後ろ髪を引かれる思いがしたが、サンジは振り返らずまっすぐに自分の部屋に向かった。

結局、自分は謝ってばかりでロロノアさんはずっとお礼を言ってくれていた。
謝ることは、多分一番楽なのだ。
何でも受け止めて受け入れて、感謝に変えることができるロロノアさんはやっぱり大人で。
きっと、いつまでたっても追いつけない―――

サンジが部屋を出るのを見送って、ゼフはふうと息を吐いた。
気遣わしげな瞳に、ゾロは改めて向き直る。
「ご心配お掛けしました、サンジ君は俺のために泣いてくれたようです」
「…あんたのために?」
「はい」
高校生にもなった孫が、いきなり人の目も憚らず泣き出したのだ。
祖父でなくともびっくりするし、不安にもなるだろう。
ゾロは掻い摘んで、サンジが聞いたらしい自分の事情を説明した。
ゼフの眉間の皺は濃くなったが、その表情には痛ましさも浮かんでいる。
「…大変だったんですな」
「こういう個人的なことを、友人とはいえ迂闊にサンジ君に話した息子に責任があります。申し訳ありません」
深々と頭を下げられ、ゼフはふんと鷲鼻を鳴らす。
「まあ、あれも少々感受性が強すぎるきらいがあるから、ああいうガキ臭い反応をしたんだと思います。がまあ、あれはあれで相当図太いんで明日にはケロッとしてるでしょう」
「そうだといいんですが…」
サンジの純粋な心を痛めてしまったのではないかと、そう思うとゾロの胸も痛い。
泣くつもりもないのにただホロホロと零れ落ちる涙は、目を奪われるほどに綺麗だった。

「あんな風に、誰かが自分のために泣いてくれるなんて久しぶり…いや、初めてかもしれません」
「…そうですかな」
「うん、そうそうあることじゃないですよ」
そう言って、まるで夢見るように細めていた瞳をゼフに向けた。
「サンジ君は本当に、心が綺麗で優しい子です」
「いや…」
ゼフはゴホンと咳払いして、気まずげに視線を逸らす。
「あれが、誰にでもああということはありませんぞ。まあ、ちょっとはそれもあるかもしれませんが…」
ゴフンともう一度軽く咳をして、口の中でモゴモゴ言った。
「まあ、わしの口から言うことでもありませんがね」
「?」
ゾロは不思議そうに首を傾げたが、それ以上尋ねようとはしなかった。
その場で手を合わせ、立ち上がる。
「ご馳走様でした、そろそろお暇します」
「すみませんでした、食事にいらしたのに」
「いえ、見合いを早く切り上げたことが息子にバレるとまずいと思って、立ち寄らせてもらったんですが…」
そう言いながら、ゾロは後ろ頭を掻いた。
「帰って、正直にコーザにも話します」
「見合いは、止めにしたと」
「いまは結婚する気はないことを、きちんと向き合って話してみます。…自分がどれだけ幸せに暮らしているかということも」
そう言って、照れたように笑った。
左目だけ縦筋を避けるように、不自然に皺が寄る。
「サンジ君が、たくさんのことを気づかせてくれたので」
「・・・」
「失礼します」
ゼフにきっちりと会釈してキッチンを出た。

店のレジでしばらくは払うの受け取らないのと押し問答があったようだが、結局礼を言って帰って行ったようだ。
ゼフは、綺麗に食べつくされたゾロの皿と、手付かずのまま残ったサンジの皿を片付けた。
明日にでもちゃんと食わせてやればいい。
今日はもう食事どころでも勉強どころでもなく、このまま寝入ってしまっただろう。

まだまだ子どもだと思う。
だが、子どもならではの直向きさで相手の懐にするりと入り込む特性は、成長してもそう変わらないのかもしれない。
彼はきっと人に愛される人間になるだろうが、同時に危うさも持ち合わせるだろう。
それを今から心配するのは、時期尚早とも言えまい。
「・・・まあ、俺が口出すことじゃねえがな」
ゼフはそう口に出して、ちょっぴり寂しそうに肩を落とした。


End


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