たとえばこんな


きっかけはなんだったのか。
今となっては原因さえわからないが、朝からどうにも腰の調子が悪かった。
何かの拍子にカクッと来る。
それがなんとも嫌な感じのカクッだ。
今にも何かが外れそうな、危ういカクッ。
このカクッには用心しなければ。

時間が経つにつれ、少しずつ上体が前かがみになって行くのも自覚できて、ますますヤバイと冷や汗が出てきた。
尋常ならざる様子に、いつもは粗野で無神経な同僚達も今までの経験上「これはマジだ」と悟ったか、らしくなく気遣ってくれる。
周囲の気配りと自身の慎重な行動によって、なんとか今日1日の仕事は無事終えた。
このまま帰宅して、湿布でも貼って大人しく寝よう。
一晩寝れば、多分すぐに回復する。
明日は休みだし、明後日は絶対に外せない大切な日だ。
今から用心しておくに越したことはない。
どちらにせよ、これ以上悪化することはあるまいとホッとして、終業後裏口から表に出た。
冷房が効いていた店内から一歩外を出ると、深夜に近い時間帯でありながらムッと来るほど暑い空気に触れる。
鼻がむず痒く、片手で口元を覆うと同時に大きく息を吸い込んだ。

「えっくし!」


くきっ



その日の終わりに決定打が決まってしまった。








「ウソップ〜〜助けてくれ〜〜」
早朝から携帯で救助を要請され、ウソップは休憩所で副流煙塗れになりながら声を潜めて励ました。
「なんとかしてやりたいのは山々だが、俺も明日の準備に忙しい」
「だよな、そうだよな。わかってるよ」
ほとんど涙声なサンジは、布団の中で仰向くこともうつ伏せることもできす、手足を投げ出して横になっている。
片手に握った携帯だけが命綱だ。
「やべえよ、どうしよう。もう明日なのに」
「コーザに言って、変更させるか?」
「ダメだ、俺もう注文も手配も済んでる」
何より、一生に(多分)一度の晴れ舞台なのだ。
水を差す訳にはいかない。
「なあ、なんとかならねえか?明日1日だけでいいんだ、その時だけでいいから、シャキッと腰が立つ魔法、ないか?」
「俺が知るかよ」
とはいえ、サンジの窮状を思うと無碍に突っぱねることもできない。
「ちょっと待ってろ」
ウソップは携帯に手を当ててしばらくボソボソと誰かと話していたが、弾んだ声で戻って来た。
「いま先輩に聞いたらな、いい整体師がいるんだと。起き上がることもできなかった奴でも、帰りは知らん顔で歩いて帰って来るって」
「それだ!」
まさしく魔法のような奇跡にサンジは飛び付いた。




「藪小路の…ああ、整体院ですね」
呼び付けられたタクシーの運ちゃんは物知りで親切だった。
這うようにしてアパートの玄関までなんとか出て来たサンジに手を貸し、行き先を聞いてすぐに見当を付けてくれる。
途中立ち寄った酒屋でも、親切に買い物を買って出てくれて、重い一升瓶を後部座席に乗せてくれた。
「私も商売柄、腰痛とは縁が切れなくてね。だからお客さんの辛さがよくわかるんだあ」
サンジは後部座席に転がったまま、はあと情けない声を出した。
だって、座席に座るだなんて到底できない。


ウソップが会社の先輩を通じて急遽予約してくれたのは、藪小路裏とかいう山の中にある整体院だった。
地名からしてどうよとは思うが、知る人ぞ知る名店?で、サンジのような急患でもその場で待っていれば診てくれるらしい。
平日なのが幸いしたか予約が取れて、藁にもすがる想いでタクシーを呼んだ。
治療費とは別に、初診料代わりに一升瓶を持って行くと言うのが裏ルール?らしく、先輩のアドバイスに従って準備した。
酒好きの藪医者でもなんでも、この腰が治るならなんだって構わない。

「さ、着きましたよ」
極力振動を与えないように山道でありながら静かに運転してくれた運ちゃんは、サンジを降ろす前に整体院に来客を告げ一升瓶まで渡してくれた。
肩を貸して運び入れてくれ「じゃあ、1時間後に迎えに来ますから」と自ら言い終えて立ち去って行った。
まるで仏様のようだと、気弱になったサンジは涙目で拝みながら見送った。
それから待合室らしき縁側みたいな木のベンチの上でそのまま横になる。
整体院の外観もろくに見ていなかったが、どうやら山奥の一軒家らしい。
かなり広く古い建物のようだ。
天井には真っ黒な梁がいくつもあって、柱もどっしりと太い。
サンジが寝転んでいるタタキを上がると、畳の部屋には囲炉裏があるのかもしれない。

先客がいるらしく襖は閉められ、かすかに聞こえる会話もきちんとは聞き取れなかった。
5分ほど転がっていただろうか。
それでは、ありがとうございます。とはっきりと声が聞こえ襖が開いた。
中から出て来た妙齢な女性は、転がったままのサンジに労るような笑みを浮かべて会釈し「お先に」と声を掛けて靴を履く。
サンジはなんと返していいかわからず、第一寝そべったままでは相手に失礼だとか思うのにどうにも起き上がれなくて、結局顔だけ擡げて出ていく女性に「お大事に」と言った。
自分の方が、よほど「お大事に」なのに。


「大丈夫ですか?」
笑いを含んだ声音に、ムッとして顔だけ上げる。
白衣を着た男は、サンジの枕元に膝を着いておかしそうに見下ろしていた。
短く切られた髪は鮮やかな緑で、想像していたよりずっと若く精悍な顔立ちをしている。
「…大丈夫じゃ、ないです」
「でしょうね」
白衣の男は、サンジが乗っかっている座布団をうまく使って施術用の部屋に移動させてくれた。
簡単な問診の後、実際に身体に触って状態を診てもらう。
「初めてじゃないですね」
「これで何回目かな。結構頻繁に、軽いのだと」
学生時代はスポーツしていたせいか、腰を痛めたりはしなかった。
働き始めて、毎日仕事仕事でろくに休みも取れず適度な運動もしないまま立ち仕事を続けていたら、いつの間にか腰痛が当たり前になって来ていて。
「筋肉が落ちているのもありますが、普段の姿勢に問題がありますね」
それも職業柄仕方がない。
四六時中俯いて、手元ばかり見ている作業だ。
「腕と足にはいい筋肉がついてるのに、背筋力が弱い」
重いフライパンを振るうから腕力には自信があるが、背筋力なんて普段意識してなかったよ。

「先生、なんとか明日、明日だけでも普通に動けるようにできませんか?」
サンジは無理を承知で頼み込んだ。
「明日1日、1日だけ持てばいいんです。お願いします」
「まあ、できなくもないですが…」
「お願いします!」
サンジは思わず、先生の腕に縋った。
白衣の上からでもわかる、逞しい腕だ。
この黄金の腕で、奇跡を起こして欲しい。
「ちょっと荒療治ですが、いいですか?」
「構いません、なんでも大丈夫です」
「そうですか」
先生はそういうと、医療用の薄い手袋を取り出した。




「こりゃ驚いた。すごいですね」
約束通り、きっちり1時間後に迎えに来てくれた運ちゃんは目を丸くしている。
「ほんとにすごいんだなあここ、今度私が具合悪くなったらここに来ようかな」
サンジはなにも答えず、スタスタと歩いて後部座席に座った。
お大事にと笑顔で見送る先生に、強張った表情で会釈だけ返す。
「普段からの運動が大切ですよ」
腰痛予防運動と刷られたプリントを手に、サンジは呆けたままタクシーに揺られて山道を降りて行った。

確かに、帰りは普通に歩いて帰れた。
これはすごい。
ほんとにすごい。
ミラクルはミラクルだけど―――

「・・・もう二度と、お世話になりたくない」
「はい?」
聞き返す運ちゃんに何も答えず、サンジは薄っすらと目尻に涙を溜めたまま流れる景色を眺めていた。








「おめでとう!」
「おめでとうビビ、とても綺麗よ」
盛大に行われた結婚式の二次会で、サンジは存分に腕を揮った。
コーザはともかくとして、大好きなビビの晴れの日なのだ。
今日頑張らずしていつ頑張ると、何ヶ月も前から企画して計画して段取りを付けたお手製の二次会だった。
ウソップの名司会も絶好調で、友人代表のナミのスピーチも盛り上がった。
誰もが口々に美味しいと褒めそやし笑顔を返してくれるから、料理担当のサンジもまた天にも昇るほど幸福で光栄なひと時となる。
この日のために、今まで頑張っていたのだ。
つか、昨日頑張って耐えたのだ。
結果オーライと言うことで、すべては忘れ去ってしまおう。
そう思っていたのに―――



二次会も佳境を迎えた頃、こっそりと入室した男がいた。
コーザが目敏く見つけ、手を上げて歓迎する。
「ゾロ!遅いぞ」
「悪い」
新郎のリアクションに振り返った参加者の中で、サンジもまた視線を向けてぎょっとする。
そこにいたのは、スーツ姿ではあるが間違いなくあの整体師。
魔法の腕ならぬ魔性の指を持つ、あの男。

「すまん、遅くなった」
「また急患が入ったんだろう」
「ゾロさん、お忙しいところありがとうございます」
誰だなんだと注目を浴びる中、新郎が傍らに手招いて紹介した。
「俺の従弟のロロノア・ゾロです。整体院を開業してるんですよ」
「へえ、整体師さん?」
「今度お世話になってみようかなあ」
まずは駆けつけ三杯と酒を注がれながら、ゾロは笑顔で杯を受けている。
サンジは給仕の手を止めて、戦慄の想いでその光景を凝視していた。
信じられない、信じたくない。
昨日のあの男が、まさかこの場で再び目の前に現れるなんて―――

「お腹空いてらっしゃるでしょう。サンジさんのお料理をぜひ召し上がってください」
「そうそう、とても美味しいんですよ」
―――やばいっ!
咄嗟にその場で逃げ出しそうになったが、トングとレードルを両手に持ったまま駆け出す訳にも行かず立ち往生した。
その間に、ゾロは料理コーナーへと目をやり、その場で立ち尽くすサンジを見つけた。
「私の大切なお友達、コックのサンジさんです」
ビビが屈託のない笑顔で紹介してくれる。
冷や汗を流すサンジを見て、ゾロはにっこりと微笑んだ。
「初めまして、コーザの従弟のロロノア・ゾロと申します」
「・・・は、初めまして」
ゾロの挨拶に救われた思いで、サンジはぎこちなく頭を下げた。



「荒療治になりますが、いいですか?」
確かに先生はそう言った。
どんな痛みでも耐えられると、そう思った。
実際に痛みなんてそれほどでもなかったけれど、まさかあんな―――

「内側から押し戻します」
そう言って先生は、あらぬ場所に指を差込みあっさりと治してくれた。
それで元通り。
何もナッシング。
あっさり終了。
でも、けど、しかし、なあ・・・
これはねえだろ?!



屈辱の想い出が蘇って、サンジは一人あたふたとしながらもなんとか平静を装う。
そんなサンジの胸中を知ってか知らずか、ゾロは料理コーナーに張り付いて遅い昼食を堪能していた。
「さすがプロのコックさんですね、実に美味しいし見た目も美しくて素晴らしい」
「はあ、どうも」
「体操は毎晩、続けられそうですか?」
「はあ」
「継続は力なりですから、頑張ってくださいね」
「はあ」
「もしまた具合が悪くなるようでしたら、いつでも診て差し上げます」
「結構です」

青くなったり赤くなったりしながら小声で話すサンジの姿を遠目に見て、ナミ達はこっそりと話し合った。
「あの二人、ちょっといい感じじゃない?」

例えばこんな出会いであっても、恋の花咲くこともある・・・かもしれない。



END



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