黄昏までの距離



西海駅から終点、和ノ国駅までの長い区間をゾロが受け持って、そろそろ半年になる。
電車の運転は、単調だが常に緊張感を伴って集中力を持続させなければならない仕事だ。
大切なお客様の生命と安全を守るため、迅速・丁寧・正確な運航を心掛けている。

元々視力の良いゾロは先の先まで見通すつもりで、日夜、神経を張り巡らせて運転している。
視力だけでなく眼力も異様に強いので、躊躇いながらも線路に立ち入った自殺志願者を警笛と共に目力で怯ませ、逃げ出させた逸話もあった。
そんなゾロだが、いつも鬼のような形相で運転している訳ではない。
毎回同じ路線を辿りながら、同じなようで同じではない風景を楽しむ余裕もあった。
保護者の迎えの時間帯に差し掛かる霜月幼稚園では、必ず園児たちが電車に手を振ってくれる。
アマゾンン・リリー学園前では、女子高生の乗車率が80%を超える。
双子岬駅では、老人達がカフェに集ってお喋りを楽しみ、インペルダウン駅からはサラリーマンで溢れかえる。
そんな路線にあって、ちょうど日暮れ時に差し掛かる跨線橋があった。

西に向かって走る電車は、この時刻は運転席にも西日が差し込み視界が悪くなる。
視力だけに頼らず聴力・感覚も研ぎ澄ませて走り抜ける路線で、ゾロはいつものように跨線橋に目を凝らした。
同じ路線、同じ時刻に同じ人影が立っている。
初めて遠目に彼を見つけた時、第一印象は“足が長いな”だった。
すらりとした立ち姿。
だがモデルのような決めたポーズではなく、少し猫背で気だるげだ。
手すりに肘を乗せ、もう片方の手に煙草を挟んで線路を見下ろしている。
白いシャツと黒い細身のパンツ。
いつも同じ格好で、逆光のせいで顔は見えない。
柔らかそうな髪が、夕日を受けて赤く輝いて見えた。

最初に思い浮かべたのは、ビジュアル系のバンドだった。
なんとなく、背中にギターでも背負ってるのが似合う気がしたが、そもそもバンドとか音楽関係等に疎いので、あくまでイメージでしかない。
しかも、ほぼ毎日バンドメンバーが黄昏時に一人で跨線橋に佇んでいるのは不自然だ。
ただそんな風に感じざるを得ない、どこか素人っぽくない雰囲気が彼にはあった。

――――今日もあいついるな。
なんとはなしに、その姿を確認しながら跨線橋の下を走り抜ける。
ゾロも毎日その路線を走る訳ではないが、大体彼と遭遇するのにある程度の法則は見出せた。
彼は決まって、月曜日にはそこにいない。
月曜以外の曜日でもいないことはあるが、確実にいないのは月曜日だった。
それ以外は、たいていそこで煙草を片手に一服している。
月曜日だけ用事があって、この跨線橋を渡るのだろうか。
赤々と染まる夕日に背を向けて、通り抜ける電車を眺めるのが好きな軽い鉄っちゃんなのだろうか。

毎回見かける“馴染み”の一人として、いつの間にかゾロの中で彼の姿は定番になっていた。
日ごとに日の入りの時間が遅くなり、目を焼いていた西日も徐々に和らぐ。
殆ど黒いシルエットでしかなかった彼の、輪郭ぐらいは見える季節になってきた。
相変わらず白いシャツに黒いパンツと、シンプルながらスタイルの良さを際立出せる格好だ。
細い腰と長い足。
長そでのシャツを肘まで捲り、片手に煙草を挟んでもう片方の肘を手すりに乗せている。
跨線橋の下に差し掛かる間際、手すりに乗せた手がほんの一瞬だけひらりと揺れた。
まるで、遠慮がちに手を振ったようだった。

翌々日も、ゾロはその路線を走った。
月曜日ではないから、やはりそこに彼の姿がある。
全身がはっきりと見える程度に距離がある内に、ゾロはすっと片手を挙げた。
彼は驚いたように手すりに手首を押し当てて、軽く仰け反った。
その間に、電車は跨線橋の下を通り抜けてしまった。
翌週、ゾロが同じ場所に差し掛かると、彼はまるで待ち構えていたように手すりに片手を置き、もう片方の手ははっきりと掌を上に向けた。
ゾロも、それに応えるように片手を挙げる。
相変わらずの逆光で彼の表情は見えないが、微笑んでいるような気がした。

ただ通り抜けるだけでなく、軽く手を上げて合図を交わす間柄になって一月。
その日は、彼は跨線橋の上で仁王立ちしていた。
ゾロの視界に入るとすぐに、少し躊躇いながらも片手を挙げる。
そして大きく、左右に振った。
俺はここだと合図しているような大げさな手振りを、不審に思いつつゾロも片手を挙げる。
いつもと違った彼の姿は、その日を境に見かけることが無くなった。

月曜日でもないのに、いつもと同じ時間なのに。
何度通っても、跨線橋に彼の姿は見えない。
あの、大きく振った手はさよならの合図だったのかと。
後から気付いて、ゾロの中に寂しさだけが残った。




ただ片手を挙げて挨拶を交わすだけの、ささやかな時間を唐突に失って、ゾロらしくもなく沈んだ気分が続く。
それでも仕事は淡々とこなし、同僚と他愛無い会話を交わして帰路に着いた。
駅舎を後にする時、ガラス窓に映った自分の顔を見て、そう言えば髪が伸びたなと気付く。
職場にほど近い、贔屓にしていた理髪店は店主が高齢を理由に店じまいしてしまった。
駅に近い場所だから、次の買い手はすぐに付くだろう。
同じような理髪店が開いてないかと、少しだけ期待して足を向ける。
だがそこは、ゾロが通っていたレトロすぎる古ぼけた理髪店とはまったく趣の違う、実に綺麗でお洒落な美容院に生まれ変わっていた。

『Salon de BLUE』
名前からして、とてもじゃないがゾロが立ち入れそうな雰囲気ではない。
しかも、まだ開店前らしく玄関横に『近日OPEN』の文字と共に来週の日付が記してあった。
どちらにしろ、ゾロには縁のない店だ。
そう思って踵を返そうとしたら、いきなりドアが開いて金髪の男が顔を出した。
驚いて足を止める。
男はなぜか焦ったように足を踏み出し、それからゾロを見て動きを止めた。
「あ」
「あ?」
一瞬見つめ合ってから、男は誤魔化すように肩を竦めた。
「あの、暇?」
「あ・・・ああ」
男の動きが、まるで自分を呼び止めようとしているかのように見えて、ゾロは素直に頷き返す。
「暇だ」
「あ、じゃ、よかったら、カットしていかない?」
『カット』の単語がすぐに理解できず、ゾロは後ろ頭に手を当ててから、そうか『散髪』かと思い当たった。
「まだ、店やってねえんだろ?」
「あ、うん。来週オープンだから、その、練習」
ふうん、とゾロは男の顔と開いた扉の向こうから覗く店内を見比べた。
「いいのか?」
「いいから、言ってんだよ」
ちょっと尖らせた上唇が、ガキ臭い。
ゾロは、ならいいかと男に向き直った。

「前にここにあった店に、通ってたんだ」
「あ、そうなんだ。そん時のおやっさんって、俺の師匠の師匠のお祖父さんなんだ」
「へえ」
以前の店の面影など、どこにも残っていない。
洒落たインテリアと明るい壁紙に、光を抑えた照明が落ち着きを見せている。
開店前らしいが、すぐに営業できそうに準備は整えられていた。

「んで、どうする?」
首にタオルを巻かれケープを羽織らされ、ゾロは正面の鏡に映った自分の顔を凝視する。
「適当に、短くしてくれ」
「了解」
初対面の男に、いきなり「髪を切らせてくれ」を言われ、了承する自分も迂闊だなと思わないでもない。
だが、どんな風にしたいですか?とかあれこれ聞かれるのは億劫なので、彼とのやり取りは気楽で気に入った。
慣れた手つきで、ゾロの髪を梳きミストで湿らせる。
柄物のシャツに、細身のジーンズ。
いつも目にしていた白いシャツに黒いパンツ姿ではないが、なぜか跨線橋の上にいた男を思い起こさせるシルエットだ。
姿勢や腰の細さ、手足の長さを見れば見るほどそうなんじゃないかと思えてくる。
男の動きに合わせて、仄かに煙草の匂いがした。
やはりそうかと、確信した。
月曜日だけで掛けているのではなく、月曜日が定休日だから姿を見かけなかったのだろう。

夕焼けのせいで赤く見えていた髪は、照明の下では鮮やかな金髪だった。
白い肌に長い指。
ハサミを操る動きは、まるで踊っているかのように軽やかで見ていて飽きない。
理髪店で大きな鏡を目の前に、じっとしていなければならない時間は退屈ですぐに眠っていたゾロだったが、いまは彼の姿を目で追うのに忙しい。
遠慮なくガン見できる姿見も、便利だなと考えていた。


「うし、どうだ?」
洗髪台でさっぱりと髪を洗われ、ブローされて完成となった。
いつもと同じように短く切り揃えられてはいるが、ゾロの顔形を考慮したのか自分でも二割増し程度に男前に見える。
我ながら、良く似合っていた。
「うん、上等」
「そりゃよかった」
男は満足そうに笑い、ゾロの頬に残った髪をささっと手で払ってケープを取り去る。
「お疲れ様でした」
くるりと椅子を回され、ゾロは立ち上がった。

「いくらだ?」
「お題はいいよ、俺が誘ったんだ」
こともなげに言う男に、ゾロはそうもいくまいとポケットから財布を取り出した。
「商売だから、ちゃんと代金は受け取るべきだ」
「そうか、じゃあ・・・」
男は思案するように顎に手を当て、にこっと笑う。
「来週オープンだから、職場の人にも宣伝しといてよ。女性は大歓迎だけど、メンズもするって」
「職場」
「よろしくね、運転士さん」

ああ、やっぱり。


「また来る」
財布を仕舞いながらそう言うと、男は畏まって頭を下げた。
「またのお越しを、お待ちしております」
営業スマイルで手を振って扉を閉めるのに、ゾロは肩を竦めて背を向けた。
短く刈り上げられた襟足が、すうすうする。
首の後ろに手を当てて、ガラス窓に映った自分の姿を横目で眺める。

すれ違いざまに合図を交わした、黄昏時の一瞬はもうないけれど。
あの時よりずっと距離が近付いたと、そう思ったらガラスに映った顔はだらしないほど緩んでいた。



End



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