■もう夢なんて見ない


手にした文庫のページを捲ろうとして、右手が動かないことに気付いた。
顔を動かさず視線だけ寄越せば、右端に金色の髪が覗く。
隣に座る金髪の乗客が寄り掛かっているのだと、遅まきながら理解した。
肩の一点に力が掛かると、こんなにも動かせなくなるものか。
それとも自分の気の持ちようかと、不測の事態に陥りながらゾロは冷静に考える。

この世に誕生した瞬間から眉間に皺が寄っていたと、今でも家族の笑い草だ。
あどけないはずの幼児の頃からその表情は冷徹で、可愛げがない代わりに侮られもしなかった。
小学校では教師に一目置かれ、中学校では保護者に敬語を使われた。
さほど凶悪な表情をしているつもりはないのだが、道を歩けばモーゼのごとく人波が割れる。
クラスメイトからは常に遠巻きに見られ、女生徒達は目を合わせることも恐れた。
傍目には悲惨な人生に見えるが、ゾロ自身はさほど気に病んでもいない。
他人がどう思おうが、自分のやりたいようにやるだけだ。
誰かとつるまなければ行動できないこともないし、必要が無ければ丸一日誰とも言葉を交わさなくとも構わない。
孤独が苦ではないのだから、ゾロにとってはこれが当たり前の日常だった。
だが、ただ一つだけ悲しかったこと。
それは動物に懐かれないことだ。
こう見えて、ゾロは無類の動物好きだった。
散歩中の犬を見れば目元が和み、おっとりと昼寝をする猫を見つければ心が浮き立った。
だが、ゾロと目が合った犬は尻尾を丸めて後ずさりし、ゾロに見つけられた猫は毛を逆立てて唸りながら逃げ去った。
よちよち歩きの幼児は泣き出すし、腕白盛りの園児は何もしていないのにごめんなさいと謝った。
まったく、不本意だ。

今までの来し方を振り返りながら、右肩のちょっとした重みに想いを馳せる。
振り向けないからはっきりとは分からないが、服装からして男だろう。
しかもかなり若そうだ。
金色の髪は混じり気が無くて、天然物だとわかる。
スーツを着た外国人…と言ったところだろうか。
控えめなコロンと、かすかに煙草の匂いがする。
熟睡しているようで、ゾロの右肩にはぺったりと男の頭が乗っていた。
けれどさほど重くはない。
人間の頭などさして重くないのか。
それとも、この男の脳みそは軽いのか。
いささか失礼なことを考えていたら、電車は静かに駅に着いた。
と、隣の男がぱっと身体を起こして、背筋を伸ばす。
「――――!」
声にならない息を吐いて、男は素早く電車を降りた。
あっという間のできごとで、呆気にとられたゾロの目の前で扉は締まり、男の後姿を見送ることも叶わなかった。

――――行ってしまった。
結局どんな顔をしていたのか、幾つぐらいの年なのか、何一つわからなかった。
ゾロにとっては恐らくの、初めて向こうから近寄って来てくれた相手だ。
しかも肩に無防備に、頭を乗せてくれた。
まるで大樹に寄りそう小動物のように。
ゾロの胸は、切なさにきゅんと痛んだ。
けれどゾロに残されたのは、かすかな煙草の匂いだけだった。



それからゾロは何度か、同じ時間帯に同じ車両に乗ってみた。
それとなく周囲を窺い探してみるが、金色の髪は見つからない。
さらりとした毛並と、多分片手で掴めるほどの小さな頭だ。
それ以外なんの手がかりもないのに、ゾロはずっとあの日の感触を忘れられないでいた。
いつかどこかで、会えるものなら再び会いたい。
あの、小動物に。


「教育実習の先生、すごいよ」
女子たちのさえずりみたいな囁きも、ゾロの耳には入ってこない。
頬杖を着いてぼんやりと廊下を眺めていたら、光る何かが視界を横切った。
まさかと、掛け声より早く立ち上がり目を見開く。
教室に入ってきた担任は、若い男を連れていた。
「今日から実習に入る、サンジ先生です」
ざわめく教室の中で、ゾロはただ一人堂々と立ち尽くしていた。
室内でもよく映える、あの髪色は間違いない。
「あーロロノア、とりあえず席に…」
戸惑う担任の声をものともせず、ゾロは大股でつかつかと教壇に近寄った。
金髪は戸惑ったように、ゾロと担任の顔を交互に見比べている。
間近で立てば、目線はほとんど変わらなかった。
小動物の癖にでかい。
眉毛も巻いてるし、睨み付ける目つきも悪いし非常に不機嫌な表情をしている。
けれどこれは、俺の小動物だ。

「見つけた」
ゾロはそう呟いて、その丸くて小さな頭をわしわしと撫でた。
小動物の口からカエルがひしゃげたような声が漏れたが、その息がかすかに煙草臭かったからビンゴだ。
ゾロは唖然としたクラスメイトに振り返り、高らかに宣言した。
「これ、俺のだから」
「…ざけんなボケェっ!」
訳も分からぬまま背後から強烈な蹴りを入れられたが、ゾロはそんなもの痛くも痒くもなかった。


期待に胸を含まらせて臨んだ教育実習期間。
女子生徒に囲まれて「サンジ先生」と慕われるはずだったサンジの夢は、あえなく潰えた。


End



back