■電信柱の夜の続き



目が覚めたら、隣に見知らぬ美女が眠っていた。
一度は夢みたシチュエーションを現実のものとして、サンジは目を見開きしばし固まっていた。
―――― 一体この美女は、どなた?
そしてここはどこだ??

昨夜の記憶を辿るも、一向に思い出せない。
確か、愛するナミの寿退社を祝い送別会が行われた。
そこでサンジは男泣きに泣いて飲んで歌って騒いで…相当なハイピッチで自棄酒を煽ったまでは覚えている。
それから一体、どうしただろう。
なんでこんな、見知らぬ部屋で美女と二人、同じ布団で眠っているんだろう。

ゆるゆると身体を起こし、刺すような痛みに呻いて倒れ伏す。
頭が、ガンガンと割れるように痛い。
胸焼けもするし吐き気もある。
これはまさしく、二日酔いの症状。
こんなになるまで飲んだ自覚はあるし、その理由もわかるけれど、それにしたってこの状況がなんなのか理解できなかった。

改めて、至近距離で眠る美女に目をやる。
黒髪ショートの毛先が少し乱れて頬に掛かり、化粧っ気はなくとも整った顔立ちに若干の疲れを滲ませている。
それがまた壮絶に色っぽく、女性の美しさを際立たせていた。
よく見れば黒いキャミソール一枚で、長い両手足を投げ出し布団を抱くようにして眠っているから、とにかく目のやり場に困る。
恐らくはサンジより年上の、まさに妖艶な美女。
こんな女性と一夜を共にしておきながら、記憶がないなど言語道断だ。
なんとしても、目くるめく甘い夜を思い出さねば、男がすたる。
そう思うのに、鈍く痛み続ける頭は甘美な記憶を引き出してはくれない。

サンジは静かにと首を巡らし、寝返りを打った。
もう少し頭痛が治まったら、ちゃんと起きて身支度を整えよう。
そう思いつつ、右隣にも人の気配を感じてぎょっとした。
左手に美女。
まさか右手にも、美女?
もしや3P――――

こめかみにも響くほど心臓を高鳴らせながら、視線を下げる。
とそこに、目にも鮮やかな緑色の頭髪があった。
――――あれ?
これ、マリモ?

この色は、というかこの頭はなんとなく覚えがある。
どこでどう見たのかまでは思い出せないが、これは確かマリモ…と呼んだ気がする。
なんだったかまで、さっぱりわからないのだけれど。
ともかくこれは、マリモではない。
中学生くらいの子どもの頭だ。
つまり、野郎の頭。

サンジの興奮は一気に醒めて、それとともにようやく頭も冴えてきた。
美女との甘い一夜…じゃなく、ただ単に他所のお宅にお邪魔しちゃった構図らしい。
下着姿も露わに眠る美女と、大の字に手を伸ばし布団からはみ出して寝そべる中学生。
どうやら自分は、健全と不健全の狭間で眠っていたらしい。

サンジは痛む頭を押さえつつ、なんとか身体を起こした。
ともかくトイレ…と、知らないお宅ながら勝手に拝借する。
洗面所と風呂場、それにユニットバス。
畳の部屋が二間続きで、キッチンスペースは狭い。
内装はぱっと見新しいが、築年は古そうなアパートだった。

トイレのついでに洗面所を使わせてもらった。
洗面所の鏡に映る顔は、いかにも二日酔いの酷い有様だ。
髪はくしゃくしゃで、シャツもズボンも皺だらけ。
辛うじて脱いだらしいスーツとネクタイは、ハンガーに掛けて吊るしてあった。
財布も携帯も、ちゃんとポケットに入っている。
正体を失くして眠り込んだ以外、特に変化は見られない。
若干ガッカリしつつも、このままなら黙ってバックレることも可能だと思い当たった。
がしかし、それはあまりにも恩知らず。
人としてどうよと思い直し、ともかく一宿の恩義を返さねばと決意を新たにした。

眠り続ける二人は、起きる気配がない。
少し迷ったが、勝手に冷蔵庫を開けさせてもらった。
まず目に入ったのは缶ビールの山。
それから僅かな野菜とハム、チーズなどのいかにもおつまみ系。
これでも、朝ご飯ぐらいには何とかなるだろう。
無断で使用したことは後で謝ろうと、とりあえず二人がいつ起きてもいいように朝食の支度を始めた。


台所使う気配に気づいたか、調理する匂いに刺激されたか。
間もなく二人は同時にモゾモゾと動き出した。
子どもの方が先にむくりと起き上がり、次いで剣呑そうに目を眇めてからまたパタンと仰向けに倒れた。
おいおい、二度寝かよ。
その様子を横目で見つつ、なんと声を掛けていいかわからぬまま鍋を掻きまわす。
子どもは片手を伸ばして傍らに眠る美女の肩を揺すった。
「おい、起きろ。昼だぞ」
「―――ん…」
ああ、やっぱり女性の声はなんて甘く官能的な響きなんだ〜〜〜
思わずハート目にして耳を澄ませていると、女性も子どもと同じようにいきなりむくりと起き上がった。
寝ぼけ眼のまま枕元を探り、煙草を取り出して火を点ける。
ゆっくりと吸って吐いた後、気だるげな様子で目を開いた。
「禁煙じゃ、なかったんだ」
思わず呟いたサンジに、女性は妖艶な笑みを浮かべて「おはよう」と挨拶を返した。

「うちでこんなに真っ当な朝ごはん食べたの、久しぶりだねえ」
やや掠れたハスキーな呟きに、中坊はやけに大人びた切れ長の目をきょろりと見開いた。
「久しぶりって、初めてじゃねえか」
「そうかもね」
「一体、今までどんな食生活を・・・」
3人で食卓を囲みながら、サンジはさっきからなにくれと二人の世話を焼いていた。
「パンケーキの追加、焼きましょうか。あ、スープお代わりありますよ。ドレッシング、足りてます?」
「私はもう充分だよ」
一通り食事を終えた女性は、フォークを置くと同時に煙草に手を伸ばした。
サンジよりヘビースモーカーかもしれない。
「俺はお代わり」
「お前はどうでもいい」
「ならてめえの食う」
「あ、このガキ!」
サンジの皿からパンケーキを奪い取るのに、口では怒って見せたが表情は満更でもなく緩んだ。
なんのかんの言って、自分が作った食事を食べて貰えるのは嬉しい。


「改めて、私はシャーリー。こっちは息子のゾロ」
「え?」
予想はしていたがやはり驚いて、サンジはぱちくりと瞬きをした。
「息子さん、なんですか?てっきり弟さんかと」
「お世辞はいいよ。それで、あなたはどなた?」
問いかけられて、サンジはしまったとばかりに居住まいを正した。
「ご挨拶が遅れてすみません、サンジと言います。グランドライン商事、食品開発課に勤めてます」
「へえ、だからお料理上手なんだ」
シャーリーは口からぷはぁと煙を吐いて、一人頷いている。
「それで、なんでうちにいるの?」
「は?」
思いがけない質問に、サンジは笑顔のまま固まった。
それこそ、サンジ側からしたい質問だ。


「昨夜うちに帰ったら、ゾロと一緒にあんたが寝てたのよ。しょうがないから隣で寝かせて貰ったわ」
「―――え?え、え?」
あまりに不用心すぎる!
というか、そんなんでいいのか。
これってまるっきり、不法侵入ってことになるじゃないか。
最悪、警察呼ばれていても仕方のない案件だ。
真っ青になったサンジは、ろくに応えることもできずすがるようにゾロを見た。
この面子の中で、事態を把握しているのはこの子どもしかいない。


「こいつ、昨夜電信柱に上って泣いてたんだ。あんまりうるせえから、しょうがねえし連れて帰って来た」
「は?」
「ふうん、夜中に泣いてたの」
「近所迷惑だろ」
「そうだね、やっぱりゾロは偉いねえ」
よしよしと頭を撫でられるのに任せ、ゾロはサンジのスープまで横取りした。
サンジはと言えば、あまりの衝撃に呆然としたままだ。
「な、に言ってくれてんだこのクソガキ野郎・・・なお子様!誰が、電信柱に上ってって」
「上ってたぞ。しかも大声で『ナミさ〜んナミさ〜ん』って叫んでた」
「―――ふぐぬぅっ」
ナミさんの名前を聞くと、サンジもぐうの音も出ない。
それはもしかしたら、あり得るかもしれない。
自分で覚えていないだけで。


「マジで?マジで俺、電信柱に上ってた?」
「おう、時期外れの蝉かと思った。そんでもって、ナミさ〜んって何度も叫んで、なんで結婚するんだーとか、なんで止めるんだーとか、そんなん嘘だーとか」
「うわあああああああ」
サンジは顔を伏せながら両手を振り、ゾロの声真似を遮った。
言いそうだ。
めっちゃ言いそうだ、ほんとにやっちまってそうで怖い。
「うそ、マジ、マジ俺、マジ?!」
「もっと聞きたいか?」
「いや、もういいですほんとすんませ・・・」
サンジは綺麗に空になった皿の前に突っ伏して撃沈した。
今更だが、恥ずかし過ぎて穴があったら入りたい。


「うそー」
「そりゃあまあ、ショックだねえ。部屋がすっごい酒臭かったから、へべれけに酔ってたんだろう」
「表であんまり騒ぐから、家ん中入れたら水道から勝手に水飲んで、そのまま布団の上にぶっ倒れた。一応ネクタイだけ外してやったけど、後は俺も眠かったから知らん」
「お手数を、おかけしました」
しおしおと項垂れたサンジは、ゾロに向かってきっちりと頭を下げる。
それからシャーリーにも向き直り、改めて礼を言った。
「酔っ払った上に、お留守の家に上がり込んですみませんでした。このお詫びはさせていただきます」
とは言え、どうやって詫びたらいいのだろう。
器物損壊とか、なにか目に見えた被害を及ぼしたなら弁償という手もあるが、人んちに乗り込んで寝ただけだ。
が、これも立派な犯罪行為。
「どうか、警察に突き出すことだけは勘弁してください。勝手なこと言ってるって自覚してます、でもできれば穏便に―――」
シャーリーは苦笑しながら、煙草を持った手をひらひらと振った。
「ああいいよいいいよ。あんたの場合、人んちに乗り込んだっていうより、ゾロが勝手に引っ張り込んだんでしょ。うちは構わないわよ」
「でも、なにがしかお詫びの形を―――」
「こんなに美味しい朝ごはんいただいたんだから、それで十分・・・」
そう言って口元に煙草を持って行き、吸いながら何かを思いついたように目を眇めた。


しばし中空を見つめた後、サンジへと視線を移す。
「あんたさあ、さっきの話だと失恋したとこ?」
「・・・う、ぐ」
「その、ナミさんって子に振られたの?っていうか、片思い?」
サンジは力なく、後ろ頭を掻いた。
「バリ片思いです。告る間もなく寿退社で・・・あ、ナミさんってのは、同期入社の美女なんですが」
「ふうん、じゃあフリーなんだ。ちなみに一人暮らし?」
「はい」
「そうよね、酔っ払って無断外泊しても、焦ってどこかに連絡しようって感じじゃないから、そうなのよね」
うんうんと一人納得してから、シャーリーは笑顔を作った。
「それじゃあ、私からお願いがあるんだけど」
「何なりと、俺にできることなら喜んで―」
サンジは両手を広げて、大げさな身振りで返す。


「あたし、来週から日本を離れるんだけど。この子と一緒に暮らしてくれない?」
「―――――は?」
「は?」
ゾロとサンジは、同時に目と口を開いた。

電信柱の夜の続き3
「いきなりなに言い出すんだ、思い付きで提案すんじゃねえよ」
ゾロは持っていた箸を置き、いささか強い口調で抗議した。
「思い付きこそ星の導きだよ、いやぁいいアイデアだ」
「勝手に、てめえに都合のいいこと言ってんじゃねえ」
「えーと、ちょっとお待ちください」
いきなり勃発した親子喧嘩を仲裁すべく、サンジは両手を前に掲げた。
「恩返しはやぶさかじゃないんですが、レディ…もとい、マダムがいらっしゃらないのに、ここにお邪魔するのはなんにも楽しくありません。ぶっちゃけ、ノーサンキューです」
「ああそうかい。まあ、そりゃァそうだろうねえ」
さして残念そうでもなく、シャーリーはふうっと煙を吐き出した。
「あんたが来てくれないのなら、予定通りゾロは一人暮らしをするまでさ」
「それでいい」
「え、ちょっと待って」
落ち着き払った親子に対し、なぜかサンジ一人が慌てて腰を浮かした。
「一人暮らしって、こんな子どもが?」
「もう中学生だ」
「今年15になるんだよね、元服だよ」
「そうそう」
「いやいやいや」
明らかに未成年ですから、とサンジは語気を強めた。
「ご親戚とか…お尋ねし辛いですが、その、旦那さんとかいらっしゃらないんでしょうか」
差し出がましいと思ったが、放っておくとうっかり自分の身に火の粉が降りかかりかねない。
「親戚は、日本にいないのよねえ。旦那はこの子が生まれる前に亡くなったし」
「…そう、なんですか」
なぜかサンジ一人が、しゅんとして項垂れる。
「私の兄がアメリカで事業やってて、今回その仕事に乗っかることにしたのよ。でもゾロは学校や剣道があるから日本に残りたいって」
「問題ねえ。いままでも、ほとんど一人暮らしみてえなもんだった」
「そうだよねえ、小さい頃から不憫だったわ」
シャーリーはほんの少し目元を萎ませて、ゾロの頭を優しく撫でた。
「手のかからない子だからって、ろくに構いもせず甘やかしてもやれなかった。だから、こんなにしっかりしてて可愛げのない天然迷子に育っちゃったけど、心の底から愛しているよ」
「知ってる」
「だからこそ、信頼のおける大人に任せたいと思ったのさ」
そう言って視線を上げ、サンジを見つめた。
その瞳にたじろぎつつも、なんで俺が?と疑問を呈する。
「俺なんて、酔っぱらって人んちに乱入するような、犯罪者すれすれのダメ大人ですよ?」
自分で言って、ざっくり傷付いてしまった。
ほんとにダメだ。
社会人として、いや人として失格。
凹んだサンジを慰めるように、シャーリーは慈愛に満ちた微笑を浮かべる。
「女子供しかいない所帯に上り込んでさ、居直るでも襲い掛かる訳でもなく紳士的に振る舞って、その上なけなしの食材使ってこんな美味しい料理を振る舞ってくれたじゃないか。あんた、最高にいい男で立派な大人だよ」
「い、やあそんな…」
サンジは頬を赤らめながら、後ろ頭を掻いた。
美女に褒められて、嬉しくないはずがない。
「まさに、星のお導きだね。あんたと巡り合うために私らは今日までここに住んでたんだ」
「え、そんな大袈裟な」
「ってことでゾロ、今日・明日とでブロンドボーヤと一緒に引っ越しの準備しちゃいなさい」
「マジかよ」
「は、へ?」
いきなり段取りを付けられてしまった。
このままでは有耶無耶のうちに、ガキと同居させられてしまう。


「あの、困ります。第一、ここがどこかよくわかってませんし…」
「ええとね、小手毬町5丁目」
「ほらー、うちの会社から遠いんですよ。その点、俺のアパートは近いんで楽…」
「会社ってグランドライン商事の本店なら、黄猿通だよね」
「よく御存じで」
「この子の新しい住まいはそこなんだよ。多分、会社から歩いて通える距離」
「マジで?」
いやあ偶然って怖いねえと、シャーリーはカラカラ笑っている。
対してゾロは、憮然としたままだ。


「俺は反対だぞ、どこの馬の骨ともわからねえ野郎と同居なんてとんでもねえ」
「それはこっちのセリフだ!」
思わず言い返したサンジに、シャーリーは片手で顔を覆った。
「そう、そうだよね。どこの馬の骨ともわからない子を産んだのは、あたしだから…」
「うわあああ!!違う、違うんです!マダムのようなお美しいレディからこんなクソガキ様が生まれたのがあまりに理不尽なだけで!決して、マダムのことをそのようなっ」
慌てて言い繕うと、シャーリーは一転して笑顔になった。
「そうだよねえ、これで安心」
「えっ、あっ、はっ」
パンと音を立てて手を合わせ、ご馳走様を唱える。


「それじゃ、私午後から仕事行くから後はよろしく。ゾロ、頼んだわよ」
「…しょうがねえなあ」
「や、ちょ、ま―――」
なにを言っても無駄と諦めたのか、ゾロはそれ以上反論しようとはしない。
一人でワタワタしているサンジを置いて、シャーリーはさっさと仕事に出かけてしまった。


電信柱の夜の続き4
仕方なく、帰宅のついでにゾロと一緒に新居?とやらに足を運んだ。
確かに会社に近く、意外なことに一等地のマンションだった。
ゾロ達が現在住んでいるアパートとは比べ物にならないほどいい部屋で、失礼ながら驚きつつも心配になる。
「マジで?お前、ここに一人で住むつもりだったのか?」
家賃だってバカにならないだろう?と素直に疑問をぶつけると、ゾロは澄ました顔で答えた。
「別に、うちは金に困っててあそこに住んでた訳じゃねえから」
「はあ?なんかお前、いちいち喋り方が生意気だな」
サンジが大人げなく凄んで見せるのに、ゾロは慣れた手つきで鍵を開け部屋の中に入る。
新しい部屋の匂いがした。

「引っ越し荷物は業者に頼んであるから、あんたが来るなら自力で運び込めよ」
「だから、なんで俺が一緒に住む前提だよ。つか、ほんとお前ら何者なんだ」
お母さんは美魔女様だが…と、わざわざ付け足すサンジに呆れたような顔を返し、ゾロはがらんとした部屋の窓辺に腰掛けた。
「おふくろは占い師やってんだ。行動の逐一が占いの結果に基づいてっから、おふくろの指示は絶対なんだよ」
「はあ?占いぃ?」
そらまた胡散臭い・・・とまで言って、でもお前のお母さんは胡散臭くないぞと付け足す。
「俺だって信じちゃいねえが、それを仕事にして養われてんのは事実だ。事業拡大で渡米するってんなら、俺はこっちで自活するまでだ」
「いやいや、自立心があるのは結構だがお前まだ中坊だし、未成年だし、義務教育課程だし」
「だから、あんたが一緒に暮らしてくれんだろ」
「待て待て、マダムのお願いを聞きいれるのはやぶさかじゃないが、そんなお前にとってのみ都合のいい話にだなあ…」
そこまで言ってから、はっと表情を改めた。
「なに、もしかしてここで俺が流されるのコミで、この話の運び?もしかして、すべてマダムの占いの通り?」
「知らねーよ」
いやまさか…と一人でぶつぶつ言いながら、部屋の中を見て回る。
使い勝手が良さそうな、広々としたキッチンに心が弾んだ。
「マジ、ここめっちゃいい部屋だな。ってか、まるで俺のためだけのように用意されたかのような」
「気のせいだろ」
「ああ、これでお前さえいなきゃ…つか、マダムと二人暮らしスタートだったらどんなにか!!」

元々料理をするのは好きだし、趣味の範疇を超えている。
いまのアパートでは、増えすぎた調理用具を収納する場所もかなり手狭になって来ていた。
けれどこの部屋なら、家電を置くスペースもたっぷりだし換気扇の位置もいいしコンロはたくさんあるしグリルも完備でまさに理想的。
こんな部屋、多少高い金を払ってでも住みたいくらいだ。
子どもとはいえ、ルームシェアなら家賃も半分で済むし、もしかしてこれは大いに美味しい話なのではないか。
そう考えだすと、話がうまく運び過ぎてるとの畏怖はあるが、やはり嬉しさの方が勝る。

サンジは黙ってひとしきり考えた後、諦めたようにその場に正座した。
窓辺にいるゾロを振り仰げば、ゾロもなにやら神妙な顔つきをしている。
「…ううう」
素直に口に出せなくて歯ぎしりするサンジの前にちょこんと座り、ゾロは胡坐を掻いた状態で両手を床に付けた。
「これから、よろしくお願いします」
子どもの方から歩み寄らせるなんて大人失格だと反省しつつ、サンジも頭を下げる。
「…こちらこそ、よろしくお願いします」


なんのかんの言って素敵な新居?に心魅かれたのは事実だし、成り行きとは言え中学生の一人暮らしを放置できるほど薄情でもない。
サンジの方が折れた形に無理やり持って行って、めでたく同居と相成った。




     * * *




まさに“蝉時雨”の形容にふさわしく、まるで降り注ぐような蝉の鳴き声に包まれる晩夏。
うだるような暑さに身を任せ、買ってきたアイスを溶かさないよう足早に歩いていたゾロが、ふと足を止める。
「アイス、溶けんぞ」
釣られて足を止めたサンジが、汗で張り付いたシャツを引っ張ってパタパタと風を送った。
「あちーよ。電信柱になんかいるのかよ」
「や…昔、電信柱に捕まってたでかい蝉を捕まえたことあったなあと、思ってよ」
「へえ、俺もガキん時、田舎で蝉取りしたことあるぜ」
どこか自慢げに返すサンジに、ゾロは肩を揺らして笑った。
「その蝉、なんて鳴いてた?」
「はあ?ミーンミーンとか、ジーワジワ…とか?」
いま一つ蝉の種類に疎いサンジを追い越して、ゾロはさっさと歩き出す。

「なんだよ、自分から話振っといて。てめえの蝉はなんて鳴いてたんだよ」
「――――・・・」
ナミさ〜〜んナミさ〜〜〜んと鳴いていたと言ったら多分、顔を真っ赤にして怒るだろう。
その蝉は、今では夜な夜な別の声で啼いているけれど、そこまで言及したら拗ねて面倒臭いことになるから賢明なゾロはなにも言わない。

「なんだよ一人でニヤニヤして、気持ち悪ぃなぁ、おい」
肩で小突いて、軽く脛を蹴ったりして。
じゃれ合いながら歩く二人の背中を追い掛けるように、蝉は賑やかに鳴き続けた。


終わり




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