空に星ひとつ 海の砂ひと粒


ものの弾みでゴーイングメリー号から落ちたゾロは、波間をちゃぷちゃぷ泳いでいた。
多分船はこっちの方角だろうと勘だけを頼りにクロールなんかしたものだから、全速力で船から遠退いたことにも気付いていない。
360度、見渡せば空と海の青しかない大海原を、ゾロはひたすら泳ぎ続ける。
そろそろ平泳ぎに変えるかな〜と暢気に考えていたら、海面に漂流物を発見した。
船のようだがゴーイングメリー号ではない。
それより小さい、かなり小さい船だ。
というか、ボートだ。

ゾロは水面下に潜ってボートに接近した後、船底に手を掛けゆっくりと顔を出した。
場合によっては警戒して撃たれると案じてのことだったが、ボートの中からなんの反応もない。
ひっくり返さないように用心しつつ、船べりに手を掛けて乗り上げる。
無人かと思われた船内には、一人の男が横たわっていた。

全体的にひょろ長い。
黒いスーツを着込み、足元に古ぼけた毛布を縺れさせている。

―――死んでんのか?
ゾロは顔からポタポタ雫を零しながら、身を屈めて覗き込んだ。
男の顔は目元まで覆う長めの前髪に隠れて、よく見えなかった。
陽射しを浴びて輝く金髪の下、額から頭にかけて包帯でぐるぐる巻きにされていて、よく見れば後頭部に血が滲んでいる。
怪我をしたが手当てはされた後のようだ。

死体か行き倒れかわからない先客がいたが、ゾロは気にせずよいせとボートによじ登り、濡れた服を海上で絞って着直した。
改めて船内を点検すれば、男と毛布の他にはポリタンク1個分の真水に僅かな食料。
いずれも手を付けた形跡はなく船内に汚れもないから、ほんの少し前にボートに積み込まれたものらしい。
どこかで船が遭難して、一人ボートで避難でもしたのだろうか。

改めて横たわる男の枕元に腰を下ろし、風に揺れる金色の髪をそっと撫でるように掻き上げた。
包帯に滲んだ血は乾いて、茶色く変色している。
少し青褪めていはいるが、すよすよと穏やかな寝息が聞こえた。
どうやら男は眠っているだけらしい。
こんなカンカン照りのボートの上で、よくもまあこう安らかに眠れるものだと感心し、足元の毛布を引き上げて顔の部分に庇を作る。

よくよく見れば男の肌は色が白く、髪の色から見ても恐らくはノースの生まれだろう。
陽に晒されたせいか男の頬はのぼせたように赤く、腫れぼったくなっていた。
同じ眠るにしても少しは頭を使えよと脳内で突っ込みながら、男に影が差す場所に腰をずらして座り込んだ。
そのまま水平線に目を凝らす。
船の陰はないか、島波は見えないか。
警戒して見渡していたつもりなのに、ゾロはいつしか眠りに落ちていた。





目が覚めたら夕暮れだった。
夜更けまで寝過ごさなかっただけマシかと、自分で自分を褒めながら身じろぎをしてを身体を起こす。
夕陽を背にして、先ほど死んだように眠っていた金髪が座っていた。
ゾロが起き上がった気配を感じたか、ゆっくりと振り返る。
その眼差しはどこかきょとんとしていて、不審さも警戒心も感じさせない。

「おう」
ゾロはなんと言っていいかわからず、取り敢えず挨拶のつもりで顎で頷いた。
金髪はそんな様子をじっと見つめている。
「ちと邪魔してる、急ぐんじゃねえならしばらくここにいさせてくれ」
海の只中をボート一つで漂流していて、急ぐもなにもないだろうが。
心中で突っ込むも、金髪はなにも返さない。
波に揺られゆったりと首を傾げて、気だるい仕種で瞬きをした。

―――こいつはもしかして、アホなのか。
眠っている間に無断侵入しておきながら失礼極まりない判断をし、ゾロは不意に喉の渇きを覚えた。
傍らに置いてあるポリタンクは、量が減っていない。
この金髪は水も飲まないのか。

「水、飲んでいいか」
指差して問えば、やはりうんともすんとも言わないまま金髪はゾロの指の先を見た。
いいのかダメなのか、どっちだと問い詰める気も起こらなかった。
今さら急いでも事態が好転する訳でもないし、穏やかな波の揺れが非常時にささくれそうな気持ちを和らげてくれている。

広い海原に、見知らぬ男同士がただ二人だけ。
頼りないボートに乗り、心許ない水と食料だけで漂流しているのだから、本来ならもっと生命の危機を危ぶみパニックになってもおかしくない状態であるのに、なぜかのんびりとした空気が漂う。
金髪がゾロの出現に怯え、騒ぎ立てて抵抗の一つもして見せたなら状態はもっと違ったろうが、表情も変えずのほほんとしたままだ。

―――やはり、アホなんだな。
いかに相手に敬意を払おうと、客観的にみて判断すれば自ずとそうなった。





頭の傷のせいだろうか。
恐らくは、怪我を負いアホになってしまった仲間を置き去りにしたのだ。
僅かな水と食料をボートに乗せたのは、せめてもの詫びの印だったのか。
よくよく調べればナイフも一本置いてあった。
これが最後の温情だったのだろう。
いよいよと追い詰められれば、自ら命を断ち切れるように。
だが、このアホの状態ではそんな判断すらできるかどうか危うい。

ゾロが提案しなければ、金髪は水を飲むことすら思い付かなかったようだ。
まるでゾロが先に毒見するかのようにポリタンクから水を飲んで見せると、金髪はほんの少し目を輝かせて躊躇いながらも近寄ってきた。
零さないように慎重に蓋に水を汲んでやる。
顔を突っ込むようにして、ゾロの手にある蓋に直接口を付けてンクンクと喉を鳴らしながら飲み干した。
アホだから、もっともっととタンクにまで顔を突っ込むかと思いきや、それで満足したのか大人しく腰を下ろし座り直す。

「腹減ってねえのか」
乾いたパンを取り出すと、金髪はじっとゾロの手を見た。
食べるジェスチャーをして見せれば、ふわりと笑う。
まるでゾロに食べろと促しているようで、それは都合よすぎる解釈かと躊躇った。

取り敢えず二つに分けて、一つを差し出す。
金髪はニコニコしながらそれを受け取り、そのままもとの場所に仕舞ってしまった。
試しに、残り半分をさらに割って金髪に差し出すと、今度はそれを受け取って口に運んだ。
それを見届けて、ゾロは安心して残りを自分の口に運んだ。



夜が更けて来ると一気に気温が下がる。
まだ天気がいいから救われるが、これで嵐や雨風が来たらこんなボートでは木っ端微塵だろう。
そう予想できるのに、どこか危機感を薄く感じながらゾロはぼうっと空を見上げた。
月と星以外、なんの光もない真っ暗な闇だ。
それでいて小さな光一つ一つが眩しいほどに輝かしい。

泳いで濡れたシャツは昼の陽射しで粗方乾いたが、湿気た部分が冷えを連れて来る。
腕を組んでぶるりと身体を震わせれば、隅っこに転がっていた金髪が腕を伸ばし毛布を寄越してきた。
「お前のが、寒そうだ」
毛布を引っ掴んで金髪の頭から被せてやる。
すると、頭に毛布を被ったままもそもそと四つん這いで前進して、ゾロの腕に凭れるように引っ付いた。
「一緒に被るか」
毛羽立って薄い毛布を広げ、自分の背と金髪の身体を丸ごと包み込む。
ゾロの腕の中にすっぽりと覆われるようにして、金髪は物怖じせずに胸元に擦り寄った。
人肌が温かく心地よい。
まったく見ず知らずの、しかも男なのだが、あどけないアホっぽさのせいか、さして抵抗感はなかった。
寧ろ夜露から守るように、自分とほとんど上背の変わらない骨っぽい身体を抱き締める。
衣服越しに伝わる体温がどんどんと高まって行くに連れ、心地よい眠りが二人を包み込んだ。





ゾロはよく眠る体質だが、金髪も似たり寄ったりだった。
昼夜を問わず、暇さえあれば眠っている。
ただゾロの惰眠体質とは異なり、恐らく怪我を負った身体の回復を図るための自己治癒力なのかもしれない。
包帯が浮いて来たから試しに剥がしてみたら、頭の傷は乾いて塞がっていた。
それでも常に視線はぼんやりとしていて、はっきりとした言葉は口から出てこない。

昼間でも輝く水面ばかりを眺めているから、目を傷めると瞼に掌で庇を作ってやると、くすぐったそうに首を竦めてそのままゾロの腕に擦り寄って来た。
元来人懐っこい性格なのか、やぱり頭を打ってパーになったせいなのか。
あまりに無防備で無用心な仕種は、ゾロの胸の奥、腹の底辺りをかすかに不快にさせた。
なぜそんな気分になるのか、ゾロ自身よくわからない。



海が凪いで穏やかな日ばかりではなく、突然の雨に見舞われることもあった。
真水を得ようとポリタンクの蓋を開け、靴まで脱いで雨水を受けた。
風に流される日は二人抱き合って船べりに掴まり、時折浮き上がる身体に慄くよりも歓声を上げた。
太陽が照りつける快晴の日には、毛布で日除けを作って身を寄せじっと蹲り、体力を温存した。
元々無口なゾロと言葉を発さない金髪の間では会話も世間話も成立しないが、不思議と退屈には感じなかった。
ただゆったりと時間だけが過ぎていく。

ある日、小波とともに小魚が跳ね飛び、ゾロは船から身を乗り出して狩りをする熊のごとく魚を浚い獲った。
このまま丸齧りするかと思っていると、金髪がすっと手に取り素手で捌き始める。
途中からナイフを使い、あっという間に綺麗な刺身にしてしまった。
「こりゃすげえ」
海水に浸けて食べれば、飛び切りのご馳走だ。
うまいうまいと喜んで食べるゾロの姿を眺めながら、金髪も嬉しそうに笑った。

用意されていた食料は食べ尽くし、二人は代わる代わる海に潜って魚を獲った。
金髪は泳ぎも得意なようだ。
元来手先が器用なのか、ゾロがなにを獲って来てもナイフ一つで食べやすい状態に加工してくれる。
最初はぼうっと開いているだけだった金髪の眼差しが、ナイフを使う度に少しずつ光を取り戻し、生き生きと輝いてくるのが端から見ていても分かった。

「お前は、料理人なのかもしれないな」
ゾロが呟くと、いつものようにへらりと笑わないで少し考えるように首を傾けた。





晴れの日が続いて真水も残り少なく、二人毛布の影にへばり付くようにして日中をやり過ごした。
さすがのゾロも、喉の渇きを覚えずにはいられない。
金髪は横になりながら、盛んに唇を指で触っている。
ゾロが乗り込んだ時から時折この仕種をしていたから、癖なのかもしれない。
それとも口寂しいのか。

ふと思いついて、ゾロは金髪の顔の傍までにじり寄ると頬に手を掛けて首を傾けさせた。
唇を合わせて、乾いた唇を舌で湿らせる。
金髪は驚いて目を瞠りしばらくじっとしていたが、そのうちゾロの舌の動きを追うようにおずおずと舌を差し出した。
お互いに口内を舐め合い、唾液を絡ませる。
喉の渇きはそれで癒された。



波の音しか聞こえない静か過ぎる夜を、二人抱き合って過ごす。
金髪は、まるでそうするのが当たり前みたいに、日が暮れるとゾロの懐に潜り込んで目を閉じた。
昼間は暑いほどなのに、夜は肌寒い。
だから人肌が心地よく、こうして寝るのは合理的だと言える。
海風に晒されて潮を噴いた色褪せた金髪に鼻を擽られながら、ゾロは徐々に催してくる下腹部の熱を持て余していた。

多分、金髪はアホだから、ゾロがすることにさしたる抵抗は見せないだろう。
寧ろ本能に従って、素直と言うより貪欲に応じてくるかもしれない。
がしかし、衛生的とは言い難いこの状況でことに及ぶには金髪にリスクが多すぎる。
ただでさえ弱っている体力や免疫力を、これ以上損なわせる訳にもいくまい。

そう頭では分かっているのに、勝手に高まった熱は出口を求めて暴走し掛けていた。
ゾロは金髪を抱いたまま船底に寝そべり、傷跡が残る額にちろりと舌を走らせる。
舌先が痺れるほどにしょっぱい。
けれど、金髪の肌の匂いがする。

そうしながら、もう片方の手を懐に入れそのまま下半身へと滑らせた。
暗闇でごそごそと手元だけ動かすのは怪しげだが、金髪に気付かれても仕方あるまい。
半ば開き直って扱いていると、不意に金髪が頭を上げた。

視線を下げ、ゾロがなにをしているのか目で確かめようとする。
じっと見られていては居心地が悪いが、今さら隠し立てするものでもない。
片手に金髪を抱えたまま動きを再開させれば、腕の中で金髪もモジモジし始めた。

―――ああ、こいつも男だもんな。
今頃気付いて、金髪が動きやすいように離れようとした。
が、金髪の方もゾロのシャツを掴んで離さない。
それでいて、足を擦り合わせるように身動ぎを始めたから、ゾロはじっとその様子を窺った。

やがて、はっはと荒い息遣いが夜の闇に紛れて響いてくる。
その声を聞いているだけでゾロも昂ぶって、つい己を摩る手を金髪の方へと動かしてしまった。
同じくらいの位置にある腰の辺りを探れば、手の甲に触れた。
驚いて引っ込んだ手の代わりに熱くなったそこをそっと握り込む。
金髪が息を呑む気配が伝わったが、もう引っ込みが付かない。
片手で金髪のものを、もう片方で己を慰めながら、金髪の首筋に顔を埋め肌を舐めた。
どちらのものともつかない、獣染みた息が交じり合い、金髪は首を巡らしてゾロの頬に唇を付けた。
そのまま顔をずらし、唇と唇を付ける。
そう言えば喉が渇いていたと、今さらのように思い出してゾロは舌を絡めた。
そんな理由付けは最初からいらないんだと、後から気付いた。





曇天模様の空の下、雨が降って欲しいのか晴れ渡った空の青が見たいのかわからない。
そのどちらでもいいやと、投げやりでなくそう思う。
水平線にモクモクと盛り上がる入道雲の動きを目で追って、その白の中に一点の染みを見付けた。
最初は目の錯覚かと思えた、虫ほどの小さな染みは近付くにつれドンドンと色を濃くし、その輪郭を形作っていく。

ピンと張られた帆にでかでかと描かれた海賊旗。
見慣れた麦わらのマークに、日に焼けて罅割れた唇を歪めるように笑い、寝転んだ金髪の肩を揺り起こした。

「ああ―――」
パサついた髪を掻き上げ、金髪は数日前から少しずつ出るようになった言葉を頭の中でめぐらしてから、声に出す。
「煙草、吸いてえ」


遠くから、仲間達が呼ぶ声が響いてきた。



END



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