忍び音



随分と日が長くなったものだ。
一仕事を終え、夕焼け色に染まった田んぼ道をゾロはゆっくりと走っていた。
明日もきっと晴れだろう。
どういった段取りで行こうか。
朝飯は握り飯を作ってもらって持っていくか。
・・・なんてことを考えながら橋を渡り、ふと眉を寄せる。
家に灯りが点いていない。
軽トラを停めれば、風太が狂ったように飛び上がって生垣の上から顔を出し吼えていた。
まだ散歩に連れて行ってもらっていないらしい。

鎖をいっぱいに引っ張って飛びつこうとするのを手で制し、ゾロは足早に玄関の扉を開けた。
「ただいま」
「・・・おかえり」
薄暗がりの中、幽鬼のような顔色でサンジがぼんやりと座っていた。
ゾロの声にいま気付いたとでもいう風に、はっと顔を上げて時計を見る。
「やべ・・・こんな時間」
「いい、俺が散歩に行ってくる」
急いで家に入ったから、ゾロの手も服も泥だらけだ。
いつもなら目ざとく見つけ、怒鳴り飛ばすはずのサンジが未だぼうっと視線を宙に漂わせている。
「ゾロ・・・」
「ん?」
「新聞、あるか?」
「ああ、持って来る」
言ってさっさと表に出て、軽トラの座席裏に置かれていた今日の新聞を持って帰ってきた。
部屋の明かりを点けて、サンジに新聞を手渡した。
それからポットに湯を沸かし、炊飯器のスイッチと風呂の電源も入れてからとりあえず外に出た。
風太がワンワンと、息を弾ませてジャンプしている。
「遅くなって悪かったな」
飛び掛る風太を受け止め背中を撫でて、ゾロは鎖を外して散歩に出掛けた。



昨日の帰りにラジオでニュースを聞いた時から、こうなるかなとの漠然とした予感はあった。
多くの犠牲者が出た痛ましい事故。
事件や事故が日常茶飯事とは言え、規模が大きくなるとどうしても人の口にも登ってくる。
以前よりぐんと交友関係が増え世界が広がったサンジは、自然と世情にも敏感になった。
そのつもりがなくても、耳に飛び込んでくるニュースがある。
今回は、大方、和々にいる時に客の口からニュースを聞いてしまったのだろう。

聞いてしまえば気になって、詳細を知りたくて仕方なくなる。
そんな時、ゾロはきちんと新聞を読むことをサンジに薦めた。
あれこれと憶測でものを考えて胸を痛めるより、事実をきちんと把握しておいた方がいい。
その上でダメージを受けたなら、それはそれで仕方のないことだ。
荒療治かとも思ったがサンジはゾロの言葉に納得して、耳に入ってしまった事件や事故のみニュースで詳細を知るようになった。

知ってしまえば、心は乱れる。
ただ「可哀想にね気の毒にね」だけでサンジは終われない。
新聞を広げ、そこに惨事の写真を見、縁者の声を聞き悲しみを共にする。
被害者のみならず、加害者側の立場にも立ってそのどちらにも胸を痛める。
サンジは常に、一方的ではない。
だからこそ多分、他の誰かが胸を痛めることの、単純に2倍はしんどい思いをしているのだろうとゾロは推測した。

強すぎる感受性は、時に短所だ。
当事者でもないのに悲しみで押し潰されそうになって、怒りで我を忘れそうになる。
そんな感情の嵐に負けまいと、一人で歯を噛み締め踏ん張り続けるサンジは、ゾロが推し量る以上に気力と神経をすり減らしているのだろう。
それが理解できはするが、なにをしてやれることもない。
ただ、あるがままのサンジを見守り受け入れてやることしかゾロにはできない。



風太の散歩コースをくるりと回って戻ってくる頃には、とっぷりと日が暮れていた。
満足していつものように落ち着いた足取りで先を行く風太は、自分から小屋の中に入ってゾロが水を置くのをじっと見ていた。
水と餌を与え、頭を軽く撫でてやってから家に戻る。
部屋の電気はゾロが点けたが、玄関灯は付いていなかった。
ただいまと声をかけ、玄関と廊下それに台所の電気を点けて居間に顔を出す。
サンジは、ゾロが出掛けていった時そのままの姿勢でしゃがみこんでいた。
目の前には広げられた新聞紙。
サンジのうつろな眼差しがじっと白黒の写真に注がれている。

ゾロは風呂を沸かし、汚れた服を脱いで湯を張りながら同時にシャワーで汚れを洗い流した。
上がって来る頃には、米の炊ける匂いが室内に充満していた。
取り置きしてあるだしに適当に切った豆腐を入れ、みそを溶かしてネギを散らす。
冷蔵庫の中の余りものを卓袱台に全部出して、梅干と佃煮も並べて熱々ご飯の上に卵を割り落とした。

「飯だ」
「あ、ありがと」
再び、サンジはいま気付いたとでも言うように腰を浮かせ、炊事場と卓袱台の上を交互に見た。
自分がすべきことはなにもないとわかったのか、またそのまま大人しく座る。
「ごめん、ゾロ、疲れてんのに」
「今日はあっさりしたもんが食いてえと思ってたんだ」
箸で乱暴に卵ご飯を掻き混ぜ、ほらっと目の前に差し出した。
それを両手でおずおずと受け取り、湯気で顔を洗うようにじっと見つめている。
「食えるだけ食え」
「うん」
卓袱台の前に正座して、茶碗を持って掻き込むように箸を動かした。
しばらくモソモソと口を動かし、口端に付いたご飯粒を指で救って舐め取ってから茶碗と箸を置く。
「ご馳走様でした」
「おう」
ゾロから見れば、猫の子が遊び食いした程度にしか見えない。
山盛りよそわれた卵がけご飯の、中央部分がほんのり減った段階でサンジは神妙な顔付きで手を合わせた。
「ごめん」
「いいから、風呂入って来い」
サンジが食べ切れないだろうことは最初からわかっていた。
なので、風呂に入っている間に残りご飯とお代わりを2杯食べて夕食を済ませる。

風呂に漬かっておりながら、まだ青褪めた顔色のサンジが上がってくると、すでに敷いた布団の中でゾロがおいでおいでと手招いた。
その懐にモソモソと入り、背中を向けて丸まって横たわる。
「おやすみ」
「・・・」
答えず、サンジは萎れた表情で振り返った。
「ごめんな」
「ああ、明日も早いからもう寝るぞ」
「うん」
ゾロの懐に顔を埋めるように押し付け、もう一度ごめんと呟く。
「おやすみ」
「おやすみ」
そうしてまたくるりと背を向け、布団の中に顔を埋めてしまった。
尖った肩を包み込むように腕を回し、首の後ろに顔を傾けてゾロも眠る。

ごめんねと、何度も謝るサンジを制したりはしない。
言葉に出して詫びることでしか、サンジは自分を表現できない。
わかっているから、何度でも謝罪の言葉を受け入れる。
謝ることすら許されなかったら、きっと息が詰まってしまうだろう。

他人事なのに傷付いて、飯も喉を通らなくなるほどに打ちのめされて。
一人で丸まって声を殺して泣くしかないのだ。
ゾロに訴えることも縋ることもせず、ただそうして自分の中で生まれた衝動をゆっくりと消化させていく。
ただ見守るだけで、助けることも楽にさせてやることもゾロにはできない。
それでいいと、思っている。

くだらないとかつまらないとか、人の痛みを受け入れたつもりになって何様だとか。
悪し様に貶すことは簡単だろう。
お前がクヨクヨしたって仕方ないとか、優しいのはわかるけどそれじゃあ神経が参ってしまうよとか。
慰めたり励ましたり宥めたりすかしたり、言葉を掛けることだけなら簡単だろう。
けれど、そのどれを取ってもサンジは追い詰められる。
過剰に反応する自分が異常だと、誰よりも自覚していてなお止められない感情の迸りに、一番足掻こうとしているのはサンジ自身だ。
だからせめて、黙って寄り添ってやることしかゾロにはできない。
救ってやるとか導いてやるとか、気付かせてあげようとか。
そんな風にゾロは思わない。
ただ黙って、サンジから発露する僅かな感情の波を受け止めてただここにいる。
泣かないサンジの傍で、その慟哭が押し殺されるのをただ見つめている。
それだけでいいと、思っている。





翌朝も、思った通りによく晴れた朝だった。
シャッとカーテンを引く音と共に、柔らかな光が瞼を遠慮がちに刺した。
目元に手を当て、ゆっくりと寝返りを打つ。
傍らには、まだぬくもりはが残っている。

「おはよう」
逆光になって影が差す顔は、けれど笑っているようだった。
身体を起こせば、炊き立てのご飯の匂い。
サンジはゾロの枕元に所在無さげに座り、煙草を吹かしているだけだ。
多分まだ、料理を口にすることはできないだろう。
けれど、昨日よりも表情は明るい。
今夜帰って来る頃には、もっと変化しているだろう。

昨日より今日、今日より明日。
きっとずっとよくなっていく。
シモツキに来て、サンジは“死”と言うものに慣れた。
野生の獣であれ、親しく言葉を交わしていた近所の老人であれ、死と言うものは突然にあるいは緩やかに確実に訪れる。
今では、組内の通夜手伝いで赤色灯片手に車番もできるようになったサンジだ。
たくさんの経験が、彼を強く変えていく。
痛ましい事件や事故のダメージも、最初の頃より回復の速度は確実に早くなっている。
それが傍で見ていてわかるから、ゾロは何も心配しない。

「んじゃ行って来る」
身支度だけ整えて、まだ薄暗い玄関に向かう。
追いかけてきたサンジが、風呂敷包みを手渡した。
「こんなもんだけで、ごめん」
「ありがとう」
まさか朝食を用意してくれていたなんて思わず、ゾロは驚いた表情で受け取った。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
まだ切なさの残る表情は、爽やかな朝日を受けても翳りが見える。
けれどサンジは戸口にしゃんと立って、ゾロを見送ってくれた。





朝靄がかかる農道を、ゆっくりと軽トラで通り抜ける。
緑風舎の駐車場に停めてから、まだ温かみのある風呂敷を手に取った。
広げれば、ころりと丸い塩結びが二つ。
具をあれこれと工夫する気力もなく、ただ炊き立ての飯を塩で握っただけの白むすび。
いつの間に起きて、飯を仕込んでいたのだろう。
寝付けなくて早起きして、それでものろのろと緩慢に、やっとの思いでここまでしてくれたのだろうか。

ふっくらして艶々な米にかぷりと食い付けば、塩気に促されてほんのりとした甘みが口の中に広がった。
ゾロが大好きな、握り飯の味。
鼻から抜ける風味に目を細め、ゾロはゆっくりと味わいながら咀嚼した。
いつもと変わらぬ美味しさが、ゾロに力を与えてくれる。

「さて、今日も頑張るか」
声に出して伸びをして、ゾロは元気よく軽トラから降りた。



End




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