さかなのきもち -3-



どぷんと、海中に沈むと同時に聴覚を閉ざされた。
細かな気泡が、サンジの肌を包み込むように撫で浮上していく。
水温はぬるく心地よく、微睡を誘う揺り籠のようだ。

サンジは両手足を投げ出して、静かに遠ざかる海面を見た。
夜の海は、思ったより暗くない。
それどころか海面を貫いて清かな月明かりが差し込み、幾筋もの光の帯と化して揺らめきながら水中を照らしている。
なんとも静謐で神々しく、幻想的だった。
優雅に靡く海藻の間を、群れを成して小魚が横切って行く。
その中にあって、サンジの身体は何一つ邪魔をしていなかった。
自分の手も足も、水に煽られて視界を妨げるであろう前髪も見えない。
触れれば感触はあるが、見ることは叶わなかった。
まるで自分自身が存在しないような、不思議な感覚だ。

魚達は突然の闖入者に驚くことなく、サンジの肌に触れ流れに沿って泳いでいく。
自信が魚になったような、いしゃそれ以上に海そのものになったようで心まで凪いでいく。
見えない部分は最初からなかったかのように、海に溶け込み馴染んでいた。
このまま流れに身を任せて揺蕩えば、いつかオールブルーへと辿り着くだろうか。
サンジ自身がオールブルーとなり、あらゆる種類の魚達が泳ぐ楽園に棲めるだろうか。


『――――こぶ・・・』
夢うつつの心地でも、身体は容赦なく現実へと引き戻す。
ずっとこうしていたいが、さすがに肺は限界だ。
酸素を求め、身体が勝手に足掻いて水面へと向かった。
もう少し、もう少しだけこうして留まっていたかったのに。





「プハッ」
静かに浮上するつもりが、限界まで我慢していたせいで派手な息継ぎになった。
夜の空気を精いっぱい吸い込み、軽く咳込みさえして立ち泳ぎしながら背を丸める。
「けふっ、こふっ」
「なにやってんだ」
縄梯子を降ろし海面すれすれまで身体を傾けたゾロが、サンジの腕を取った。
ゆっくりと航行を続けるサニー号に、惰性で引きずられる。
「なんで・・・」
「なんでじゃねえよ、てめえは見えねえんだから下手すっと本気で逸れるぞ。もう二度と戻れなくなったら、どうするつもりだ」
からかうでも馬鹿にするでもない、いつになく真剣なゾロの眼差しに射竦められ、咄嗟に反論できなかった。
ただ、「なんで」と戯言のように繰り返す。
「なんで、わかるんだ。俺のこと見えないのに」
ゾロの手は、しっかりとサンジの肘を掴んでいる。
いくら月明かりがあっても、海中から派手に飛び出したとしても、こんなに正確に居所を掴めるものだろうか。

「ああ?青く光ってんじゃねえか」
言われて、自分の肘を見た。
ぱっと見はわからなかったが、肘の裏側に小さく青く光る部分があった。
自分の腕を透かして見た向こう側だ。
「あ、これ――――」
昼間見た、透明魚の鱗を思い出した。
サンジの手からするりと飛び出た魚は、一度肘に当たって跳ねた。
あの時、鱗がくっ付いたのだろうか。
「なんだこれ」
ゾロは縄梯子に片手をかけ、指先を伸ばして肘を引っ掻く。
ぺりっと、小さな音を立てて鱗が剥がれ落ちた
その途端、サンジの姿が鮮明に浮かび上がる。

「―――――!」
「お、見えた」
ゾロに抱きかかえられた状態で自身の裸体が浮かび上がり、サンジは咄嗟に足を振り上げる。
「見えたじゃねえよ、このバカ毬藻!」
「あ、この馬鹿っ」
渾身の膝蹴りを腹筋で耐えたが、はずみで腰に巻いていたタオルがパラリと落ちる。
なぜか仁王立ちしたモノが現れ、一気に頭に血が昇った。
「なんで、勃ってんだー!!」
こんなものは即刻残滅すべし。
「待て、待て待て待て!」
殺気を感じたゾロはサンジの足を留めるより先に、口を塞いできた。
「待てよく考えろ。もしここで騒いで女どもが起きてきたらどうする」
「もがっ――――ふ・・・」
全裸の男に羽交い絞めされて口を塞がれるという、未だかつてないピンチに陥ったサンジだったが、ゾロの言葉でなんとか冷静さを取り戻した。
こんな場面、ナミさんやロビンちゃんに目撃でもされたら取り返しがつかない!
どこをどう言い訳したって、素っ裸で船からぶら下がっているのに間違いはないのだ。
百歩譲ってゾロがなんらかのアクシデントで全裸になることはあっても、自分はない。
自分のキャラで、いい訳出来るシチュエーションは何一つない。

大人しく足を収めたサンジの肩を、ゾロは宥めるように軽く叩いた。
「とにかく、静かに風呂に戻るぞ」
言われて初めて、ぶるっと寒気が差した。
海の中は生温くさえ感じたが、こうして夜風に晒されると次第に体温が奪われていく。
自覚したら震えが来て、サンジは温かいゾロの身体にしがみつくようにして「仕方ねえ」と応じた。







本日二度目の風呂は、極楽のようだった。
塩気にまみれ冷え切った身体に、温かなシャワーが心地よい。
首まで湯船に浸かると、自然にくなんと身体が弛緩した。
色々あって、疲れたのもあるかもしれない。
「一体どんなまじない使ったんだ」
同じように湯船に浸かるゾロに問われても、「さあ?」としか答えられなかった。
「知らねえが、さっきまで水に濡れると透ける身体になってたんだ」
「これ幸いにと、覗きか」
「うっせえな、違うっつってんだろ」
バシャンと湯を跳ねさせて、ゾロの顔に飛沫を掛ける。
「うぜえな」と、ゾロもやり返してきた。
ここで更にやり返して湯かけ合戦になると、逆に仲良しお風呂ごっこになる気がして止めた。

「ちっ、やってられっか」
そっぽを向くサンジに、ゾロがつまらなそうに指先だけで湯を弾いて掛ける。
その仕種が子どもっぽくて、そう言えばと思い出した。
ゾロが湯船に浸かった時、いきなり真後ろに突進してきたのはなんだったのか。
「お前ってさあ・・・」
「ああ?」
ゾロはサンジをねめつけるように見返してから、ふと視線を外した。
「あ」
「ん?」
釣られて振り向けば、大浴場に設置された時計が12時を告げている。
「誕生日だな、おめっとさん」
「なんてこった・・・」
サンジは呻くように嘆いた。
せっかく透明魚からとびっきりのギフトを貰ったというのに、無駄に使った挙句こともあろうに野郎と二人で風呂に浸かりながら誕生日を迎えるとは。
なんたる不覚。

「一年の計は誕生日にありとか言うのに」
「それ、元旦じゃなかったか?」
新しい年の始まりを、ナミさんとロビンちゃんの麗しき裸体を目にしながら迎えたかった。
そんなささやかな野望も呆気なく打ち砕かれ、胸躍らせた分だけ落ち込みが深い。
けど――――

夜の海は素晴らしかった。
自身が魚に、いや、海そのものになったかのような体験は初めてだ。
穏やかに揺れる水面も、静かに降り注ぐ月光もこの世のものではないほどに美しく、荘厳だった。
あの光景はきっと一生、忘れないだろう。
そうして、引き揚げたゾロの手の温かさも。

「なんだ?」
サンジの視線に気付いて、ゾロがどこか居心地悪そうに眉根を寄せる。
「いや、お前ってさ。一人で風呂入る時、遊んでんだな」
サンジに背を向けていきなり突進してきたのは、広い湯船の中で座ったまま足で蹴って滑ったからだ。
ルフィやウソップ達ならともかく、ゾロがあんなことして遊ぶだなんて、意外過ぎておかしい。
「悪いか」
ゾロは、両手指を組んで水鉄砲を作りサンジの顔目掛けて噴射した。
それを掌で遮りながら、笑う。
「いや、悪かねえよ」

そう、たまには悪くない。
こんな誕生日の迎え方も。


End






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