再生 2

一通りトレーニングを終えて、ゾロは巨大な錘を下ろした。
火照った身体に冷たい夜風が心地よい。
汗をぬぐって、顔を上げる。

キッチンの灯りが漏れている。
また眠れない夜が続いているらしい。

今、飲み物を求めに行けば、きっと誘われる。
そしてゾロは、サンジの誘いを断ることができない。
思い出すだけで下半身に血が集まる気がして、ゾロは頭を振った。










振動を感じてチョッパーは下を見下ろした。

「ゾロ?」
「邪魔するぜ。」

手にしていた望遠鏡を置いて、ゾロのために少し身体をずらす。
さっきサンジが届けてくれた夜食はまだ温かく、湯気を立てている。

「ゾロも食べろよ。」
「いや、俺はいい。」

チョッパーは保温ポットから熱いコーヒーを注ぎ、暖を取るように両手でカップを持ち上げた。
芳しい香りが鼻腔をくすぐり、ゾロは少し落ち着いた気分になる。

「サンジのことなんだけど。」
チョッパーは前を向いたまま独り言のように呟く。
優秀な船医は、クルーの変調にも敏感だ。
「最近眠れないと、俺のとこにクスリ取りに来るんだ。」



やはり、な――――

ゾロがサンジの要求に、満足に応えてやれないからだ。



「最初は体質かと思ったんだけど、その・・・サンジはかなり強い薬を常用してたんじゃないか?」

言いにくそうに、それでも賢明に言葉を選んで、チョッパーはゾロに問い掛ける。
「俺も詳しくは知らねえ・・・それより」
チョッパーの視線を避けるように、ゾロは目を逸らした。
「悪りいが、人型になってくんねえか。」
チョッパーは一瞬きょとんとして、それからむくむくと巨大化した。

ゾロより頭一つ高い位置に視線が来る。
まだあどけなさの残る切れ長の瞳は冷静な光を帯びていて、ゾロはようやくチョッパーの顔を見ることができた。
少なくとも、先刻までのぬいぐるみの如きチョッパーに話せる話題ではない。

「サンジは、前の島で男娼をやってた。それも昼間言ってたような得意な体質のおかげで、ひでえ扱いを受けてた
 らしい。」
チョッパーの顔が痛ましげに歪む。

「奴の過去なんざ俺たちには関係ねえから、あえて誰にも言わなかったが――― 奴は眠れねえと俺に誘いを
 かけたとき、俺はそれに乗っちまった。」

ゾロの顔に苦渋の色が見える。
それを見つめるチョッパーの瞳は、冷静なままだ。

「普通に抱いてやれば済むかと思ってたんだが、奴はどんどん過激な要求ばかりしてくるようになった。
 俺がそれに応えてやれば、死んだように眠る。けど俺が拒むと眠れなくなるらしい。」

船医とは言え、本当はチョッパーにも話してはいけないことかもしれない。
だが、事実はゾロの胸の奥に秘めるには重過ぎる。

「この間は度数の高い酒を振りかけて、火をつけろといってきた。その前は針で突き刺せといいやがる・・・」
ゾロは片手で顔を覆い、息をついた。
「できねえと言うと泣きそうな顔で懇願しやがる。眠れねえからって・・・けどそんなことしてあいつが本当に
 気持ちいいとは思えねえ。」



コレは、懺悔か――――





「俺はもう、あいつの要求に応えてやることが、できねえ。」






コレは弱音だ。

柄にもなくトナカイに愚痴を聞かせている。

何が大剣豪だ。
何が世界一だ。
人ひとりも傷つけられねえくせに―――――――










「ゾロ」

チョッパーの声が闇に溶ける。

「俺達が思っている以上に、サンジの心の傷は深い。」

手の中で揺れる芳しい液体が、徐々に冷めて行く。

「多分それが不眠って形であらわれたんだ。俺は専門家じゃないからよく分からないけど――――」
言葉を切って、思考を巡らす。
「サンジは、傷の残らない過去の行為を再現することで、何かをやり直してるんじゃないかな。」
―――そんな気がする。

「サンジの傷は、恐ろしく暗くて深い。だから、中途半端な気持ちで手を出すべきじゃあ、なかった。」

チョッパーの言葉は裁きのようにゾロの胸を抉る。



はじめて出会ったとき、男娼だとは思わなかった。
最悪の境遇で夢を語る瞳に、狂気の影を見出せなかったのは、自分が未熟だったせいか。



「俺の手で、ケリをつけなきゃならねえな。」

辛うじて、昼と夜のバランスを取っている足元がいつか崩れるなら、いっそこの手で引導を渡した方がいい。





「ゾロ、俺は今のサンジの状態が悪いこととは思わない。」
チョッパーの意外な言葉。

「サンジは今まで経験した、辛い行為を繰り返そうとしている。ゾロの言うように、それがただ快感を得るためだけに
 してるんでないとすれば、それはイミのあることじゃないかな―――」

チョッパーの瞳がゾロの顔に向けられる。
「それをゾロに求めてることにも、ゾロがその行為を嫌だと思ってることにも、きっと救いがある。」

だから―――
「ゾロの正直な気持ちを、ちゃんとサンジに伝えてやって欲しいんだ。」



それは、ゾロにしかできないことだから。
















静かにキッチンの扉を開けると、テーブルに臥していた金色が頭を擡げた。
ゾロを認めて、泣き笑いのような表情を作る。



「ゾロ・・・しよ。」


もう何度も繰り返されている、お決まりの誘い文句。
不思議と厭わしいとは思わない。
ただ、回数を重ねるごとにゾロの胸に虚しさが積もるだけで。

立ち上がり、ゾロに歩み寄る。
腰に手を廻し、白いシャツを手繰り上げた。
固い腹筋を愛しげに撫でる白い手を、ゾロはやんわりと掴んだ。

「ゾロ?」
心持ち首を傾げた頬に手を沿えて、ゾロは唇を重ねた。
触れるだけの柔らかな口付けに、サンジの頤が震える。

「ゾロ、早く――――」
もどかしげにシャツを掴む手を押さえられて、サンジは首を振った。

ぱさりと揺れる金髪を追うように、ゾロの唇が頬に額に落とされる。
「ゾロ・・・」
「なんで、嫌がんだよ。」
顔を背けるサンジの口元をちろりと舐めた。
「慣れてねえから、怖えのか。」
「・・・誰がっ・・・」
頬を紅潮させて、睨みつける顔を両手で包み込む。
顔を傾けて口付けても、きつく噛み締めた唇は開かない。
熱い舌の侵入を、頑なに拒む。

「くそ・・・早く、しろよ・・・」
ゾロの口付けから逃れて、サンジは拳でゾロの肩を叩いた。
「なんにもしなくていいから、突っ込めよ。」
「嫌だ。」
ゾロの言葉に、呆けたように顔を見上げた。

「俺はもう、てめえが傷つくことはしねえ。」
ゾロが真っ直ぐにサンジを見据えている。






「は・・・何言ってんだてめえ・・・」
乱れた前髪の奥から、何も映さない左眼がゾロを捉えた。

「何、俺に飽きたのか。もう、抱いてくんねえの?」
瞳が不安気に揺れている。

「てめえを抱く。だが、傷つける抱き方はしねえ。」
「なんだよそれ。」

訳がわからないと言った風に、サンジは頭を振った。
「頭沸いてんのか?てめえは俺が眠れるように、俺の言ったとおりのことすりゃいいんだ。」
「嫌だ。」

ゾロは両手でサンジの身体を抱え込んだ。
「お前が傷つく姿は、もう見たくねえ。」
その腕に、力を込める。

「何、言ってんだよ。俺のことは関係ねえだろうが!突っ込んで気持ちよきゃ、いいだろうが・・・」
「関係ないなら、最初から抱いたりしねえ。」

サンジの瞳が大きく見開かれた。
噛み締めた唇から、血の気が引く。
白い頬を紅潮させて、拳を振り上げた。

「・・・ざけんじゃねえぞ!何勘違いしてやがる!!てめえはチンポおっ勃ててりゃいいんだ!」
渾身の力で胸板を叩き、腹を蹴り上げる。
「俺に突っ込んで、腰振ってりゃいいんだよ。気持ちいいだろうが!俺もイイんだよ。そんだけだクソ野郎!」
狂ったように手足をばたつかせるのに、ゾロは抱えた腕を放さない。

ひとしきり暴れて、それでも離してもらえなくて、サンジはゾロの胸に額を当てた。
「挿れんのが嫌なら、モノでもいいから。自分じゃダメなんだ。」
それでも拳を打ち付けて、訴える。
「自分でしてもだめなんだ。てめえじゃねえと・・・」
握った拳を開いて、今度は爪を立てる。
「てめえの手で、滅茶苦茶にしてくれよ。最初はシテくれたじゃねえか・・・」

ゾロの胸に走る太い傷に爪を立てた。
まるで憎むように強く引っ掻く。

「なあ・・・ゾロ―――」
叩いても引っ掻いても、びくともしないゾロの身体に縋りついた。

「頼むよ、頼むから―――――その手で・・・」



媚びを含んだ瞳がゾロを見つめる。

甘く淀んだ腐臭が、サンジの吐息から漏れた。











「俺の目を、抉って――――」




開いたままの瞳孔が、狂気を孕んでゾロを捉える。


ゾロの手が、ゆっくりと右目に添えられた。
目を見開いたまま、サンジの唇に笑みが浮かぶ。

陶然と酔いしれるように目蓋が閉じられ、すいと涙が目尻から流れ落ちた。










――――早く、欲しい・・・


唯一俺に残された傷――――


お前の手で、俺に傷を残して。



二度と取り戻せない深い喪失感を、お前の手で――――






だが願いは叶えられず、閉じられた目蓋に落とされるのは、熱い口付け。
涙の筋を辿り、唇に重ねられる。

片手で腰を抱き、空いた手で逃げられないように後頭部を掴んだまま、ただ貪る。
嗚咽に似たうめきが、合わせた唇から漏れた。
ピチャリと音を立てて、舌が絡められる。
角度を変えて繰り返される口付けは長く、サンジはゾロに抱えられたまま力なく崩れ落ちた。

見下ろすゾロの顔が、ぼやけてよく見えない。

泣いたことなど、一度もなかった。









娼館に売られた日も

はじめて客を取った夜も

死ぬほど痛めつけられた時も

目を抉り取られたあの夜も―――――








止め処なく頬を濡らす涙を、ゾロは舌で舐め取る。

「お前が望むなら、俺は何度でも殺してやる。」
甘美な睦言に、サンジは背筋が痺れるような快感を覚えた。

「だがてめえが死ぬことを、俺は許さねえ。」
強く吸われ赤く色づいた唇に、軽く歯を立てる。

「たとえその身体に何の傷跡も残せなくても、てめえは死ぬほど辛くて苦しんで――――」
それでも―――
「血反吐吐いてでも、生きやがれ。」

口内を弄る舌に応えるように、サンジは己の舌を差し出した。
ゾロの口の中に絡め取られる。

このまま、舌を噛み切って欲しい――――







けれど、それは叶わない。

俺は、生きなきゃならない。
誰よりも強く、熱いこの男とともに―――――







「てめえには、夢があんだろ。」
間近で見つめる瞳は笑っている。

「お前の手で作る食い物で、俺達は生きる。お前の手で、誰かを生かせ。」
ゾロの顔から目が離せない。
サンジは、力なく垂れ下がっていた腕をゆるゆると上げた。
縋るように、ゾロの背に廻す。



「生きてる限り、抱いてやる。」










ゾロの鼓動が自分のそれと重なる。




多分、まだ生きている。

痛みがなくても、苦しまなくても、俺はまだ生きている。

何度も殺された夜の呪縛は解けなくても―――

歩き出せる明日ってのが、まだ残されているんだ。












ゾロの声をどこか遠くに聞きながら、サンジは初めて自分から唇を合わせた。










いつか再び、生きる為に――――――

END

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