佐保姫


振り返ってみれば、今冬は暖冬だった。
雪らしい雪も降らなかったし、吹雪もなかった。
暖房費は節約できて過ごしやすかったが、その分除雪のバイト代も入らず家計的にはむしろ苦しい。
暖冬だったせいなのか、日中の気温が上がってくるとどこからともなくカメ虫が現れる。
それも尋常でない数で、さっき掃除したばかりのところにちょこんといたりして、かと思えばちょっと目を離した隙にいなくなったりしてと、箒で掃き出しても切りがない。
迂闊に触れると強烈な臭いを放出する厄介者だが、そんなカメ虫は本人(本虫?)が自覚する間もなく即死した場合、臭いを放たないことが分かった。
さっきサンジは、うっかりスリッパで踏んでしまったのだ。
踏んだサンジも踏まれたカメ虫も、お互い全く気付いていない完璧な事故で、しかも一瞬だったためカメ虫は静かに息を引き取った。
完璧に潰れても臭いを放たないんだなと、妙に感心しながらカメ虫に不注意を詫びていると、ゾロの軽トラが戻ってきた。
「お、お帰り」
今日は朝早くから田起こしに行っていた。
もう仕事が終わったのだろうか。

「あんまりいい天気だから、これから花見いかないか?」
ゾロは運転席から降りず、手動で下した窓に肘を乗せてナンパな仕種で声を掛けてくる。
「花見?いいな」
先週からあちこちで桜の花盛りだったが、一昨日強烈な雨風が吹いてこの辺の桜はほぼ散ってしまった。
さりとて、山桜にはまだ早い。
サンジはカメ虫の遺骸を丁寧に弔ってから、手を洗って上着を羽織る。
簡単に戸締りを済ませ、軽トラの助手席に乗り込んだ。
「どこに見に行く?」
「大霜月堂」
「え、観光地じゃね?」
大霜月堂は桜の名所で、毎年多くの観光客が訪れるから地元民はむしろ近寄らない。
「あそこはここらより咲くのが遅いから、ちょうど今見ごろだろう」
「だろうけど、通行規制あるんじゃね?」
「いまからだと、多分規制解除するんじゃねえか」
軽トラでゆっくり走って一時間とちょっと。
夕方に着くから、もしかしたら車で乗り入れられるかもしれない。
見事な桜並木が何十キロも続いていて、桜のトンネルを車で潜り抜けるのが名所だった。
「じゃあ行ってみるか。風太と颯太はさっき散歩済ませたから、多少遅くなっても大丈夫だし」
どこ行くの?と尻尾を振っている風太に手を振り、そっぽを向いている颯太にも声を掛けてから車を発進させる。
窓を開けて肘を乗せたまま運転するゾロから、土の匂いがした。



「特別に花見って洒落なくても、あちこち花が見られて綺麗だな」
山はまだくすんだ緑で、薄いピンクの山桜が茶色に紛れてちらほらと浮かんできた頃だ。
それでも、道路沿いの街路樹は様々な花をつけていた。
「これは、木蓮?」
「いや、辛夷だろ、ちょっと地味だ。あっちの紅いのは姫辛夷」
ゾロが花の名を知っているなんてと、意外に思って目を瞠ったら前を向いたまま照れたように笑った。
「お客さんからの受け売りだ。おばさん達は花に詳しい」
「なるほど」
農家レストランと産直ツアーを提携させているから、ゾロは運転手兼ガイドの役目を担うこともある。
そうすると、質問されてもろくに答えられないことが多いと気付いた。
逆に、客に教えられることもある。
「日々勉強だな」
「そういうことだ」
峠道を越えて、さほど道も混まずに目的地へと着いた――――と思ったら、反対車線が大渋滞だ。
「え、これ帰り道かな」
田舎道にありえないほどの渋滞を横目で見ながら、サンジは不安げに振り返る。
桜の名所へと向かう三叉路には、交通整理員が立って赤い棒を振っていた。
「あー、やっぱ乗り入れ禁止か」
一方通行で、右折禁止とある。
ならばどちらから入れるのか。
「一旦行き過ぎて、山をぐるっと回るか」
「おう、一方通行ってことは、どっかからなら通行できんだよな」
三叉路は通り過ぎたが、そのまま山沿いにひた走ってもどこまでも対向車の渋滞が続いていた。
「・・・ひょっとして、帰り道めちゃくちゃ混むんじゃね?」
「この道を戻るんだと、今なら混む」
観光地だとわかっていて来たので、ここで怯んでは元も子もない。
通行できそうな場所を探して軽トラを走らせるも、山沿いの道が続くばかりで一向に枝道が見えなかった。
「俺達、どこに向かってるんだろう」
「確かに方向は違ってるかもしれんが、目的地からもどんどん離れてはいるが、ここより前にしか道はないと思え」
ゾロのよくわからない論理の元、かなり走ってからようやく右へと枝分かれした道に出た。
ここで右折しもっかい右折すれば、目的地に近付けるはず。
「うんうん、こっち」
サンジはようやく方向だけでも目的地に迎えたことにほっとしたが、今度は自分たちの軽トラ以外車がないことに不安になった。
「方向は、こっちでいいよな」
「ああ」
「お前に即答されると、不安が倍増する」

来た時と同じくらいの距離の山道をひた走り、ようやく集落が見えてくる。
それと同時に、道端に少しずつ桜並木が増えてきた。
「あ、近付いた気がする」
「そろそろだろ」
いつの間にか前を走る車が増え、対向車も現れた。
同じような三叉路で、今度は左折禁止の看板が見える。
「え、こっちも駄目って、どっからなら一方通行できんだよ?」
そう思っていたら、前の車数台が堂々と左折している。
交通整理をしているおじさん達も、特に止めもしないで見守っているようだ。
「あ、行けんじゃね?」
「そろそろ規制解除の時間なんだろ」
軽トラも続いて左折した。
すぐに目の前に、薄いピンク色で囲まれるような道のりが見えてきた。
「ああ、こっからだ」

前を行く車も対向車も、みな速度を落としてゆっくりゆっくりと狭い山道を走っていく。
サンジは、左右から重なるように枝を伸ばし、これでもかというくらい満開に咲き誇る桜のトンネルをうっとりと眺めた。
「こりゃあ綺麗だ。混むのも無理ねえ」
「そうだな」
いざ立ち入ってみると、想像した通り大変な渋滞になっていた。
あちこちに車を停めて写真を撮る人あり、狭い駐車場から出ようとする人あり。
道を歩く人や自転車で通り抜ける人、犬を散歩させている人でまさに大混乱だった。
しかも狭い、とにかく道幅が狭くてすれ違うのもやっとだ。
「―――やべえ場所に、入った気がする」
「まあ、わかってて飛び込んだ訳だし」
いつ出られるともしれない桜の魔界に、しばし迷い込んだ。



それでも、すべてにおいてタイミングはよかったらしい。
桜並木を堪能し、あと少しで観光地から出られるといった場所で再び通行規制に出くわして、あわやUターンとなりそうだったが、そこも数分で規制解除になった。
多少時間はかかったが、その分花見を堪能してなんとか観光地から抜け出す。
来た時にあった渋滞はどこへ行ったのかと、不思議に思うほど帰り道は空いていた。

「思ったよりスムーズだったな、運がいい」
「ああ、天気も良かったし、花見日和だ」
春の夕暮れは霞がかって、ほんのりと黄色味を帯びている。
秋のように艶やかなオレンジ色ではない。
「気温が高いな、まだ19度もある」
「急に気温が上がったからなあ、なにもかも早いし、今年は気忙しいぞ」
穏やかな冬の後には、せっかちな春が訪れる。
サンジは窓を開けて、峠道を振り返った。
気のせいか、来た時よりも山の色が鮮やかになった気がする。
こうして徐々に花開き、和菓子みたいな可愛い色に染められていくのだろう。

「ああ、いいもん見た」
「来年も、行くか?」
「や、もういいかも」
花見はいいが、あの渋滞はもうこりごりだ。
「今度は山桜の下で、いっぱいやろうぜ」
「お、いいな」
弁当を作ってウソップやスモーカー達も誘って、子ども達と一緒に山を登ろう。
その頃には、春の女神の袂は温かく心地よい、美しい色に染められているに違いない。




End



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