砂漠の薔薇 -1-


初めて彼を目にしたとき、サンジは「これはなんの冗談だろうか」と思った。
一先に頭に思い浮かんだのは、罰ゲームだ。
賭けに負けたか誰かを怒らせでもしたか、彼は恥を忍んでコスプレでもやらないような珍妙な格好を無理矢理させられて、大通りを歩かされているのだろう。
そこまで想像したが、それにしては彼の態度と現在の悲惨な状況がいまいち合致しない。
悲惨、とまでは言いすぎだろうが、例えばサンジが彼に成り代われと言われたら、死ぬ気で拒否するだろう。
これならまだメイド服の方がましだとさえ、真面目に思う。
それくらいかっこ悪&恥ずかしい格好をしているのに、彼はなんとも堂々とした足取りで同じところを巡回していた。

ゴミ箱の蓋を閉める手を止めて、ついじっと魅入ってしまったサンジの視線に気付いたか、男は足を止め振り向いた。
しまった、目が合ってしまった。
怪しい人にはあまりお近付きになりたくない。

夜が更けたとは言えネオン煌めく街中で、ステテコにオヤジシャツ、腹巻なんて身につけてすたすた歩く若い男なんて、きっとまともなもんじゃない。
罰ゲームって理由でもなけりゃ、正視できない危ない人だ。

サンジはそんな危険人物とうっかり目が合ってしまったことに慄きながら、それとなく視線を外そうと試みた。
俺はあんたなんて見てませんよう。
後ろの風景を見てんですよう。
あ、信号が青に変わったあ。
なんて心の中で呟きつつ眼球を動かそうと試みるが、何故だか錆び付いたかのように上手く動かせない。
男の瞳は、真っ直ぐにこちらを向いているのだ。

一見して、日本人離れした顔立ちだ。
彫りが深く、肌は浅黒い。
髪の色も緑がかって、意志の強そうな口元は固く引き結ばれている。
精悍と言っていいだろう。
普通に見たら間違いなくいい男だろうに、いかんせん服装が悪目立ちしすぎている。
何より瞳の力が強くて、目が合っただけで射竦められたように身動きが取れなくなった。
というか、あれか。
蛇に睨まれた・・・カエルみてえ?

男はしばしこちらを睨んでいたと思ったら、そのまま大股でズンズンと近付いてきた。
ヤバイ、逃げなきゃ!と思うのに、足が竦んで動けない。
むしろ負けず嫌いの血が勝手に騒いで、サンジは挑むように睨み返し、前傾姿勢になってしまった。

男は、サンジのすぐ目の前にまで来て止まった。
間近で見て気付いたが、男のシャツは白さが眩しいくらいに新品で折り目までついている状態だ。
腹巻もステテコも恐らく、同じだろう。
鼻をつくような汗や体臭はない。
寧ろ、どこかスパイシーな芳しい匂いを纏っている。

男はサンジをじっと見詰めながら、偶然にも同じように鼻をひくつかせていた。
男が二人顔を突き合わせて、鼻をヒクヒクさせているのは異様な光景だ。
サンジは先にそのことに気付き、やや顔を赤らめて一歩下がった。
その分男は、一歩踏み出す。
「・・・なんだよ」
手を出してきたら蹴り返そうと身構えたら、男の腹が派手に音を立てて鳴った。





昔から、腹を空かせた犬や猫を見捨てられない性分だった。
学校帰りにパンをやったりミルクを飲ませたりして、ノラを増やすなとよく叱られたものだ。
長じて自分で弁当を作るようになると、今度は食べ盛りの同級生に差し入れをやるのが日課になって、学校で一時期問題になったりもしたっけか。
とにかく、サンジの「腹が減ってるなら食わせてやる」病は、今までの短い人生の間ででも結構なトラブルの種になっていた。
いい加減、懲りてもよさそうなものなのに、どうしてもその性分が治らない。
理屈ではないのだ。
腹が減ってる奴には、純粋に食わせてやりたくなるだけなのだ。


サンジは階段に腰を下ろして頬杖をつき、煙草の紫煙と共に溜息をついた。
下働きをさせてもらっているレストランの残り物を、ついつい男にやってしまった。

それなりに綺麗に皿に盛り付け、自分で飲むつもりだったペットボトルと一緒に差し出してやったのに、男は最初手を付けようとはしなかった。
腹をぎゅるぎゅる言わせながらも、料理とサンジの顔を交互に見つめて何かを言いたそうにじっとしている。

―――こいつ、話せねえのか
箸の使い方がわからないのかとフォークを持ってきても、男は手を出そうとしない。
もしかして、とサンジが自ら一口食って見せたら、男は大袈裟に頷いた。
―――なんだ、信用してねえのか?
腹は立ったが、男の腹の虫の鳴き声の方がうるさい。
いくつか摘まんで食ってみせたら、男はサンジに掌を差し出して見せた。
フォークを寄越せと言うのだろう。
渋々渡すと、そこからはもう凄い勢いで食べ始めた。

ずっと見ていたいくらいの見事な食べっぷりだが、あんまり時間が経つとまたオーナーにどやされる。
サンジは吸殻を足で揉み消すと、男に向かって声をかけた。
「皿はそのまま置いておけばいいから。頼むから消えてくれ」
言葉が通じたかどうかはわからないが、腹さえ満たされればまた何処かに行ってくれるだろう。
そんなサンジの見通しは、甘かった。









後片付けをすべて終えて店を出る頃には、街は白々とぼやけた朝を迎えていた。
けばけばしい夜の灯りで辛うじて彩られていた街は、容赦ない自然光に照らされて汚れや薄っぺらさが剥き出しになったようだ。
ゴミ溜めみたいな裏通りの、汚れた壁の前でその白さは目に眩しいほどに浮いている。
―――いたよ
やっぱりまだいたよ。

サンジは仕事の疲れもあいまって、その場でへたり込みそうになった。
予想はできていたことだった。
迂闊に情をかけると懐かれる。
餌をやったら着いて来る。
それは犬でも猫でも人間だって、同じだってことに。

壁に凭れて転寝していた男は、サンジの姿を認めるとパッと目を開けて笑いかけてきた。
懐かれた。
マジで、懐かれちまった。

それを無視して、早足でその場から離れる。
雰囲気で察してくれるなら、これでサンジが逃げているとわかってくれるはず。
それを理解しないで追いかけて来るならただの馬鹿だし、承知で追うなら性質が悪い。
どっちにしても最悪だと溜息を吐きながら、サンジは後ろから確実に着いて来る足音に追われるように足を速めた。


元々レストランで生まれ育ったサンジにとって、厨房で働くことはまるで生活の一部のように自然で、そこ以外の職場は考えもつかなかった。
祖父一人で切り盛りしていたレストランは、彼の突然の死によって閉店した。
その時点で天涯孤独の身の上となったサンジだが、高校を中退して知り合いのツテで店に雇ってもらってなんとか食い繋いで来た。
それからも何度か、店を転々としている。
元々働く事が好きだし、生来生真面目な性格で手を抜くことも覚えないまま、直向きに仕事をこなして来たつもりだ。

だが、思いがけない人間関係の拗れやトラブルが何故か付きまとい、長続きすることが無い。
すべてサンジに責任があるとは思えないのだが、やはり何がしかの原因となっているのだろう。
クビになる度サンジは深く反省し、次からは同じ失敗を繰り返すまいと心に誓っている。
それがもう何度のことになるのか。

何よりネックなのは、“食べ残し”があるということだった。
飲食店の宿命のようなものだが、祖父が経営していた店ではほとんど見られることはなかったため、働き始めた当初はそのことに随分とショックを受けてしまった。
毎日生ゴミとして大量に捨てられる食べ物。
それを捨てに行くのはサンジの仕事で、勝手口から出ると浮浪者達が待ち構えていた。
最初の内は乞われるままに手渡しで、途中から食べやすいように手を加えて渡していたら、オーナーに見付かってこっぴどく叱られた。
他人の物で施しを与えて気分がいいかと嘲笑われて、腹が立つより哀しくなった。
何か言い返したかったがオーナーが言うことはいちいち尤もで、反論できる立場でもない。

それからはなるべく誰とも目も合わせないで、素早く捨てて引っ込むことを励んだけれど、食べ物を粗末にする罪悪感は拭えなかった。
サンジ自身、子どもの頃に病気で食べたくても食べられない時期があったので、そのことが食べ物への強い執着を根付かせてもいた。


「サンジさん」
名を呼ばれ、反射的に振り向いてからしまったと顔を強張らせた。
おかしな腹巻男から逃れるために早足で歩いていて、ギンが追ってきていたことにも気付かなかった。

ギンも、サンジがこっそり食べ物を分け与えて、懐いてしまった男の一人だ。
あんまり顔色が悪いから、若いのに気の毒にとついつい食べさせてしまったところ、ギンは浮浪者ではなく組の若頭という立派?な地位を持っていた。
一時的に落ちぶれて身を潜めていたときに、サンジが少々手を加えた“美味い飯”を食わせてもらったところぞっこん惚れ込んでしまい、羽振りがよくなった今も何かと付きまとってくる。

「サンジさん、まだあんなチンケな店に勤めてんのか」
「余計なお世話だ」
サンジは顔を背けると、ギンなどいないかのように足を速めた。
「あんな店、サンジさんには相応しくねえよ。あんなに美味い飯を食わせてくれんのに、なんだってあんなシケたクソまずい店で下働きなんかしてんだ。俺がもっといい店をサンジさんのために用意するよ」
「断る」
サンジは足を止めてギンを振り返り、きっぱりと言い切った。
「悪いが、俺は真っ当に働いて稼いで生きてえんだ。あんたの気持ちはありがたいけど、申し出は断らせてもらうと何度も言ってるはずだ」
「わかってる、わかってるよサンジさんの気持ちは」
ギンは両手を宥めるように振って、一歩下がった。
「だけど、見ちゃいらんないよ。毎日明け方まで働いて、扱き使われてさ。それでいてフライパン一つ握らせて貰えないんじゃねえか。勿体無いよ、あんたの腕がさ。確かに、俺が用意する店ってのは堅気の手段じゃねえかもしれねえ。けど、それをきっかけにすることくらいいいだろう?そんなに悪い話じゃないはずだ。チャンスってのは、なんだって利用しねえとこの街で生きていけねえぜ」

ギンの言うことも、また尤もだ。
この街でいくら汗水流して真面目に働いたところで、その努力が報われることは殆どない。
要領よく立ち回るか、大物に付け入るかでもしなければ、底辺で蠢いているだけで一生を終えるだろう。
けれど、それでも―――
「俺が厨房に立たせてもらえるなんて、それこそ百万年早えんだよクソ野郎。そのことは俺自身が一番良く知ってらあ」
サンジはまだ未成年だ。
この年で店を任せると言って寄越すギンの方が、常軌を逸していると思う。
「確かに、いつクビんなってもおかしくねえ店だけど、俺はいつだって精一杯やるだけなんだ。俺の力で修行して、自分の力だけでいつか店を持ってやる。そん時、また飯を食いに来てくれよ」
「サンジさん・・・」
少し隈の浮いた眼が、悲しげに伏せられた。
ギンは立ち止まり、ぺこりと小さく頭を下げてそのままきびすを返すと、路地の向こうにとぼとぼと歩き去っていった。
その哀愁漂う背中を見送って、サンジはほっと一人ため息をつく。

ギンはヤクザ者とは思えないほどに、いやヤクザだからこそかもしれないが、非常に義理堅く礼儀正しい。
ギン自体は悪い人間ではないと思うのだが、いかんせんバックが悪すぎた。
ギンが所属するクリーク組はこの界隈を取り仕切る元締めだが、売りも薬も大っぴらに扱っているため街の治安は悪化する一方だし、他の組織との軋轢が酷い。
下手すればここいら辺り、すぐに戦場になってもおかしくないくらいの緊迫感が常に漂っていて、物騒なことこの上ないのだ。
なのにその組の若頭が一介のレストランの、しかも下働きの尻を追っかけまわしていちゃあ、面目が立たないってもんだろう。

「あーあ、気の毒になあギンさん」
惚けた声が別方向から投げられる。
壁に凭れてニヤニヤしているのは、確かクリーク組のパールって野郎だ。
「サンジさんとやら、あんたもいい加減折れてやんなよ。いつまでも意地張ってたってろくなことになんねえよ」
この男の物言いは癇に障る。
サンジは無視して歩き出した。
「まあ、そういう気の強いとこがまた、ギンさんにはたまんねえんだろうけどよ。はっきり言って、うちの面子もあるからね。組の若頭がケツの青いガキ・・・失礼、若い坊ちゃんに袖にされたっつったら、みっともねえだろ。ギンさんはああ見えて、裏の社会じゃ“鬼人”とまで呼ばれて畏れられてんのに、あんたの前じゃからきしだからなあ・・・」
ぺらぺらとうよく喋る男だ。
「なあ、俺が言ってる内に穏便にコトは済ませた方がいいんだって。悪いこたあ言わねえ。ギンさんの言うこと聞いて、店に入んなよ。そうすりゃあんたが好きな料理も夢の店も、思いのままじゃねえか。なんだったら働かずに遊んで暮らすことだって可能なんだぜ」

もう少し、あと数メートルでアパートに着く。
さて、どの辺りでこいつを蹴り飛ばしてくれようか。
「あんたにだって悪い話じゃないはずだ。別にギンさんはあんたを束縛しようって気持ちはねえみてえだし。何、時々相手してやりゃ、それで大満足なんじゃねえの?俺、あーんな純情そうなギンさんって初めて見たぜ。いっつも女扱うの、そりゃ酷えのに・・・」
サンジは足を止めて距離を測ろうとした。
だが、パールが思いの外近くにまで寄ってきている。
「俺が優しくお願いしてる間に、話聞いておいた方がいいと思うよ。こんな手は使いたくねえんだけどね」
サンジの脇腹に、布越しに硬いモノが押し付けられた。
脅されると尚のこと、腹が立つ。
「うっせえ、俺のことなんか構うなって、あんたからギンに言えばいいだろ」
「言って聞くなら、最初からこんなことしねえんだよクソガキ!」
一転してドスの効いた声で恫喝すると、パールは素早くもう片方の手を振った。
こめかみを張られて、一瞬視界がブレる。
「生意気ちゃんには、俺が先にぶちこんでやろうか?」
電柱に押し付けられて、襟首を掴まれた。
ここまで接近されると、サンジの得意の蹴りがうまく決まらない。
仕事明けの疲れもあって、サンジは自棄を起こしてその場にずるずるとうずくまった。

「うっ」
呻き声を上げたのは、パールの方だった。
驚いて見上げると、パールは眼を見開いたままサンジに覆い被さってくる。
「うわっ」
慌てて飛び退けば、犬の散歩で汚れた電柱の根元にどさりと倒れこんだ。
その後ろには、あの怪しげな腹巻男。
―――そういえば、こいついたっけ
すっかり存在を忘れていたが、ギンやパールがサンジに関わっていた時も、こいつはずっと後をつけてきていたのだろう。

へたったサンジに手を差し伸べて、男は楽々と身体を起こしてくれた。
「あ、ありがと・・・」
ここは、礼を言うべきだろうか。
もしかして、新たなピンチの訪れなんじゃないのか。
「どうもね、サンキュー」
サンジは両手を振りながら、愛想笑いを浮かべつつ後退りした。
その角を曲がればアパート。
階段を駆け上って、鍵を開けて。
滑り込んで鍵を閉めて、さて何秒だ。

サンジは全開の笑顔でにっこりと微笑むと、くるりと反転して猛ダッシュした。
角を曲がり、築40年の小汚いアパートの門柱をくぐる。
あちこち錆びて穴の開いた階段を、蹴り落とす勢いで駆け上り、部屋のドアノブに鍵を差し込んだ。
焦るから、うまく鍵穴に入らない。
しかも最近ネジが緩んできているのか、ドアノブの方が動いたりして。
サンジの手の上から、浅黒い手が伸びてドアノブを押さえてくれた。
「お、サンキュー」
やっぱり手が震えていたのだろう。
うまく鍵穴に入って、かちゃりと開く音がする。
サンジの背中から覆い被さるように密着していた男は、一歩下がってドアを開けてくれた。
まるでエスコートするかのように、もう片方の手がひらりと動く。
「どうも・・・」
これでステテコ腹巻じゃなきゃ、なかなかカッコいいんだろうなあ。
なんて場違いな感想を抱きながら、サンジは部屋に入ってドアを閉めようとした。
当然のように、男はドアの内側に身体を入れてそのまま締める。

あああ、やっぱり?




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