おうさまのおしろ



ピアスの片方をベッドの下に投げ捨てて、「さよなら」と書き置きをした。

明け方まで睦み合い、ほとんど失神するように眠りに就いたところだから昼過ぎまで目覚めることはないだろう。
目覚めてゾロがいないことに気付いたら、この書置きを読んだなら。
その後、コックはどうするだろうか。
それはコック自身が決めることで、ゾロが想像することではない。
そう思い、振り返らずに城を後にした。

巨大な船が連なる船列そのものが一つの国であると、コックは言っていた。
思いがけなく“入国”したゾロだから、静かに出国したとしても誰にも気付かれない。
城の王であるコック以外には。





ゾロがこの“国”に行き会ったのは、たまたまだった。
海軍と先頭の最中に嵐に見舞われ、悪魔の実の能力者である船長を助ける代わりに水中に没した。
途中で流れていた木切れに捕まり一昼夜海面を漂い、流れ着いたのが巨大な船の列だった。

大きな城が築かれた船がいくつも連なる中、最後尾に曳航されていた小さな城に忍び込んだ。
全身ずぶ濡れで、腹も相当減っていた。
なにか食う物はないかと地下を彷徨う内、食欲をそそる匂いに誘われた。
石造りの長い螺旋階段を昇り、木でできた粗末な扉を蹴破ると、部屋の中から温かな空気が流れて来てふわりとゾロの身体を包み込んだ。
天井が高く大きな窓が一つ付いたなりの殺風景な部屋の真ん中で、男が一人驚いたように振り返っている。

「誰だ?」
「腹減った」
男の問いに対する答えではなかったが、ゾロは思わずそう呟いてしまった。
その言葉を肯定するかのように、絶妙なタイミング腹がギュルルルと鳴る。
男は面白い形に巻いた眉を不審げに寄せ、それから手にしていたおたまを鍋の中に入れた。
ゆっくりと掻き混ぜると、ゾロをここまで導いた良い匂いが立ち昇る。
「とりあえず、スープ飲むか」
「おう」
ゾロは当たり前みたいに、手前にあったソファにどかりと腰を下ろした。

「おい、勝手に座んな。ってえか、てめえ全身びしょ濡れじゃねえか」
「うるせえ、とにかく飯」
「人の部屋に乗り込んどいて飯とか、どんだけ厚かましいんだてめえ」
男は文句を言いつつも、どこか嬉しそうにソワソワと動き回る。
「まずタオルで拭け・・・つうか、なんかお前、臭え。なに海藻?若布?毬藻?」
「ずっと海にいた」
「ああもう、部屋が潮だらけになるじゃねえか、とにかく風呂入れ」
蹴り飛ばす勢いで、風呂場に押し込められた。

風呂から上がったら、男の手料理を振る舞われた。
酒も付けられたから、ゾロにとって不満はない。
ずっと海中にいて冷え切った身体を風呂が温め、男の料理は腹を満たしてくれた。
通りすがりの、というよりほぼ侵入者に近い自分をなぜ歓待するのかわからなかったが、よくよく観察してみるとどうやら男はゾロを歓迎しているつもりはないようだ。
ただ、自分が作った料理を食べてもらえることが単純に嬉しいらしい。

「今まで、俺の飯を食ってくれるのはこいつだけだったから」
そう言ってニコッと笑い掛ける相手が、鼠だった。
船の中でチョロリと姿を現せば、ナミ辺りは悲鳴を上げて飛び上がる正真正銘の鼠に男は飯を作ってやっていた。
ただの鼠だから、食えばとっととそこから立ち去る。
男にとってゾロは大型の鼠のようなものか。
ただ食えばそれだけで満足なのか。
男の真意はわからなかったが、ゾロは鼠と同等に扱われたことに立腹するほど狭量でもなかったので、まあいいかとありがたくすべて平らげた。



改めてゾロが名乗ると、男も名乗った。
この城の主で、ヴィンスモーク・サンジという。
ロロノア・ゾロというフルネームを聞いてもピンと来ないようで、海賊狩りだのイーストの魔獣だのという異名はもとより、麦わらの一味の名も知らなかった。
世界に名を轟かせるほど強くなるにはまだまだだなと、内心で己に喝を入れる。

「この国はいくつもの船が連なった異色の国だ。兄弟それぞれに城を持ってて、ここはサンジ城だってだけのことさ」
そう言って、サンジは一国一城の主らしからぬ自嘲を浮かべた。
確かに、今いる城は前に聳えたつ城とは明らかに規模が違う。
小さくも慎ましく、そして人気が無かった。
サンジが言うところの“国民”はおらず、船境に数人の警備兵と、身の回りをする侍女が一日に数回出入りするだけだ。
「望めばなんだって運んでくれる。料理の本も、食材も」
「女は?鼠に飯を食わせなくったって、誰か呼びつけりゃいいだろうが」
「レディと鼠を同等に扱うな、失礼だ」
同等に扱われてる俺はどうだと思ったが、口には出さなかった。

腹ごなしに運動をしていると、サンジは嫌そうに顔を背けて本を読み始めた。
ごつい男が鍛錬をしている姿は、見慣れているのだという。
それなら手合せはどうかと聞くと、醒めた目で見返された。
「お前程度が、俺の相手になるとでも?」
ゾロは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
サンジはどう見ても、腕っぷしが強そうには見えない。
そこそこ鍛えられた均整の取れた体つきをしてはいるが、印象としては優男の部類だ。
それこそ、ゾロの相手になるとはとても思えない。

閉鎖された空間で王様を気取っている、世間知らずとはこういうものか。
ゾロは半ば呆れながら、ガウン姿のまま手招いた。
「おもしれえ、仕掛けて見ろよ」
これに、サンジの方がムッとしたようだ。
「俺から仕掛けろだと?生憎、弱い者いじめは趣味じゃねえんだ」
「ほざけ」
これ以上くだらない言い合いは無用だと、ゾロから襲い掛かった。

素手で掴み掛ると、サンジは椅子を蹴って素早く避ける。
ゾロも俊敏さに自信があるから、やすやすと追い詰められると思った。
が、サンジの機敏さはそれを上回った。
まるで中空を跳ぶように軽々とゾロの手を避け、それでいて一旦床に降り立つと片足を軸にして鋭い蹴りを入れる。
それを受け止めたゾロの片腕は、ミシリと骨が軋んだ。
並みの男なら、一撃で骨が折れただろう。
「へえ」
顔色一つ変えずに受け止めたゾロを見て、サンジは初めて表情を変えた。
「見かけ倒しの、でくの坊じゃなさそうだ」
「言ってろ」
まだ痺れが残る腕を振り払い、ゾロは重心を低くして素早く踏み出した。
思っていた以上に、サンジは戦い慣れている。
まともに組み合えば勝機はあるが、まず捉えるのが難しい。
スタミナ切れを狙ってとことんまで追い詰める手もあるが、直接の手合せも面白そうだ。

ゾロが繰り出す拳をサンジはすべて足で受けた。
両手をポケットの中に入れたまま戦う様は、余裕が見えて癪に障る。
「てめえ、ヌルヌル逃げてねえで手を使え!」
「冗談、料理人は手が命だ」
だから足だけで戦うというのか。
バカにされた気がして、脳天めがけて落とされた踵を紙一重で避け掴んだ。
「だったら、てめえはコックゃねえか」
思い切り足首を引くと、ゾロが思っている以上に軽く引き寄せてしまった。
サンジは、軸足にまったく力を入れていなかった。
むしろ体勢を崩したゾロの上に乗っかるようにして、膝を打ち込んでくる。
油断も隙もない。

「ああ、俺ァコックになりたかった」
サンジは、ゾロの顎めがけて膝蹴りを仕掛ける。
仰け反って避けながら、ゾロも言い返した。
「なりゃ、いいじゃねえか。一丁前に飯は作れるんだろ」
「気軽に言うな、俺はこの城の王だぞ」
ゾロはサンジの膝裏に手を回し、身体ごとぶつけて押し倒した。
二人重なったまま、大きなベッドの上にダイブする。
ぼわんと跳ねて、反動で起き上がろうとするサンジの肩を両腕で再び抑え込む。
「なりゃいい」
「だから俺は―――」
「くだらねえ、王だろうがなんだろうが、なりたいものになりゃいいんだコック!」
ゾロが呼ぶと、サンジは抵抗するのを止めた。
ベッドに横たわり、静かな瞳でゾロを見上げる。

「…殴らねえの?」
「は?」
一瞬何を言われたのか分からず、ゾロはサンジの肩を押さえたまま訝し気に目を細める。
「なんでだ」
「勝負してんだろうが、俺はさっきから何度もお前のこと蹴ってるぞ」
確かにそうだ。
今だって、蹴られた肩や腕はジンジンと痛む。
「手合わせだ。この体勢でお前を殴る必要がねえ」
「でも―――」
「俺は、殺気がねえ奴は殴らない」
サンジは、ゾロが思っていた以上の強さを見せたら、次は本気でやり合いたいとも思った。
素手の相手に抜刀したいと思うほどに。

「変なの」
なぜか納得できないように、拗ねた目で見る。
「俺ァいつも、最後は殴られて終わるぜ。別に、殴られても蹴られても頑丈だから、傷もすぐ消えるけどよ」
「――――…」
この城の主であるサンジを、一体誰が殴ったり蹴ったりするというのか。
ゾロは不快感を露わにして、眉間に皺を寄せたままサンジの頬に手を当てた。
「この面を殴って、なにが楽しいんだ」
肌理が細かく、白くてつるりとした頬をしている。
眠たげな瞼は金色の睫毛で縁取られ、目の端は朱を刷いたようにほんのりと赤い。
ふと衝動に駆られ、ゾロは顔を伏せて赤く染まった肌に唇を落とした。
一瞬触れてから離れる。
サンジは仰向けに寝転がったまま、ポカンとした顔をしていた。
まるきりアホみたいな表情で、ゾロは思わず笑ってしまった。

「なんだ、その面」
「え、や…いま、お前」
目元どころでなく、頬や鼻の頭にまでさっと朱が走る。
色が白いだけに、わかりやすい。
ゾロは再び顔を伏せて、色づいた肌に次々と唇を落としていった。
何度か自分の頬も押し当て、体温の差を確認するように首を傾けてから、半開きの唇に唇を重ねる。
驚きすぎたのか、それとも何事にも受け身なのか。
サンジはじっと固まったままだったが、深く口付けてから顔を離すと、ふうと一つ吐息をついた。

ゾロは今まで男に興味などなかったが、サンジの身体は不思議なほどに肌に馴染んだ。
サンジも、挿入するときは「痛い」だの「気持ち悪い」だのと抵抗を見せたが、ゾロが無理にことを進めようとすると目をぎゅっと瞑って眉間に皺を寄せた。
蒼褪めた瞼に影が落ち泣きそうな形に歪んだので、ゾロは慌てて顔を寄せ、なだめるように口付けた。
他人の機嫌など取ったことがないのに、なぜかこの時はサンジを泣かせたくなかった。
殴る代わりにねじ伏せたと、思われたくはなかった。



それから、ゾロは気まぐれに寝て起きて、鍛錬する日々を過ごした。
食事はいつでも、温かくて旨いものを用意してくれている。
侍女以外誰も訪れるものがないこの城で、サンジは日がな一日料理をし、本を読み、ゾロの話を聞いて過ごした。
今までの冒険の日々を、語ることが苦手なゾロが訥々と紡ぐのを、目を輝かせて聞き入る。
悪魔の実のことも知っていて、ゾロが能力者でないことに不満を言った。
能力者を見てみたいと、夢見る子どものような顔で笑う。

身体がゴムみたいに伸びる、大食漢の船長。
金にがめつい航海士。
嘘が得意な狙撃手。
腕のいい、けれどトナカイの医者。
暗黒女。
ロボット。
骨。

ゾロの説明は大雑把で淡々としているが、サンジは楽しそうに聞いている。
喋りが得意な、例えばウソップだったらもっと上手に話して聞かせるだろう。
あの、気弱だが優しい狙撃手とサンジは気が合うかもしれない。
極度の女好きだから、ナミやロビンを見たらとんでもない有様になるかもしれない。
この料理はルフィの胃袋を掴むだろうし、チョッパーもフランキーもブルックも、コックが来たら助かるだろう。

ゾロは、麦わらの一味にサンジが加わった場面を想像してみた。
思っているよりもずっと、しっくりと来る。
まるで最初からそこにいたみたいに、当たり前の自然な光景が脳裏に浮かんだ。
彼は、そこにいるべきだとまで思えた。

だが、ゾロはサンジを誘わなかった。
コックとして必要だからと、攫おうともしなかった。
欲しいものは自分で手に入れるのが海賊の流儀だが、サンジは自分の意志でここから出なくてはいけない。
目に見えない幾重もの鎖が彼を雁字搦めにしていて、身動きが取れないままただ空と海を眺める毎日を送っている彼は、自らの手で鎖を解かなければ前へ進めない。



ゾロはその夜、いつもより乱暴に激しく求めた。
サンジも何かを感じ取ったのか、まるでしがみつくように両手足を絡みつけ長いこと離れなかった。
一晩中睦み合い、眠りに落ちたのは明け方だ。
ゾロはそのまま眠ることなく、身支度を整えた。
天蓋付きの大きなベッドに、サンジは一人身を横たえている。
寝顔は青白く、前髪が乱れて目元を覆っていた。
指先でそっと髪を梳き、瞼に唇を落とそうとしてやめる。
代わりに、三連のピアスのうち一本を外してベッドの下に落とした。
テーブルの上には、別れの言葉を書いたメモ一つ。
あとは、サンジ次第だ。


ゾロのビブルカードを追って、間もなくサニー号がこの“国”に接岸する。
誰にも知られずに城を抜け出し、ゾロは船へと戻るだろう。

ゾロが去ったことを知り、サンジがどうするのか。
戒める鎖を自ら解き放ち、ゾロが語る仲間達の元へと飛び込んでくるのか。
なにもかもあきらめ、誰もいない城の王として無為な日々を過ごすのか。
すべては、サンジ自身が決めることだ。


青く晴れた朝の空に、麦わら帽子のマークが翻る。
水平線から現れた見慣れたジョリーロジャーに目を細め、ゾロは迷いなく足を踏み出した。
コックを迎え入れることを、仲間に報告するために。




End





タイトルは「おうさまのおしろ」
書き出しは『ピアスの片方をベッドの下に投げ捨てて、「さよなら」と書き置きをした。』です。
という、診断様のお告げでした。