Order <きりさま>



男はカウンターに、オーダー用紙を差し出した。
サンジはそれを一瞥で確認する。そしてにっこりと微笑み、オーダー通りの酒をつくり、つまみを用意する。
毎夜の如く、その内心の落胆は、おくびにも出さないで。


バラティエは、繁華街の細い路地に面したバーである。小さくて目立たない店だが、常連を中心に、いつも賑わっていた。
酒も美味いが、マスターの作る料理が最高だというのは、常連の間では定説だ。
あまり混みすぎないように、誰もがこっそりと自分の楽しみに使うような店だった。
マスターのサンジは、この店を一人で切り盛りしている。
小さな店とはいえ、料理も作り、酒も用意するとなると、手の回らない部分も出てくる。
しかしサンジは、女性をこき使うのは嫌、かといって男を雇うのは論外、という考えの持ち主だ。
そのためバラティエは、セルフサービス制を採っている。
客は、あらかじめ用意されたオーダー用紙のメニューにチェックマークをつけ、それをサンジの所に持っていく。
料理と酒ができれば呼んでくれるから、受け取りと引き換えに代金を支払う。
女性客ならばサンジがカウンターから出て運んでくれるのだが、この店はなぜか男性客比率が圧倒的に高いので、カウンターに取りに行く客が多いことになる。
やりとりの手間を減らすために、大抵のメニューはキリのいい数字になっていた。

メニューはシンプルで種類も少ない。けれど常連になればわかるが、用紙の余白に好きに書いた注文でも、サンジは用意してくれる。
『スッキリした濃い目の酒』でも『和食系。腹に溜まるやつ』でも、サンジは店にあるもので最善のものを選んでくれた。
常連になればなるほど、メニューどおりで済ませる者はいなくなる。
こと食べ物に関しては、サンジに任せるのが一番いいと、皆分かってくるのだった。
誰かが頼んだつまみで、いい匂いがしてくれば、他の常連も俺も俺もと手を上げてくる。基本的に気安いバーだった。




開店してから3時間。そろそろ現れる頃だ。
サンジはグラスを磨きながら、入り口をちらりと見た。あの男が来るのは、いつも大体このぐらいの時間だ。
いつからか、定休日の日曜日を除いて、ほぼ毎日のように現れるその男。
―――来た。
「いらっしゃいませ」
その男はかすかに頭を下げ、それからいつもの席に着いた。常連は、大体席が決まっている。
その男の定位置は、出入り口に近いカウンターの端の席だった。
迷いのない動作で用紙を手に取り、簡単にチェックを入れる。それからカウンター越しにサンジに渡した。
サンジは渡された紙を見てにっこりと笑い、オーダー通りの酒とつまみを用意する。いつもの流れだ。
その男はいつもゆっくりと2杯だけ酒を飲み、一時間ぐらいすると帰っていく。
携帯を出すこともない。一人、まるで別の時間を生きているようだ。

サンジはこの男の名前も知らないし、会話らしい会話をしたこともない。
2,3度話しかけたことはあるが、ひどく無愛想でおざなりな相槌だけを返された。
きっとここでは人と話したくないのだろうと思い、それ以降は放っておくことにしている。
サンジは客の好みを覚えて、それを注文に反映させている。だからこの語ってくれないのに、通ってくれる男には苦労しているのだ。
同じ注文でも、ほんの少しだけ配分や味付けを変えて反応を見る。
こっそりと続けた観察で、今では随分好みが分かったような気がしていた。
観察した結果、分かってきたことは味の好みだけではない。
年齢は自分より少し上ぐらい。身長もあまり変わらない。何かスポーツでもやっていたのか、スーツの上からでもわかる体格の良さだ。
スーツは悪い品ではないが、着たきり雀。
ワイシャツもおそらく全部クリーニングに出しているだけ。水洗いのほうが落ちやすい汚れもあるということは、わかっていない。
だから多分、独身。指輪も勿論ない。
社章はなし。特別身だしなみに気を配っているわけではないのに、ピアスしていても許されている仕事。
自由な会社、あるいは人と会わない類の職種。専門職か何かだろうか。
髪は珍しい緑。まつげも光に透けると緑に見えるから、おそらく地毛なのだろう。顔は凛々しい。悔しいけれど、いい男。
待っているというと、大げさかもしれない。けれどその男が来ない日は、サンジはどこか物足りなく、寂しささえ感じるのだった。



***



「サンジー!!!」
その日、大きな声と共に、店にゴムマリが飛び込んできた。
店中の客が何事かとカウンターを見れば、カウンターを飛び越えたゴムマリ―――正確にはゴムマリのように弾んだ男―――がサンジに抱きついていた。
「ル、ルフィ?」
サンジは男の頭を手で押さえ、判別できる程度に顔を離す。ルフィと呼ばれた男は、嬉しげに笑った。
「おう!さっき帰って来たんだ!何か食わせろ!」
「あー、わかったわかった。今度はどこ行ってたんだよ。とりあえず、とっとと座りやがれ」
サンジは歯を見せて笑うルフィを引き剥がし、カウンターに座らせる。
数年前いきなり、いい匂いがする、食わせろ!と店に闖入してきたルフィを、サンジはうっかり餌付けしてしまった。
それからたびたび宝払いという名の下に無銭飲食を繰り返していくが、サンジはルフィを憎めない。
一生懸命に生きているこの男は、人々を元気付ける何か特別なものを持っていると思う。
サンジが手早く用意している間にも、ルフィを知った顔がよお!と気軽に声をかけてくる。ルフィも大きく手を振り、答えていた。
サンジがナイフとフォークを渡すと、早速それを両手に持つ。
カウンター席で足をぶらぶらさせていたルフィは、ふとカウンターの端の男に目を留めた。じーっと澄んだ瞳で、その男を見つめる。
「ゾロ、か?」
「やっぱり、お前か」
その男ことゾロは、ぞんざいに言ったが、口調ほどは嫌がっていない。拒絶するような雰囲気は皆無だ。
「ゾロ!うわー久しぶりだなー!!お前もやっぱり鼻が利くなあ!ここのいい匂いに気づいたんだろ」
「てめェと一緒にすんじゃねェよ」
「ルフィ、知り合いか?」
サンジはとりあえず、と用意した料理を二皿ほどルフィの前に置いた。ルフィは間髪いれずにそれを口に入れる。
「ほお。ごごっふぇへら」
「さっぱりわからねェよ」
「ルフィとは、学校が一緒だったんだ」
カウンターの端に座る常連客―――ゾロが答えた。ルフィはふごふごと肯いている。
サンジはオーブンを調節し、食材を切りながら、会話を続けた。
「同い年か?そうは見えねェが」
「ルフィが2つ下だ。一貫校で、顔あわせる機会がわりとあったんだよ。よく覚えてねェが、気がついたら仲間認定されてた」
「もしかして、お前、おれと同い年か?もちっと上かと思ってたぞ」
確かルフィは、自分の2つ下だったはずだ。
幼く感じたので酒をやっていいのか、ちゃんとパスポート(ルフィはいつでも持っている。)で確認した記憶がある。
ゾロがサンジに返答する前に、一皿食べ終えたルフィが、にっかり笑って割り込んだ。
「サンジ!ゾロはすっげェんだぞ!世界で一番剣道が強ェんだ!」
「へえ、すげェな。いい体してるとは思ってたんだが、剣道の覇者かよ」
「昔のことだろうが。今世界一、ってわけじゃねェぞ」
「すっげェ、かっこよくってさ!魔獣なんて呼ばれてんだ!それから、約束マニアだから、約束するとずっと覚えててくれるぞ!あと、昼寝ばっかりする!」
「何の解説なんだ、それは」
呆れ顔でいるゾロには構わず、ルフィは嬉しそうに続けた。
「それから、すんごく一杯酒飲むし、いくら飲んでも酔わねェぞ!」
「え?」
サンジは思わずゾロを見た。ゾロの飲み方は、大人しい。好きだけれど、あまり量は飲めないタイプなのかと思っていた。
ゾロは少し眉を顰めているが、ルフィは気にもしないで、今度はゾロのほうを見ながらサンジを指差した。
「それから、ゾロ!サンジはメシ作んのが、メチャメチャうめェんだぞ!」
「知ってる」
「ほへはは、はがひいひ、ひひはふは」
「わかんねェよ!」
二皿目を頬張りながら喋るルフィに、ゾロはつっこんだ。サンジはゾロに向かってオーダー用紙を示した。
「あんたも食いたいもんがあったら、ここに書きゃ出来る範囲で用意するぜ。いっつもメニューどおりのもんだけしか頼まねェだろ?」
「出来る範囲?」
「さすがに、魚がねェ時に刺身って言われても無理だからな」
「ゾロは、海獣の肉が好きなんだ!あと、やたら白米食う!」
「人の好物まで、よく覚えてんな」
「食えるもんのことなら任せろ!」
「威張るなよ。ほら、三皿目」
「うひょー!んまそー!!」
大きな口をあけて料理を頬張るルフィを見ながら、サンジは心の中で復唱する。

白米。
海獣の肉。
実は、大酒飲み。
同い年。
剣道の覇者。
名前は、ゾロ。



***



けれどその日からも、ゾロが既定以外のメニューを頼むことはなかった。
ルフィは騒ぐだけ騒いでまたすぐにどこかの国へ飛び立ってしまったから、3人で話すことも、もうない。
ゾロの態度は、あの日のことはすっぱりとなかったかのように、以前と全く変わらなかった。もちろん会話もない。
それをサンジは少し残念に思っていた。
―――少し、じゃねェのか。
サンジはタバコの煙を吐き出す。冷蔵庫にはあの日から、毎日海獣の肉がある。お茶漬けと焼きおにぎりができる用意もある。
―――浮かれてたんだろうな、おれ。
ルフィを介して、気安く話せたから。あんな風にまた話せたら、と。けれど、ゾロは大事な常連客だ。大事な客の時間を乱してはならない。
くだけた空気を望んでいないのなら、そう接しなくてはいけない。プロなら当然なのだ。
「おれァ、一流なんだぜ」
サンジはカウンターを磨いていた手を止め、端の席に座って小さく呟いた。



カレンダーをめくると、新しい絵が現れる。海を題材にした絵を集めたカレンダーは、サンジのお気に入りだ。
春の海ひねもすのたりのたりかな、と声に出してから、いつもどおり開店準備にかかる。
冷蔵庫の中には、今日も海獣の肉がある。これぐらいは許されるだろう。
煮込み料理を作りながら掃除も終え、グラスを磨き上げた頃には、開店時間になる。いつものように、常連客が途切れずに訪れた。
けれどその日、ゾロはなかなか店に来なかった。
もちろん常連といっても、来ない日もある。ゾロにはゾロの生活があるのだろうし、それは当然だ。
―――海獣の肉、他のヤツらに出しちまおうか。
いつもサンジは、その判断に迷う。ゾロが帰るまで、あれは取っておきたい。けれど残してしまうのも、食材に対して失礼だ。
メニューにそれを載せれば、ゾロは頼んでくれるかも、と思うのだが、どうにもあからさまな気がして、サンジはいまだに踏ん切りがつかない。
そろそろ日付が変わる。閉店まで1時間と少しだ。サンジがまた冷蔵庫の中について考えをめぐらせたとき、ゾロが店に入って来た。
「いらっしゃいませ」
ゾロは一瞬、動きを止めた。
それに気づいてサンジは、しまったと内心舌打ちをする。
いらっしゃいませ、という言葉一つにしても、客との親密度やその日の雰囲気によって変えるようにしている。
ゾロにはいつも、淡々と落ち着いた声で言うように心がけていたのに、思い切り弾んだ声で、間違いなく笑顔で言ってしまった。
ゾロが求めているのは、そういうものではないはずだ。
周りは騒がしくても、落ち着いた雰囲気の中で、一人ゆっくり好きな酒を飲みたいだけだ。
軽く後悔に襲われているところに、友人でもあるフランキーが、オーダー用紙を持って現れた。
サンジはそれを受け取り、ラム・コークを作る。寒い季節でも海パンで過ごすという変態ではあるが、情に篤い気風のいい男だ。
話も面白いし、忙しくなければいつもカウンター越しに色々と話をする。しかし今日は、それどころではなかった。

ゾロが何かを、オーダー用紙に書いている。

いつものチェックマークなら、3秒もかからない。それなのに、ペンを握ったまま、悩んでいるような素振りを見せているのだ。
サンジの意識はフランキーから離れ、カウンターの端に座ったゾロに向けられていた。
それに気付いたのか、フランキーは代金を支払うと、何も話さずに席へ戻っていった。
サンジは緊張を悟られないよう、なるべく自然に手を洗い、落ち着くためにグラスを磨く。
―――何て、書いてるんだ?
海獣の肉を誰にも出さなくて、本当によかった。ご飯もちゃんと用意してある。店には並べていないが、とっておきの酒もある。
煮込み料理もまだあるし、チーズやスモークサーモンといった常備品にも、ぬかりはない。
随分と長い時間に感じたが、実際は5分程度だったのだろう。閉店まで1時間を切ったところで、ゾロは片手を上げた。
サンジはゾロの前まで歩いていく。ゾロはいつものオーダー用紙を、サンジに見えるように置いた。
サンジは逸る気持ちを気取られないように、さりげなく用紙に目を落とした。
「……」

こんな酒はあっただろうか。
こんな料理はあっただろうか。

サンジはゾロの顔を見た。
「ご注文は、おれ…ですか?」
ゾロは小さく一つうなずく。
「出来る範囲、でもいい。てめェが欲しい」
ゾロはまっすぐにサンジを見つめた。あまりのことに、サンジはただ見つめ返すことしかできない。
「ずっと、欲しかった。馬鹿な客だと思ってるかもしれねェが、おれは本気だ。だが、無理を言うつもりはねェ」
騒がしいはずの店なのに、何一つ音が聞こえてこない。ただ、ゾロの言葉を除いては。
呆然としているサンジを見て、ゾロは少し表情を緩めた。
「いきなりすまなかった。悪いが今日はこれで帰る」
そう言って、腰を浮かせる。高めの椅子から降りて体の向きを変えたとき、カウンター越しに声がかかった。
「おい、待ちやがれ」
「あ?」
急なサンジの粗暴な言葉にも、ゾロは別に驚かない。それがサンジの素であることは、ずっと前から知っていた。
伊達に毎日、カウンター越しにサンジを観察していたわけではない。
振り向いた先のサンジと目が合い、今度はゾロが呆然とする。サンジは片頬を上げ、笑っていた。
そしてオーダー用紙を胸の高さに掲げ、欄外に書かれた自身の名を指差す。
「ご注文、確かに承ったぜ、クソお客様」


ゾロは出された海獣の肉料理を食べ、注がれた酒を飲み続けた。
ゾロ以外の客がいなくなった後、目の前にお茶漬けが出されたので、それもきれいに平らげた。
「にしても、マジで強ェな。酔ってねェだろ」
サンジは呆れたように言った。
照れくさいやら恥かしいやらで、どうしていいのか分からずに次々と注いだ酒を、ゾロはまるでただの水のように、すいすいと飲み干していった。
鯨飲というのはこういうことを言うのだろう、と日々酒飲み達を相手にしているサンジでさえ驚く飲みっぷりだ。
「こんぐらいで、酔うかよ。毎日顔が見たかったから、あんな飲み方してただけだ」
ゾロは恥ずかしげもなく、堂々と言ってのける。サンジは思わずグラスを落としかけた。
「っ…、な、なんでこんな急なんだよ。今まで何の打診もなかっただろうが」
焦りながら、サンジはつっけんどんに言い返す。打診どころか、ずっと他人行儀な態度だった。だからその距離を保つ努力が、必要だったのに。
ゾロは、ああ、と2、3度頷いた。そしてサンジの目を覗き込みながら、今日だったからだ、とはっきりと言った。サンジはどきりとする。
めくったばかりのカレンダーの海が、頭に浮かんだ。
「前にルフィが来た時あっただろ」
「おう」
「あん時、てめェの名前を初めて聞いたんだ」
「ああ」
サンジもその時、初めてゾロの名を知った。サンジも店では常に『マスター』であり、名を呼ばれることはない。
友人であるフランキーも、名前ではなく『ぐる眉』と呼ぶぐらいだ。だからルフィが呼んだ時に、初めて名を知ったとしてもおかしくない。
だが、それがどうしたというのだろう。
「だから、3月2日に、言おうと決めてたんだ」
「は?」
「なんか、似てるだろ。てめェの名前と」
「……そんだけ?」
「おう」
「何も、知らねェわけ?」
「何がだ?」
ゾロは首をかしげた。我ながら短絡的な発想だとは思っている。けれど、いつかは抑えられなくなると、分かっていた思いだった。
それでもストイックな性分は、誰にでも与えられる優しさに甘えることを許さなかった。
どうしようもなくなった頃、ルフィの口からその名前を聞いて、勝負は3月2日なのだと、なぜか決心した。
それを単純と言われるなら分かる。しかしどうも、サンジの言いたいことは、そういうことではないらしい。
「何だ、おれ、てっきり…」
突然サンジは肩を揺らして、笑い始めた。ゾロは驚いて、その姿を見る。
―――知っていたのかと思った。
サンジはカウンターに肘をつき、笑い続けた。ゾロは全く分かっていないのだ。さすが、魔獣。野生の勘も並ではない。


今日は、おれの誕生日なんだぜ。
そう告げたら、ゾロは一体どんな顔をするのだろうか。



END


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