潦 -にわたずみ-



くつくつと、煮立つ音を聞いてゾロは顔を上げた。
うっかり小説に没頭していたらしく、いつの間にかコンロにかけた鍋がぐらぐらと煮えていた。
―――このままぐらぐらさせておく
近所のおばちゃんから伝授された方法を頭の中で反芻し、テーブルに本を置いて立ち上がる。
鍋一杯に入れられた梅が、甘酸っぱい匂いを部屋中に立ち昇らせながら、湯の中で控えめに揺れている。
ひたひたの水に浸けてから火にかけたが、浸かり切らずに頭を出したところは青いまま、湯に浸かった
部分だけが黄色く変色している。
―――黄いろの色に変わるから
そう言われていたのを思い出し、湯に浸かっていない梅を菜箸で転がして、青い部分を無くしてやる。


梅農家で精出して出荷を手伝った礼として、ざる一杯の青梅を貰った。
男所帯に生の梅をくれたところで、どうにも活用しようがないことをおばちゃんも知ってはいたが、
なんせ今は繁忙期でそれどころでもない。
むしろ、商品にならない梅の引き取り手として都合のよい相手とばかりに、礼と共に押し付けてしまった。
それだけでは気が引けたのか、簡単な甘梅の作り方を伝授してくれたのだ。

ヘタを取って汚れを洗い鍋に入れ、ひたひたの水に浸ける。
そのまま火にかけて、色が変わるまでぐらぐら煮る。
火を止めて冷ます。
冷めたら水を捨て、新しい水を入れて一晩置く。
翌朝、水を捨て、新しい水を入れて置く。
夜寝る前、水を捨て、新しい水を入れて置く。
翌朝、水を捨て、新しい水を入れて置く。
夜寝る前、水を捨て、新しい水を入れて置く。
浸けた水を舐めてみて、酸っぱくなくなるまでこれを繰り返す。
酸っぱくなくなったら、水を切って砂糖を1kg入れ、一晩浸けて置く。
朝になると、水分が出てじんわりとしているから、そのまま火にかけてくつくつ煮て出来上がり。

ものすごく簡単だが、時間の掛かる作業だ。
だが手間が要らないと思えば無精なゾロもちょっとやってみようかなという気になったので、珍しく
台所に座っている。



ざる一杯の青梅を見たとき、すぐに頭に浮かんだのは金髪眉毛のにやけた顔だった。
これを見たらきっと目を輝かせて、ありがとうございますレディ!と叫びその場でくるくる回るだろう。
だが生憎、今サンジはここにいない。
次にいつ来るのかもわからない。
この間ムカデに慄いて泣きながら帰ったから、当分来ないかもしれないしもう二度と来ないかもしれない。
けれど今度来る時はバルサンを焚いておけと書置きが残してあったから、案外早い段階でまた来るのかも
しれない。

どちらにしろ、来る前には一報知らせる心積もりのようだから、連絡がないということはここ数日の
間には来ないということだ。
だったら、貰った梅をこのままにはしておけまい。

梅酒は去年おばちゃんに貰ったものがサンジキープで残されているし、梅干なんてゾロに作れる訳もない。
甘煮なら、疲れた時のおやつにもなるし、サンジも好みそうなものだ。
本当におばちゃんが言うとおりの手順で作れるのなら、楽なものだとゾロは思う。



黄色い梅が一回り大きくふやけて、ぐらぐらと煮えている。
甘い匂いを鼻先で嗅ぎながら、ゾロは火を止めた。
このまま冷めるまで、しばらく放置だ。

外はしとしとと雨が降り続いていた。
夜中から明け方まで叩きつけるような激しい降りを見せていたが、今は穏やかな小糠雨に変わっている。
空はどんよりと暗く、止む気配はない。
今日の畑仕事は休みと決めて、晴耕雨読を気取ってか図書館から借りてきていた本を広げた。

特に好きな話の傾向もないゾロは、最初に読んだのが時代物の小説だったせいか、ずっと同じ作者のものを読み続けていた。
しかも一旦本を開くと次の本に取り掛かるのが億劫なので、文字が小さく二段書きでびっしりと綴られた
全集をメインに読んでいたが、ある日ふと違うものも借りてみるかと適当に選んだものも面白かったので、以来ランダムに借りるようになった。
ミステリーは当たり外れが大きい。
警察モノは、大体表紙が黒っぽいかタイトルがそれらしいからよくわかる。
歴史小説は、冬になってから読もうとか勝手に決めている。
女性作家の本は、まだ読んだことがない。


ゾロは空になったざるに目をやり、部屋の中を見渡した。
梅の匂いは、桃の香に似ていると思う。
なんとも甘やかで芳しい匂いは清冽さも帯びていて、初夏に相応しい爽やかさだ。
けれど今はその梅を煮てしまったせいか、匂いが熟んだ熱を孕んだように、やや濃密なものになっている。
部屋の中に立ちこめた匂いに嗅覚が麻痺していても、時折湿った隙間風が足元を吹き抜ける度、桃の匂いがすると思ってしまう。
梅だとわかっているのに、何故か頭の中には桃が浮かぶ。
こんな妙な体験は誰に言えるものでもないが、もしこの場にサンジが居たらきっと同じように感じるだろう。

もしも居たら
もしも来たら

元々物事にも人に対しても執着や頓着がなかったゾロは、時として冷淡と取られるほどにあっさりとした付き合いしかしてこなかった。
土を求めて放浪し、仕事を辞めてこの地に移り住んだ時も、会社の関係者は突然の辞意に驚き引き止めてくれた。
なんで言ってくれなかったんだ、水臭いと詰ってくる同僚もいたが、そんな筋合いはないだろうとの台詞は
胸に秘めて、ただひと言すまんと詫びてその場を取り繕った。
人のことで気を揉んだり、あれこれ口を出してくる人間の心理がわからなかった。
ましてや、他人の行動によって自分の考えを変えたり待ったり望んだりすること自体が、理解できなかった。

この地に移り住んで、田舎の人達の距離感が都会と違うことはわかったが、むしろこちらの暮らし方の
方がゾロの肌に合った。
特に農家のおばちゃん達は、裏表のない純粋な親切心でゾロの世話をあれこれと焼いてくれる。
動機が実に単純で理解しやすく、ゾロも素直に親切を享受した。
特にお返しや感謝の気持ちを表さなくても、ゾロがここで暮らし続けることが彼らの喜びになるようだ。
そのことがわかるから、ゾロも安心して甘えさせて貰っている。

暮らしが安定したせいか、人との関わりに慣れたせいか。
突然現れて勝手に何度も訪れるサンジの存在を、ゾロはいつの間にか受け入れていた。
それだけならば、昔から来る者拒まずのゾロの気質からして不思議ではないのだが、こうして訪れを待つようになるのは予想外だ。

今度来る時は―――
いつか来たなら―――

そんな風に思うことは、待つことと変わらない。
ここに居ない誰かを思い起こして想像するのは、まさに心の中に存在するということ。
ゾロはそんな風に、誰かを受け入れたことなどなかった。


―――おかしな野郎だぜ
思い起こして、ゾロはふっと口元を緩める。
ナミと連れ立って来たからには、恋人同士なのだろう。

山のホテルでカップルプランとかなんとか言っていたから、一緒に旅行に行く程度の付き合い
なのはわかる。
けれど、あの二人尾間に流れる空気には、色めいたモノは感じられなかった。

―――いや、あいつはメロメロなんだけどよ
サンジはゾロからしたら、歯が浮いてその辺にいくつも浮かんでるんじゃねえかと思うくらい、恥ずかしい台詞を真顔で言ってナミを褒め称える。
誰が見てもぞっこんなのはわかるが、あれは恋人に対する態度とは違う。
好きな相手と言うより、偶像崇拝と言った方がしっくり来るようだ。
そしてナミも、サンジに対して甘えて見せるが、すべてを委ねているようには見えない。
傍目から見たらお似合いな二人に映るが、やはりそれぞれが身に纏う空気の色が違うと、ゾロにはそう見えるのだ。


少し冷めた鍋をシンクに下ろすと、梅が零れないように気を付けながら水を流した。
湯気が立ち昇り、甘い匂いが一層強くなる。
半分くらいまで流してしまって蛇口から水を注ぐと、水の勢いでふやけた梅の皮が剥がれた。
これはいかんと、実に直接当たらないように蛇口の位置を変える。

このまま朝と夜に水を替えて、酸っぱさが抜けたら砂糖を1kgかけて炊けば、出来上がりだ。
一体何kgの梅の実に対して1kgなのか、ゾロは聞かなかったしおばちゃんもわかっていなかった。
ただ、1kgぐらいの砂糖で煮ればいい。
だから、ゾロもそうするつもりだ。

上手くできたら冷蔵庫で保存して、サンジが来たらよく冷えた甘い梅を食わせてやろう。
そう思うと、やはり口元が自然に緩む。
蒼い瞳が丸く輝いて、子どもみたいにはしゃいだ声で「これ美味え」と叫ぶサンジの姿が、目に浮かぶようだ。
そんな風に夢想する自分自身を、ゾロはやっぱり我がことながら信じられない。

しおり紐を繰って読みかけのページを開くと、ゾロはまた本の世界に没頭した。
雨はまだ降り止まず、庭にできたにわたずみがまるで最初からそこにあったかのような顔をして、濃い灰色の空を映している。



 END