霜月人形堂


その店が営業していることに気付いたのは、クラブ活動を始めてからだった。
くたくたになった身体で日暮れの道を歩いていて、ふとそこだけぼんやりと浮かぶ光に目が吸い寄せられる。
シャッター街となった暗い商店街の外れにある、そこだけ煌々と灯りが点いた一軒家。
なんだろうと近付いてみれば、小さなショーウィンドウに様々な人形が展示されていた。
愛らしいテディベア、つるりと冷たい肌をしたビスクドール、あどけない赤ちゃん人形、すらりと優雅な日本人形。
夜に見たせいか、とても明るく鮮やかに彩られた異質な空間だ。
美代は思わず足を止めて、美しい人形の数々をガラス越しに覗き込んだ。
それらはいずれも無機質な人形のはずなのに、見詰める美代の瞳を意識しているかのようにも思える。
じっと息を潜めているのは美代か、それとも人形達か。
いつまでも見ていたい衝動に駆られて、慌てて我に返った。
帰りが遅くなったら心配される。
美代は後ろ髪を引かれる思いで、その店を後にした。
こんな夜遅くまで開いている店なのに、お客さんはあるんだろうか。
そんな余計な心配までして。



翌朝、店のあった場所を通りかかると、なるほど古ぼけた木造2階建ての家屋がそこにあった。
けれど雨戸までぴっちりと閉められて、一見すると空き家のようだ。
表札は掛かっていないのかとよく見てみれば、木地と同じ色味の大きな看板がちゃんと掛けられていた。
「霜月人形堂」
これを見れば人形屋さんだとわかっただろうに、家の外観に看板まで溶け込んでしまっているためその存在にまず気付かない。
これでは、ここが人形屋だなんて自分以外の人間も知らないんじゃないだろうか。
素敵な人形屋さんを見つけたよと誰かに教えたい気持ちもあるが、内緒にしておきたい気分でもある。

明るい場所で見る店は相当年季が入っていて、コンパクトな古民家のようだ。
けれど瓦がずれたり蜘蛛の巣が張ったり、漆喰が剥がれたりなんかはしていない。
きちんと手入れされて住まいとして成り立っている雰囲気がある。
なのに人の気配がない。
夜だけ、誰かが出勤してくるのだろうか。
美代は閉ざされた雨戸の前をじっくりと往復してから、学校に向かった。



それから、遅く帰る時には店を覗くのが習慣になった。
夜になると雨戸は開いていて、明るいショーウィンドウには愛らしい人形達がすべての注目を浴びるように凛と佇んでいる。
ガラスもとても古いもので隅の方は曇ってぼやけているけれど、それもまた味があった。
美代が覗く場所辺りは綺麗に磨かれていて、顔を近付けるとガラス面が少し歪んで見えるのも面白い。
玄関は木枠の引き戸で、曇りガラスに縦に「霜月人形堂」と書かれている。
きっと開けようとしたら少しガタつくのだろう。
幾人もの人が触れたのか、真鍮の取っ手は褪せて木の部分も削れている。
いかにも寂れた感じだが、古い店特有の薄汚さはない。

―――入ってみたいな
中に展示してある人形達も、間近でじっと覗いてみたい。
けれどなんとも古めかしい雰囲気が気安く立ち入るのを躊躇わせるし、ショーウィンドウに飾られた人形達に値札がないのも不安材料の一つだ。
なにより、他に客がいない。
外から窓越しに中を窺っても擦りガラスでよく見えないし、店番がどんな人かもわからない。
うっかり入って何か買う羽目になって、それがとんでもなく高価だったらどうしよう。
そう思うとかなか引き戸を開ける勇気は出なくて、いつも表で指を咥えて眺めるのみ。
そんな美代に、ある転機が訪れた。






そっと引き戸に手を掛けると、思いの他すんなりと開いた。
予想したガタつきはなく、音も立たない。
来客を告げるチャイムでも鳴るかと思ったが、店内は静かなままだ。
「こんばんは」
忍び足で中に入り、恐る恐る声を掛ける。
店内は骨董品屋のように古い家具やアクセサリーが飾られ、レトロな裸電球が所々に灯されて仄かに暗い。
間口の狭さ通りそう広くはないが、奥行きがあるらしく土間から一段上がった場所に畳の部屋が見えた。

「いらっしゃい」
不意に背後から声を掛けられ、美代は文字通り飛び上がった。
「ごめん、驚かせた?」
砕けた調子ながら密やかな響きを持つ声に振り向くと、和箪笥の手前に男が座っていた。
黒いスーツに身を包んでいるから、ぱっと見、首と手だけが浮いているような錯覚を覚えぎょっとする。
甘い蜜のような髪に白い肌、透明なガラス球を思わせる瞳が柔らかく微笑んでいた。
「お客さんでしょ、いらっしゃい」
「はあ、どうも」
美代は気圧されてその場で立ち尽くし、ぎこちなく礼をした。
なんだか夢でも見ているかのように、足元がふわふわする。
目の前の人はどこもかしこも色素が薄くて、薄暗い店内で自ら発光しているみたいに浮き出て見えた。
綺麗な髪色、整った顔立ちに長い手足。
黙ったまま動かなければ、人形のようだ。
「驚かせてごめんね、ゆっくり見ていって」
そう言ってその人は、今まで吸っていたのであろう煙草をガラスの灰皿に揉み消した。
何もない空間に、すうと紫煙が立ち昇る。
今はどこもかしこも禁煙状態だからか、煙草の匂いに何故か懐かしさを感じてしまう。
ゆっくり見て行ってと言われても、いきなり出現した青年に気後れして落ち着かなかった。
そもそも、この男の人は店のスタッフなんだろうか。
それにしては黒のスーツ姿だなんて、似合ってはいるもののこの店の雰囲気にはそぐわない。
むしろ展示物の一つとして飾ってあるのなら納得できるのに。

美代はしばらくウロウロと足を彷徨わせて運んで品定めする風を装ったが、店から出るタイミングも逸してしまって仕方なく向き直る。
「あのー、表に飾ってあるテディベア、いくらなんですか?」
「青いリボンの?」
こくんと頷くと、青年はにっこりと微笑み返した。
「5万3千円」
「・・・うそ」
高くても1万円くらいかと思ってたのに。
青年はゆっくりと立ち上がり、ショーウィンドウの裏から手を伸ばしてたディベアを取り出した。
うそうそと美代は慌てて両手を振る。
5万3千円だなんて、とてもじゃないが手が出せない。
「でもなかなか目が高い、このクマ気に入ってくれたんだ」
「ただ単に、可愛いなーと思っただけで」
「どの辺りが?」
「目、とか・・・ちょっと垂れ目で」
テディベアの目はただ丸いだけなのに、なぜかこのクマは垂れ目に見えたのだ。
首を僅かに傾け、なんとなく途方に暮れた感じで見上げている。
思わず連れて帰ってあげたくなるほどに愛らしい。
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
「でも買えません」
即座に言い足す美代に、青年は声を立てて笑った。
「大丈夫、無理に売りつけたりしないよ。この辺りは別格に高いから、もっと価格の安いものはこっちにあるよ」
ぬいぐるみや赤ちゃん人形と一緒に、小型のテディベアが並べられていた。
なるほど、こちらのはすべて値札がついていてわかりやすい。
「何か探してるの?」
「友達が、今度転校するので」
同じように見えて微妙に表情が違うテディの顔を見比べながら、美代は言い訳のように呟いた。
「仲良かったみんなでお金出しあって、何か記念になるものあげられればいいなあって」
「予算は?」
「えっと、1万円くらい」
「そう」
青年は顎に指先を当てて、考える仕種をした。
明かりの下でよく見れば、薄い顎鬚が生えている。
中性的な面差しにはやや不釣合いな感じがして、もっとよく見てみれば―――
眉毛が渦を巻いている?

「やっぱりテディベアがいいのかな?こんくらいなら9千円台でお買い得だよ」
あれこれと手にとって進めてくれても、美代は青年の額から少し下くらいに視線が張り付いてしまって目を逸らせなかった。
なんで渦巻き?
って、なんで眉毛が巻いてるの?
長い前髪で隠れてる、左の目の下はどうなってるの?
やっぱり反対方向に巻いてるの?

「ん、どうしたの?」
美代の視線が固まってしまったのに気付いて、青年はきょとんとした。
見返す目と目が合ってしまう。
けど逸らせない。
なんだろう、怖いもの見たさ?
「何かついてる?」
眉毛がとはさすがに言えなくて、美代はぎこちなく微笑みながらいいえと首を振った。
「えっと、わあこっちも可愛い」
とってつけたような声を出して、美代は差し出されたテディベアを受け取った。
サイズも値段も手頃だが、どこかのファンシーショップに売られているクマと同じに見える。
やっぱりさっきの5万3千円の魅力には適わない。
「テディベアに限らなければ、こういうのもあるけど」
曲線が美しい創作人形にも目を惹かれたが、とても自分に似合うとは思えなかった。
「ここにあるの、全部どこからか仕入れてるんですか?」
「いいや、ここにあるのは殆ど不要になったりなんらかの縁でこの店に来て、綺麗に作り直された子達ばかりなんだ。んで、こっちの創作人形はうちオリジナル」
「作り直すって、―――が?」
あなたが?とは馴れ馴れしくて言えず、でもなんと言っていいかわからず指を刺してしまった。
青年はほがらかに笑って首を振る。
「まさか、俺は店番。店主が人形作家なんだ」
「人形・・・作家」
「年がら年中2階に籠もって、滅多に下には下りて来ないよ」
それで、昼間でも雨戸を閉め切って?
「どうして、このお店夜だけしか開いてないんですか?」
青年の気安い雰囲気に飲まれたか、美代はずっと思っていた素朴な疑問を口に出した。
それはねと、青年の白い指が中空に立てられる。
縁が曇った窓の外には、硝子の歪みと同じように少し歪んだお月様。

「俺が、月の光が射す夜にしか動けないからさ」
そう言って美代を見下ろす青年の瞳は、大真面目な光を宿して。
美代が先に笑うと、青年も釣られるように笑った。
「・・・なんてね」
美代は着替えのジャージが入ったリュックを背負い直し、柱に掛けられた六角形の時計を見た。
「私、もう帰らないと」
「うん、気をつけてね。今日はありがとう」
戸口まで青年に見送られ、ぴょこんと小さくお辞儀をして店を後にする。
青年の軽口にからかわれた気がしないでもないが、とても不思議で楽しい時間だった。
少し離れてから振り返ったら戸口に青年の姿はなくて、代わりにショーウィンドウの中に5万3千円のテディベア。
なんだか見送ってくれているような気がして、誰も見ていないのをいいことに美代はそっと手を振り返した。





それからほどなくクラブを止めて、夜遅く帰宅することはなくなった。
一度だけ、家族で記念に夕食を食べに出掛けた帰り店の前を通ったけれど、昼間の時のように雨戸まで閉められてひっそりとしていた。
空を見上げてみれば、月の姿がない。
妙に納得してしまって、仕方がないかと諦めの吐息をついた。
もう、明日にはこの街を離れる。

何度も転勤を繰り返し引越しには慣れっこだったから、学校が変わることにも慣れていた。
誰とでもすぐに仲良くなれ、転校して離れ離れになっても悲しいとか寂しいとか、そんな感情に引き摺られない程度の親しさで留め置くのも得意になった。
だから、みんなと別れるのは寂しいけど本当は平気。
何処へ行っても、誰とでも仲良くできるし誰とでも気持ちよくお別れできる。
そんな風に暮らして来たから、クラブ活動で一緒だったとは言え半年も一緒に過ごさなかった「友達」達から記念のプレゼントを手渡された時にはビックリした。
「なんかね、美代と一緒にいると楽しかったんだ」
クラブきつかったからねー。
その分、絆深まったよねー。
そう言って笑う彼女達の目尻に涙が光っていたりして、美代の方が戸惑ってしまう。
「あの、これ貰っていいの?」
「勿論」
今更何をと口を尖らせている友人達の前で、美代は大きな箱を開けてみた。
中には、少し垂れ目のテディ・ベア。

「うそっ」
思わず息を呑む美代に、友人達がやったーとはしゃぎながらハイタッチを交わす。
「驚いた?それ、商店街の端っこにある霜月さんちのテディ・べアだよ」
「いつもショーウィンドウに飾ってあって可愛かったんだよね」
「でもそれ、あれと違うから」
言われて初めて、美代も気付いた。
サイズが違う。
毛並みの風合いも少し違うけど、首に掛けられたリボンと少し心細そうな垂れ目の表情はそっくりだ。
「これ、高かったでしょう?」
「ううん、2千円」
「馬鹿!」
素で答えた子を、よってたかって突っ込む。
美代は声を上げて笑い、テディ・ベアをぎゅっと胸に大締めた。
「ありがとう、すごく嬉しい」
「霜月さんちのサンちゃんが、『垣内』さんへの記念のプレゼントなら絶対これだよって進めてくれて。知り合いだったの?」
「サンちゃんって、あの店員さん?」
「そう、今は夜だけの営業だけど、夏場はあそこ、夕方からカフェになるの」
「・・・そうなんだ」
なんだ、私だけの秘密の場所じゃなかったんだ。
ちょっぴり残念だけど、その何倍も何百倍も嬉しい。
「でもなんで、私の名前わかったんだろう?」
「それってー、美代ジャージで寄り道しなかった」
「あ、そうか」
きっと、転校する友達のためになんて嘘もばれてたんだ。

本当は、自分のために欲しかったテディ・ベア。
自分のお小遣いで買えば、両親には「友達から貰ったプレゼント」と理由がついて都合がいいと思っただけ。
でも本当に欲しかったのは、友達からのプレゼント。
「ありがとう、凄く嬉しい」
急に実感が湧いてきて、勝手に目頭が熱くなった。
大粒の涙を零す美代に、友人達がわっと慌て出す。
「まさか、一人頭500円でこんなに感動してもらえるなんて・・・」
「だからそれを言うなっての!」
「美代ったら転校し慣れてる筈なのに、なんだよう」
照れて茶化す友人達の笑顔が、あの時の月みたいに奇妙に歪んでよく見えない。

いつまでもずっと友達なんて言えないけど。
また会おうねって言ったって、会えた試しはないんだけれど。
けどきっとこの先もずっと。
テディ・ベアを見る度に、今日のこの嬉しさを想い出すんだろう。
胸が熱くなるような喜びが、私を支えてくれるだろう。





「美代ちゃん、喜んで、くれたって」
「誰だ?」
「えーと垣内さん、ほら・・・女の子達が言ってた――青いリボンの、テディ」
「ああ」
「美代、ちゃん・・・ってんだって、さー」
店主のゾロは作業の手を止めて、丸めていた背を伸ばした。
和装の袖を捲くり、座布団の上で組んでいた胡坐を解く。
「無理して起きてなくとも、よかろう」
新月では声を出すのも辛かろうに。
そう言って振り返れば、サンジは膝を抱えて壁に凭れたままじっとしていた。
瞼は少し伏せられ、長い前髪が目元に影を作っている。
「だってよ・・・今日、俺が生まれた・・・日」
「ああそうか」
掛けられたカレンダーに目を向けて、そう言えば満月だったと思い返す。
月の光とゾロの精を受けて、サンジは生まれた。
「記念日とか特別な日とか、お前もそう言うの好きだな」
「大事じゃ、ね?」
女子中学生と一緒かよと、からかいかけて止める。
代わりに動かない身体へと向き直った。

「生まれてきて、よかったか?」
直裁に聞けば、サンジは虚空を見つめたまま押し黙った。
YesかNoか。
恐らくはどちらとも答えられないのだろう。
わかっていながら、意地の悪い質問をしたものだ。

白皙の顔を目の端に留め、黙って机に向き直る。
背後で小さく「うん」と頷く声がした。
ゾロは衣擦れの音を立てて振り返り、腰を上げてサンジの前まで膝でにじり寄った。
蛍光灯に照らされた肌はつるりとして、なんの匂いも息遣いも感じられない、ただの作り物。
「誕生日、おめでとう」
そう囁き固い唇にそっと口付ければ、表情のない横顔がかすかに和らいで見えた。



END