人魚の涙と呪われた怪物のおはなし 8



海の底にも朝は来る。
強化ガラスで囲われた天窓から、燦々と降り注ぐ朝陽を受けてサンジは目を覚ました。
ぱちりと瞬きを一つして、おずおずと首を巡らす。
隣に、ゾロの寝顔があった。


いつもの、見慣れた大きさじゃない。
サンジの視界に充分納まる、自分と同じ大きさの顔。
線で書いたような眉に切れ長の瞳。
形の良い鼻梁と固く引き結ばれた唇。
口端が下がって、ちょっとへの字だ。
サンジは、手を伸ばしてその頬に触れた。
筋張って指が長い、大きな男の手。
あちこち傷だらけで火傷の跡もある。
見慣れた自分の手が、今はゾロの顔半分を覆える大きさだ。


小さく、なってない。
元に、戻ってない。


無意識に詰めていた息を吐いたら、視界がじわりと歪んだ。
するとパチリと、ゾロの目が開く。
サンジの感情の揺れに聡い男だ。
眠っていても離れていても、ゾロはいつだってサンジの中のさざ波に気付く。
「どうした?」
まだ眠たげに、片方の目蓋はとろりと下がったままで、ゾロは優しく問い掛けた。
その声が、じんわりとサンジの胸に染み込んでいく。
「おはよう」
サンジは幸福に満たされながら、目尻から涙の粒をほろりと零した。










「よく眠れたかの?」
朝食に呼ばれて広間に行ったら、ハンコックがいて驚いてしまった。
てっきり、用は済んだとばかりにさっさと帰ると思ったのに。
サンジは驚きつつも、朝から美麗な女性に会えたと感激を隠さずに弾んだ声で挨拶を返す。
「おはようハンコックちゃん、朝一番に美しいハンコックちゃんに会えて素晴らしい1日の始まりだー!」
そう言ってクルクル回ったら、ハンコックはふんと鼻で笑った。
「当たり前じゃ、妾の花の顔をありがたく、とくと拝むが良い」
豊かな胸を張り不自然なまでに反り返り、ハンコックは天井を見上げながらニヤリと笑った。
「時にそなた、ロロノア・ゾロからことの仔細は聞いたか」
「・・・え、あー・・・はあ・・・」
ぎくりと顔を強張らせ、それから視線をキョトキョトと泳がせながら、冷や汗を掻く。
「あの、聖獣王のこと、とか?」
「そうじゃ、聖獣王は一子相伝。そちは男の身なれど、必ずや子を儲けよ」
「うわあああああ」
サンジは両手で頭を抱え、その場にしゃがみこんだ。
「ハンコックちゃん、いきなりなに言い出すのーっ」
「ほほほほほ、あれ愉快あれ愉しや。そなたのその顔を見たいがために、今朝まで待っていたものを」
「悪趣味ね、ハンコック」
紅茶を片手にソファに座って寛いでいたロビンが、足を組み変えてこちらに向き直る。
「しかも、成す子は必ずしも人間とは限らぬ。むしろ、人間であるはずがない。そなたにその覚悟はあるか」
「…う」
子を成すという時点でまだ受け入れられないのに、さらにそれが人間じゃないという条件は、サンジにはハードルが高すぎる。
と言うか、やっぱり子どもを産むってハードルをまだ越えてない。
明らかに面白がって、口元を扇子で覆い目を細めているハンコックを見て、アマゾンン・リリーでの彼女の態度を思い出した。
確かに、あの場所でゾロが他の女性と交わるのを極度に嫌がっていたのも、いまなら頷付ける。
ケダモノの血など厭わしいと、はっきりと言っていた。
ハンコックにとっては、聖獣だろうが獣に変わりはないのだ。


「逃げるなら今の内だぞ、なんなら妾が手を貸してやってもよい」
この世の物とも思えぬほど整った美貌をぐっと近づけ、甘い吐息と共に声を潜め囁いた。
「もはやそなたも、小さき王子ではない。その足で、大きな一歩を踏みしめながら一人で旅もできるだろう。いつまでもあやつの腹巻の中に納まって、従者のように操らなくともよいのだ」
「・・・ハンコックちゃん」
「そなたのように見目麗しい王子であれば、それこそ女は引く手あまた。もう、男の腹巻に収まり、常に守られて生きなくてもよい。他の女と戯れ、誰かを守って男として生きる権利がそなたにはある」
そう言って、ハンコックはにんまりと笑んだ。
「便利な輿は、用済みよのう」
光を帯びて眇められた瞳の妖しさに、恐らく大抵の男は魅入られるだろう。
けれどサンジの心には、何一つ響かなかった。
自分でも不思議で仕方ないけれど、この美の塊のような女性を前にしてときめきも切なさも湧いてこない。
「親切な申し出をありがとう。けれど、俺には必要ないよ」
確かに、サンジはもう一人でも生きていける。
小さかった頃とは比べ物にもならないくらい、大きな一歩を踏み出せるだろう。
でもそれはゾロと同じ歩幅で、横に並んで踏み出す一歩なのだ。
「俺は、ゾロと生きていくと決めたんだ」
戸惑いも恐れも恥じらいもない、薔薇色に染まった頬と輝く瞳でまっすぐに見返すと、ハンコックは鼻白んだように顔を歪ませた。
「ああ面白うない、妾はもう帰る」
そう言って、ヒールを鳴らしながら踵を返した。
「このような場所に長居は無用じゃ」
「ハンコックちゃん」
「ごきげんよう、またね」
ロビンがソファに座ったまま優雅に手を挙げた。
それに横顔だけ返して、手にした大きな扇子をばさりと開く。
「また会おうぞ、次代の聖獣王が楽しみじゃ」
そう言い残して、南国の花の香りと共にハンコックの姿は掻き消えた。

「人のこと散々好き放題貶して、とっとと帰りやがったな」
サンジの後ろで一部始終を聞いていたゾロは、忌々しげに顔を歪めハンコックが消え去った中空を睨み付けている。
当人を前にしてよくも毒舌を尽くしたものだ。
さすが魔女と言うべきか。
「まあ、ハンコックちゃんだから仕方ねえよ」
「てめえがそんな態度だから、女どもが付け上がんだよ」
「なんだとぉ?レディを馬鹿にすんのは俺が許さねえ!」
サンジが真横から蹴り掛かるのに、ゾロが腕を翳して顔の横まで上がった踵を受け止める。
すかさず身を返して反対側の足を振り上げたら、ゾロも身を引いて紙一重で躱した。
ゾロが繰り出す拳はサンジが靴底で止めて、その手を足掛かりに飛び上がり膝蹴りを打ち込む。
それを肘で止めて――――

「じゃれ合ってるわね」
「息ぴったりじゃない」
ロビンと並んで朝食を採りながら、ナミは肘を着いて面白そうに喧嘩する二人を眺めた。
「サンジ君も、大きな身体になれたのが嬉しいんでしょうね。しばらくああやって、自分の身体の大きさを確かめてるのかも」
「小さな身体の時でもかなりの破壊力だったから、あの大きさだと相当だと思うわ。ゾロだから対等にやり合えるのよ」
ロビンは微笑んで、それで…とナミに視線を移す。
「私達と一緒に来る?」
「ええ、魔女についていろいろと教えてほしいの。ルフィもこの身体に馴染む時間がいるでしょうし…ね?」
同意を求めるために振り返ったら、ルフィは両手に肉を抱え、頬袋を膨らませたままホンガフンガと頷いた。
「おう、俺はちょっとばかし修行してから冒険に出るぞ!」
「私もロビンの元でしばらく魔女修行させて」
「いいわよ、二人とも大歓迎」
このやり取りを見て、あからさまにほっとして見せたのは海王だった。
「いやーそれは最良の選択じゃもん。寂しいが、仕方ないんじゃもん」
ルフィ達を歓待しているのは本当だが、いつまでも滞在されては食糧事情が厳しくなる。
下手すると、本当に魚人海を食べ尽くされてしまいかねない。
「食事を終えたら、私達もお暇するわ」
「ルフィちんもナミちんも、行っちゃうの?」
「寂しくなりますわ」
ケイミーやしらほしに、ルフィは料理で汚れた頬を擦ってからしししと笑い掛けた。
「お前ら、ほんとに迷惑かけたな。飯まで食わせてくれてありがとうよ!」
「こっちこそ、迷惑かけたんじゃもん。アーロンのことは、本当にすまんことをしたんじゃもん」
複雑な表情のマダム・シャーリーに、ナミはそっと手を差し伸べた。
「これからは、魔女の先輩としてよろしくご指導ください」
「ごめんなさいね、そしてありがとう」
マダム・シャーリーは両手でそっとナミの手を包み込んで、優しい眼差しで頷いた。

「ところで、コックさん達はどうするの?」
喧嘩と見せかけたじゃれ合いに一息吐いたサンジが、はへ?と目を丸くして振り返る。
「えっと、俺は行きたいとこあんだけど…」
「俺は別にない」
「…だよねー」
サンジと出会ってからずっと、ゾロはサンジが行きたいと望むところへついてきただけだ。
元々放浪癖がある聖獣王に優秀なナビが付いたと言えないこともない。
「お前と旅をしてりゃいろんな奴に会えるし、腕試しもできっだろ」
「しょうがねえなあ、お守りしてやっか」
満更でもない顔で首を竦めてから、海王に向き直った。
「この辺りで、バラティエって店知らないかな。西海にあるって聞いてるんだけど」
「ああ、それなら知ってるんじゃもん。しらほしの誕生会は、いつもそこで開くんじゃもん」
「ほんとか?!」
魚人の王に聞けばあるいは、手がかりくらい見つかるかと思っていたが、まさかほんとに判明するとは思わなかった。
「我らは海を渡ってその店へ行くが、陸伝いじゃと迂回してこの辺りじゃもん」
兄王子が地図を広げ、場所を示してくれる。
「泡に包んで、海上からお連れいたしましょう」
しらほしの申し出を、サンジはあっさりと断った。
「いや、地図で場所を教えてもらっただけでありがたいよ。陸路から歩いて行くよ」
美食の国オールブルーでも、食の宝庫として名高いバラティエは憧れの地だ。
あらゆる海が流れ込む場所で密かに開かれているという名店の味を、ぜひ堪能したい。
そして叶うならばそこでコックとしての腕を磨き、ゆくゆくは生まれ故郷オールブルー国に凱旋したい。

「そう言えば、その店を気に入ったらしく、今は世界一の大剣豪と名高い鷹の目が常駐していると聞きます」
兄王子の言葉に、ゾロが即座に反応した。
「鷹の目が、そこにいるのか」
「なに、知り合いか?」
お前に知り合いがいるとは珍しい、と目を丸くすると、ゾロは苦々しい顔で虚空を睨み付けた。
「俺の胸に傷を付けた、鷹憑きの剣士だ」
「おお、因縁の対決か」
聖獣王に瀕死の重傷を負わせるとは、鷹の目とやらなかなかの腕前らしい。
心配ではあるが、ちょっと心弾むのはやはりサンジも男だからだろうか。
強い男同士の対決は、自然と血沸き肉躍る。

「こうしちゃいられねえ、行くぞコック!」
「ったくしょうがねえなあ…ってか、お前が一人で先を歩くな!絶対辿り着けねえっ」
俄かに慌ただしくなった二人を横目に、ロビンもソファから腰を上げた。
「それじゃ、私達も出発しましょうか。海王様、王子様方にお姫様、どうぞお幸せに」
「紫の魔女様、橙の魔女様、それにルフィ様とロボ様もお気を付けて」
「またね、シャーリー」
「またね、ロビン」
魔女同士の美しい接吻をうっとりしながら眺め、ふとフランキーを見上げた。
「あの、骨どうしたんだ?」
「ああ、ブルックならアルビダと暮らしてる」
「え?話早ぇなぁおい」
「女心と秋の空だ、その内また帰ってくるだろうよ」
ロビンがふわりと花の香りを漂わせ、サンジの頬にそっと手を添えた。
「それじゃあコックさんも、ごきげんよう」
「ロビンちゃんも、ナミさんもどうかお幸せに」
額と頬にそれぞれの口付けを受け、でれんと鼻の下を伸ばしてクネクネした。
「ゾロも、コックさんをよろしくね」
「ルフィ、ロボ!レディ達をしっかりお守りしろよ」
よく晴れた空の中を、ロビン達を乗せたフランキーが白い煙を吐きながら弧を描いて飛び去って行く。
それを見送ってから、サンジも海王達に別れを告げた。
「色々ありがとう、世話になったんじゃもん」
「どうかよい旅を」
「お気を付けて」
「また遊びに来てね、サンちんゾロちん!」
波打ち際にまで見送りに来てくれた人魚達に手を振って、サンジは砂浜を後にした。

細かな砂地に足を踏み出す度、靴が沈んで歩き辛い。
サンジはそっと振り返り、歩いてきた道のりに残された足跡を見る。
ゾロとほぼ同じ大きさの足跡が、等間隔に並んで残されていた。
それも、打ち寄せる波の動きと共に跡形もなく消えていく。

自然と歩みが遅くなったサンジに、ゾロは足を止め自分の腹巻を引っ張って見せた。
もう、その中には入れない。
ゾロの肩にも乗れないし、髪の毛を引っ張って方向転換できないし、グルキュル鳴る腹の音を枕に眠ることもない。
その代りゾロと同じ速度で歩けるし、肩を並べて語り合い、時には共に戦える。

「モタモタしてっと、置いてくぞ」
「言ってやがれ、てめえこそ迷子になったら置いてくぞ」
サンジは大股で追い付いて、肩から軽くぶつかる。
「はぐれんなよ」
「てめえこそ」
至近距離で睨み合っていたら、ゾロの方から鼻先が触れるほど顔を近付けて、そのままチョンと口付けた。
「おま…なっ」
思わず赤くなって口元を覆った手を、強引に掴んで引っ張る。
「行くぞ」
「うっせえんだよ、偉そうに」
口ではぎゃあぎゃあ文句を言いつつ、繋いだ手はそのままに海から続く森へと歩み進んでいく。

海風を受けた樹々の梢が、二人を見送るかのようにざわめきながら揺れていた。


End



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