和草 -5-


二度寝を楽しむべく布団の中でゴロゴロしていたが、一向に眠りは訪れなかった。
何度か寝返りを打ってから、むくりと起き上がる。
春とは言えまだ明け方は肌寒い。
やっぱり布団の中の方が温かいからと中に潜り込んで、ゾロの残り香を嗅いではウトウトと目を閉じていると、ようやくカーテンの隙間から白い光が射し始めた。
どうやら今日も、晴れらしい。
「起きよっと」
よく考えたら、昨夜は早く寝たのだ。
早寝早起きが一番だろう。

顔を洗って着換えてから、布団を畳んでざっと掃除する。
雨戸まで開け放した縁側からは、朝露に濡れた庭がまだ眠そうな顔で靄に煙ってみえた。
清涼な空気を胸いっぱいに吸い込んで、大きく伸びをする。
ようやく目覚めたらしい鳥たちが、ちゅんちゅん囀りながら木立を飛び交い始めた。
人里離れた一軒家だから、朝から掃除機をかけようが洗濯機を回そうが、誰にも気遣いしないで済むのが実にありがたい。
朝の一服とばかりにタバコに火を点け、踏み石にあったサンダルを履いて庭に下りた。
濡れた飛び石伝いに犬走りへ渡り、ぐるりと家の周りを一周してみる。
前に来たときは気付かなかったが、色んな木が植わっていた。
庭だか畑だかわからない場所にも見慣れない葉物がたくさん生えていて、おそらく全部食べられるものだろうと推測しながら繁々と観察する。
大きな葉っぱを四方八方に伸ばした見慣れない野菜らしきものを覗き込んだら、中心部から枝分かれした根元にどこかで見たようなモノがいくつもついている。
「これは、ブロッコリー?」
成長し過ぎたのだろうか。
塊でないブロッコリーが一房ずつ根元に成っているようで、なんだかいじらしい。
その隣には巻かなかったキャベツがくたりと生えている。
その中心部に、同じ色をした・・・しかし明らかに違うモノがもそもそと這っていた。
「ひっ」
にっくき天敵、青虫だ。
このままではキャベツが食べられてしまう。
しかも知らずに収穫して、うっかり一緒に包丁で切ってしまった暁には、どんな惨状が待っているかと思うとその想像すらできない。
本当は、見つけ次第潰すべきなんだろう。
けれどサンジには潰される青虫の断末魔が聞こえてしまうから、そんなこととてもできやしない。
だがしかし、このままではいけない。
いけないと思うのに、どうすればいいかわからない。

サンジの懊悩も知らずに、青虫はゆうゆうと葉の上を歩き、端っこからもしゃもしゃと口?を動かした。
案外早いスピードで刃先がギザギザに食われていく。
この小さな身体の何倍もの面積を、こうして食べていくのだろう。
人間に換算するとものすごい量だなと、違う方向に考えを巡らせながらサンジはしばし青虫の食事風景を見守っていた。
一生懸命食べている。
まさに一心不乱だ。
青虫にとっては、食べることが生きること。
それ以外にはない、シンプルな人生(虫生?)

じっと見ているうちに、なんだか可愛らしく思えてきた。
もさっとした表面も細かくついた足も時折起こる緩やかな蠕動も、じっと観察しているとユーモラスで愛らしい。
「美味いか?」
ゾロが作った野菜だ、そりゃあ美味いだろう。
サンジはその場にしゃがんで、頬杖を着きながら青虫に向かって語りかけていた。
そんなサンジも青虫も知らぬげに、朝露がつるりとした葉の表面を転がり落ちていく。

「おはようさん」
不意に生垣越しに声を掛けられ、サンジははいと反射的に返事した。
「早起きだわぁねえ」
顔を覗かせたのは、お隣のおばちゃんだ、
「玄関に置いとこうと思ったんだぁけどね、煙が見えたからぁ」
「おはようございます」
そう言えばまだきちんと挨拶していなかったと思い出し、サンジは立ち上がっておばちゃんの前まで歩いた。
「これからお世話になります」
「こちらこそ、嬉しいねえ」
おばちゃんはニコニコしながら、手にしたビニール袋を掲げた。
「お父ちゃんがぁね、取って来たの。お裾分け」
中に入っているのは土のついた筍だ。
「ありがとうございます!」
サンジは喜びで目を輝かせて、遠慮なく受け取った。
「すげえ嬉しいです、筍大好きで」
「よかった。うちも好きなんだけどぉ、お父ちゃん食べるとブツブツ出るの」
「ああ」
「だから、取る専門」
サンちゃんはコックさんだから何あげても甲斐があるわあと、おばちゃんは嬉しそうに前掛けで手を拭いた。
「それじゃあね」
「はい、ありがとうございます」
最敬礼するサンジを後に、おばちゃんは後ろに手を組んでゆっくりと隣へと帰っていった。




「ただいま」
「おかえり」
きっかり7時に、ゾロは家に戻って来た。
軽トラの後ろには、どっさり野菜が積んである。
「これ全部、採れたのか?」
「ああ、好きなの使えよ」
残りは直売所に持っていくと言うから、逆だろと突っ込みを入れる。
「まずは飯にするか」
「ああ、腹減った」
土で汚れた手と顔を洗い洗面所から出てくると、台所には豪勢な朝食が並んでいた。
「一応、庭に生えてたの適当に使わせてもらった。相変わらず卵は豊富にあるし」
サンジが宅配で送ってきたミキサーで、がーっとジュースを作っている。
「庭にみかんが鈴なりになってたから適当にもいだぞ。あれ、なんだ?」
「さあ、甘夏だったか夏みかんだったか」
「あんなに成ってちゃ木が可哀想だろう、食べないのか」
「皮が分厚いし、酸っぱいんだ」
「確かに、酸味はきついな」
皮についた実の一房を口にして、唇を窄める。
「けど美味いぜ、サラダのドレッシングにも使えるし、肉料理のソースにもなる」
取り敢えずはと、ジュースをコップに注ぎ入れた。
「みかんと人参のジュースだ、美味いぞ」
「へえ」
ゾロ一人で暮らしていると、とてもこんな面倒なことはできない。
「ちゃんともいでやらないととは思ってたんだ、もうすぐ花が咲くからな」
「せいぜい使わせてもらうよ」
サンジが来てくれてよかったと、庭のみかんも感謝しているかもしれない。

「お隣さんから筍貰ったんだ」
「そうか、筍は好物だ」
「俺もだ」
豆のスープと野菜サラダ、菜の花の胡麻和えにチーズオムレツ、ジャガイモのヨーグルトパン。
「食べてもブツブツ出ねえか?」
「出ねえ」
「よかった」
朝から一働きしたせいか、腹が減って朝飯がいつもの数倍美味い。
サンジも旺盛な食欲を見せて、一見多すぎるんじゃないかと思われた朝食をあっという間に平らげてしまった。
「早起きすると、朝飯が美味いな」
「俺、こんなにゆっくり朝飯食ったの久しぶりだ。つか、ここ来るといつも食事をゆっくりとれる」
「そうだな」
これからは、もう時間に追われることは滅多にないだろう。
「やりたいことが一杯ありすぎて、忙しいけどな」
ご馳走様でしたと手を合わせ食器をシンクに運んだら、みかんの分厚い皮がざるの中に溜めてあった。
「これ、どうするんだ?」
「日干しして手ぬぐいん中入れて、風呂に浮かそうかと思って」
「みかんの皮風呂?」
「いいだろ」
つくづく、農家(の嫁)向きの男だ。



「今日は藤兵衛さんちの田んぼだ、昼に一旦帰ってくる」
「了解、しっかり励めよ」
玄関先までゾロを見送りに出て、ああ今日もいい天気だとサンジは空を仰いだ。
「そうだ」
ゾロは思い出したように振り返った。
「お前、車の免許持ってるか?ここに住むんなら、運転できねえと不便だろ」
「ああ」
火の点いていないタバコを咥えて、サンジは眩しげに目を細める。
「実はオレ、こっちの目が見えねえんだ。免許取ってねえ」
左手で軽く目の前を遮ってみせる。
ゾロは一瞬目を瞠ってから頷いた。
「そうか」
「悪いな、いつも運転手でよ」
「そう言うことならお安い御用だ」
ゾロは手を伸ばして、ためらいなくサンジの左目にかかる髪を掻き上げた。
あれ?と思う。
なぜか一瞬、眩しいと感じて目を閉じた。

サンジの瞼とこめかみに順に唇を押し当てて、じゃあなと手を離す。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
走り去る軽トラに手を振って見送ってから、サンジは「あああああ」と一人で声を上げた。
「なにアレ、なんか積極的じゃね?」
呟いたところで、誰も返事をしてくれるものなどいない。
フォローして貰えない状況の中で、サンジは一人赤面して火の点いてないタバコをガジガジ噛んだ。
「えーなんか恥ずかしー・・・なにあれ、なんでああなの、すげえさりげな過ぎるっ」
せめてサンジのリアクションを待ってくれればいいのに、何かと邪魔が入ったりすぐに行ってしまったりするから、この居心地の悪いもじもじ感を一人で抱えなきゃならないじゃないか。

「あーもう、参ったな」
本当に参った。
ちょっと困ってすごく恥ずかしいのに、嫌な気分じゃない。
それが一番サンジを戸惑わせる。
庭に来たヒヨドリが、サンジの様子を窺うように小首を傾げてちょんちょんと跳ねた。
もう一度、今度は右目の前に手を翳して、サンジはゆっくりと顔を上げる。
かすかに光を感じたのは、気のせいだったんだろうか。

右手の指の間から、抜けるような青空が覗いた。
吹き渡る風も連なる山並みも、優しく柔らかくサンジの世界を包み込んでくれる。
「春の山って和菓子みてえだな」
薄緑に濃い新緑、淡いピンクとところどころに散る鮮やかな黄色。
今日のおやつは和菓子にしよう。
ゾロに乗せてもらって、お隣さんやたしぎにもお裾分けしに行こう。
きっとそこにはスモーカーやコビー達がいるはずだ。
そう決めて、一人でニヤニヤと笑みを零す。


ゾロと出会って初めて知った。
世界はこんなにも、光に満ちていることを。

綺麗な色を、美しい風景を、愛しい人を
この目で見たいと願い続けたら、もう一度視えるだろうか。
ゾロと同じ空を、一緒に見ていたい。
これからもこの先もずっと―――

大きく伸びをするように両手を広げ、空を抱き締めたサンジの後ろで、番のヒヨドリが羽音を合わせて飛び立った。



END



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