肌を刺す風がほんの少しだけ冷たいこと以外、何の変哲もない筈だった朝。
春の香りをほのかに含んだ風に抱かれ、彼は・・・・・・ゆるりと天に舞い上がった。
日課となっている鍛錬の為、道場に訪れたゾロを迎えたのは、違和感を覚えるほどの静寂だった。
必ずと言っていいほどいつも響いてきていた、、張りつめた空気を斬り裂く音が聞こえてこない。
胸騒ぎを覚えたまま道場、そして外を見回したところで、老木に寄り添うように倒れている師匠を見つけた。
慌てて駆け寄りその体を起こしても、心はここを離れかけていることが明白で。
が、それを認めることを拒絶する様に、何かから取り戻す様に。
必死でその体を抱きかかえると、
「やっと・・・・やっと会えましたね・・・・」
とだけ言い残して、そのまま彼は不帰の客となった。
見たこともない様な、安らかな笑みを浮かべたまま。
それは黄色い花が綻ぶには少し早い、小春日和の朝。
素心蝋梅 (そしんろうばい)
生涯独身で家族を持たなかった剣術の師匠。
その彼が残したものはちっぽけな道場と、猫の額ほどの庭、そしてそこに老木が一本。
名前は判らないが、冬まだ寒い季節に強い香りを放ちながら花を咲かせるその木は、ここの隠れた名物で。
その黄色い花が咲き始めると、誰もが春の訪れを感じたものだった。
だが・・・・・主を失った今、それらの行く末はどうなるのか。
そうどれだけ心配しても、所詮何の権利もない者たちには、ただ歯がゆい思いでことの成り行きを見守ることしか出来なかった。
そんな皆の思いが通じたのか、生前の師匠の高徳のお陰か。
恐らくは大人の諸事情の末、土地と道場はそのまま町内に寄贈されることが決まった。
どうやらこんな事態に備えて、師匠はあらかじめ遺言状を残していたらしい。
こうして主がいなくなった以外は何も変わらないその場所で、ソロは竹刀を振い続けることとなった。
「まぁな、齢80といやぁ、大往生に近ぇもんがあるんじゃあねぇの?」
道場の横にある、オマケの様な狭い家。
そこの縁側でお茶と煎餅を御馳走になりながら、ウソップがゾロに笑いかけた。
たまたま通りかかったから・・・・そんな理由でわざわざ顔を出しに来た彼もまた、一時期でも席を置いたここが心配だったに違いない。
「ほんと立つ鳥跡を濁さず・・・・って感じの、あっさりとした旅立ちだったぜ、あのおっとりとした師匠らしく。
家の中も殆ど処分しなくちゃいけねぇもんもなかったし、何処かで判ってたんじゃあねぇかと思うぜ」
そう・・・・・まるでここから失われるべき物は、自分自身だけだと言わんばかりに。
「あー判る、判る。
確かにそんな感じだよな。
そこは流石先生・・・・って言うべきなのかな」
在りし日の彼を思い出したのか、感慨深げにウソップが頷く。
師匠は武道を嗜むにしては温和な人と、このあたりでは評判な人なりで。
人のことを悪く言うことも、また人に悪く言われることもないと言う今では珍しい存在だった。
だからこそ、不思議と浮世離れした雰囲気の人物だと言われていたのだが。
「で、お前大丈夫かよ?
大学行きながら、ここの道場主やるって聞いたぜ?」
唯一、師匠が遺言として残したささやかな文書。
そこにゾロの名前があった。
曰く”道場を寄付する折には、ロロノア・ゾロを道場主として据えて欲しい”と。
確かにゾロは若いながら、この道場で一番の実力を持っていた。
が、それにしても師匠と血縁関係もないただの大学生に・・・という外野の声も、少なからずあったらしい。
そんな人々を最終的に納得させたのは、やはりわざわざ遺言として残した故人の強い意志・・・・という一言に尽きる。
それに町とてこの道場を引き受けたはいいが、その先どうするかなどとは全く想定してなかったのだろう。
そのままにしておくには勿体無い・・・・さりとて、その為の専用の職員を派遣する余裕もない。
つまりは利害関係の一致と言うべきか。
「相変わらず早耳だな。
あぁ、大学を卒業したら正式にここを継ぐ。
それまでは代行みてぇなもんだ。
でもそれが師匠の遺言だしな、何より俺自身がそうしてぇ。
守って行きてぇんだ、師匠の代わりに。
ここは昔っから俺にとっては、特別な場所だったからな」
そう・・・・ここでゾロは多くを学んだ。
泣くことも、笑うことも、耐えることも。
ここは単に剣術の道場・・・・と一言で片付けるにしては、何だか不思議な空間だった。
師匠以外誰もいない時には、時に忘れられたような静寂に包まれているのに、何処かほんわりと暖かくて。
何かに守られている・・・・・いつもそんな気がしていた。
それは師匠の気配だと思っていたが、どうやらそうではないらしいことに気がついたのはいつだっただろう。
恐らく、師匠もその守られている一部なのだ。
そしてそれに気が付いていて、甘んじて享受している。
だからこそ、この空間は慈愛に満ち・・・・優しい。
「まぁ、暫くは親の援助もあるしなんとか食っていけるだろ。
そうだ、お前もまた始めねぇか?」
ウソップも昔同じようにここに通った縁で知り合った仲間だ。
止めたのは確か中学に上がった時で、お世辞にも上手だとは言い難かったが、それでも生まれつきの器用さでなんとかこなしていた記憶がある。
だが彼は、とんでもないと言う風にかぶりを振った。
「ははは、早速道場生の勧誘かよ。
残念ながら、俺はもう無理。
ずっと続けていたお前と違って、ブランクがあり過ぎらぁ。
第一・・・・向いてねぇ。
それぐれぇ判ってんだろ、師匠」
ひらひらと手を振るウソップを見て、ゾロは笑った。
自分を決して過剰評価しない・・・・それが昔から変わらない、この男のいいところだ。
「確かにな。
でも、別に本格的に・・・・って訳じゃあねぇさ。
たまになまった体を鍛えに来るだけでも随分違うぜ?」
「そうだな・・・・考えてとくよ。
それにしても、今年もそろそろいい匂いがしてきたなぁ」
辺りに漂い始めた甘い匂いが、その長い鼻を刺激するのか、くんくんと匂いを嗅ぐ。
そんな様も、出会った昔からちっとも変わらない。
「あぁ、そろそろあの花が咲いてきたからな。
今年は花を愛でることが出来なくて、師匠もさぞかし無念だったろう」
春の到着を待ちきれないように咲き始めた黄色い花を、ゾロはただ見つめた。
小さな庭にある一本の老木。
師匠は何よりこの木と、この空間を愛した。
どれだけいい条件でこの場所を売ってくれと言われても、頑として首を縦に振ることもなく。
ただ守り・・・・・愛した。
『ここは私の”家”なんですよ。
そしてこの木は・・・・・』
いつの日だったか。
そう呟きながら、まるで忠誠を誓う神聖な儀式の様に触れる彼の姿が目に焼き付いている。
あの時・・・・空に溶けた言葉の続きはなんだったのだろうか。
愛おしそうに触れる、その指先と、熱のこもった視線の意味は。
ただ、捕らわれているのだと思った。
そこにある何かに。
だからこそ、彼はここで幸福な夢を見続けているのだと。
刹那・・・・・・感じたのは、己には知ることも出来ないものに対しての限りない憧憬と、初めての・・・・・・情欲。
羨ましかった。
このまろやかな空間に包まれている彼が。
恐らくはその正体さえ知っている彼が。
・・・・妬ましい程に。
ウソップが帰ると、そんなことを思い出しながらふるふると首を振り、ゾロはゆっくりと木に近づいた。
そして一瞬の躊躇の後、あの時の師匠の様に戸惑いがちにそっと差し出した・・・・手。
その瞬間。
視界が何か白いモノに奪われ、瞬く間に元通りになった。
何も変わりはなかった・・・・ただ今、ゾロが触れているモノの姿が変わった以外は。
「・・・・・テメェは・・・・誰だ?」
唸るようにそう問いかけるのが精一杯。
確かに自分が触れたのは、あの老木だった筈・・・・・でも、これは。
「さて・・・・・誰だろうな、ロロノア・ゾロ」
その着物の色に負けないほどの白い肌と、右だけ見えるまるで春の空の様な蒼とその上にくるりと撒く眉毛が印象的な。
うっかり見とれるには充分なほどの妖しさを持つ、白い着物に薄金色の髪の男。
知らない・・・・・こんな男は。
まるで懐かしむかのような、まろやかな笑みを向ける男は。
「コウシロウさん・・・・逝っちまったな、一人で」
ゾロにその腕を掴まれたまま、ふっと視線を外しながらそう呟いた男はゆるりと空を見上げた。
空と同じ色のその瞳には、懐かしさやら寂しさやら・・・・・色々なモノが混ざっている様な気がして。
その表情を隠す様にさらりと揺れた金の髪が、この花の色とダブって見えた。
だから・・・・思ったのだ。
もしかしたら・・・・・と。
「もしかして・・・・・師匠が待ってたのは・・・・」
あの時・・・・死の寸前に師匠が残した言葉。
それはいつまでもゾロの耳に残っていた。
そうだ・・・自分は知っていた。
確かに師匠は待っていたのだ、ずっとここで、ただ一人の人を。
静かに・・・・穏やかに、時の流れに身をまかせながら。
「で、テメェが次のここの主に収まった訳か、ふ〜ん・・・・」
向けられた質問には答えず、まるで何かを見極める様にすっとその蒼い目がゾロを見据えながら、口元から零れた笑み。
その瞬間ゾロははっと気付き、いつまでも男の腕を掴んだままだったその手を離した。
だがそんなことを気にする風もなく、男は話を続けた。
「しかしでかくなったなぁ、ここに一番初めに来た時はあんなにチビだったのに」
「一番初めって・・・・テメェ、なんでそんなこと・・・・」
そう・・・・ゾロがこの道場に初めてきたのは、今からもう15年も前・・・・・・・まだほんのこどもだった頃。
それからずっとここに通うようになったが、勿論それからこんな男とは一度たりとも会ったことはない。
第一こんな印象的な人物は、一度ちらりと見ただけでも忘れられるものではない筈だ。
なのに、どうして?
「知ってるさ、俺は何でも知ってる。
確か・・・・隣のうちの柿を取ろうとして、隣の親父とコウシロウさんに見つかったんだよな。
んで、隣の親父を取りなしてくれたコウシロウさんにここに連れてこられて・・・・・あ、そうそう、あの時あの鼻の長ぇ奴も一緒だったよな。
緑のツンツン頭に、ガキのくせに妙に大人びた眼差し・・・・・今と少しも変わってねぇ」
でも大きくなったなと。
したり顔の中に、何処か妖艶さを漂わせて男が・・・・・笑う。
そして何かを確認するように、そっと伸びてきた指先が頬を掠めた瞬間に走った、震えるほどの・・・・・快感。
「テメェは・・・・誰だ?」
もう何度目になるのか、同じ台詞が口をつく。
それしか口に出来なかったのだ、この蒼に射すくめられて・・・・・・そっと頬を統べる指に、全てを持って行かれそうで。
「さぁな。
遥か昔・・・この木の元に降り立ち、契約を結んだ瞬間から俺はただこの木と共にあるだけ。
だから、俺の姿も名もその者次第。
この木を梅と見るか、そうでないと見るかと同じように」
「この木・・・・梅じゃあねぇのか?」
驚いたゾロは木を見上げた。
幼い頃から慣れ親しんだその姿は、少し花の色は普通のと異なっていたが、それでも梅だと思い込んでいた。
「くくく、ほらな。
どうせテメェは花の区別なんかろくにつかねぇんだろ?
いいか、一つ覚えとけ。
この世の中、信じていたモノが全て真実だとは限らねぇ。
目に見えるモノすらな。
まぁ、滅多に人に姿を見せるとこはないんだけど、今日は特別だ。
ロロノア・ゾロ・・・・・・テメェのその両目には何が映っている?」
ふわりと・・・・それでいて何処か悪戯気に微笑んだその背中には、白く大きな羽が。
聞きたいとことは山ほどあった。
だが、今は。
頬に触れたままの指先を掴めるかどうか。
それが一番の問題だと、ゾロは心の中で小さく溜息をついた。
素心蝋梅の花言葉〜慈愛〜
2013 サン誕
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ほう、と息を吐くのも惜しいほどの、どこか張り詰めた・・・それでいて安らかな情景をありがとうございます。
キンと冷えた空気とか、柔らかな白い光とかが、肌で感じるような文章。
これからなにが始まるのか、ゾロがどこに足を踏み入れるのか。
その先―――に想いを馳せながら、切なさともどかしさに身悶えしてしまいそう。
素心蝋梅は、透明感のある黄色い花が可憐なバラ科の花なんですね。
まさにサンジに相応しい、幻想的な天使降臨ありがとうございますv
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