猫に名前をつけるなら  -1-



現場が変わる度に、ゾロはまず安い飯屋を探す。
味にはさほど拘らない。
安価で腹がくちくなればそれでいいし、出すのが早いなら尚のこといい。
安い・早い・美味いの順番だ。
その観点から言えば、この店は今まで贔屓にしてきた店の中でもダントツbPだった。

「A定お待ち!2名様、こちら相席でお願いします」
そう広くない食堂内に、元気な声が響く。
昼時ともなると一気に押し寄せる荒波のような客を、手際よく捌く姿はなかなかに圧巻だ。
混じりけのない金髪に白い肌。
鄙には稀な華やかな容姿だが、店名が入った古臭いエプロンを身に着け独楽鼠のようにくるくると立ち働く若い男。

「サンちゃんは、この店の看板娘だから」
なぜか我がことのように自慢げに紹介した常連客に、「娘」じゃねえだろと誰も突っ込まなかった。
どこをどう見ても立派に男だが、“看板娘”の称号に相応しい溌剌とした活躍ぶりだ。
ゾロも、その一生懸命な働きっぷりを微笑ましく眺めている。

「ここはマジで早くて安くて、美味いぞ。サンちゃんが運んでくれると思うと、美味さも3割増しだ」
「褒めたってなんも出ねえぞ。オラ、そっちまで手が回らねえから取りに来い」
近くのカウンター客は、乱暴に顎で使う。
使われている客の方が、でれでれと目尻を下げて嬉しそうだ。
「レディ、お冷のお代わりはどうですか?あ、3番テーブルさんお愛想〜!5番テーブルさん、ただいま参ります!」
後ろにも目が付いてるんじゃないかと疑うほどの、三面六臂ぶりだ。
それでいて、騒がしいとか急かされている感じはしない。
店内が活気付いて、客達までテンションが上がる。
「この店は美味いだけじゃねえ、なんか元気貰えるんだよな」
店を紹介してくれた同僚が、煙草を吹かしながらニヤンと笑った。



ゾロは現場作業員として、全国各地を飛び回っている。
道路やダム、河川に治水と現場は様々だが、どこも人手不足で引く手あまただ。
飯場で寝泊まりをして、ただ働いて食べて酒を飲んで眠る日々。
使い道がないから、金だけはそれなりに溜まった。
身体が資本で、いつまでも続けられる職種ではないとわかってはいる。
「あんたもまだ若いからいいけどさ。これから嫁さんもらってそれなりに年取ったら、結局は路頭に迷うことになんぞ」
悪いことは言わねえから、まともな職に就け。
この現場で働き出して、まだ三日しか経っていない同僚が偉そうに講釈を垂れる。

「まだ若えとか家庭なんざいらねえって思ってるうちに、あっという間におっさんになるんだ。俺みてえにな」
「お前なんざ、最初から嫁も子もいねえからいいじゃねえか。ないもんは失わねえ。俺なんて、毎晩寝る前に子どものこと思い出しちゃあ、もう寂しくて悲しくて…」
「あああ、また湿っぽい話になってる。てめえは泣き上戸だから一緒に飲むのは嫌なんだよ!」
辺鄙な酒場で、罵声を上げながらおっさん同士でクダを巻く。
この光景にもすっかり馴染んだ。
ゾロ的にはこんな生活も悪くないと思っている。

「兄ちゃん、こんないいガタイしてんだし、言っちゃあなんだが男前だ。土方なんてやんなくたって、他に仕事あんだろうが」
「そうそう、女がほっとかないぜ」
「もしかして、現場現場に女がいるとか」
そこは否定しないが、いずれもその場限り、後腐れのない付き合いばかりだ。
未練も執着も、心残りもない。
「もともと出歩くのは好きだし、保証のある落ち着いた暮らしを望んでもいねえ。知らない場所で見ず知らずのおっさん達と働くのも、特に苦痛じゃねえ」
「そういう性分なんだな。それじゃ、あんたなりに上等な人生ってことか」
年齢以上に老けて見える皺ぶいたおっさんは、どこか痛むみたいに片目を顰めながら笑う。
「今のご時世、いい大学入って上場の会社就職したって明日どうなるか分かんねえもんだ。まあ、自分が望む方に方向転換するのは、いつだってできる」
若いうちは好きなことやっとけと、コップ酒を突き出し軽くかち合わせた。


酔っ払いの言い争いが喧嘩に発展したのを機に、ゾロは騒がしい酒場から腰を上げた。
外に出てみれば、しとしとと雨が降っている。
いまさら店に戻って雨宿りするのも面倒で、ブルゾンのポケットに手を突っ込み足早に夜道を駆けだした。
点滅する外灯で照らし出された水溜りを避けていると、空家の軒下に黒い影が蹲っているのが見えた。

「ダメだって、大人しくいろよ」
この声は、昼間の看板娘だ。
あの店は老夫婦が切り盛りしていて、昼しか営業していない。
夜も開けてくれているなら、酒がなくったって週に五日ぐらいは通うのにと残念に思っていた。

脅かさないように無意識に足音を消して、近付く。
「雨降ってるから、出てきちゃダメだ。ここ、あったかいだろ?」
どうやら、草ぼうぼうの荒れ果てた軒先に小さな段ボール箱を置いて、中に子猫を入れたらしい。
タオルも敷いて寝心地が良さそうなのに、猫は看板娘が立ち去ろうとすると苦労して箱から飛び出して後追いをする。
「ダメだ、雨に濡れちゃ風邪引く」
立ち去ることができず、その度に猫を拾い上げては箱の中に置く動作を繰り返している。
肩に凭れさせた傘は傾いて用をなさず、降りしきる雨は看板娘の背中を濡らしていた。
思わず、その頭上に傘を差しかける。

「あんたのが、風邪引くぞ」
驚いたように振り返り、ゾロを見て「あ」と目を見開いた。
「あんた、昼間の」
「覚えてくれてたのか?客なんざ、たくさんいるじゃねえか」
「そりゃ。俺だって客商売だもの」
それにあんた、目立つし。
看板娘はそう言って、抱き上げた猫の背中を撫でる。
子猫は、ゾロの片手に収まってしまいそうなほど小さい。

「捨て猫か?こんくらいなら、傍に親がいるだろ」
「そう思ってなるべく触らないようにしてたんだけど、一昨日からずっとここにいるんだよ。三回目でとうとう覚えられちゃったのか、後ついて来ようとして」
看板娘は困ったように、くるりと巻いた眉尻を下げた。
「うち食堂だし、飼えないし」
「あの店、住宅なのか」
「本来は店舗だけなんだけど、旦那さん達の好意で2階に住まわせてもらってんだ」
どうやら、老夫婦の孫という訳ではなさそうだ。

「内緒で飼えばいいじゃねえか」
「そんな訳にはいかねえよ。住まわせて貰ってるのに勝手言えねえし、それに奥さん確か猫アレルギー持ってる」
ショボンと肩を落としながら、その場にしゃがんだ。
「だから、な。せめて今夜はここで大人しく寝ててくれよ。明日の朝また、見に来てやるから」
半野良状態で面倒だけはみてやるつもりか。
それはそれで中途半端だなと、ゾロは手を伸ばして箱の中から猫を掬い上げた。

「親もいねえなら、長生きできそうにねえな。俺が持って帰っていいか」
「えっ」
片方だけ覗いている瞳が、一層大きく開かれた。
こうして間近で見ると、暗い外灯の下でも透き通った青だとわかる。

「いいの?あんた飼ってくれるの?」
「一時的に預かるだけだ。俺が寝泊まりしてんのは飯場だし、仕事が終わればまた別の場所に移る」
「あ、でもそれでもいい。俺も張り紙とか作って、お客さん達にもいっぱい声かけて引き取ってくれる人、探すよ。その間だけでいいから」
「わかった」
ゾロはそう言ってブルゾンの前を開け、腹巻の中にすとんと子猫を入れた。
その様子を見て、看板娘はくしゃりと泣きそうな顔で笑った。
「ああ、よかった。お前あったかそうなとこ入れたな、よかったな」
目尻に涙さえ浮かべて、遠慮がちに手を伸ばしゾロの腹に収まった子猫の頭を撫でた。
「今夜もめっちゃ冷えるのに、お前が一人で鳴いてたらと思うと堪らなかったんだ。よかった、ありがとう」
最後の方はゾロに向け、少し見上げる位置でしっかりと目を合わせる。
「お世話になります、なるべく早く引き取り手を見つけるんで」
「わかった。あんたももう帰った方がいい」
「はい」

店に寝泊まりしていると言うなら、帰る方向は一緒だ。
二人で並んで歩きながら、ポツポツと言葉を交わした。
看板娘は「サンジ」と言う名で、高校を卒業してからこの街に来て、縁あって老夫婦の世話になっているのだと言う。
「バイトしてたらそのまま居付いちゃって。すごくよくしてもらってて、俺にとってご夫婦は大恩人なんです」
でも…と寂しげに続けた。
「春には店を閉めて引っ越すから、俺もこの先の身の振り方考えなくちゃ、なんですよね」
「店、なくなるのか?」
それは由々しき事態だと、ゾロは目を剥いた。
が、春になればゾロも別の現場へと移っている。
「工事が終わると、駅裏の再開発が始まるんですよ。あの辺全部更地になるって。おじさん達ももう契約は取り交わしてて、店を畳んで息子さん夫婦のとこに引っ越すって段取りになってて」
「そりゃあまあ、いい年だしな」
引退ならば、仕方ないだろう。
「それに、俺も工事が終わったらこの街ともおさらばか」

まだ来て、一月も経っていない。
急な依頼で追い込み時期だけの助っ人だから、さして思い入れもない場所だ。
この店を知って、サンジと出会わなければ。

「あんたも、行っちまうんだね」
サンジはそう言って切なげに目を細めてから、はっと我に返ったように鼻を擦った。
「や、大丈夫。それまでには絶対、その子の引き取り先見つけるから」
「まあ、猫はいいがあんたはどうすんだ?」
ゾロの問いに、サンジは鼻を赤くさせたままニコッと笑った。
「俺はまあ、なんとでもなるよ。どっかで部屋借りてバイトで食い繋ぐかな。幸い、今の店にいろんな人が来て知り合いも増えたから、ツテはあるんだ」
「・・・そうか」

話している間に、店に着いた。
随分近かったなと、不満さえ感じる。
できれば逆回りに町内を一周して、もっと話していたかった。

「それじゃあ、猫のことよろしくお願いします」
「ああ」
任せとけ、なんて大きく出ることもできず、不器用に腹を押さえる。
ゾロの腹巻の中で小さな鼓動を響かせる温かな塊が、僅かに身じろぎした。
「じゃあな、おやすみ」
サンジは屈んで上着越しに腹に手を当て、優しく囁いた。
冷えた空気の中、言葉と共に白い息が吐き出される。
「おやすみ」
「おやすみなさい」

いつの間にか雨は上がり、空気が澄み渡っている。
サンジが店の中に入ってしまってもどこか立ち去りがたく、サンジの部屋に灯りが点るまでゾロは腹に温もりを抱いたまま雲の隙間から覗く冬の星座を見上げていた。




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