睦月 -4-


泊まって行けとの再三の誘いをなんとか断り、居心地のいいお隣さんちの座敷を後にしたのは10時過ぎのことだった。
サンジにしたら宵の口だが、朝も夜も早いお隣さんにとっては、昨日に引き続いて随分と夜更かしした一日だろう。
猛吹雪の中を歩くのを覚悟してコートの前を合わせ、首を竦めて外に踏み出したら、意外なほどに冴え渡った空が見えた。

「うわあ」
思わず感嘆の声を上げ、サンジは白い息を吐きながら背を逸らした。
「晴れてる」
「雪は止んだみてえだな」
あれほどしんしんと降り続いていた雪は欠片もなくて、雲の切れ間からは蒼白い月が顔を覗かせている。
そのせいだろうか。
野山一面雪また雪で、車の轍さえ見えない白一色であるはずの世界が、すべて仄かに青く色付いて発光しているのだ。
何もかもを吸収する闇のような黒と、光を放つ透き通った青のコントラストが幻想的な風景を彩っていた。

「綺麗だ」
呆けたように立ち竦むサンジの背後で、ゾロもポケットに手を突っ込んだまま周囲を見渡した。
何度か目にした景色ではあるが、確かに綺麗だとゾロも思う。
虫の音も獣の息遣いも感じられない、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた夜の世界は、きんと冷え切った空気を纏ってどこまでも深い。
「死ってこんなものかなあ」
幽玄な雰囲気に気圧されたのか、サンジはぽつりとそんなことを呟いた。
「何処までも静かで冷たくてさ、けれど寂しくはないんだ。なんでだろう」
自ら吐く息の白さでサンジの表情が霞んで見える。
けれど危うさは感じさせない。
相槌さえ打てないゾロを気にすることもなく、サンジは一人頷いた。
「幽霊って、いないと思ってたんだ」
「・・・・・・」
「いない方がいいって、思ってたんだ」
そう呟いてから、そっと足を運んで膝下まで積もった雪の中をずぼずぼと歩く。
橋に差し掛かった辺りで、ゾロは慌てて声を掛けた。
「橋の上は凍ってんぞ、気をつけろ」
ほんの少し振り返った、サンジの横顔には笑みが浮かんでいた。
いつもの子どもみたいな笑顔じゃない、どこか寂しげで悲しみに似た微笑み。
闇に溶けるように輪郭が消えそうな錯覚を覚え、ゾロは衝動的に抱き締めたくなった。
けれど続くサンジの言葉が、ゾロの動きを留まらせる。
「でも、りよさんなら幽霊になってもいいかな」
「それは、化けて出てきてもいいってことか?」
ゾロの問いは間抜けだったのだろうか。
サンジは肩を揺らして笑い、違うよとはっきり言った。
「でも、りよさんなら幽霊になってもいいかも」
同じ台詞なのに、さきほどと微妙にニュアンスが違う。
それはわかるが、何が違うのかゾロにはわからなかった。
ゾロにわかるのは、サンジが「死」と「性的なもの」について過敏になっているということだけだ。
ムカデを退治したときの、やや常軌を逸した反応も、今ではただの虫嫌いから発生したものではないと思う。
テレビのないゾロの部屋でも不便そうではないし、サンジが新聞を読んでいるのを見たことがない。
世間の情報から遮断され、職場である店でしか生活してこなかったのだろうか。
彼にとってこのシモツキは初めての、そして唯一の外界だったのではないだろうか。

ふとそれに思い当たって顔を上げたら、サンジが視界から消えていた。
「おい」
「・・・滑った」
道と路肩の区別もなくなったような、まっさらな雪山の上に仰向けに大の字になって嵌っている。
「あー、なんか気持ちいい」
まだ酔いが醒めないらしく、上気した頬を雪の中に埋めてうっとりと空を見上げた。
「雲の切れ間に星が見えるぞ、綺麗だなあ」
「お前のその人型、そのまま凍ってずっと残るぞ」
ゾロがからかうと、それはいいとサンジは寝転んだまま笑い声を立てた。
「いい加減起きろ、冷える」
手を差し伸べればサンジは素直にその手を握り返した。
掌も指も、充分に温かだった。





家に帰り着くと、お互い無言のまますごい勢いでストーブを点け風呂を張って寝床を設えた。
無駄口の一つも叩けないほど部屋の中が冷え切っていたからだ。
しかもサンジは、酒が入ると途端に眠くなる性質らしく、ゾロが風呂から上がった時には真新しいシーツを敷いた布団の中で既に安らかな寝息を立てていた。
ゾロは半裸のままストーブの前に座って、サンジの寝顔を眺めながら熱い茶を啜った後、もそもそとジャージを着て戸締りをした。
電気を消してサンジの傍らに潜り込めば、なるほど起毛シーツは木綿の素っ気無さと違って手触りがよく温かい。
これは冬に重宝すると満足しつつ、サンジの湿った髪に触れた。
きちんと乾かさずに寝ては風邪を引くと、手近にあったタオルでそっと梳いてやる。
よく眠り込んでいて、ゾロが触れても目を覚ます気配はない。
枕の下にタオルを敷き込むようにして、頭を擡げたついでに自分の腕も回した。
きゅっと抱き寄せれば、サンジは誘われたように首を傾けてゾロの肩にことりと凭れる。
ほんの数センチのところに、露わになった白い額があった。
そこに唇を落としたくなる誘惑を堪え、ゾロはそっとサンジの髪の匂いを嗅いだ。
サンジが持ち込んだ、シャンプーの匂いがした。





それから、日はあっという間に過ぎた。
翌日、変な形に寝癖がついてしまったサンジは、一日中ゾロの毛糸の帽子を被って過ごし、天気がよくなれば初詣にも出かけた。
毎日餌やりを続けるうちにダチョウは無闇に突かなくなったし、犬や猫はサンジによく懐いた。
可愛くなってきた頃に研修生達が帰ってきて、やや不満げなサンジを宥めるのもゾロの仕事だ。
その内、里帰りから帰って来たスモーカーやコビー達が個々にゾロの家を訪れて、その度宴会になった。
頃合いを見て二人で雪を掘り、冬野菜を収穫してはサンジが腕を奮う。
お隣さんちの親戚達を見送り、研修施設が通常業務に戻る頃、サンジの長い休みも終わった。

「なんか、あっという間だったなあ」
何度もシモツキに足を運んできた中で一番長い時間滞在したはずなのに、なぜか一番短かった気がする。
そう呟くサンジに、ゾロもそうだなと相槌を打った。
正月にドカ雪が降って以降、晴れた日が続いて、あれほど積もっていた雪もさっぱりと消えた。
今は、路肩に茶色く変色した雪の塊が土くれと一緒に溜まっている程度だ。
土埃が舞う乾いた農道を、軽トラに揺られながらゆっくりと走る。
もう一度どかんと大雪が降って、帰りたくても帰れなくなったらいいのに。
そんなことを思い浮かべながら口には出さないで、サンジは黙って流れ去る景色を眺めていた。

いつもまっすぐ駅に向かうのに、今日は時間が少し早いからか農道の途中で横に逸れた。
駅前通りとは名ばかりの、小さな商店街をいつもとは逆向きの方向でゆっくりと通り抜ける。
昔ながらの家並みが残っていて、人が住んでいない空き家は一目見ただけで分かるほど寂れて浮いて見えた。
「ここらは結構、空き家が多いんだ」
「そうだな、まだ立派な家なのに勿体ないな」
「今度、空き家開発とか言って、空き家を使用することを条件に改築の補助とかが出ることになってな」
「へえ」
「商売する場合は、別に色々助成がある」
「なるほど」
話している間にも、ゾロの軽トラはどんどん速度を下げてゆるゆる運転になり、とうとう一軒の空き家の前で止まってしまった。
「ここ、2軒続けて空き家になってっだろ」
「ほんとだ」
「続けては目立つよな」
「そうだな」
「んで、向かって左の方でな、春からたしぎが雑貨屋を開く計画立ててんだ」
「え?」
サンジはぱっと目を輝かせた。
「そりゃあいい。たしぎちゃんだったら、すごく可愛い雑貨屋さんを作るだろうなあ」
「本当にそう思うか?」
やや含みのある笑みを浮かべたゾロに、え?と目を丸くしたまま振り返った。
「そりゃそうだろ、女の子は可愛いものが大好きだし」
「たしぎの趣味は刀剣でな。マニアか、いっそ刀バカとか言ってもいいレベルだ。けど本物の刀剣を扱うには許可の問題でややこしいから、キッチン雑貨や農機具なんかで少しずつ間口を広げようと・・・」
「一体なんの企みだ」
サンジの突っ込みに、ゾロが声を立てて笑った。
「まあそう言う訳で、お前がイメージするような普通の雑貨屋じゃねえだろうが、とにかくなにか商売を始める気でいるんだよ」
サンジは云々と頷き、改めて今は寂れた空き家の玄関に視線を移した。
「すごくいいと思う。人口規模が小さいから、どうしても売り上げとか期待できる範囲じゃないと思うけど、家賃はそれほどかからないんだろ?」
「ああ、どっちかってえと地域活性化のために協力を惜しまないって感じだな」
「だよな、ってことは言い方は悪いけど、賑やかしになればそれで御の字じゃねえの?」
「そうだ」
それでだな、とゾロはハンドルに片手を掛けて改めて助手席へ向き直った。
「右隣が空きっぱなしなんだ」
「うん」
「どうせなら、2軒同時になんかオープンした方が、景気がいいだろ」
「え」
「賑やかしでも構わないなら、野菜の直売所にでもしようかと・・・」
少し照れたように、ゾロはガリガリと後ろ頭を掻いた。
「直売所、てめえの?」
サンジは手を叩きかけて、いきなり神妙な顔つきになった。
「けど、金とか大丈夫なのか?」
「ああ、一応仕事してた頃の貯金は残ってるし、冬場バイトして金のやりくりも出来てるし、採れた野菜を置いて売るだけのつもりだし」
ただ・・・と、少し歯切れ悪く続ける。
「直売所だけじゃあ、家が広すぎるんだ」
「確かに」
寂れた平屋とは言え、しっかりとした一軒家だ。
奥には座敷や台所もあるだろうし、間口だけ商売で使って後は放っておくというわけにも行くまい。
「春から本格的に産直も始めるっつってたじゃねえか。事務所もここに持って来たら」
「まあな、ただ何をするのも俺一人だから、そんだけスペースいらないんだよなあ」
そこでだ、とゾロはハンドルの上で拳を作った。
「例えば、ちょっとしたカフェとかさ。できるといいと思わないか」
「ああ、それいいかも」
ちょっと駅から離れているとはいえ一応駅前通だし、ゾロが作った野菜や果物なんかを使って旬の料理を出せたらどんなに楽しいだろう。
「誰か作ってくれる当てとか、あるのか?」
ゾロは黙ってサンジの顔を見た。
「ああ、隣のおばちゃんとか?」
かくんと、ゾロの肘がハンドルから落ちる。
「え?」
「・・・・・・」
ゾロはじーっとサンジの目を見つめたままだ。
その視線から目を逸らせないで、サンジは半笑いのまま心持ち後ずさった。
「え・・・っと」
「店、忙しいよな」
ふいと視線を逸らして、ゾロはハンドルに凭れたまま大げさな溜め息をついた。
「なんせお前は、バラティエの大事な跡取りだし」
「そんなことねえよ」
勢い込んで否定してから、サンジは一人で首を振った。
「だってよ、店には古株のスタッフがいっぱいいるし。じじいは一人前に育てては独立させてっけど、バラティエの味自体を継ぎてえってスタッフは結構多いんだ。一応俺は副料理長って立場ではあるけど、別に跡継ぎと決まってるわけじゃねえし」
「お前はそう思ってても、じいさんはその気かもしれねえじゃねえか」
「そんなこと、ねえと思う」
サンジは一旦言葉を区切ってから、少し言いにくそうに俯いた。
「例えば、俺を店に縛り付けるつもりなら、ここに来ること許したりしないと思う」
あのジジイなら・・・と続いた言葉に、ゾロはふむと頷いて腕に顎を乗せた。
多分、サンジは店や家に縛られているのではないのだ。
一度会ったきりだが、あの時の印象だけで判断しても、サンジの祖父はゾロの存在を歓迎してくれていたように思える。
むしろ、サンジ自身が家や店に依存しているのかもしれない。
そして祖父であるオーナーは、それを好い事と思っていないのだろう。

「なら、ここに来ないか」
ゾロはさり気なく、至極あっさりと言った。
あんまり自然だったからそのまま素直に頷きかけて、危うく留まり我に返る。
「えーと」
「もし、バラティエを継がなくていいのなら、こっちに越して来ないか」
「・・・」
思わぬ展開に、サンジは口を開けたまま固まってしまった。
その様子を見て、さすがにことを急ぎすぎたかとゾロは首を竦めて笑った。
「悪い、びっくりさせたな」
「うん」
ようようそれだけ声に出して、唇を閉じる。
なんだか喉がカラカラだ。
「そういう選択もアリだと、言いたかっただけだ」
「・・・」
「ここで俺が野菜売って、お前が美味い飯や菓子作って、んで、村の人が一服に来てくれて」
「・・・」
「隣でたしぎが得体の知れねえもん、売ってよ」
くすりと噴き出して、楽しげに目を細める。
「そういう暮らしもできたらなあって、俺の願望なんだが」
そう言って、またじっとこちらを見つめた。
今度は目が合わないように最初から視線を逸らして、空き家を眺める。

間口は少し狭いけど、店先に旬の野菜を並べて奥の土間に机や椅子を置いて、更に奥の間に座敷も用意できるだろうか。
キッチンはカウンター式で、村の人がちょっと一服しながらお茶を飲んだり小腹を満たしたり。
そんな暮らしを、俺がここで―――

じわりと湧き上がるような喜びが胸を満たして、サンジは知らぬ間に笑顔になっていた。
本当に、そんな風にできたらどんなにか楽しいだろう。
「ここに住むなら、店と同じ家賃になるのかな」
「住むのは俺んちだ」
断固たる口調で、ゾロが言い切る。
「一緒に暮らして、お前はここで店やって、俺はお前が使ったり売ったりする野菜を作る」
家からここまで車で5分。
駅からも歩いて5分。
悪くない立地だろう。
そう言って、なぜか得意そうに胸を張るゾロに、サンジはもう何も言えなくなった。

何勝手に一人で決めてんだよと、詰る声が出てこない。
その身勝手さすら、力強くて泣けてくるほど嬉しかった。
そんな風に自分を望んでくれることが、純粋に嬉しかった。

「俺と、暮らしたいか」
「おう」
「お前が食うもん作って、俺が料理して」
「一緒に店番して、時には一緒に草刈りとかもして」
「夏は虫がなあ」
「それが一番問題だな」
はははと声を合わせて笑ってから、サンジは両手を合わせて俯いた。

「あのなあ」
「うん」
「お前、俺のこと好きなのか」
「ああ、好きだ」
肯定してからもう一度、好きだと付け足した。
サンジは俯いて、もじもじと指を組み合わせてから、諦めたように息を吐いた。
「俺も、好きだ」
「そうか」
そりゃそうだろうと、ゾロはしたり顔で頷いている。
好きじゃなきゃ、こんなに頻繁に遊びになんて来ない。
いきつけの田舎だからとか、癒しを求めてとか、そんな理由じゃ成り立たないくらい、密度の濃い幾たびもの来訪だ。
改めて声に出して確認しただけのこと、そんな余裕さえ見せるゾロを前にして、サンジの表情は少しずつ曇っていく。

「けどなあ・・・ごめん」
「謝るな」
なにをと尋ねる前に、ゾロはぴしゃりと言い放った。
「お前は謝らなくていい。何一つ、謝らなきゃならないことはしてねえ」
「けど」
「俺はな、お前と一緒にいられるのが楽しい。ずっと一緒にいられたらと思うし、今だって帰したくねえと思ってる」
あまりにストレートな物言いに、サンジは頬を赤らめて下を向いた。
ここが、軽トラの中で本当によかった。
「だから、一緒に暮らそうって思ったんだ。それだけだ、お前に負担を掛ける気はねえ」
「負担なんて」
「だから、お前も自分がしたいことをすればいい。もし、俺と一緒にいたいと思ってくれるなら、そうしてくれ」
ああもう、下手に出ているように見えて、有無を言わさぬ状況じゃないか。
声もなくあ〜とかう〜とか呻いている横で、ゾロは徐にイグニッションキーを回した。
「時間だ。駅に行くぞ」
「ええ?!」
そっちのが唐突過ぎて、サンジは真っ赤な顔のまま振り向く。
興奮したのか、前髪が逆立ってぽわぽわと浮いている。
「まだ春からの話しだし、そういう予定も立てられるぞってことだから、参考までに考えておいてくれ」
「う〜〜〜〜」今度は声に出して唸ってから、サンジはああもうと両手で頬を擦った。
「なんかもう、腹立つ」
「なんで。提案しただけじゃねえか、ゆっくり考えろよ。こういう場所もあるぞって言っただけだから、別にこの物件じゃなくてもいいし、他にも空き家はいっぱいあるしな。うちの田んぼの近くにも一軒家があるぞ。あれは農家レストランとかいいかもな」
「農家レストラン・・・」
再びぼうっと夢見る目つきになったサンジは、また慌てて髪をかき混ぜくああああと一人呻く。
「なんでそう言う事を、間際になって言うんだよ。たっぷり時間あったのに、ずっと二人で過ごしてたのに」
「別に急ぐ話じゃないからだ。それに、お前が街に帰って店のこととか色々、現実の世界で生活しながらゆっくり考えた方がいいとも思う。じいさんとも相談してな、お前一人で決めていいことじゃねえ」
勿論、俺一人で決めていいことでもねえしと付け足した。
「そりゃあそうだろうけどさ、あああもうう」
焦るサンジとは対照的に、ゾロは余裕でハンドルを繰って駅のまん前に車を止めた。
「ちょっとゆっくり話しすぎたな。急げ」
「くそう!」
別れを惜しむ時間もないのかと、サンジは半分やけくそで軽トラを降りて勢いよくドアを閉める。
荷台から取った荷物を肩に掛けると、ゾロが窓を下ろして身を乗り出した。
「決めるのはいつだっていいんだ。俺はずっとここにいるし、ずっと待ってる」

サンジは背を向けたまま、了解のつもりで片手を挙げ、駅に向かって走っていった。
背けた頬も髪から覗く耳も真っ赤に染まっていたけれど、それはきっと寒さからくるものだけではないだろう。
ゾロはそう確信して、多分自分もそうなっているだろう火照った頬を乱暴に袖で拭った。

晴れた空には、気まぐれに風花が舞っている。


END


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