Midnight Mirage

「ウミワタゲの胞子?」
「そう、この辺りの海域に多く棲息しているようよ、ウミワタゲ」

ロビンによれば、珊瑚の一種らしい。
産卵期に海上に浮かんだ卵が陽光を受けて開花(?)し、微量の胞子を発散する。
それを人が吸い込むと、軽い幻覚症状に陥るとか。

「それが、とても突拍子もない光景であったりするので、すぐに幻覚とわかるのですって。
 だからそれほど危険視はされてないみたい」
「でも幻覚は幻覚でしょ。何も知らなかったらパニックになったり、航行に支障を来たすんじゃないかしら」
「そうね・・・予備知識がないと・・・」
顎に手を掛けて首を傾げたロビンの背後には、晴れた空とどこまでも続く海が広がっている。
けれどその空の部分だけ不意にピンクに染まって、そこだけ切取ったかのように白い雲が巨大な蜘蛛の形に
浮かび上がった。
「うおっ、すげー」
思わず目を輝かせて歓喜の声を上げたのはウソップただ一人。
他のメンバーは気付いてないのか知らぬ顔をしているし、同じ方向を見ているはずのサンジはなんの反応もない。
そうか、これが幻覚か。
もしも三人共同じものが見えていたら、パニックどころじゃ済まないだろう。

「うほっ!」
いきなりルフィが羊頭の上で立ち上がった。
「う、ううううまほーーーーっ!!」
一声叫んでそのまま海中へとジャンプ。
「このバカーーっ」
ナミの悲鳴と共に、とりあえずゾロが飛び込んだ。










「明らかな幻覚とは言え、気を付けなくてはね」
呆れたロビンの声に、ナミは頭を抑えたまま頷いている。
引き上げられた船長の証言によると、いつの間にか近付いて来たカヌーの中で、たこ焼きが一列に並んで
一心不乱にボートを漕いで来たのだという。
湯気が上がってそれは美味そうだったと。
「バッカじゃないの!なんでたこ焼きがカヌー漕ぐのよ。しかもなんで湯気出してんのよ。しかもあんたそれを食べるの?!」
その後も空高く象の行列が歩いて行ったとか、ナミの尻に黒い尻尾が生えて見えたとか、あることないこと報告があって、
船長のみならずクルー全員の船外への外出を禁じられた。
この海域自体これといった危険性はなく、海流が速いため放って置いてもすぐに通り抜けるのだ。
一定に留まる方が難しい場所で、他の船と行き逢うこともない。

「いい、いちいち騒いでても疲れるだけだから、何見ても知らん顔するのよ。報告も必要なし。見張りもいらないから、
 各自目を閉じて口も塞いで、大人しく休むこと。いいわね」
船長代行の航海士の言葉に大人しく頷き、その日は早めに就寝した。









一眠りした後、ウソップはぱちりと目を覚ました。
真っ暗な船内では時間は分からないが、まだ真夜中のようだ。

あ〜ションベン・・・
ふらふらと立ち上がり、寝惚け眼のまま部屋を出る。
トイレを済ませ、ふと海を眺めたら暗い波間に隅で塗りつぶしたかのような暗闇がある。
ん・・・月もねえのか?
いや、月はある。
綺麗な三日月が煌々と辺りを照らし、輝く水面は昼間とまた違う美しさを見せていた。
んじゃあ・・・
真っ黒な闇がうねった。
なんだ?
うねうねとくねる動きは触手のようだ。
しかし太い。
せっかくの幻影だからとウソップは冷静に目を凝らした。
よくは見えないが形から察するにタコっぽい。
かなりのオオダコ。
空島タコより丸くて太い。
かなり愛嬌のある形だ。

「あーもう、こんなん見てもぎょっともしねえな。慣れってこえー」
出したら喉が渇いたと、ラウンジに足を向ける。
まだ灯りが点いていた。
随分眠ったように思ったが、まだ宵の口らしい。

サンジいんなら、なんか食わして貰うかなー
灯りに誘われるようにふらふらと近付いて、ふと足を止めた。

なんか・・・変なモノが見える。
テーブルに小皿と酒を並べて、飲んでいるのはゾロだ。
仲良く晩酌なんて珍しいなと思ったが、それどころではなかった。
ゾロとつまみの間、正確にはテーブルの手前、ゾロの膝の上にサンジがいる。
太股に腰を下ろして片足はぶらぶらと揺らして。
まるでそこが自分の定位置のように、ごくナチュラルに腰掛けて言葉を交わしていた。
それも、くっ付きそうなほどに顔を寄せ合って、微笑みなんかたたえちゃったりして・・・

すげ――――
ヘンテコばかり見慣れた今日でも、これは素直に驚いた。
こんな幻覚も、ありなんだ。
あり得ない二人が、あり得ない状態でお膝抱っこアンド見つめ合い。
ウミワタゲの威力たあたいしたもんだ。

ゾロが小皿から一切れ箸でつまみ、サンジの口元に持っていった。
まるで餌をついばむ雛のように、ゾロの首に両腕を回したままサンジがぱくりとそれに食いつく。
もぐもぐもぐ咀嚼するサンジにゾロは柔らかに微笑んだ。
「美味えか?」
「当たり前だろ」
また二人でくすりと肩を揺らして笑い合う。

痒いっ!
俺は今、モーレツにどこかが痒い!!

今度はゾロは、ワインの瓶ごと呷り口に含むと、首を傾けてサンジに口付けた。
こくんと、反らされた白い喉仏が上下する。
口端を色付いた液がひと筋流れ落ち、顎を支えたゾロの指先を濡らす。
「美味えか・・・」
「・・・ん」
鼻にかかった吐息のような応えが、一層艶めいて響いた。
ゾロの頭にくたんと首を凭れ掛けて、サンジは色付いた頬を晒して深く息をつく。
それに構わず、ゾロはもう一口瓶を呷ると、またサンジに覆いかぶさった。

「もう、無理・・・」
「・・・熱ちい、な・・・」
いや、なんか熱いのはこっちだよ。
っつうか、もうどこもかしこも痒いは寒いは変な汗は出るわ・・・
ウミワタゲ恐るべし――――
ウソップはもう一度心の中でそう呟いて、後ずさりしながら男部屋に戻った。

部屋に戻ったら、中にはルフィとチョッパーしかいなかった。
幻影って、ここまで徹底してるんだろうか。















明けて快晴。
結局そのまま寝たんだか寝不足なんだかわからないような、曇った頭のままウソップは朝食の席に着いた。
寝ぼけ眼を見咎めて、チョッパーが心配してくれる。
「大丈夫か、昨夜眠れなかったのか?」
「いや〜ションベンに起きたらよ、やっぱ変なもん見ちまって・・・」
「お、今度はなにを見たんだ?」
ルフィがキラキラ眼を輝かせている。
「ん?あ〜〜〜・・・巨大ダコ」
「珍しくねえじゃねえか」
「いや、もう珍しさを俺は求めたくねえ」
げんなりして会話する気力もなさそうなウソップに、ナミが頭の上から声を掛ける。

「あらウソップそれ何時頃?ウミワタゲの海域は、昨日の日付が変わる頃にはとっくに通り抜けてたのよ」
「え?」
驚きのあまり、素っ頓狂な声が出た。
「思いのほか風が強くてね、まあ暫くは風下にまで胞子が流れ込んでいたでしょうけど、それを計算しても夜中には
 通常に戻ってたはずよ」
「んじゃあ、大ダコってのも本物だったんじゃあ・・・」
「くそう!ウソップ、なんで起こさなかったんだ!!そのタコ一匹でどれだけたこ焼が食えたと思って・・・」
「たこ焼から離れなさい」

やいのやいのと騒がしいクルーを目の前にして、ウソップは一人驚愕の形のまま固まっていた。
もう、ウミワタゲの海域は出てたって・・・
幻影はなかったって・・・
んじゃ、その後に見た、あれは?
あ・れ・は?

ギ、ギ・・・と音が出そうなほどぎこちない動きで首を巡らせる。
視線の先はレードルを掻き混ぜるサンジの後ろ姿と、知らぬ顔で味噌汁を飲んでいるゾロ。
なんら変わりない、日常通りの二人。

まさか、な――――


アレは夢だ。
すべてウミワタゲの残存が見せた幻だ。

ウソップはそう、硬く固く自分に言い聞かせ、すべてをなかったことにした。





END