繭の檻 7


もう二度と、目覚めるはずのない闇に身を置く筈だった。
最後に焼き付けたものは、愛しい人の残像。
最後に口にしたものは、愛しい人の作った料理。
これほどに、幸福なことがあるだろうか。



鬼と呼ばれたこの俺が、こんな死に様をしていいのだろうか。
誰に、懺悔するというのか。
神も仏もいやしないのに。

俺にとって、すべてはあの人だけだから――――



この上もなく幸福だ。
どうかこのまま、眠らせてくれ。
目覚めたくはない。
裏切りを、目にしたくはない。
たった一人の人なんだ。
俺のすべてなんだ。
これ以上、俺から奪わないでくれ。
やっと手に入れた愛を――――














白い光が俺を包む。

起こさないで、俺を呼ぶな。



















目を焼くほどの眩しさを覚えたのに、実際にはカーテン越しに届く柔らかな光だった。
風にはためく度に、天井に奇妙な紋様を映しては消える。
それをぼんやりと眺めて、不意に傍にあった気配に気が付いた。
信じられない思いで、目を見開く。

ベッドサイドの椅子に凭れて、サンジさんは眠っている。
俺のシャツを羽織り、白い脚はそのままに投げ出して、ずり落ちそうなほどに深くだらしなく眠っている。
最後に見た時のまま、頬はこけ襟元から覗いた鎖骨は浮いて尖って見える。
けれど、朝日の中でまどろむサンジさんの姿は、一枚の絵のように美しい。
俺は寝そべったまま、ぼうっとその姿に見蕩れた。


半時ほどそうしていただろうか、サンジさんがふと瞬きをして、ゆっくりと顔を上げた。
固まった身体を解すようにゆっくりと肩を動かし、ずり落ちた腰を浮かせる。
俺と目が合って、「お」と声に出して呟いた。

「気が付きやがったか。運の強え奴だ。」
にかりと笑う、その笑顔は最初に出会った頃のままだ。
俺はぱちくりと瞬きをして、しげしげとその顔を見た。


長い夢を、見ていたような気がする。
ひどく悪い夢を。
幸福な悪夢を。






「気分はどうだ?最低か?」
サンジさんはタバコを咥えて、椅子から立ち上がった。
足取りはふらついている。
まだ、回復してはいないのだ。
俺のやったことは、夢じゃなかった。
なら、なぜ俺は生きている。
しかも、何故かずいぶんとすっきりして、まるで憑き物でも取れたみたいに頭が軽い。
数ヶ月前からずっと続いていた頭痛が、嘘のように治まっている。

手を翳して首を傾げた俺に、サンジさんは子供のように声を立てて笑った。
「悪かったなあ、一服盛って。けどうまく行ったな。あれマジで死ぬかもしんなかったんだ。ごめんな。」
易々とそう言って、サンジさんはトレイに皿を載せて盛って来てくれた。
どうして?
俺は混乱して、身体を起こすこともできない。


「お前の様子がおかしいのは、途中からわかってた。酷い頭痛がずっとあっただろう。」
言われて素直に頷いた。
俺の目は、瞬きも忘れて見開きっぱなしだ。

「前パラティエにいたときに、同じ症状の奴を見たことがあったんだ。シトラってえ、毒の一種だよ。軽い催眠状態を持続するために使うものだ。依存性はないけど、飲み込んだ本体を吐き出さなければ効力を消すことができない。」
「・・・」
サンジさんが、何を言っているのかわからない。
「さすが卑怯なクリークってとこかな。おい怒るなよ。お前、なんか知らねえとか言いながらカプセルをずっと飲んでたろう。クリークに持たされたからって、ああいうの疑わねえのが俺にとっちゃ信じられないとこなんだよなあ。」
言いながら、湯気の立つ食い物をゆっくりとかき混ぜている。
「あん中にシトラが入ってたんだよ。食っちまったら絶対出るからな、毎日飲んでりゃ身体ん中にあるよなあ。症状は軽い酩酊状態、突発的な興奮。自己判断の欠如、そして催眠を施した者への服従――――」



なにを言っているのかと、俺は目を瞬かせるしかできなかった。
催眠だって?
ドンから貰ったカプセル。
あれは確か俺が酷い頭痛に悩まされていたからで・・・
いや待てよ、あれを飲み始めてから始まった頭痛だったか、それすらもう定かではなくなっている―――

「シトラを解毒させる作用のある薬草が、安物の防虫剤の中に含まれてるって船医に教えてもらっててさ。駄目元で仕込んでみた。ほんとに駄目元だ。一歩間違えりゃてめえは死んでる。うまくいってよかったなあ。」
あっけらかんとサンジさんが笑う。
なんでもないことのように。
俺は自分が殺されかけたって事実よりも、サンジさんがそうまでして俺を救おうとしてくれたことがショックだった。
あんなにも、ひどいことをしたのに。



額に手を当てて黙り込んだ俺の肩にサンジさんは手を添えて、抱き起こそうと試みた。
慌てて自分から跳ね起きる。
身体は鉛のように重く強張っていたが、これ以上サンジさんの手を煩わせたくない。

俺の目の前に、美味そうに湯気を立てたスープが置かれた。
「ゆっくりでいいぞ。今度は毒なんか入ってねえから、安心して飲めよ。」
ほんの少し、サンジさんは悲しそうな顔をした。
俺を助けるためとは言え料理人であるその手で、毒を仕込む真似をしたのだ。
どんなにか不本意で辛かったことだろう。

「すまねえ、サンジさん。」
俺は暖かなスープに顔を突っ込むようにして頭を下げた。
俺のしでかしたことは、到底許してもらえるはずのないことだ。
八つ裂きにされたって文句の言えない。
それなのに、生きてる価値もねえ俺に、サンジさんは変わらず食い物を差し出してくれている。
なんでだ・・・
疑問より感激よりも、俺の胸を締め付けるのは純粋な痛み。

俺は、取り返しのつかないことをしてしまった。
例えサンジさんが許してくれたって、俺は自分が許せねえ。




不意に大変なことを思い出して顔を上げた。

「サンジさん、今日は何日だ。俺はどんだけ寝てたんだ?」
その勢いに圧倒されるように仰け反って、咥えていたタバコを灰皿に押し付ける。
「ええと、3日目の朝くらいか。今日は。」
「なんだって?」
ざっと顔から血の気が引く。
「なんてこったサンジさん、もう期限が過ぎてる。あんたの船が行っちまうっ・・・」
サンジさんをこの部屋に連れ込んで、もう1月はゆうに超えてる。
最初はここで飼い殺すつもりだったけど、正気に戻った今じゃとんでもないことだ。
こんなことで償いになるはずがないけれど、なんとしてもこの人を船に、あの仲間たちの元に帰してやらなければ―――

「大丈夫だって、2日や3日や1週間くらい遅れたってあいつらは俺を置いて行ったりしねえよ。今更急いでも同じことだ。まずはてめえが身体を治せ。それに・・・」
新しくタバコを取り出して、火を点けずに弄ぶ。
「久しぶりに食った俺の料理が、毒入りだけなんてあんまりだろうが。」
トーンを抑えた呟きに、胸が詰まる。

唇を噛んで堪えたら、鼻水が垂れてきた。
俺はシーツを手繰り寄せて、汗を拭くつもりで顔を拭った。
指が、震えている。
情けねえ。
情けねえが、俺はもうこんな奇跡のような人を目の前にして、詫びることも死ぬことも、できそうにない。

「サンジさん。」
「うん?」
「あんたを船に帰します。」
「ああ。」
「そして、ちゃんとケリをつけます。」
「ああ」
「約束、します。」
「いいよそんなの。」
「・・・約束、させてください。」
「ああー・・・はいはい、んじゃ約束。」

目の前に、白い小指が立てられた。
両目が寄るくらいにそれを凝視して、身じろぎすらできなくなった。
シーツを握り締めた拳の中で、汗がじっとりと浮いている。

「約束、しねえの?」
サンジさんは、首を傾げ問いかける。
少し顎の尖った顔はまだ青白く、目の下が隈になっている。
本当は、こうしてベッドに寝て滋養をつけるべきはサンジさんの方なんだ。

「あんたにはもう、それこそ指一本触れないよ。」
あの狂おしいまでの甘美で陰惨な悪夢は、俺だけが背負っていこう。
「約束はしない。俺だけの誓いにするよ。だから、あんたは忘れてくれ。」
それは、あまりにも都合のいい願いだけれど。
サンジさんは呆れたように笑って、それでも静かに頷いてくれた。

こんなにも綺麗な人が、この世に存在するなんて―――
これは、奇跡だろうか。
本当は、幻だろうか。

偽善だろうと、自己満足だろうと、まやかしの笑みであろうと、この存在自体が光そのものだ。
この眩しさの前ではもう、己の醜さを恥じ、恐れ、ひれ伏すことしかできないだろう。




けれど、それでも―――

このまま時が止まればいいと、願わずにいられない。






俺は未だ、檻の中にいる。

暖かく柔らかく、淫靡な夢を繰り返し映す、繭の檻の中に。








恐らくは、永遠に―――



END




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