ユリイカ 〜ハンシン〜


 フワフワと白い雪が舞う中、サンジはそれを見つけた。

「……だ! 逃げろ!」
 誰かが、とても身近でとても大切な人がそう言う。
 だから俺は走る。理由は分からない。言われたからただ走る。
 何から逃げるのか。何故逃げるのか。逃げてその先はどうなるのか――。
 何も分からない。
 でも俺は、振り返らずに走り続けた。
 そうして見た。
 寒くもないのに、ふわふわと柔らかく白い雪が辺り一面に舞っているのを。


「――ッ!」
 深夜、サンジは小さな悲鳴と共に飛び起きた。
「……」
 体が汗でびっしょりだ。心臓も早鐘を打っている。
 何か嫌な夢を見たような気がするけれど――、思い出せない。
 ただ、ものすごい恐怖と焦りと、足元に深い穴が開いたような悲しみと絶望を感じたような。
 うるさいほどにドクドクいっている心臓を鎮めるように、サンジは寝巻きの上から胸に手を当てた。自分が今どこにいるのか、確認するように視線を動かす。
 見慣れた木の床、見慣れた作り付けのクローゼット、立て付けの悪い窓からは微かに外からの明かりが差し込んでいるが、今夜は月が新月に近いのかほぼ真っ暗だ。
 ここは自分達の家だ。引越しを繰り返しているため、極端に物の少ない部屋。家具は元々この家に置いてあったもので、自分達のものといえば、少しの衣服とお金と、野宿するときのために寝袋と携帯コンロ、小さな鍋、それだけが財産。
 ガランと殺風景な室内を確認して、サンジは安心したように長い息を吐いた。
 そのとき――。
 ガタン!
 隣りの部屋から何かがぶつかったような音がした。
 緩んだ気が一瞬で緊張する。ジッと息を詰めて隣りの部屋へ続く扉を見つめた。
 カタ。
 また小さく音がした。間違いない。誰かいる。ネズミではない。
 サンジは気配を殺して静かにベッドから出ると、足音を忍ばせて扉に近付いた。
 こんな家に入っても盗るものなんて何もないのに、バカな泥棒だと心の中で思う。一、二発蹴ってやれば相手も懲りるだろう。
 サンジは心の中でカウントをとり、勢いよく扉を開けた。
「誰だ!」
 部屋の中の人影が慌てたように体勢を崩した。それに向かって突進する。
「うわ、待て待て、俺だ」
 聞き慣れた声がした。
「……ゾロ?」
 室内が暗くてよく見えないが、確かにゾロの声だった。
 サンジは手探りでランタンを掴んで灯心に火を点けた。ボッと小さく音がして、室内がほの明るくなる。
「ゾロ、どうしたんだよ。帰ってくるのは明日……てか、今日の昼じゃなかったか?」
「ああ、予定より早く仕事が終わったから、その足で帰ってきた」
「そうだったか。で、何でコソコソ帰ってくんだよ」
「完全に夜中になっちまったから起こしたら悪いと思って――、あんまり暗くて何かに足をぶつけちまった」
「ああ、野菜だ。――それにしても水くせェな。そんな気を使うような仲じゃねェだろ。起こせばいいじゃねェかよ」
「結局起こしちまったからな。そうすりゃ良かった」
 ゾロが頭をガリガリと掻きながらサンジに近付いてくる。
「お帰り」
 すぐ目の前まで来たゾロにそう言いながら、閉じられた左目にキスをした。腰にゾロの手が回る。
「ただいま」
 抱きしめられて、サンジは嬉しさに微笑んだ。
「腹は?」
「いや、飯よりも――」
 腰に回された手にグッと力がこもる。そのまま押されるようにして寝室へ連れて行かれ、ベッドに倒れこんだ。
 寝巻き代わりのTシャツを脱がされ、ゾロの手が触れた部分が熱を持つ。
「二週間振りだ」
「ああ」
「すぐ欲しい」
「――、俺もだ」
 サンジが強請ると、一瞬の躊躇の後にゾロも同意する。同意するくせに、ゾロの行動はいつも丁寧だ。壊れ物、とまではいかないが、どうにかするとサンジの体が壊れてしまうとでも思っているのか、その行為はいつも優しい。
(ああ、まただ)
 いつも思う。ゾロを受け入れて、揺さぶられているときに、それはふと感じる。
 ゾロが今、自分に遠慮した。別にゾロの動きが変わるわけでも、何か言葉をかけられるわけでもない。
 でも感じる。ゾロの気持ちが一瞬揺らぐのを。感じ取れる。
 何に遠慮しているのか。何故遠慮するのか。自分には分からない。分かりたくてゾロの目を見ると、まるでそれから逃げようとするように体をひっくり返された。そうして背後から突き上げられサンジは喘いだ。
「ん、は、……あ」
 腰を高く上げた格好で枕に顔を埋めシーツを掴むと、ゾロの手が優しく背を撫でた。
(ああ、まただ)
 背後から自分を抱くとき、ゾロはいつもそうやって背中を撫で、そして決まってキスをする。まるでそこに何か、とても神聖なものがあるとでもいうように。恐れを抱いているかのように、とても恭しくキスをする。
 何故だろう。分からない。
 けれど、自分はゾロが好きで、ゾロも自分を好きなことは確かだ。
 サンジには、それで充分だった。


 サンジには身寄りと、十歳より前の記憶がない。
 そんなどこの馬の骨とも分からないサンジを、当時二十歳だったゾロが拾って育ててくれて九年経つ。その間、何度住まいを変えただろうか。長くて一年、短くて一ヶ月。その間、色んな人間がサンジに優しくしてくれた。
 ある女性は、サンジを養子にしたいと言い、ある男性はサンジを跡継ぎにしたいと言い、食べるものに困ったときは地主の男性が余るほどに食料を分けてくれた。住むところに、着るもの、生活に必要なあらゆるもの。それはサンジが困ったときに、いつも誰かが手を差し伸べてくれた。
 サンジはそんな優しい街の連中といつも少しの名残惜しさで別れる。 
 ゾロとサンジが体を重ねるようになったのは、ほぼ二年前からだ。それはまるでそうなるのが当然のことのように、サンジにとって何の抵抗もない自然な成り行きだった。
 ゾロが望むならサンジはそうする。
 まるで何かから逃げるように住まいを変えるのも、裸で抱き合うのも。ゾロが望むなら、それはサンジにとって苦でもなんでもない。喜んで従う。


 日が大分高くなってから起きてきたゾロは、テーブルの上に所狭しと並べられた料理の皿を見て目を丸くした。
「……また、すげェ量だな。どうしたんだ」
「昨日市場で買い物してたら、マットが分けてくれた」
 誰かに貰ったのだろうとはある程度予想していたのだろうが、聞いてしまうとやはりゾロの眉間には皺が寄る。
「あんまり、街の連中と馴れ合うなよ」
「……馴れ合うって別に、普通に近所づきあいだ。――ゾロのほうこそ、もっと皆と仲良くすればいいんじゃねェのか? そうすれば皆お前のことイイヤツだって分かるはずだ」
「俺は誰にどう思われようと構わん。お前の話をしてるんだ」
 ゾロがピシリと言う。
 ゾロの左目は開かない。いつどうしてそうなったのか、額から頬にかけて左目を傷が縦断している。いつも肌蹴て着ているシャツからは、胸を大きく斜めに走る傷がある。無口だし残った右目の目つきは悪いし、迫力はあるしで、いつどこの町でも皆怖がってゾロには近寄ってこない。
 サンジには皆親切にしてくれるのに、一緒にいるゾロのことは好き勝手に言ったりする。
 だがそれは、何も知らない人間がただ言っているだけのことで、どれも真実ではない。だってサンジは知っている。
 ゾロは自分を育ててくれた。結婚もしていない二十歳のゾロが、十歳の子供を拾って育てるということは、どれだけ大変なことだったろうか。血の繋がりがあるならまだしも、赤の他人で記憶もない。
 そんな自分を見捨てずにずっと一緒にいてくれる。
「俺は、お前が皆に心ないことを言われるのが嫌なんだよ。悔しいだろ。俺はお前がいなかったらきっと今頃生きてない。俺はお前に感謝してんだ。お前は恩人なんだ。それを色々言われるのは嫌だ」
「……俺に、恩なんて感じる必要はねェよ」
 ゾロが決まり悪そうに目を逸らす。
(ああ、まただ)
 これもいつものことだ。サンジがゾロのことを良いように言うと、いつも居心地悪そうな顔をする。照れているわけではない。気まずい、といった感じだ。
 ゾロが何故そんな顔をするのか、サンジには分からない。
「とにかく、街の連中とは必要以上に仲良くするな」
 それでその話は終わりだった。ゾロがイスに座り料理に手を伸ばす。仕方なくサンジもイスに座り、ゾロと一緒に遅い朝食を口に運んだ。


 夕方、サンジは商店街を歩いていた。ゾロの好きな酒を買い、肉屋の軒先でハムやソーセージなんかの加工品を物色していたら、ポンと肩を叩かれた。
「マット」
 振り向くと笑顔のマットがいた。この町の有力者の息子だが、奢ったところがなく素朴な青年だ。
「買い物?」
「酒のつまみを」
「ゾロが無事に帰ってきたんだな」
 サンジは笑って頷いた。
 ゾロは傭兵だ。どこの部隊にも所属せず短期間で条件のあった軍で仕事をする。どこの部隊にも所属しない傭兵は使い捨てだ。常に最前線へ送り込まれる。
 あの目の傷も、胸の傷も、きっとどこかの戦場で負ったのだろう。
「おじさん、これちょうだい」
 マットが辛味の効いたソーセージを手に取って金を払うと、それをサンジの手に持たせた。
「ゾロの帰還祝い」
「いいよ、今日は金があるし」
「いいって、サンジの笑顔が見られて得した気分だから」
「――どうも」
 戸惑いながらも礼を言い、サンジはそれを受け取った。これはゾロの好物だ。喜ぶだろうな、と思うとまた自然と笑顔になった。
「いいなァ、ゾロは。サンジを独り占めだな」
「――独り占めって……別に、家族だし」
 世間的に、サンジとゾロはいとこ同士ということにしてある。
 だがサンジは知っている。誰もそんな風に思っていないことを。
 ゾロの外見と性格、それに傭兵という仕事も手伝って、いつもどの町でも皆心ないことを言う。
『二人は血が繋がっていない』
 それは事実だし、どこをどう見ても似ている部分のない自分達がいとこだと信じてもらえないのは当然だろう。それはいい。
 だが、町で何か良くないことがあると、真っ先にゾロを疑ったり、ゾロのせいにしたり。
「そう言えば、山の向こうで半神同士の戦いがあったらしいよ」
「半神同士の?」
 半神とは、天使と人間の間に生まれた者を指す。天使と違い寿命を持ち、人間と同じ速度で年を取るが、その背には大きな羽根が生えている。
「……何で半神同士で?」
「白い半神と黒い半神だったって話だよ」
「黒い、ってことは堕天使」
「怖いよな。山の向こうにいたんだ。堕天使共が。すぐ近くに仲間がいるんじゃないかって皆言ってるよ」
「――ゾロは違うぞ。背中に羽根なんかない」
 サンジは一応そう言ってみた。マットが慌てたような顔をする。
「そんなつもりで言ったんじゃないよ。ごめんごめん」
 アハハ、と誤魔化すようにマットが笑った。
 町の連中が、ゾロを悪魔だ堕天使だと影で言っていることをサンジは知っている。ゾロが教会を嫌うのもそう言わせる理由の一つになっている。ゾロが教会を嫌うので、サンジも教会には近寄らないようにしている。
「これ、ありがとうな。じゃあここで」
 サンジは罰が悪そうなマットにソーセージの礼を言い、走ってその場を去った。


 家に帰るとゾロはベッドで寝ていた。戦場では落ち着いて休むことなどできないだろう。帰ってきたゾロは食べて寝て、飲んで寝て、日がな一日家で過ごし、サンジを抱いてまた眠る。
 サンジはベッドの端にそっと腰を下ろし、寝ているゾロの髪をゆっくりと梳いた。少し伸びた。風呂の後で切ってやろう。
 寝顔を見ながらそう思う。
『サンジは誘拐されたんじゃないかしら』
 いつだったか、どこかの町のおばさんが言っていた。
 そんなバカなと思う一方で、そなのだろうかとも思う。
 だからゾロは自分に遠慮するのだろうか。だから他人と仲良くするなと言うのだろうか。だから気まずそうな顔して、逃げるように住まいを変えるのだろうか。
 ゾロの目が薄く開いた。
「……サンジ」
「酒と、つまみ買ってきた」
「ああ、起きる」
 モソモソとゾロが身を起こす。
 もし自分が誘拐された身だとして、自分の両親はどうしたのだろうか。
「――どうした?」
 サンジの気がそぞろなことに気付いたゾロが、気遣わしげに聞いてきた。
「いや、何でもない」
 マットがソーセージを買ってくれたことは黙っていよう。サンジは笑って首を横に振った。


『――だ! 逃げろ!』
『お前はまだ――が――から大丈夫だ!』
 とても身近で、とても大切な人が言う。フワフワと白い雪が降る。でも不思議と寒くない。
 ああ、一体自分は何がどうだから大丈夫だと言ったのだろう。一体何から逃げろと言うのか。
 分からないけれど必死で走る。
 走って走って、でも逃げるって、どこへ――?


 また同じ夢。
 いつも肝心な部分が分からない。何だか背中がムズムズした。
 自分は一体何者なのだろうか。ゾロは何故、自分を拾って育ててくれたのだろう。


 今日はゾロも一緒に町の中心部へ出かけた。ゾロはいつも二週間ほど休んで、次の仕事を探し始める。町の掲示板には、大概傭兵募集の貼り紙がされている。
 サンジはゾロと分かれて商店街へ向かった。とりあえず、このまま自由行動でお互い帰るときに帰るといった感じだ。
「久しぶりだね」
 不意に声を掛けられた。マットだ。
「ああ、またゾロが仕事に出るからその前に。仕事中?」
「今日は有休」
「そうか、もうすぐ結婚するからその準備だな?」
 からかうように言うと、マットは困ったように笑い曖昧に頷いた。
「丘の上の教会だろ?」
「サンジは行ったことないんだっけ? 行ってみるといい。サンジにそっくりな天使の画が飾ってある」
「俺に?」
「そう、金髪で目が青くて」
「何だ、それ。そんなの他にもゴロゴロしてるだろ」
「違う違う、雰囲気がそっくりなんだ。何だったら今から行ってみる?」
 行ってみたい気はするけれども――。
「あ〜……今日はパス。時間がないんだ」
 ゾロが嫌がるから行けない。サンジは嘘を吐いた。
「そうか、残念。――ついでってわけじゃないけど、戦場へ行くゾロの無事を神に祈るといいと思ったんだけど」
 神に祈るなんてそんなこと考えたことなかった。何故だろう。ゾロが祈らないからだろうか。
 ゾロは、何故神に祈らないのだろうか。戦場で地獄を見るからだろうか。
 そんなことを考えながらマットと並んで歩く。商店街を抜けて大通りを終わった辺りにゾロが立っていた。
 サンジとマットが並んで歩いているのを見て、ゾロが僅かに目を細める。
「あ……、じゃあね、サンジ。また」
 マットが逃げるようにしてサンジから離れていく。サンジの前ではゾロを気遣うようなことを言っていても、本当は他の連中と同じようにゾロを恐れているのだ。
「ああ、また」
 小さな笑顔で応え、ああ失敗した、と思った。
 ゾロの機嫌が悪くなる。ゾロの言うことを聞かなかったと、きっとゾロを傷付けた。
「偶然会って、もうすぐ結婚するって言うから、その話を聞いてた」
 言い訳のようにそう言うと、幾分ゾロの表情は和らいだ。偶然という単語と、結婚するという単語がよかったのだろう。
「仕事は? ありそう?」
「ああ、明後日から二週間くらいだと思う」
「そう。すぐだね」
 他の連中と仲良くするなと言うのなら、ずっと自分と一緒にいてくれればいいのに、と思うけれど、生活するにはそうもいかない。
 そうして夜はベッドの上で裸で抱き合う。淡い月明かりだけの部屋で、背後からゾロを受け入れる。
「う、……あ」
 いつもより乱暴に抱かれ、サンジは僅かに眉を潜めた。それでも慣れた体は快感を拾い出す。
「は、あァ」
 膝に力を入れ腰を高く上げた。ゾロが抱えるようにサンジの尻を掴み、出し入れを繰り返す。
「あ、あ、ゾロ、いい、もっと……」
 もっと、もっと。無意識にそんな言葉が口から飛び出し、ゾロの動きが激しさを増した。
 イイところに当たるたびに背を逸らして喘ぐ。もうすぐ、きっとゾロは背中にキスをする。そう思ったら肩甲骨の辺りが変に疼いた。その感覚に小さく身を震わせると思ったとおり、ゾロが身を屈めサンジの背にキスをした。
 いつものように恭しく。激しい腰の動きからは考えられないくらい、それは泣きそうになるほど優しい行為だ。
 ゾロの唇が触れた背中が熱い。
「ゾロ……イク」
 枕に顔を埋め小さく宣言すると、ゾロが頷くのが分かった。
「ん、あ……あッ――……!」
 数回揺さぶられサンジが達すると、ゾロも小さく呻いてサンジの中で達した。


 寒くもないのフワフワと白い雪が降る中、サンジは小さな希望を見つけた。
『……ガキか。お前まだ――が――ないんだな』
 ああ、これで自分はもう一人じゃない。
 絶望と悲しみの中で、そう思ったような気がする。


 昼前。ゾロはまだ寝ている。サンジは一人で商店街へ買い物へ出かけた。家には何も置かないけれど、戦場では何かと備えがあったほうが周囲とも上手くいくだろう。そう思い、いつも生活必需品よりも多くの装備を持たせている気がする。今回も酒は外せない。そんなことを考えながら歩いていると、背後から聞きなれない声で呼び止められた。
 振り返ると、一人の女性が不安そうな、でも睨むような目でサンジを見ていた。
「え、と、……ルイーズ、さん?」
 確かマットの婚約者だ。顔は知っているが、話すのは初めてである。
「ちょっとお話があるんです。今、いいですか?」
「……」
 何だか思いつめたような声と表情で言われ、サンジは戸惑いながらも頷いた。すいません、とルイーズは小さく言い、人の少ない路地へサンジを促した。その背中へおとなしくついていったサンジは、やがてルイーズが向き直ったときの顔を見てギョッとした。目に涙が浮かんでいる。
「サンジ、お願いがあるの」
 涙ながらに言われて、再度ギョッとした。
「マットはこのままじゃきっとゾロにひどい目に遭わされるわ。そうなる前にゾロを止めて欲しいの」
「え、え? ルイーズ? ちょっと話がよく分からないんだけど」
 半泣きで話し始めたルイーズは興奮気味で、落ち着いてくれとサンジはなだめなければならなかった。
「マットが結婚をやめたいって。他に好きな人ができたからって」
「――えェ!?」
 昨日はそんなこと言っていなかった。驚くサンジに、ルイーズが更に驚くことを口にした。
「好きな人ってサンジのことでしょ?」
「俺? 何で? 俺男だよ」
「見てれば分かるもの。マットは最近サンジのことばっかり。私のことなんて全然……」
「え? ……え?」
「いとこなんて嘘だって知ってるわ。あの男はサンジに近付く人間にいつもイイ顔をしない。サンジのことが好きなんてあの男に知られたら、それこそ何をされるか」
「ルイーズ。確かにその、俺らはいとこじゃないけど、ゾロはそんな理由で誰かを傷付けたりはしない」
「嘘よ。じゃああの傷はどうしたの? あんな恐ろしい傷」
「あれは戦場で付いた傷だよ。ゾロは傭兵なんだ。いつも最前線へ行ってる」
「それも嘘よ。あれは刀の傷でしょ。戦場では銃を使うわ。あれは戦争の傷じゃないのよ」
「――――」
 サンジは虚を付かれ言葉を失った。
 確かにそうだ。ゾロの獲物が刀三本だから気付かなかった。ゾロはきっと戦場でも銃なんか使わない。だが他の兵士はどうだろうか。おそらくゾロのような刀を持っている兵士は少数派だろう。というか、ゾロの刀は珍しいもので、ゾロが持っているもの以外にサンジは見たことがない。
 ルイーズの言うとおりなら、ゾロのあの傷は一体いつどこで、誰にどうして――。
「ルイーズ!」
 急にどこからか鋭い声がして、サンジの疑問は宙に浮いた。バタバタという足音共にマットが路地を走ってくる。
「ルイーズ、何してるんだ!」
「だってマットが、私はあなたが心配で……、大体悪いのは」
「後で話そう。今は僕もサンジに話がある。あっちへ行っててくれ」
「私を邪魔者扱いするの!」
「サンジと話があるんだ」
 マットが厳しい口調で言い切ると、ルイーズはビクリと肩を跳ねさせ、怯えたように走り去っていった。
「……あんなに泣いて……、可哀相だ」
「いいんだ。彼女のああいう勝手で恩着せがましいところが嫌なんだ」
 いつも温和な彼からは想像もできない様子のマットに、サンジは戸惑いを隠せない。
「――それで、話って?」
 この数分で驚き戸惑うことが多すぎて、サンジの思考もストップ寸前だ。一つのことに拘っていられない心境だった。
「サンジ、もうゾロのところに戻ってはダメだ」
「あ?」
「このまま、僕のところにおいで」
 これまた予想もしないことを言われた。
「何言ってんだよ。訳分かんねェよ」
「サンジ、よく聞くんだ」
「聞いてるよ」
 サンジが渋面で答えると、マットはヨシというように何度か頷いて、真面目な顔で口を開いた。
「ゾロは、悪魔だ」
「――は?」
 今マットは何て言った? 悪魔? アクマ? 悪い魔?
「悪魔ってあの、神に反抗する、黒い羽根の生えてる、あれか?」
 そうだ、とマットが大きく頷いた。
「分からねェな。何でそんな話になるんだよ」
「皆言ってる。サンジが教会に行かないのはゾロのせいだろ」
 う、と言葉に詰まる。
「何でだ。何でゾロは教会を遠ざける」
「それは知らねェけど、それだけで悪魔は短絡的だろ」
「それだけじゃない。あの傷。あれはどう見ても死ぬはずの傷だ。医者をやってる叔父が首を捻ってた。あんな傷を負って生きていられるはずがないって」
「あれはちゃんと治ってる。……叔父さんが見たのは傷痕で、傷じゃないだろ」
「どうして治ったんだ。あれは手術の痕じゃない。自然に引っ付いたような痕だと叔父は言ってる」
「じゃあ、自然に引っ付いたんだ」
「だから、治るはずがないんだ。治る前に死んでしまう。そんな傷だと言っているんだよ」
 ああ、そうかもしれない。あの胸の傷も、目の傷も、決して浅くはないだろうとサンジにだって分かる。縫い合わせたものではないというのも分かる。あれは自然に引っ付いた。だからそれが余計にゾロを不気味に見せるのだ。
「悪魔なんだよ。だから死なない。だから治る。治療なんて必要ない」
 でも、そんなはずはない。サンジはブンブンと首を横に振った。
「ゾロが悪魔だとしたら、俺は何なんだ? 俺には身寄りがない。十歳より前の記憶もない。そんな俺をあいつは拾って育ててくれたんだ。食べる物に困ったときも、俺を優先して育ててくれた。悪魔がそんなことするのか?」
 今のセリフでゾロとはいとこじゃないと白状したようなものだが、もうどうでもいい。どうせ誰も信じていないのだから。それはマットも例外ではない。さっきのルイーズのセリフで分かる。
「サンジは、半神なんじゃないのか?」
「……は?」
「天使と人間の間に生まれた存在のことだよ」
「知ってるよ、そんなことは。でも、俺が天使と……人間の間に?」
 背中に悪寒が走った。頭がガンガンする。
「それは、そんなのは……違う。だって、俺の背中に羽根はない」
 いつもゾロがキスをする背中。
「ゾロに、斬られたんじゃないのか? ゾロのあの刀は、羽根を斬るためのものじゃないのか?」
 寒くもないのに、フワフワと白い雪が舞っていた。
「悪魔と神は敵対している。神の僕の天使だって悪魔からしたら敵だ。その羽根を切り取ってしまえば、もうその力は無になる」
 いつも恭しく、ゾロは背中にキスをする。まるでそこに、何か神聖なものがあるのだというように。
「でも、だったら、殺せばいい。羽根だけなんて言わずに、心臓を突けば終わる」
 そのチャンスは無数にあったはずだ。だってゾロは、背後から自分を抱くのだから。
「サンジはきっと人質なんだ」

『――だ! 逃げろ!』

 そう言ったのは誰だ? 走って走って、そこから自分はどうしただろう?
 頭痛と背中の痛みが激しくなってきた。
「――を呼んだ。もうすぐやってくるよ」
 今、何て? 何を呼んだとマットは言った?
 痛む頭を押さえながらマットを見る。
「イエーガー。悪魔を狩る特殊な力を持った存在だよ」
 何かが頭の中で弾けた。気付けばサンジは走っていた。後ろからマットの呼ぶ声がする。それを無視して、サンジは走り続けた。
 あのときのように。一人で、走って、走って――辿り着いたのは――。


 勢いよく扉を開けると、ゾロが険しい顔で振り向いた。床に、荷造りを終えた荷物が置いてあった。
「ゾロ、もう、発つのか? 予定では、明日だろ?」
「予定が変わった。仕事はやめだ。すぐにここを出る。お前も一緒だ」
 どうして? 何でそんな急に?
「急ぐぞ」
 ああ、本気だ。ゾロは本気で急いでいる。
 分かるのか? 追ってくるものの存在が分かるのか?
 だからいつも逃げるように住まいを変える。見つからないように?
 サンジは唇を噛んで扉の前に立った。
「サンジ、何してる。急ぐんだ」
「俺! 夢を見るんだ」
 ゾロが一瞬戸惑い、すぐにサンジをどかそうと肩を掴んできた。それに抗いながら更に言葉を続る。
「夢を、いつも同じ夢を見るんだ」
「夢の話なら後で聞く。とにかく今はここを出るんだ」
「誰かが逃げろって言うんだ。逃げろ、お前はまだ羽が生えてないから大丈夫だ。人間に紛れてしまえ」
 肩を掴んでいたゾロの手が、ギョッとしたように固まった。
「俺は走る。走って走って、でもどこへ行けばいいのか分からなくて、結局元の場所へ戻ってた」
「……」
「不思議なんだ。戻ったら、寒くもないのに雪がフワフワと舞ってるんだ」
「――後にしてくれ。今聞く必要はない」
 さっきよりは幾分力をなくした声で言い、それでもゾロはサンジの肩を掴んだ手に再び力を込めた。
「……ゾロは、いつもどこへ行ってるんだ?」
「どこって……戦場だ」
「誰と戦ってるんだ」
「色々だよ。そのときどきだ」
 ゾロが少しイライラしたのが分かった。
「その目の傷は? 胸は? いつどこで誰に付けられた?」
「そんなことは忘れた。昔々にどこかの戦場でだよ」
 何でそんな話をするんだと睨まれた。その目を見ながら、サンジは頭の痛みに耐え口を開いた。
「――俺の、家族を殺した?」
 ゾロが目を瞠る。頭痛が酷くて上手く呼吸ができない。体中がギシギシ言い出した。
「その傷、俺の仲間にやられたのか?」
「……何を言ってる」
 ゾロの顔色が白くなってきた。
「夢に見るんだ。体中血だらけで、動かない人達を」
 目を瞠ったままゾロが自分を見る。もう夢の話は後だとは言わない。
「ゾロは、そこにいた?」
「……」
「俺は、半神なんだと」
 決定的だった。ゾロが息を呑んで表情を変えた。うろたえている。ゾロには珍しい感情の揺れだ。
(ああ、そうだったのか)
 今になって全て思い当たる。
 ゾロが人との付き合いを制限させるのも、住まいを変える理由も、傭兵の仕事と称して留守にするのも、ときおり自分に遠慮するのも、背中に恭しくキスするの理由も――。
 もっとよく考えていればよかった。ゾロの行動の意味を。夢の光景の意味を。このバラバラになりそうな体の痛みは、そのまま心の痛みかもしれない。
 サンジがそう思ったとき、ゾロが突然何かに気付いたように天井を見た。
「行くぞ。時間がない」
(ああ、もう近くにいるのか)
 自分には分からない。けれどゾロには分かるのだ。それらの気配が。
「俺は、行かない。ゾロだけ行けよ」
 サンジは扉の前から体をずらし、ゾロのために道を開けた。
「バカ言うな! お前も一緒だ!」
 怒りながらゾロがサンジの腕を掴む。
 まだ俺を連れて行くつもりなのか。優しいのかバカなのかどっちだろう。おそらく両方だ。
 そんな男を、自分は本気で愛していたと信じたい。
「――俺、少し前から背中がおかしいんだ」
 腕を引っ張っていた力が緩んだ。ゾロが目を見開いてサンジを見る。
「体中、痛いんだ」
「……ダメだ、そんな……」
 ゾロが微かに首を横に振りながら小さく呟いたとき――。
「見つけたぞ! 堕天使!」
 鋭い声と共に、突然部屋の中に三人の男が現れた。皆背中に白い羽が生えている。
(ああ、そうだ。彼らがイエーガー)
 その姿を認めた瞬間、背中に鋭い痛みが走った。思わずその場に屈みこむ。頭上から「サンジ!」と、慌てたようなゾロの声がした。
 体中の骨格が、根本から変えられそうな衝撃。体中の細胞が変化する音が聞こえる気がした。
「いッ……つ、あ――――!」
 あまりの痛さに悲鳴を上げると、背中の痛みからも何かが吐き出されたのが分かった。
 見なくても、それが何なのかサンジには分かる。痛みのせいで乱れた呼吸のまま顔を上げると、ゾロが信じられないという顔でサンジを見下ろしていた。
(ああ、そんな顔をするなよ……)
 ゾロを安心させるために笑おうとして、その視界が滲んでいることに気付いた。揺れるゾロの顔にかぶさるようにして、サンジの目の前にフワフワと何かが舞い落ちてきた。
(ああ、そうだ。これが、俺の姿)
 それは、黒い羽根。
 それを見ながら思い出す。あの日、自分達はイエーガーに狩られたのだ。羽の生えていなかった自分は、人間に紛れられると大人が言ったから、走って逃げたけれど結局のところ、たった一人でどうしていいのか分からず、また村へ戻ると既に狩りは終わっていた。
 皆、羽根を斬られて死んでいた。皆の黒い羽根が散乱する中、珍しい白い羽根を見た。見たことのなかったそれを、自分は雪と勘違いしたのだ。
 黒い羽根の仲間は、殺られるばかりではなかった。イエーガー達の羽根も切り取ることで一矢報いていたのだ。地面に転がる死体の中には、サンジの知らない顔が幾らか混じっていた。
 地面が見えないほどに死体があるのに、ここには誰もいない。自分は一人きりだ。また白い羽根がやってきたら、今度こそ自分は狩られてしまう。
 その恐怖と絶望で崩れ落ちそうになったとき、どこからか小さな呻き声が聞こえてきた。ハッとして声のしたほうを見る。
 知らない人間だ。それはつまり、狩るほうの存在、イエーガーだということだ。サンジはゆっくりと呻き声の主に近付いていった。
 顔も体も血まみれだ。死ぬのは時間の問題な気がした。それでも、サンジは思わず聞いていた。
「……生きてるの?」
「……う、ガキ……か?」
 残った右目がサンジを見る。
「お、まえ……、まだ、羽根が、生えて……ねェのか」
「――死ぬの? 俺を、殺す?」
 ずっとこの村で黒い羽根の仲間と共に生きてきた。羽根のない人間の社会のことは分からない。この男は元気になったら自分を殺すかもしれない。だが、今自分が生きていくための希望でもあった。
 だってこの男が生きるならば、自分は一人ではない。
「し、なねェし……羽根の、生えてねェ、ガキは……殺さねェ」
「死なない? 本当?」
「ああ、安心しろ。……ちょっと休めば……動ける」
 男が血まみれの顔で笑いながらそう言ったので、サンジも安心して微笑んで――その後の記憶はない。


「こいつの羽根は今生えたばっかだ! まだ何もしてねェ!」
 ゾロとの出会いの瞬間を思い出していたサンジの目に、庇うように手を広げるゾロの姿が飛び込んできた。
「そう思うことが既に囚われているんだ!」
「お前もイエーガーなら使命を思い出せ!」
「ロロノア! 庇い立てするとお前も狩ることになるぞ」
「上等だよ、テメェら! 俺に勝てるつもりかよ!」
 ゾロが刀を抜いた。やっぱりその刀は、羽根を斬るためのものだったんだな。
「完全に取り込まれたか」
「お前ほどのものが……」
 一人が口惜しそうに言うと、三人は憎悪の目でサンジを見た。
「ロロノア、冷静になれ。羽根が生えていなくても、無意識に周囲を利用するように生まれついたのが堕天使だ。お前も羽根が生えていないのに、半神としての力を持っているように」
「俺は利用されたんじゃねェ。利用されてやったんだ。俺の行動は俺の責任だ。誰のせいでもねェ」
 自分を庇うゾロの背中が涙で滲んでよく見えない。
 そうだ、自分は利用した。生きていくために、ゾロを利用したのだ。
 愛していると思ったのは幻なのか。自分は黒い半神で、ゾロは白い半神で、そうでなければ自分はゾロを愛さなかったのだろうか。
 そうかもしれない。ゾロがただの人間で、イエーガーから自分を守る力を持たない非力な存在だったなら、自分はゾロを歯牙にもかけなかったかもしれない。近所付き合いだって、そのほうが人間らしくて目くらましになるからだ。
 自分は誰も好きじゃない。ただ生きていくために、殺されないために、無意識に選択する。周囲の良心を、親切を。
 ゾロが懸念していたのは、自分には意識するしないに関わらず人間を惑わす力を持っているということだったのだ。
 だから必要以上に人間に近付くなと、堕天になるなよと言っていたのだ。
 それなのに、もしかしたら自分はこの男を心底から愛したわけではないのかもしれない。
 自分の命の危機よりも、黒い羽根が生えた衝撃よりも、ゾロが自分の仲間を殺した事実よりも、そのことが無性に悲しかった。
 涙が溢れて止まらない。嗚咽が漏れた。
 ゾロが三人から自分を守るために刀を振るっている。ゾロは強い。一人のイエーガーの刀が弾かれてその手を離れた。弧を描いてサンジの手の届く位置に落ちてくるのが、スローモーションのように見える。
 ほとんど無意識に手を伸ばしていた。堕天使の自分が言うのも変だが、これは神の意思のように思えた。
 すっぽりと手に収まった抜き身の刀。これは、羽根を切り取るためのもの。
「――サンジ!?」
 飛んだ刀の行方を目で追っていたゾロが、驚いたように名前を呼んだ。
「この羽根が、欲しいんだろ?」
 仲間は皆、羽根を斬られていた。
「やるよ。俺は、いらねェから」
 言うと腕を回して背中の羽根のできるだけ付け根に刃を滑らせた。
 こんな大きな刀を扱うのは初めてだけど、この刀が自分の手を傷付けずに掌に収まった時点で結果は見えている。神は味方したのか、見放したのか、サンジの望みどおり羽根は背中から切り離された。さっきよりも鋭い痛みが走る。
「サンジ!!」
 ゾロの焦った声。その場に倒れこんだサンジを、ゾロが抱き起こし怒ったように言う。けれどもその顔は、泣きそうに見えた。
「バカ、お前! 羽根を斬るってことがどういうことか知ってんのか!」
「……よく知らねェ、けど、人間の首みたいなもんだろ?」
「分かってるなら、何で……」
 どうして、とゾロが言葉をなくす。イエーガー達も驚いたように動かない。
「どうせ、……いらねェし」
「いらねェって……」
「お前を、好きなはずだ。俺は、お前が好きなはずなんだ」
 ゾロが息を呑んだ。
「だから、羽根はいらねェんだ」
 体から羽根が離れた今も、ゾロが好きだと心が叫んでいる。まだ羽根が離れて間もないから、これは心の残像だろうか?
 ああ、でも今この瞬間、自分は間違いなくゾロが好きだ。
 ゾロの表情がぐしゃりと歪んだのが見えた。
(ああ、お前は、そんな顔もするんだな)
 サンジはゾロに看取られる幸福に、小さく笑った。


 フワフワと白い羽が舞っている。
「サンジ」
 落ちてくる羽を見上げていたら、背後から名前を呼ばれた。振り返るとそばかすだらけの人懐こい笑顔を浮かべ、背中に黒い羽根を生やした男が手を上げながら近付いてきた。エースだ。
「明日辺りゾロ戻ってくるぞ」
「本当か?」
「ああ」
 頷いたエースに、サンジは満面の笑顔を見せた。
 ここは地上のパラダイス。黒の半神と白の半神が共存する、不思議な場所である。もちろん馴染めずに去っていく者や反逆する者もいるが、概ね平和である。
「背中は痛まないか? まだ完治してねェんだから、ちゃんとチョッパーに診せろよ」
「分かってるよ」
「後、カウンセリングもな。――サンジは今何歳だ?」
「十七だ」
 答えると、エースは眩しいものを見るように目を細め、そうか、と柔らかく笑った。
「来月には実年齢に追いつきそうだな」
 サンジの背中には、羽根を切り取った痕がある。大きな傷でまだ完治はしていない。何故羽根が切り取られたのか、サンジには記憶がない。羽根が切り取られたときに、サンジの記憶は十歳まで後退した。今はもう一度十歳からの時間を急ぎ足で成長しているところだ。
「嬉しいか?」
「ん?」
「ゾロの帰りが」
「――ああ」
 素直に頷いた。
 ゾロは反逆する黒い半神を狩りに定期的に出かけていく。そうして、ときおり人間が産んだ半神の子供を連れて帰ってくる。このパラダイスはそのために神が地上に作った場所だとサンジは聞いている。だが、それもできたのはほんの半年前のことだそうだ。ちょうど、サンジの羽根が切り落とされた時期と一致している。そのことに意味があるのか無いのか、サンジは知らない。
 サンジは目覚めたとき、既にここにいた。その頃はまだ白い半神が数人しかいなかったけれど、今ではエースのように黒くても自らここにやってきて、特に悪さをするわけでもなく、ただここでの生活を満喫している堕天使も増えた。
 羽根の生えないまま一生を終える半神もいる。途中で生えてくるものもいる。サンジのように羽根をなくしても生きているものは極稀で、これは羽根が生えて斬られるまでにあまり間がなかったからだろう、と言われているが真実は神のみぞ知る、だ。
「俺だって同じ黒のよしみで結構可愛がってやってんのに、あんな怖い面して無愛想なヤツの何がそんなにいいのかねェ」
 肩を竦めてエースが言う。
 確かにそうだ。ゾロは皆に平等に怖い顔をして見せて、皆に平等に無愛想だ。サンジにだけ優しいということもなければ、サンジにだけ声を掛けてくるということもしない。本当に他の連中と何ら変わりない扱いをされているのに、何故こんなにもあの男の帰還を待ち望むのだろう。
 サンジは首を傾げ、考えながらポツポツと話し始めた。
「……俺は、走ってるんだ。一人で、何かから逃げようとしてなのか、何かを捕まえようとしてんのか、そのどっちでもあるような気がすんだけど――」
「? 何の話だ?」
「夢だけどさ。いつも俺は走ってるんだ。もう怖いんだか悲しいだか、何が何だか分からないまま走ってるんだ」
 そう、どうしていいのか分からずに走る。だけどその先に、自分が待つ何かがあると思いながら。
「そうするとさ、急に雪が降ってくるんだよ」
「雪?」
「本当は羽なんだけどさ、俺は雪だと思ってんだ。その中に、ゾロがいるんだよ」
「ゾロが?」
 エースが眉を上げた。
「不思議だよな。でもいるんだ。血だらけでさ、でも笑ってんだ。安心しろって。そいで泣くんだ。俺を置いていくなって」
「……」
 何かを考えるように、エースの視線が上を向いた。
「ああ、見つけた、って俺は思ったんだよ」
「夢の中で? それとも――」
「夢の中で。でもさ……きっと俺、そう思ったんじゃないかな。無くした十歳から後の記憶の中のどこかで、きっとそう思ったんじゃないかな」
「じゃあゾロは、サンジの半身ってわけか」
 溜め息にも似た息を吐き出しながら、エースがそう言った。
「ハンシン?」
「神は人間を男と女に分けて作った。神の真意の程は俺には分からねェが、一つの魂を二つに分けて作ったからだと言うヤツがいる」
「一つの魂を……」
「同じ魂から作られた男女は体も心もピッタリ合うって寸法だ。何かの手違いでそれが男同士ってこともあるだろうさ」
 エースの話を、不思議な気持ちで聞いた。
 そうだろうか。そういうことだろうか。そうだといいと思う。
 そう思ったとき、ざわざわと賑やかい音が近付いてきた。
「お? 予定より早いご帰還じゃねェの?」
 目を丸くしたエースが見ているほうを見る。狩りから帰ってきたイエーガーの一団が見えた。その中に、赤ん坊を抱いたゾロの姿がある。また孤児を拾ってきたらしい。
「あいつは何人のお父さんなんだ」
「仲間が増えるのはいいことだろ」
 呆れたように言うエースにそう答えると、サンジはゾロの名前を呼びながら走り出した。


End



  *  *  *



ふわ〜…
まるで映画を見たような気分です。
雪のように舞う羽根と、視界の隅に流れる血と、狂おしいほど求める誰か。
羽根と共に記憶を失っても、サンジの中にはきちんとなにかが残ってる。
きっと何度でもやり直せるんだよね。
ああよかった。
ゾロお父さんのこれからの健闘を祈りますv



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