コール <るうさま>



サンジは朝が得意ではない。



と言っても生来のものではなく、そうなったのはここ最近のことだ。
もっと言うならここ数ヶ月。
あからさまに仕事の量に比例しているところを見ると、原因は低血圧とかそういうことよりは別なところにあるだろう。
ただ単に、疲れた体が削減を余儀なくされている睡眠時間に抗議活動をしているだけと思われる。

とは言え、たとえ何時に寝ようが全ての人に等しく朝はやってくるわけで。
そしてウィークディは容赦なく動き出す。


(ねみィ…)


今何時だろうと、どこか遠いところで考える。
携帯のアラームは鳴っていない。けれど、悲しいかな、短時間の睡眠に慣れ切った体内時計は、もう起きるべき時間ではないかと警鐘を鳴らすのだ。

時間を確認しようと、半ば朦朧としつつ重いまぶたを持ち上げるための格闘をすること約1分。
いまだ覚醒とは程遠い鈍った頭で足掻く。
そこにふわりと、落ち着いた声が降ってきた。

「起きたか?」

なんとか半分ほどこじ開けた目に映ったのは、精悍な。
同僚であり、優秀なビジネスマンであり―――――サンジにとって近しい男。


「……」

同時にようやく思考が緩やかに起動し始めると、立ち上がりきらない頭が、のろのろと状況を読み込み始める。

普段と違うシーツの感触。広いベッド。
そして、自分を取り巻く――――空気。



あぁ、そうだった。
ここは自宅ではないのだ。






二人の勤務する会社には、毎週水曜日はノー残業デイと言う笑えるシステムがある。
金融業界に端を発したこの仕組みを、この会社が対外的なタテマエのために取り入れたのはいつのことか知らないが、どう考えても非現実的であり、完全に形骸化していて誰もが気にしていないのが現状。
それでも一応存在だけは。



だからと言うわけではないが、ちょうどその日であった昨夜は、仕事が割と早い時間に片付いた。
と言ってもあくまで当社比の話で、一般と比べてどうかと言われれば首を傾げるしかない。
それでもサンジにとって、この時間に会社を出ることができるのはかなり嬉しくて。
最近ではめったに無い事態に少しばかり浮かれて、体が休息を欲するのを軽く無視し、ダメ元で営業フロアに顔を出した。

最初から予定していたものとは違い、突発的に空いた時間だったので、期待をしていたわけではない。
それでももし、あの男も早く上がれそうなら、久しぶりにゆっくり仕事以外の話でもできればと思ったのだ。

「ロロノア、この前の案件の概要と大まかな仕様、まとめといた。不足や訂正があれば修正するから確認してくれ」
普段ならメール添付で送る資料を、わざとプリントアウトして手渡す。

そして。
よくある安いオフィスドラマのようなメモなど必要とせず、一瞬落とした視線だけで問うた。

何時に上がれる、と。

「あぁ…さんきゅ」

ディスプレイと睨めっこ中だったゾロは書類を受け取りつつ、普段なら余裕で仕事をしているはずの時間に帰り支度をして現れたサンジに一瞬驚いた顔をしたが、すぐに意図を正確に読み取り。

「でも悪ィな。おれも今日はもう上がるとこだ。確認は明日させてもらう」

そう言うなり、ニヤリと笑ってあきらかに作業中だったPT資料を迷わず終了させたのだ。







それから結局、外に飲みに行くより家の方が落ち着くという双方の希望のもと、会社から近いゾロの家で散々飲んで食べて話して。

互いに期末に向けて過熱化する仕事で中々状況が許さず、本当にこんな時間は久しぶりだった。
だから楽しくて。
思わず連日の状況を忘れるほど。





けれど。

できる人間のところに仕事が集中するのは企業の常で。
2週間ほど前、大きなトラブルを回避した一件で、サンジに絶対的信頼を寄せたクライアントは、名指しで準備期間の極端に短い大型案件を発注してきた。
ずっと取引を狙っていた会社的には万々歳の事態ではあったが、他の案件をいくつも抱えているサンジ個人の負担は半端無い。
いくら常人よりよっぽどタフな造りとはいえ、ここ最近週末も普通に出社し、ウィークデイに至っては毎日終電後の帰宅を余儀なくされていたサンジの疲労の度合いは大きかった。

ましてやまだ週中であり、まだまだ一週間は続く。

「このまま泊まってけ。んでお前、今日はもう寝ろ」
ずっとまともな睡眠も取れない状況が続いてたことを知っていたゾロは、日付が変わる前にそう言った。
帰宅して明日もまた自宅から出社するよりは、ここにそのまま居た方が休める時間は多いと考えたのだろう。

けれどそんなことを諾々と受け入れるサンジであるはずもなく。
前者に異存は無い。
だが後者は。

体が休息を求めるのとはまるで違う次元で、渇望に似た欲求は存在するのだ。




―――――触れ合いたいと。




それが自分だけの思いではないことなど最初からお見通しである以上、選択肢なんてない。
ゾロの気遣いを笑い飛ばし、散々煽って自制のタガなど簡単に振り切らせて。
手を伸ばし、伸ばさせた。



そして一度溶け合ってしまえばあとはもう、止まらなかった。


昨夜の記憶は完全に途中で途切れている。
落ちて強制終了だったのか、それとも落ちる前から飛んでいたのか。
どちらにしてもあまり芳しい事態でないことだけは確かだろう。

(あー…やらかした)






「…いま……じ?」
未だ霞がかかった様な意識のままで聞く。

「7時になるとこだ」
「…なっ!」

んだそりゃ。
のんびりとした声で返ってきた普段ならとっくに起きている時間に驚いた。
とんでもない。明らかに今すぐ起きなければ間に合わない。
大体携帯のアラームは?まさか気づかなかったのだろうか。

そして、その疑問が聞こえたかのように鷹揚に答えたゾロの言葉に再び絶句。

「あぁ、アラームならおれが止めた。寝てろ」
「…っ!」

(何しやがんだ!つか何馬鹿言ってんだ、平日だろうがよ。間に合わねぇだろ、起きねェと…!)


そう叫んで飛び起きる予定だったのに、どうしたことかうまくいかない。
なんだこれ。
ヤバイ。
本格的に眠い。

「…きる……ちこ…く…」

代わりに口から出た言葉は、まるで寝言のようで。
傍に立っているはずの男が笑う気配がしたと思ったら、手をついて何とか持ち上げた半身を、やんわりと押し戻される。

そして瞼の上に静かに大きな手が添えられ、少し沈んだスプリングでゾロがベッドに腰掛けたことを理解した。

「何す…」
「いいから寝てろ」
「ばっ…」
「大丈夫だから」
「……っ」


何が大丈夫なものか。

そう思うのに逆らえない。
今までいくら朝が苦手とは言え、こんなことなんて一度も無かったのに。
それなのにゾロの声は、抗うことを許さない絶対的な力でサンジを縛るのだ。
体に残る熱の残滓のようにやんわりと。


「いいか。お前は疲れてんだ。さすがに無茶しすぎだ。…色々とな」
てか、おれもわかってたのに悪かったな、何て少しバツが悪そうに言うから。
なおさら起きなければと思った。
だってそれは絶対違う。そうさせたのは自分だ。

それにこんなのはビジネスマンとして許されるわけがないだろう。
何よりサンジ自身が許せない。


けれどそんな思考を読み取ったのか、ゾロは一つ大きな溜息をついて言った。

「ばーか。誰も休めとも遅刻しろとも言っちゃねぇよ。おれは朝一で客先行かなきゃなんねぇから早く行っけど、お前は今日フレックスで出社しろ」
「……え?」

フレックスタイム。
それは確かに会社で随分と前から導入しているものだ。
ノー残業デイと同じ位サンジにとって縁遠いものであって、考えもしなかったけれど。

「何のための制度だ。こんなときくれェ利用しとけ。お前がどんだけよくやってっかなんて他部署のやつらだってみんな知ってんぞ。……ちょっと遅く出社したくれェで誰も責めねェよ」
「……」

「たまには、人ばっかりじゃなくて自分の体の声を聞いてやれ」

瞼の上に乗せられていた大きな手が、その無骨さからは信じられないような穏やかさで、頭を二度撫でた。
そして低い声で語られる言葉は甘やかな呪文となって、サンジの意識を深いところに攫って行く。
ゆるやかに。確実に。

「時間になったら、外から電話してやっから。せめてそれまで寝てろよ」

そう言って、暖かな手は添えられたときと同じ静かさでゆっくりと離れていった。
絶対の信頼と安心だけを残して。


あぁ。
トドメだ。


「…ろ」
「なんだ」
「わり……」
「うん?」

「……かり…た…」




何とかそれだけ言ってからストンと意識を落とした意地っ張りの傍を、ゾロは小さく笑いながら離れる。


だからサンジは知らない。
一度は離れたその手が、もう一度柔らかく髪に触れたのも。
小さく呟かれた言葉も。





意識が再び浮上したのはそれから約40分後のことだ。

電話を待たず、自然と目は覚めた。
先程のぐらぐらするような混沌がまるで嘘のように、すっきりと。

(あー…)

少しでも寝ておけば違うと言われた事はやっぱり正しいんだな、などと思いつつ、囚われていた凶悪なまでの眠気は、絶対あの声の責任も大きいなんて負け惜しみのようなことを考えながら大きく伸びをする。

同時にどこか遠いところで交わした朝の会話をリアルに思い出して頭を抱えた。
何ていうかもう…。
一体どんだけ甘やかしてくれんだあのバカ。




とりあえず一本煙草を吸ってから熱いシャワーを浴びて、頭の中をクリアにする。
朝食代わりにサーバーに入っていたコーヒーでカフェオレを作ってぼけっと飲みながら、こんなのんびりした朝は一体いつぶりだろうと考えた。
そしたら、こうなったいきさつを反芻することになって。

「だー!チキショウ!」

再び居た堪れない気分になってしまったのを誤魔化すように、大きく頭を振って立ち上がる。
とりあえず着替えでもして無理にでもビジネスモードに切り替えなければやってられない。
そう思って、ここから出社するときのために一通りのものが置いてあるクローゼットの中のサンジのスペースに手を伸ばし、自分のシャツに腕を通した。



と、そこで視界に映ったものに、ボタンを留める手が止まる。


「?」


サンジの私物に混じった、真新しいネクタイ。
自分のものではない。
けれど一目で仕立ての良さがわかる上品な青を基調としたそれに、ひどく惹きつけられた。
へぇ、いいな。

ゾロのだろうか。一瞬そう考えたけれど、それは無いかと思い直す。あの男の普段しているものとは明らかに雰囲気が違うし、何よりゾロはこのスペースに触ることはないから間違いようが無いだろう。ここにはサンジのもの以外は無い。

だったら?

「…っ!」

そこまで考えて、偶然目に入ったカレンダーの日付に息を呑む。
気づいてしまった途端、色んな意味でサンジは思わずその場にしゃがみこみそうになった。


慌しい状況の中ですっかり忘れていたけれど。

ようするに。
きっとそういうことだ。

「チキショ…」


何なのあいつ。
こんな不意打ち、卑怯だろ。



昨日ここに来て泊まったことだって偶然だ。最初から決まっていたわけではない。
なのにこんな風に。
洒落た包装がしてあるわけじゃなく、気の利いたメッセージが添えられてるわけでもなく。
ただそれは、当たり前の自然さで無造作にそこに置かれていた。

あえて特別な意味を持たせず、それでもサンジが手に取ることを何も疑わないように。

ダメだ。
もう、色々と。


「……完敗だよクソ野郎」




シュッと音を立てて首にまわしたそれに、敬虔なキスを。








同時にリビングで携帯が鳴った。



END



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