kiss


美術部の部室兼物置は施錠されていないことを知っている。
破れた革張りのソファに寝転んで、束の間の微睡を楽しんだ。
授業時間多少遅れたとしてもそんなの日常茶飯事で、大したことではない。
開けた窓からそよかな風と、校庭で遊ぶ生徒の声が流れ込んでくる。
眠りに落ちるとともに身体からは力が抜けてソファに沈んだが、聴覚は鋭敏なままだった。
誰かが廊下を歩き、戸口で足を止めた。
一旦行き過ぎてから戻り、そっと足音を忍ばせて近付いてくる。
聞き慣れた足音だ。
――――ぐる眉・・・
半分寝惚けた頭で、間抜け面を思い浮かべる。
眉毛が巻いていて、女と見れば鼻の下を伸ばすイかれた野郎だ。
人のことを目の敵にして、なにかというと喧嘩を売って突っかかってくる。
チャラチャラしているのに腕っ節は強い。
というか、足癖が悪い。
うっかりすると吹き飛ばされそうな勢いで蹴りを繰り出すから、油断できない。
むかつくのに、目が離せない。
視界に入ると目障りで鬱陶しいのに、無意識にその姿を目で追っている。
ふっと、間近で吐息を感じた。
仰向けに眠るゾロの唇に、柔らかなものが一瞬触れてすぐ離れる。
閉じた瞼越しに伝わる視線は熱かった。
「・・・ざまァみろ」
少し擦れた呟きは、吹き抜ける風に紛れて甘やかに消える。
数歩後退り、踵を返して足早に遠ざかる足音に耳を澄ます。
廊下を過ぎて階段を降り、誰の気配も感じなくなってそれでも数分置いてから、ゾロはようやくぱちりと目を開いた。
上半身を起こし、汗で張り付いた後ろ髪を撫でる。
寝惚けたのか。
夢だったのか。
それとも―――――
「なんの罰ゲームだったんだ?」
声に出して呟いてから、ゾロはそっと自分の唇を指でなぞった。




    *  *  *




ハトが豆鉄砲でも食らったような顔をして飛び退くかと思った。
もしくは嫌悪に顔を歪め、口汚く罵倒するかと。
そのいずれでもなく、ただ間抜け面を晒してグウグウ眠り続けるとは思いもせず、拍子抜けしたのが本音だ。
―――本気で寝入っていたのかな。
それならそれでいいけれど、肩透かし感は否めない。
こっちは清水の舞台から飛び降りる覚悟で挑んだのに。
まさに身を挺した嫌がらせだ。
犬猿の仲である、目障りで鬱陶しい大嫌いな存在である自分に、寄りにも寄って寝込みを襲われ唇を奪われるなんて、屈辱でしかないだろう。
そう思って勇気を出したのに、なんのリアクションもないまま惰眠を貪られてしまった。
怒られなかった。
嫌がられもしなかった。
そもそも気付いてももらえなかった。
別に、いいけど。
なにこれ、自爆?
ゾロを目にする度に胸に蟠るモヤモヤを払拭するために思い切って行動したのに、余計に悶々としてしまった。
中途半端どころか、無自覚な思いを否が応にも付き付けられてしまって認めざるを得ない。
嫌がらせのキスをするのに、口から心臓が飛び出そうなほどドキドキしたこと。
一瞬だけ触れた感触が、ずっと忘れられないこと。
ゾロが目を覚まさなかったことが、残念でならないこと。
ああ、なにもかもが悔しい。


放課後、誰もいない屋上でフェンスに凭れてキャンディを口に咥える。
舌で転がせば甘い味が口内に広がって、少し心が落ち着いた。
ゾロの唇はかさついていて、近付けば汗の匂いがして。
閉じた瞼と筆で描いたような眉。
整い過ぎた顔立ちは冷たい印象を与えるけれど、どこかあどけなさを感じさせた。
「――――はァ…」
これじゃあまるで、自分自身に科した罰ゲームみたいだ。
頭を抱えて俯いたら、錆びたドアが軋みながら開いた。
そこにゾロの姿を見て、ふぁっ?と後ろの毛が逆立つ。
今一番見たくない顔が、眉間に皺を寄せてこっちに向かって真っ直ぐ歩み寄ってきた。
「なんだよ」
迎え撃つために腰を浮かしたが、それより早くゾロの手が伸びてサンジが咥えたキャンディの棒を掴んだ。
ちゅぽんと、音を立てて口から引き抜かれる。
それと入れ替わるように、ゾロの唇が押し当てられた。
驚きに見開いた瞳には、焦点が合わないほど近付いたゾロの顔。
射殺すような目つきで至近距離から睨み付けながら、サンジの唇を挟み込むように口を閉じる。
むにゅ、と食まれてから離れた。
ようやく焦点が合う位置まで顔を引き、ゾロはどこか勝ち誇ったように顎を上げた。
「ざまーみろ!」
――――なに、ごと?
知ってた?
気付いてた?
まさかの狸寝入り?
しかもリベンジ?
これも身を挺した嫌がらせ?
驚きのまま動けないサンジの前で、ゾロは奪い取ったキャンディを口に含み「甘ェ」と大袈裟に顔をしかめて見せた。


End