君影草


まだ5月も下旬だと言うのに、陽炎が揺らめくほどに気温が上昇している。
なんもかもが極端でいけねえとぼやきながら、パティは表に打ち水をした。
角を曲がった生垣の上から、長身の男性の頭と日傘が覗く。
こりゃお客さんだと桶を片付け、玄関の扉を開けるべく待機する。
「いらっしゃいや・・・」
言い掛けて声を止め、口を開けたまま小さな目も見開いた。
「・・・らっしゃいませ。ロロノア様ですね?」
危うく言い直して、畏まった顔付きのまま扉を開け中へと誘う。
予約者の打ち合わせをしておいて、本当によかった。



まるで店の中に、涼やかな風が吹いたようだった。
日傘を畳みパティに預けると、女性は小さく会釈し前を行く男性の後をしずしずとついて歩く。
銀更紗の小紋に黒地の帯の着物姿は、しっとりと落ち着いていながら涼しげだ。
店内の客達は年配ながら粋な姿の女性を目で追っていたが、スタッフ達は連れの男性に目が釘付けになっていた。
軽く想定はしていた筈なのに、阿呆のようにポカンと口を開けている。
ただ一人まったく動じなかったオーナーが、静かに前に進み出た。
「ご予約のロロノア様ですね、いらっしゃいませ」
見知った男にとてもよく似た面差しが、微笑み返して会釈する。



「驚えたなあ、おい」
「まったくだ」
「来るとわかってたのにな」
「わかっちゃいたけどよ」
「あんだけ似てるかよ」
「あの若造も、年取るとああなるんだな」
客の噂話をしているところを聞き咎められるとオーナーに蹴りを入れられるから、スタッフ達は殆ど読唇術なみの小さな呟きを交わしていた。
これが黙っていられようか。
誰が見たって他人とは思えない、ゾロそっくりの初老の男が来たのだから。
「ってえと、あの人が若造のお母さんか」
「美人だな」
「えれえ美人だ」
「若造にちっとも似てねえ」
「チビなすはもう、会ったんだろう?」
「正月にあっちに里帰りしたって」
「サンジはメロメロのデレデレになったんじゃねえか」
「えらい年の差だぞ」
「そういうの関係なく、女と見れば弱えだろうが」
「や・・・どうかな、こればっかりは違うような・・・」
遠目からじろりと睨むオーナーの視線を感じ、慌てて口を噤む。
スタッフに達の話題に上っていることなど露とも気にせず、ゾロの両親はバラティエのランチを堪能していた。


食後のコーヒーを傾けていると、ゼフがテーブルに近付いた。
「大変美味しかったです、ご馳走様でした」
父親がいち早く気付き、座ったまま深々と頭を下げる。
「わざわざお越しいただきありがとうございます」
ゼフはそう言い、父親に促されて空いている椅子に腰掛けた。
「一度お伺いしたいと主人と言ってたんです。お忙しいところお邪魔して申し訳ありません」
たおやかに微笑む母親に目を細め、いやいやと首を振る。
スタッフに対するのとは全く違う穏やかな表情に、パティ達は忙しげに後片付けを進めながらも耳と意識を集中させた。
「孫が、息子さんに大変お世話になっております」
「こちらこそ、サンジさんにはお世話になってます」
「お正月に遊びに来てくださったんです、本当にいいお孫さんで」
母親は柔和な顔立ちを綻ばせて、少女のように胸の前で手を合わせた。
「とても優しくて気遣いのある方で、サンジさんのような方がゾロの傍にいてくださるなんて、本当にありがたいです」
「いやいや、孫の方こそ息子さんには大事にしていただいているようで、ありがたいことです」
お互いにいやいやと頭を下げ続けるのを、スタッフ達は笑いを噛み殺して見守っている。

ランチタイムを過ぎて少しずつ客も引けて来た。
周囲のテーブルに客の姿がなくなったのを見計らって、父親はおもむろにテーブルに手を着き頭を下げる。
「大切なお孫さんを、うちの息子のようなものが、申し訳ありません」
向かいに座る母親もゼフに向き直り、両手を膝に乗せて腰を折った。
「申し訳ありません」
これにはゼフも驚いたようで、珍しく目を見開き姿勢を正している。
「それこそ、こちらの方がお詫びせねばなりません。立派な息子さんの相手があのような粗忽な男で、誠に申し訳ない」
いえこちらこそと再びペコペコと頭を下げながら、お互い所在なさげに太腿の辺りを擦っている。
「申し訳ないと思うんですが、それでも私は嬉しいんです。サンジさんのような息子が持てて」
ごめんなさいねと詫びながら、母親は礼を言った。
「息子だと、思っていただけますか?」
ゼフの問いに、勿論ですと大きく頷き返す。
「あれは家族の縁が薄くて早くに母親も亡くしております。父親も昨年亡くなりました。ずっとわしのような年寄りの傍で育ってますから、図体ばかりでかくて常識に欠けた、いつまでも子どものようなものです」
「そうですか・・・」
ご苦労なさったんですねと、母親は痛ましげに目を細めた。
「だからこそ、あんなに優しくてしっかりした方に成長されたんでしょう。息子の身体のことを考えて、いつも美味しくて身体にいいものを食べさせてくださっているそうです。サンジさんに巡り会えて、息子は本当に幸せ者です」
私も、と言い添えた。
「本当の息子のように、いえそれ以上に大切に思っています。私も主人も」
「ありがとうございます」
ゼフが頭を垂れる背後で、厨房に引っ込んでいるスタッフ達も一様に頭を下げた。
誰が見ている訳でもないのに、ただありがくて頭を下げた。

「孫は、呼んでいますか・・・ちゃんと」
「はい、私のことを“おかあさん”と」
とても大切な言葉のように。
少したどたどしく、ゆっくりと口を開けて発音してくれる。
「おかあさんと、呼んで頂けるのがとても嬉しいんです」
母の日に花束をいただいたんですよ、とまるで内緒話でもするように顔を寄せて声を潜めた。
「黄色とオレンジの組み合わせの、とっても元気になれる色使いの花束。まだ玄関で綺麗に咲いています」
「・・・そうですか」
ゼフは口髭の下で唇を真一文字に引き結び、遠くを見つめるような目をした。
「母親に贈り物ができる喜びをあいつに与えてくださって、ありがとうございます」
またお互いに頭を下げる。
キリがないなとどちらともなく苦笑して、それではそろそろ・・・と父親がナプキンを畳んだ。
「お勘定をお願いします」
「それは、今回は結構です」
「それはいけません」
「とても美味しかったので、またお伺いしたいんです」
しばらく押し問答が続いた。
なんでもサバサバと仕切るゼフには珍しい光景だと、スタッフ達は耳を欹てている。
結局ゾロの父が押し切った形で支払った。

「また、今度は家族を連れてお食事に来ますね」
「大所帯で申し訳ないのですが、必ず予約を入れますので」
なぜか申し訳なさそうに後ろ頭を掻きながら、父親はそれでは、と厨房から覗いているスタッフに向けて会釈した。
「ありがとうございやした!」
「ちび・・・サンジをよろしくお願いいたします!」
すっかり客が引けた店内にスタッフが総動員でお見送りし、パティが代表するように日傘を差し出す。
「ご家族でのまたのご来店を、心からお待ちしております」
そう言えば、ゾロの両親はぷっと場違いな雰囲気で噴き出した。
「そうですね、楽しみにしていてください」
どこか含みを持たせてそう言い、来た時と同じように涼やかな風情で立ち去った。


「サンジは、幸せモンですねえ」
感極まったカルネの呟きに、ゼフは悪態も吐かず黙って背を向ける。

約束通りロロノア家が一家総出で食事に訪れ、バラティエ・スタッフを呼吸困難に陥らせるのは、もう少し後のこと。



END



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