君がいた夏 -1-


耳に痛いほどの蝉時雨の中、ゾロは汗だくになって愛用のママチャリを立ち漕ぎしていた。
小高い丘の上の閑静な住宅街はアップダウンが激しい。
登りも下りもほぼ同じスピードで駆け抜けて、通い慣れた白い洋館の前で止まる。
自転車は適当に、玄関近くの門に立てかけた。
スタンドはないし、不法投棄と間違えられてもおかしくないほど古びた自転車だ。
誰も盗ってなどいかない。
鉄製のレトロな門の横につけられたインターホンを押すと、すぐさま女性の明るい声が返ってきた。
「はい、どちら様ですか〜」
「ゾロです」
「まあ、ゾロちゃんっ」
ロックが解除され、ゾロは勝手知ったるで広い庭を通り抜ける。
声の主は玄関の扉を開けて、ゾロの到着を待っていた。

「ありがとう、呼びつけてごめんなさいね」
「いえ、俺も気にしてましたから」
別に呼びつけられたからわざわざ来た訳ではない。
実を言うと、ここのところ毎日門の前までは来ていたのだ。
だがインターホンを押せずに様子だけ探っては帰ってきていた。
「サンジの具合、どうですか」
ゾロの問いかけに、サンジの母親は困ったような笑みを浮かべた。
ゾロの母親とそう年は変わらないはずなのに、いつまでも少女のような表情を見せる。
「少し落ち着いたらって思ってたんだけど・・・あまり変わらないのよ」
そう言って、サンジの部屋ではなく応接室にゾロを通した。
「ちょっと座っててね、説明してから彼を連れてくるから」
深刻な話のなるのかと、ゾロは少々身構えながら柔らかなソファに腰を下ろす。
外の暑さと喧騒が嘘のように、部屋の中は静かだった。



高校2年の夏休み、林間学校でのキャンプが季節外れの台風の到来で民宿滞在に変更になって、夜無断外出したサンジ達は荒波に攫われた。
幸い全員無事に助け出されたものの、サンジは当初意識不明だったため、地元の病院に収容されそのまま入院。
一人、部屋で寝ていて難を逃れたゾロは、翌朝になって始めて騒ぎを知り、病院にも駆けつけたが面会できなかった。
その事件のためにキャンプは取りやめになり帰宅したが、その後も一向にサンジから連絡はなくやきもきしていたのだ。
携帯にかけてもメールしても返信はなく、家の前まで自転車で来ては様子を窺い、黙って帰るなんて毎日を送っていた。
それが昨日、サンジの母から家に来てくれと連絡を受け、文字通り飛んできたのである。
「サンジはもう、退院したんですよね」
「ええ、身体は大丈夫なの。脳波にも異常はいないし・・・ただ―――」
彼女らしくなく言いよどむ。
「記憶喪失・・・とは違うみたいなんだけど・・・ちょっとね、混乱してるみたいなの」
「混乱?どんな風に?」
冷たい麦茶をテーブルに置かれたが、ゾロは手をつけなかった。
それより早く、2階のサンジの部屋に上がりたい。

「そうねえ、あの子が最初に病院で目を覚ました時、私も必死だったから殆ど半泣きになって枕元に齧り付いていたのよ、そうしたら―――」
ぱちりと目を開けたサンジは、間近で名前を呼ぶ自分の母親をじっと見て
『ああ、なんて麗しいマダム。輝く星より美しいその瞳に涙は似合いませんよ』
そう言って、手を握り返したというのだ。
「・・・頭、打ったんっすか?」
「検査はしたけど、外傷は特になかったみたい」
ゾロの真面目な問いに真面目に返す。
「その後も、なんだかちぐはぐな受け答えして、キョロキョロ見回したと思ったら、今度は急にだんまり。何を聞いてもちょっと困ったみたいに笑うだけでちゃんと答えないの。でもどう見ても、あれは自分のことすらよくわかってないみたいだわ」
「それって、おばさんが自分の母親だってことも知らないってことですよね」
「そうだと思うわ、多分。ただそのことについても問い質しても曖昧なのよ。まるでこっちの様子を探るみたいに慎重で・・・全然あの子じゃないみたいなの」
そう言って、すとんとソファに腰を下ろした。
まるで糸の切れた人形みたいに力なく手を投げ出して俯く姿は、途方に暮れた子どものようだ。
愛しい息子が尋常でない状態になってしまって、かなり心を痛めているのだろう。
「俺が、会ってみてもいいですかね」
「ええ、ぜひお願いしたいの。ゾロちゃんとは子どもの時からずっと仲良しだし、私たち家族のことはよく覚えてなくても、ゾロちゃんならもしかしたら・・・なにかヒントになることもあるかもしれないし」
母親は、祈るみたいに両手を合わせて額につけた。
「俺のことも、どんだけわかるかはわかんないっすけど、一応会ってみます」
「お願いね、こんなことはやっぱりゾロちゃんにしか頼めないわ」
ゾロは水滴の浮いたグラスを手に取って、一気に飲み干した。
ご馳走様と小さく呟いて階段を昇りかけ、ふと振り返る。
「覚えてないって、どの程度なんすか」
人の顔がわからないとかだけじゃなくて、例えば物の意味もわからないとか、そんなこともあるかもしれない。
「そうね・・・家に戻ってからもテレビ見てびっくりしてたわ」
―――原始人並みか?
ゾロは片眉を上げて見せて、2階へと昇っていった。



幼馴染のサンジは、母親譲りの金髪碧眼に父親譲りの社交性でもって、いつも日の当たる場所にいるような天真爛漫な男だ。
その外見と人懐っこい性格で男にも女にも人気があって、無口で無愛想なゾロとは好対照になっている。
そん二人なのに何故かウマが合って、幼稚園からいまの高校までずっと一緒に過ごしてきた。
傍からは親友と呼ばれる間柄だろう。
ゾロにとっては、ちょっと違うんだけど。

見慣れたドアの前に立ち、軽くノックした。
いつもの調子で「俺だ」と言ってみる。
返事がないからノブを回した。
部屋に鍵を掛けたりする男ではない。
ドアは難なく開き、ゾロは身体を半分覗かせるように中途半端に顔を出した。
いつもなら常に音楽が流れている部屋の中はひっそりと静かで、奥の窓際に置かれたベッドの上に足を投げ出して寝そべるサンジの姿があった。
首だけ曲げてこっちを見て、驚いたように目を丸くする。
そのまま何も言わずに固まったままだから、ゾロは後ろ手にドアを閉めて「よお」と言った。
やけにすっきり掃除されて、やや殺風景な部屋の中を真っ直ぐ突っ切ってサンジの前に立つ。
サンジは「あ」の形に口を開けたまま、それでも用心深い目で探るようにゾロを見上げた。
その仕種が、サンジらしくない。
こいつは別人だ、とゾロは直感的に思った。

「てめえは、誰だ?」
ゾロが問うより先に、サンジが尋ねた。
「俺はゾロだ」
寝そべったままのサンジを見下ろす形で、やや威圧的に答える。
だが目の前のサンジは、特段怯えた様子は見せなかった。
サンジならば、ゾロに対して怯えたりはしない。
だがサンジでないなら、別人ならば、ゾロがひと睨みしただけで動揺する素振りぐらいは見せるはずだ。
それがない。
こいつは一体、誰なのか。

「お前、ゾロか?」
サンジはそう言って、気だるげに身体を起こした。
その仕種がまた見慣れない。
本当に、誰なんだこいつは。
「俺も聞く、てめえは誰だ」
「サンジだろ、みんなそう言ってる」
サンジはそう惚けて髪を掻き上げると、何か探る手付きをして小さく舌打ちした。
苛々とこめかみを掻き、ゾロを上目遣いで見る。
「ゾロ、てめえ俺とはどういう関係?」
やはり油断のならない目つきだ。
ゾロは訳もなく不愉快になった。
サンジの顔で、こんな表情を見せられると落ち着かない。
「俺とてめえは、幼馴染だ」
親友だ、とは言えなかった。
「幼馴染?」
サンジはまたきょとんとした顔をして、それからにやりと笑った。
サンジらしくない、笑い方。
「へえ・・・幼馴染なんだ。へえ〜・・・てめえと俺が?はっ」
その声が、口調が、表情がどこか人を小馬鹿にしているようで癪に障る。
ゾロはサンジの胸倉を掴み上げると、目の前まで引き上げた。
自分と変わらない身長ながら、体重が全然違うから相変わらず軽い身体だ。
入院している間にもう一回り痩せた気もする。
「てめ、こいつの身体から離れろ」
歯を剥き出して威嚇するのに、サンジの顔をした男はしれっとしている。
「俺だって、どう戻っていいかさっぱりわかんねえんだ。それに俺も『サンジ』だしよ」
そう言って、口端を上げて蓮っ葉な笑みを浮かべた。




海賊、グランドライン、ワンピース―――
サンジの顔をした男は、まるで夢物語のようなことを話し出した。
なんでも自分達は海賊で、グランドラインという海を、それぞれの夢を追って旅しているらしい。
そこにはゾロそっくりのゾロもいて、剣士だと言う。
ともかくこことは別の、違う世界。
「俺がおかしくなったって思うだろ。・・・けど違うな、てめえは俺がサンジじゃねえと、最初から見抜いたな」
サンジ、はどこか嬉しそうにそう言った。
「目が覚めたらこっちにいた俺のがよっぽど驚いたんだけどよ。ともかく何もかも違ったからすぐにだんまり決め込んだんだ。いくら自分のことを主張したって全体が違うなら話は通らねえ。とりあえず黙って様子を見てようと思ってな」
サンジの言うことは一理ある。
と言うか、賢明だ。
ゾロも元々SFが好きな訳じゃないし、ミステリーにも興味はないが、目の前にいるサンジが明らかに自分が知っているサンジとは違うからすとんと納得した。
そんなことも、まああるんだろう。
だがそんなことより―――
「で、サンジはどこに行ったんだよ」
ゾロがやや怒った顔でそう言うと、サンジはさあ?とこれまた困った顔で首を傾げた。
「あーでも助かったな。知ってる奴が一人でもいると、なんか気が楽になるっつうか、なんつーか・・・」
それがてめえだとは思わなかったが。
そう、小さい声で付け足してサンジは煙草を咥えた。



ともかく急ぎでどうしても頼みたいことがあると言うから、サンジの母親には適当に誤魔化しを言って外出したのだ。
このサンジは、どうしようもなく煙草が吸いたかったらしい。
「だってよー、なんか俺のことを心配そうに見守る親?みてえな人に、煙草ある?って聞いたらなんか目え剥かれるし・・・かと言ってどれが金だかわからねえし、外にも一人で出して貰えねえし・・・すっげー不便だったんだ」
公園の公衆トイレの影にしゃがんで、サンジは美味そうに煙草を吹かした。
それでもちょっと顔を顰める。
「しっかし軽りーなこれ。なんなんだ、この煙草」
ぶつくさと文句を言って、それでもポケットに大事そうに仕舞った。
「お前、ゾロだけどいい奴だな。ゾロのクセに素直だし、優しいし、俺の言うことを聞いてくれんだ。いいなーこのゾロ」
そう言いながら物珍しそうに繁々と眺める。
ゾロはなんとなくむっとして、一歩下がった。
「俺は、そっちの俺とおんなじなのかよ。顔とか・・・」
「ああ、ちょっと若いな。あっちは俺ら19歳だぜ。でも2歳若いくらいじゃないな〜・・・なんか、貧弱だよなお前も」
失礼極まりないことを言って、また小馬鹿にしたように笑う。
サンジの顔でそんな笑い方をされると、無条件で腹が立つ。
「そう言うお前も、サンジと同じ顔なのか」
「おうよ、基本的には一緒だ。髪も目も・・・けどなんだこのひょろっちい身体は。
確かに俺は筋骨流々って訳じゃなあねえけど、それにしちゃこんなへなちょこっつうか、・・・うん、見事なへなちょこだな」
自分の身体を捕まえて、そんなことを言っている。
「んで、どうすんだ。これから」
ゾロはサンジから少し距離を取ってしゃがむと、同じ目線で見据えた。
サンジは横目でちらりと見て、また視線を流す。
何故だろう。
このサンジは、人の目を真っ直ぐ見ない。
「そうだな・・・街とか見てみてえし、案内してくれよ」
その時初めて、サンジは年相応の笑顔を見せた。



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