花信風 -4-


「朝だぞ〜」
との声に、ゾロはパチリと瞼を開けた。
起こしたサンジ本人が仰天している。
「なんだ?起きたのか」
「おう」
のそりと起き上がり、目元を擦った。
「いい天気だな」
カーテンを開け放した窓からは朝日が差し込み、窓の向こうでは芽吹いたばかりの緑の樹々が風に揺れている。
シモツキでは雨戸まで締め切っているから、朝が来ても光が届かない。
気のせいかこの部屋の方が、覚醒が楽だ。
「光を浴びた方が体内時計が正常化するんだ。俺は大概日の出と共に目が覚めるから、お前んちで真っ暗な部屋にいるとつい寝坊しちゃうんだよな」
それにしてもお前の目覚めの良さにはビックリだと、咥え煙草で笑う。
「飯、準備してるから降りて来いよ」
「おう」
トトトンと軽快な足音を聞きながら、ゾロはベッドの上でふわあと大きく伸びをした。



「おはようございます」
「おはよう」
ゼフは車椅子のままテーブルに着いて、新聞を広げていた。
いかめしい顔付きはそのままだが、ゾロを認めるとうむと僅かに頷く。
昨夜3人でケーキを囲んだテーブルに、今は色とりどりの朝食が並べられている。
フレンチトーストにベーコンエッグとサラダ、野菜スープ。
ケーキと同じくオーソドックスなメニューだが、食欲をそそる匂いに満たされたキッチンは、これから一日を始めようとする活力に満ちていた。

「ゾロはどっちがいい?」
コーヒーを煎れ終えて、テーブルに着いたサンジが聞いてきた。
なんのことかと思えば、フレンチトーストに掛けるものらしい。
パウダーシュガーをまぶしたトーストの上にゼフはメープルシロップをたっぷりと、サンジはリンゴジュースをこれまたたっぷりと掛けている。
「・・・俺は、このままでいい」
もしかして、二人とも甘党なのか?
そう思い当たるとまたくっくと腹の底から笑いが漏れそうで、ゾロは腹筋に力を込め無表情を貫く。

「ゾロは何時までこっちいられるんだ?」
「午後に打ち合わせがあるから10時ぐらいにはここを出る。店は何時から仕事始めんだ」
「早出のスタッフが9時に来る」
そう言いながら、サンジはちらりとゼフの顔を見た。
ゾロがいる間くらい勘弁してくれないかな〜と目が訴えている。
「新入りも早出だろうが、しっかり見とけ」
敢え無く却下されて、サンジはああ〜とテーブルに突っ伏した。
「別に1時間くらい、いいじゃんかよう」
「昨日休んだだろうが。どうせてめえあっち行ったら、イヤでも毎日こいつと顔つき合わせんだ」
「・・・ケチ」
ゾロは苦笑を隠そうと、片手で口元を覆った。
「俺はいいんだぞ、お前の仕事の邪魔はしたくねえ」
どうしても声が微妙に震えてしまう。
サンジはゾロを振り返って、へらりと笑った。
「なんか、逆だな」
「あ?」
「いつも、俺のがお前の予定を邪魔したくねえとか思ってたし、お前が出掛けたあと勝手に帰ったりしてさ」
「そうだな、逆だな」
「な」
顔を見合わせて笑う二人を前にして、ゼフは横を向きけっと吐き捨てた。
「わかったらとっとと洗濯だけ済ませちまえ。俺はもう少しゆっくりしていく」
「へいへい」
サンジはご馳走様でしたと手を合わせると、皿を重ねてシンクに置きキッチンを出て行った。

ゼフとゾロはまだ食事を続けている。
なんとなく気まずい沈黙が流れたが、ゾロから話し掛けるネタもない。
所在なくコーヒーを飲んでいたら、ごほんとゼフが咳払いした。
「昨夜はよく、眠れたようだな」
「はい」
本当によく寝た。
せめてサンジが風呂から上がって来るまで待っていようと思っていたのに、睡魔に抗えずベッドに寝転がってからの記憶がない。
「枕が替わってもよく眠れる性質でして、昨夜も一度も目を覚ますことなかったです」
ここは静かなところですね、とも付け足す。
ゼフは黙ってコーヒーを啜り、半分だけ目蓋を開けた。
「一緒に寝たんだろ、狭くなかったか」
「多分」
曖昧な返事になるのは、爆睡して覚えてないからだ。
「冬は寒いせいかあんまり寝返り打たなくて、起きても寝た時とほぼ同じ体勢でいることが多いですね」
おそらく、ぴったりと引っ付いたまま寝ていたんだろうと推測する。
ゼフは目を閉じて首を振った。
呆れたような諦めたような雰囲気に、ゾロは「?」と首を傾げる。

「お前さんは心根が優しくて、あれのことを心底大事に想ってくれてるのはよくわかった」
いきなりそう呟かれて、照れるより仰天した。
はあまあと言葉を濁しつつ、コーヒーを飲もうとしてカップが空なのに気付く。
ゼフは茶を煎れて、ゾロの分まで湯飲みを出してくれた。
礼を言い、湯飲みを受け取る。
「優しいのはあいつの方です。明るいしよく気が付くし働きものだし、近所の人達の間にもいつの間にか溶け込んでみんなあいつのことが大好きになって、今では俺より顔が知られてるんですよ」
月イチしか来ないのにと、茶を啜りながら笑う。
「大切に育てて来られたんですね。あいつが真っ直ぐに育ったのは、あなたのお陰でしょう」
今度はゼフが渋面を作った。
「少し甘やかし過ぎたがな」
「いえ」
二人して黙り、しばらく茶を啜る音だけが響いた。

「わしはあれを、守り過ぎた」
ゼフは宙を見ながら、誰にともなく呟いた。
「あれがなるべく傷付かぬよう、少しでも居心地がいいよう囲い過ぎた。あれは中学をろくに卒業せんまま、この店で働き出して以来ずっとここでしか暮らしとらん。同じ年頃の友人もおらず外で働いた経験もねえから、あれの世界はまったく広がらんかった。あんたに会うまでは」
湯飲みを置き、湯気とともに温かい息を吐く。
「女にだけは目がないから、ここの常連客とはよく話してたがな。ナミって子に誘われなきゃ、遠出することもなかっただろう」
「そうですね、思えば不思議な縁です」
ナミが自分のことを思い出さなければ、シモツキに連れて来てくれることもなかった。
いくつかの偶然や条件が重なって二人は出会い、この春から一緒に暮らし始める。
そう思えばなんとも感慨深く、奇縁に感謝したい気持ちになった。
「いつまでもわしの庇護の下に置く訳にはいかんかった。あれが自分の意思でここを出て行くと決めたのはあんたのお陰だ、感謝している」
朴訥ながらも真っ直ぐな謝意に、ゾロは畏まって背筋を伸ばす。
「こちらこそ勝手な真似をしましたが、シモツキに来ることを許してくださってありがとうございます」
改めて礼を述べると、ゼフは口元をもごつかせて独特の顎鬚を撫でた。

「あんたも薄々わかっているとは思うが、あれはいい年してかなり甘やかされ、ぬるま湯ん中で浮いてるような暮らしばかり続けてきた男だ」
「はい」
「周囲は訳知りの身内ばかり、あいつの世間は狭く悪意や嫉妬、中傷と言った負の要素に対して免疫がまったくない」
「・・・・」
「それでもあれはあんたが暮らす場所を選び、ここを出ることを選んだ。そんなあいつを受け入れる覚悟は、あんたにあるか?」
底光りする目で見据えられるのに、ゾロは真っ直ぐに見詰め返した。
「あります」
「どんな風に?」
「今度は、俺があいつを守ります」
ゼフはすうと息を吸った。
一拍遅れて、テーブルの上を風が吹きぬけたように空気が震える。
「馬鹿たれが!」
低く押し殺した声が、ビンとゾロの頬を掠めた気がした。
決して大声で怒鳴ってなどいないのに、腹の底に響くような叱責。
ゾロは正面を向いたまま目を見開き、口を真一文字に引き結んだ。

「折角あんたの元へと巣立ったのに、これ以上あれを守ってどうする。いつまでそうして甘やかすつもりだ」
ゼフの真意が読めず、ゾロはぱちくりと瞬きした。
「あんたがあれを好いてくれとるのはようくわかった。生来優しく面倒見がいい性質なのも、気配に聡く言葉がなくとも察する能力が高いのもわかった。だが、だからこそあんたは引き過ぎる」
いかめしい顔付きをそのままに、ゼフは目を剥いてねめつけた。
「想いや気遣いは、一緒に暮らす上で必要不可欠なものだろう。だがそれが遠慮に及んでは、歪みが生まれる。所詮他人同士が一緒になるんだ、優しいだけで齟齬を誤魔化し続ければ、いつかは綻びが出る」
一旦言葉を止め、不愉快そうに口元を歪める。
「あれに対して想いを告げながら、一切に手を出しておらんだろう。それとてお前さんなりの気遣いだろうが、わしはそのままでいいとは思っておらん。あんたのためにもあれのためにも。あれが傷付くことをあんたが回避しないでくれ」
ゾロは目を瞠り、それは・・・と口に出した。
「サンジがこの家を出てシモツキで暮らすと言うことは、俺が思っている以上にあいつにとって大変なことだろうなと予想はしてました。けれどあいつはなんだか気楽で、なにもかもが嬉しそうで、そんなあいつを見てるとそのままでいて欲しいって思うんです」
シモツキに来たからと言って、彼の生活が180℃変わってしまわないように。
「シモツキに来ることであいつを変えてしまいたくはないんです。無理かもしれないけれど、できることならいつまでもあんな風に、幸福に笑っていて欲しい」
「それであんたの欲を抑え、あれが嫌がることのすべてを払い除け、不都合を除外し行動を制限する。そうなればいつしか二人きりの世界に閉じこもるのがオチだ」
「・・・・」
「あれは、あんたに出会ってから変わった」
瑣末なことから少しずつ、サンジの目は外へと向くように変わっていった。
「これからも変わり続けてもらいたい。それが、あれを巣立たせられなかった老いぼれの、最後の望みだ」
「サンジを傷付けることになっても?」
「傷付けることを恐れるな。少なくともあれは、もう傷付くことを恐れたりしていない」
俺の元から離れるってえことはそう言う事だと呟いて、ゼフは車椅子のブレーキを解除した。

「俺あ部屋に戻る。ここは放って置いてもいいぞ」
「いえ、片付けます」
立ち上がり椅子を引いて、ゼフの通り道を作った。
ゾロに見下ろされながらその前を通り、一旦車を止める。
「たまには喧嘩して、実家に帰らせろ」
「・・・はい」
振り向かず部屋に戻って行ったゼフの後ろ姿に深々と礼をして、ゾロは慣れない台所で後片付けを始めた。






「それじゃ、お世話になりました」
開店前の慌しさに包まれている厨房を覗いて、みなに向かって一礼する。
「なんだ、もう帰んのか」
「もう一泊すりゃあいいのに」
「いっそここに婿入りしたらどうだ」
粗野なからかいが飛び交う中で、コックコートに身を包み両足でがっしりと仁王立ちしたゼフが重々しく頷いた。
「気を付けて帰れ」
「ありがとうございます」
もう一度目を合わせてきっちり頭を下げた後、ゾロは勝手口から外に出た。
玄関に回れば、サンジが掃き掃除をしている。
「じゃあ、帰るな」
「おう気い付けてな」
ゼフと同じようなことを言ってから、サンジは箒を持つ手を止めた。
「・・・駅までの道、わかるか」
「大丈夫だ、こっちだろ」
ゾロが指差した方向を見て、深く溜め息を吐く。
くるりと回れ右すると、勝手口に箒を仕舞いに行ってそのまま厨房へと顔を出した。
「ごめん、ちょっと駅まで送ってく」
「おう、そうしてやれ」
みなまで言わずとも理解され、快く送り出された。
「別にいいぞ、昨日も一緒に駅行ったじゃねえか」
「まあ、いいんじゃねえの」
サンジはコートを羽織りながら、さっきゾロが指し示した方向とは逆の道へ歩き出した。

「引っ越すの、やっぱ吉日とかがいいのかなあ」
「縁起担ぐタイプか?」
「そうでもないけど、田舎ってそういうの気にしねえ?」
サンジがそう言うと、ゾロは並んで歩きながらうーんと首を傾げた。
「かもなあ、また日程調べて連絡するわ。総会とかバイトとか入ってねえ日がいいし、スモーカー達も手伝ってくれるだろうし」
「そんなたいした引越しにならねえと思うけどよ。持ち込む家具とかある訳でなし」
「・・・だよな」
嫁入り道具・・・と言いかけて飲み込む。
迂闊なことを言うとこのまま横蹴りされそうだ。
「荷物、ちょっとずつ宅配で送っていいか?」
「ああ、出稼ぎのバイトはもう終わったから、夜7時以降着ならいつでも受け取れる」
「台所道具と着替えくらいしか送るもんねえよ。服は、季節ごとに箪笥の入れ替えするようなつもりでこっち帰って整理するから」
「ああ、実家がそのまま物置き状態か」
「そうそう、どうせ2階は俺以外使ってなかったし」
「わからんぞ、これから住み込みのスタッフとか入らないか?」
「あ、それはありそうかも。ってことは、俺本格的に追い出されちまうかも」
サンジが本気で心配そうにしたから、ゾロは笑ってしまった。
「荷物は隅に追いやられるかもしれねえがな、大丈夫だ。ここはいつだっててめえの帰る場所だ」
「そうか」
「実家だよ」
「・・・実家に帰らせてもらいます」
「そう言って、たまに帰ればいい」
「まだ出てないのに、もう帰る算段か?」
軽口を叩いている間に、駅に着いてしまった。
「こんなに近かったっけか?」
素直なゾロの感想に、サンジの肩が小さく震えた。
昨日の夜はさておき、来るときはどれだけ遠く感じていたんだろうか。
そう思うとおかしくて、横を向いて笑いを堪えるしかない。

「店の目処がついたら連絡するわ」
「おう、こっちも都合のいい日を連絡する。それから、駅前の物件の間取りとかFAXで送る」
「そっちのが急務だな。番号、わかるか?」
「またメールしてくれ」
「了解」
いつ駅に着いても乗る電車があるのは助かると、ゾロは改めて感心していた。
シモツキ駅の時刻表に馴染んでしまったサンジは、それが当たり前だぞなんて突っ込むことも思いつかない。
そうだな便利だなと、都会に驚く年寄りみたいな会話をして改札口で別れた。
振り返って手を振るゾロに手を振り返して、人混みの中に消えていく背中を見送った。
本当にいつもと逆だなと、一人残された改札口でポケットに手を突っ込んでしばし佇む。
見送るのがこんなに寂しいことだったなんて、初めて知った。



END


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