花信風 -1-


かつて一度行ったことのある場所なのに、どうしてか辿り着けない。
ゾロは小さい頃から何度もそんな“不思議”を体験している。
故に慣れっこではあるが、実質困るのも確かだ。

何度か同じような場所をぐるりぐるりと巡ってから、とうとう諦めて携帯を取り出した。
コール1回で、低くいかめしい声が「バラティエです」と名乗る。

「ロロノアです。今そちらに向かっているのですが、何故か店がなくて・・・」
「こっからはお前さんの姿がよっく見えてたよ。何回同じとこを歩きゃあ気が済むんだ。左足を10時の方向に向けて、まっすぐ20歩、歩いて来い」
ゾロは携帯を耳に当てたまま、言われたとおり20歩歩いた。
「いらっしゃいやせ!」
山のようにでかい男が、不気味な笑みを称えて玄関で待ち構えている。
「お一人様―ご案内っ」
競り市みたいな掛け声に、厨房でなにやら話をしていたサンジが顔を顰めて振り返った。
「うっせえ・・・」
な、とまで言えず、両手にトレイを持ったまま目を見開いて固まっている。
「よう」
まだ風は冷たく吐く息は白いのに、なぜかゾロは額に汗を掻いて笑っていた。




「おま・・・なんで?」
「飯食いに来たんだ」
おしぼりで顔から首まで拭い、出された水を一息に飲んだ。
「あー生き返る」
「一体どんだけ歩いてたんだ」
呆れた声を出しながらも嬉しさを隠し切れなくて、サンジはトレイを抱いたままソワソワしている。
「ランチタイム、まだ間に合うか」
「ああ」
「じゃあ、どっちでもいいや」
「了解」
厨房に引き返すと、ゼフを筆頭にスタッフみんながニヤニヤと笑っていた。
「お前ら、あいつが来るの知ってたな」
「だから今日は、てめえ休みだって言ったじゃねえか」
パティは丸太のような腕を組んで勝ち誇ったように言った。
確かに今朝、オーナーは突然「今日一日オフでいいぞ」と言い出したのだ。
前に助っ人で別店を手伝った時の代休だと言われたが、いきなり休んだところで何をする予定もないからとサンジは断っていた。
まさかそれが、こういうことだったとは。

「丁度いい、今からお前も昼飯にしろ」
「どうせオーダーストップだ。余り物全部出してやる」
サンジは「え」と絶句して、じわじわ頬を赤らめた。
それってつまり、この店でゾロと二人向かい合わせに食事しろと、そういうことだろうか。
「とっとと着替えて来い、あちらさんは腹空かしてんだろうが」
「そうだ、最低1時間は同じとこグルグル回ってたからな」
「呼んでやりゃあいいのに、人が悪いったら」
和やかに笑いながらも手はテキパキと動いているスタッフを前に、サンジは往生際悪くでもなあと渋っている。
「休むんなら休むではっきりしやがれ!」
とうとうゼフの雷が落ちて、サンジは慌てて着替えに走った。



「同席していいか」
普段着に着替えて傍らに立ったサンジに、ゾロは目を輝かせた。
「一緒に食えるのか」
「うん、どうやら俺は今日休みらしい」
「らしいってなんだよ」
可笑しそうに笑うゾロに、サンジはわざとむっとした顔付きを作った。
「来るなら来るって前もって知らせろよ。俺だけ吃驚したじゃねえか」
「先月電話したんだよ」
そう返されて、途端にバツの悪そうな表情になる。
「行けなくなったってメール来たきり音沙汰がねえし。こりゃメールじゃラチが明かねえかもって電話したんだ」
「うちに?」
「おう、そしたらじいさんが出た」
そこでランチが運ばれてきた。
食前酒も付いている。
「えらいサービスだな」
サンジの方が目を丸くしたのに、ウェイターは済ました顔でさっさと下がった。

「来月お前の誕生日だって聞いてな、今日だろ」
おめでとう、とゾロがグラスを掲げた。
サンジは口を開けて一瞬固まってから、ああと満面の笑顔になる。
「そっか・・・」
はにかむように俯けば、長い前髪がはらりと落ちた。
「ありがとう」
そう言いながらグラスを持ち上げ、ゾロのそれに軽く合わせる。
「また同い年だな」
「そうだな」
グラスに口を付ける前から、サンジの顔はすでに桜色だ。
一足早い春が来たみたいだと、口には出さないで目を細める。
「思えば、お前の誕生日もここで祝ったんだよな」
「去年な」
「どっちにしろ、お前がここまで来てくれてんだよな」
なんか悪いなーと呟くサンジに、それもあるがとゾロは話を切り出した。


「お前の誕生日を祝いついでに、返事を聞きに来たんだが」
「返事?なんの」
サンジは素で聞き返した。
スープを掬う手を止めて、ゾロはじとっと恨みがましい目つきで見上げる。
「・・・えっと」
戸惑うサンジに、わざとらしく溜め息を一つ吐いてからスプーンを口に運んだ。
「なんだよ」
「前にうちに来たの、正月だったよな」
「ああ、世話になったな」
雪に閉ざされた空間だったのに、思いの他暖かく賑やかな日々だった。
もうシモツキにも、春は訪れたのだろうか。

「みんな元気か?お隣さんとかたしぎちゃんとか」
「変わりねえよ。たしぎとスモーカーは店の改装工事でバタついてる」
「そっか、じゃあ俺らんとこももう取り掛からねえといけねえんじゃね?」
また、ゾロの手がぴたっと止まった。
今度はやれやれと、声に出しそうなほど盛大な息が漏れる。
「・・・なんだよ」
たじろぐサンジに、ゾロはテーブルに肘を着いて微妙に歪んだ口元を隠した。
「俺はまだ、お前から返事を貰ってないんだが」
「だからなんの」
「シモツキに来るかって」
フォークを握っていた手がそのまま丸まった。
あれー?と声に出して首を傾げ、改めて真正面のゾロを見詰める。
「俺・・・言ってなかったっけ?」
「聞いてねえ」
きっぱりと言い切られ、サンジの視線が宙に浮いた。
「そう・・・だったっけ?」

シモツキからの帰り際、一緒に住もうと持ちかけられ驚いたけれど、正直嬉しくもあった。
とはいえあまりに突然だったから返事をためらったら、帰ってからゆっくり考えればいいからと告げられ、そのまま別れて―――
「それから何度かメールはあったが、バレンタインの試食の話ばっかりだったよな。んで、バレンタインさえ終わればこっちに来るつったのに・・・」
「ドタキャンしました」
サンジは膝の上にきっちり両手を揃えて神妙に頭を下げた。
迂闊だった。
つか、マジですっぱり忘れていた。

ゾロの言葉が嬉しくて、帰ってきてからもずっと舞い上がっていたのは本当だ。
ともすればつい、ゾロの言葉やシモツキでのことが頭に浮かんで上の空で。
どうやってゼフにそのことを告げようかと、いらない気ばかり揉んで悶々としていたらゼフの方から「言いたいことがあるならとっとと言いやがれ」と喝を入れられ、意を決して告白したらあっさりと許された。
と言うか、こっちが拍子抜けするほど「なんだそんなことか」と流された。
ゼフのみならず、バラティエのスタッフみんなが「何を今更」と言いたそうな顔をしていたのは今でも解せない。
なんでみんな、そんなに寛大なんだろう。
そんな田舎にノコノコ行くなとか、どういう知り合いなんだとかあれこれ詮索されることもなかった。
むしろ、すぐさま求人広告を出して春までにスタッフを2名も募集してくれたから追い出されそうな勢いだ。
あまりにも呆気なく許されて心底ほっとして、それからはもうシモツキでの暮らしばかりが頭を占めた。

ゾロの家に住むなら、本格的に台所道具を揃えなきゃとか。
どんな店にしようかとか。
食器類は卸問屋で見繕って来ようかとか。
どうせなら空き家の方で農家レストランがしたいなとか。
それより先ずは、ゾロの産直を成功させなきゃとか。
色んな提案とか想像とか妄想とかが頭の中を駆け巡って、ものすごく忙しかった。
故に、肝心なことをゾロに伝えていないことなんてすっぱりと忘れていたのだ。



サンジは軽く額を押さえて、あーと呻いた。
ものすごくかっこ悪いぞ俺。
つか、浮かれすぎでしたか俺。
黙って反省するサンジを、ゾロはじっと見詰めている。
食事にも手をつけていない。
サンジの返事を待っているのだ。

「えーと」
サンジは今更モジモジと膝の上でナプキンを揉んだ。
「春からお世話になります」
「・・・そうか」
ゾロの表情がぱっと明るくなる。
額の汗まですうと引いた気がして、顔色が全然違って見えた。
彼なりに不安だったのだろうかと、そのあからさまな変化に可笑しくなるより気の毒になって、サンジは心底申し訳なく思った。
自分にとっては色々あってあっという間の2ヶ月だったが、返事を待つだけのゾロには長い期間だっただろう。
店舗として借りるなら申請も必要だっただろうし、引っ越すだけのサンジと違って受け入れる側のゾロでは負担がまったく違う。
その辺りを考えないで自分勝手に浮かれていただなんて、申し訳なさ過ぎる。
「こちらこそ、お世話になります」
嬉しそうに頭を下げるゾロの姿に柄にもなくきゅんと来て、サンジは意味もなくスープを掻き混ぜた。
「それで、春ってのは具体的にいつなんだ?」
「えっと・・・」
言われて見ればもう春だ。
キリがいいのは4月かもしれないが、別に区切りをつけなければならない話でもない。
「ほんと言うと1月の時点でじじいの了承得てたし、店の方もスタッフの確保できてるしで、いつでもいいんだ。だから、お前の都合のいい時に―――」
「俺も、いつでもいいぞ」
途端に旺盛な食欲を示し始めたゾロは、勢いよく食べながら頷いている。

「駅前の店舗はどうなったんだ?」
「一応まだ“空き”状態になってる」
「そっか、それじゃあそこを押さえてもらって・・・」
「何の店にするんだ?喫茶店か」
「そうだなあ。産直用の事務所を入れるんならそんだけ広いスペースじゃなくなるだろうけど、茶屋みたいな感じで」
「食べ物を扱うんなら保健所の許可が下りるように設計しねえと」
「あ、そうだな。まずは改装計画からだな」
そこまで言ってから、サンジは「あ」と顔を上げた。
「お前、今日いつまでいられるんだ」
「特に帰る時間は決めてねえが」
サンジはちょっと顎を下げて、上目遣いでゾロを見た。
「今日、帰らなくてもいいのか?」
「ああ、バイトの予定とかは特にねえ」
そうかそうかと一人で頷きながら、またちらりと視線を上げた。
「じゃあ、うち泊まっていかね?」
「いいのか」
「勿論、いつも俺ばっかりお邪魔してたから・・・」
そこまで言って、サンジは伸びをするように後ろを振り返った。
「なあジジイ、今日ゾロうちに泊めてもいいだろ」
「いつも世話になってんだ、構わねえよ」
「お邪魔します」
頭を下げるゾロの前で、サンジはやったと子どものように手を挙げた。
「じゃあさゾロ、今度は俺の布団で一緒に寝ような」
カウンターにいたパティが盆を倒しかけて、慌てて直した。
ゼフは無表情だが、聞き耳を立てていたスタッフ全体が凍り付いている。
遅いランチタイムだったから客はみな引けて、貸切だったのが幸いだ。

「いいけど、ベッドとかじゃねえのか」
「セミダブルだけど、狭えかな」
「畳に布団とは訳が違うからな、俺の寝相は悪くないが」
「俺のが寝相には自信ねえなあ」
「夏はくるくる回ってただろ」
「暑いんだもんよ。ちょっとでも冷たいとこ探して無意識に移動してんじゃねえか」
「前にヘルメッポ達が泊まりに来たとき、廊下まではみ出してたことがあった」
「あり得そうだ」
「謎なのは、朝起きたら寝てる順番が違ってたことだ。俺・コビー・ヘルメッポ・スモーカーの順に並んで寝てたはずなのに、しかも誰も夜中にトイレとか起きてねえのにコビーだけ廊下に出てたんだよ」
「乗り越えたのか?」
「ヘルメッポとスモーカーの2人をな」
「あり得ねえ」
「なあ」

いつの間にか真っ当な噂話へと移行している。
誰もが何も聞かなかったことにして、ランチタイムは和やかに終了した。



next