寒明


ようやく雪が溶けて走りやすくなったアスファルトの道を、自転車を漕いで和々へと出勤する。
氷雨がそぼ降る中、切る風は冷たいが心はポッカポカだ。
なんせ今日はバレンタインだからして。

今や国民的イベントとなったバレンタイン・デーは書き入れ時とばかりに、店長たしぎが営業時間を延長して荒稼ぎ・・・もとい、商売に励む宣言をした。
こういうイベントごとが大好きなサンジは元より、ウソップも助っ人に駆り出された。
店でのラッピング手伝いと、お客さんから希望があればその指導をとのことですっかりお祭り気分だ。

「おはよう、今日は温かいねえ」
「また明後日から雪だってねえ」
お天気の話から挨拶が始まって、すゑちゃんとお松ちゃん、おウメちゃんが総動員で開店準備を始める。
「きょうはバレンタインだからあ、お客さんいっぱい来るかねえ」
「平日だから、喫茶はあんまり見込めないでしょ」
「昼休みは多いんじゃないかなあ」
3人とも、すっかり手馴れたものだ。
「おはようございまっす!」
「今日はよろしくお願いします」
「よろしくねえ、サンちゃん達がいてくれるから心強いわあ」
テーブルを借りて早速ラッピングの準備を始めるウソップの手元を、おばちゃん達が興味深そうに覗き込む。
「あれあれ、あれまあ」
「へーそうなるの、へー」
「あれまあどうしましょ、ステキねえ」
おばちゃん達の明快なリアクションに、ウソップはいちいちヘラヘラ笑いながら説明していく。
「ここをこう引っ張ってくれたら、こんな風になるから。括って結ぶだけで」
「へーえええ」
「んまあ、まあ」
「あーれーまー」
耳だけで聞いているとおかしな掛け声にしか聞こえない。
サンジは込み上げる笑いを押し殺して、せっせと喫茶準備に取り掛かった。
今日のメニューはバレンタイン仕様だ。
恋のプロフィットロールに蕩けるチョコフォンデュ・セット、ショコラ・プラリネケーキとホワイトチョコムースに情熱の赤いソース添え。
ギフト用チョコも常時作り足していける体制になっている。
「今日のメニューは難しいねえ。はあ、情熱の赤いそーす・・・」
「とろけるちょこほん・・・づ?」
おばちゃんたちは仰々しく読み上げながら、名前の通りに発音しようと努力してくれている。
その点、レテルニテでのゾロは絶対その通りに復唱しないなあと思い出した。
とろけるLoveオムライスくらい言えばいいのに、「オムライスですね」と素っ気無い。
この照れ屋さんめ。
「なにニヤニヤしてんだ」
ウソップに見咎められて、思わずぎりっと睨み返してしまった。
「ばかやろーレディの気持ちを代弁できるような甘いチョコ作ってんだ、Love注入しなくてどうする!」
「訳わかんねえ逆ギレ・・・」
呆れるウソップの背後から、パウリーを抱いたたしぎが現われた。
「おはようございます、今日はよろしくお願いします」
先に出勤していたたしぎは、事務室の方で授乳していたらしい。
「おはようねえ」
「パウ君おはよう」
大人に構われることに慣れたパウリーは、あどけない瞳でじっとすゑちゃんの顔を見返している。
「うーんいい子いい子」
「風邪が流行ってるから、あんまり抱いて出歩かない方がいいよ。奥に一緒にいな」
「はい、ありがとうございます」
たしぎは出産後、店には出ないで赤ちゃん連れで事務をしていた。
会計処理やホームページの更新、産直事務など自宅でもできるデスクワークだが、家にいるより気が休まると毎日事務所に出勤だ。
「サンジさん、ウソップさん、今日はありがとうございます」
「いやいや、呼んでくれてありがとう」
ウソップは相好を崩してパウリーに手を差し伸べた。
慣れた仕種で抱き上げ、長い鼻を擦り付けている。
「こういうイベントは大好きだからね、楽しみだったんだ」
パウリーのポワポワした髪を撫で、柔らかな肌から染み出るような体熱を感じた。
子どもはほんとに体温が高い。
ゾロも体温が高いけど、こんな風にほんわかと甘い熱じゃなくてもっとこう、じわりと染み入るような侵食するような・・・ってなんですぐゾロのこととか思い出すよ!

「ゾロ達はもう着いたかな」
「あっちは雪もないし、快適だろうねえ」
ゾロの名にはっとして顔を上げ、一人赤面する。
脳内を見透かされたかと思った。
「さっきスモーカーさんからメールがありました、みんなでコーヒー飲んで一服してるそうです」
たしぎが携帯を翳しながら答えた。
スモーカーとゾロは農家のおっさん達と一緒にファーマーズフェアで都会に出掛けている。
あんまり雪が降ると出立も危ぶまれたが、ここ1週間は温かい日が続いてちょうどいい日和だ。
「帰って来たらまた雪だよな」
「天気予報は当たるからねえ」
10時の開店時間を迎え、おしゃべりはこれまでとお梅ちゃんがシャッターを開けた。



バレンタインは事前に準備している人が殆どだろうと予測していたけれど、意外と駆け込みのお客さんが多かった。
ママ友さんが連れ立ってお茶して行くのは日常の風景としても、バレンタインにはあまり縁がなさそうなおばあちゃん達が「これ綺麗ねえ」と孫のために買って帰ったり、おっさんが「頼まれたから」とかなんとか聞かれもしないのにあれこれ言い訳して買って帰ったり。
これは多分、奥さんにあげるのだろう。
営業のサラリーマンが先方への差し入れとして箱買いしてくれるのもある。
「海外では、男性から女性に花を贈る日ですからね」
サンジが言えば、お松ちゃんが大仰に目を剥いた。
「あんれえ、その方がいいわ」
「ほんに」
「お父さんに教えちゃろ」
昼休みには予約客と駆け込み客が一気に訪れて、ちょっとした混雑になった。
「予約してたの取りに来たわいなー」
「いい匂いがするわいなー」
工務店、フランキーハウスからやって来たのは事務のキウイとモズだ。
個性的なヘアスタイルにエキセントリックな性格だが、可愛くてナイスバディだからサンジはクネクネして出迎える。
「いらっしゃい、用意できてるよ」
「わー綺麗だわいなー」
チョコレートが入ったボックスを覗き込み、歓声を上げる。
「兄貴達にあげるの勿体無いわいな」
「このまま持って帰って二人で食べるわいな」
早引けの算段を始めた二人に、サンジはニコニコしながら言った。
「また仕事帰りに寄ってよ、スペシャルサービスさせてもらうよ」
「仕事帰りだと6時過ぎになるわいな」
「今日は特別、夜8時まで開いてるよ」
「やったーだわいな!」
「必ず来るわいなー」
キウイとモズは実際に跳ね飛びながら、大切そうにチョコレートを抱えて出て行った。

「こんにちはー」
「あ、カヤちゃんいらっしゃい」
「おう、いま休憩か?」
午後2時を過ぎた頃に、カヤが顔を出した。
「大盛況みたいですね」
私もお手伝いしたかったなあと、残念そうに見回している。
「お昼は食べたの?お茶していかない」
「一応軽く食べたんですけど、もう戻らないといけないので」
言いながらも、奥から出てきたたしぎとパウリーを見つけきゃーと駆け寄る。
「パウちゃんこんにちはーお昼寝明けかな?」
「カヤちゃんいらっしゃい〜」
たしぎがパウリーの手を取ってカヤに話しかける、腹話術状態だ。
「ごきげんですねv」
「よく寝たもんねー」
ぷくぷくの頬っぺを挟んで鼻先を擦り付け、はっとして顔を上げた。
「そろそろ行かなきゃ、また後で」
「お疲れ様」
「チョッパーによろしくね」
注文の品だけ受け取って、また来ますと慌しく戻っていく。

「カヤちゃん、すっかりキャリアウーマンだね」
「なんか俺より忙しいみたいなんだよな」
地域に密着した医療体制のシモツキでは、仕事に没頭すればするほど公私の境が見えなくなってしまう。
仕事だからと割り切れる性格ならいいが、カヤはついチョッパーと一緒になってプライベートの時間でも患者の相談に乗ったり、自主的に独居老人の訪問に行ったりしてしまうのだ。
「あんまり身体が丈夫じゃないんだろ?お前が気を付けてやんないと」
「や、それがな。こっち来てからあいつ風邪一つ引かねえんだ。前よりうんと丈夫になったみてえ」
「そりゃよかった」

午後には保育所のお迎え帰りのママ達が子ども連れでティータイムに来て、夕方以降は仕事帰りの奥さんや旦那さん達が家庭用にと寄ってくれた。
「夜遅くまでやってみるもんだなー」
たしぎと3人娘は先に帰り、後を任されたサンジとウソップ、それにカヤが店じまいをする。
「たまには、こういうのもいいですね」
「すっかり一大イベントだもんな」
カヤは職場用以外は店で買い求めなかった。
多分家に帰ったら、ウソップのためにすでに用意してあるのだろう。

「それじゃ、お疲れ様」
自転車に跨ったサンジに、ウソップが声を掛ける。
「ゾロが戻るのは明日だろ?今晩うち泊まってかないか?」
「なに言ってんだ」
サンジは呆れて振り返った。
「新婚さんのバレンタイン・ナイトにお邪魔するほど野暮じゃねえぜ」
「べ、べべべ別にそんな」
「そうですよサンジさん。ご飯ぐらい一緒に食べましょうよ」
カヤの誘いは魅力的だったが、手を振って辞退する。
「これから戻って風太の散歩も待ってるし、ゾロから連絡もあるかもしんないし。気持ちだけありがと」
じゃあな〜とペダルを漕ぎ出す。
「気を付けて帰れよー」
「また明日」

外灯の少ない暗い農道をキコキコと自転車漕いでひた走る。
途中、ショボショボと降ってきた雨が家に着く頃には雪に変わった。
距離が遠くても聞こえたのか、家に着く前から気忙しく風太が歓迎の吼え声をあげている。
それをあやして手早く散歩に出掛け、餌をやった。
改めて家に入り、灯りとストーブを点ける。
一人っきりの家はがらんとして、寒々と感じた。
「うー寒いー」
いつもならさっさと風呂を沸かして夕飯の支度をするのに、一人ではなにもかもが億劫だ。
ストーブに齧り付いて湯が沸くまでぼうっとして、薬缶から湯気が立っても茶を入れるのも面倒でさらにぼうっとした。
夕食を作る気力もない。
和々で3時過ぎに軽食を摂ったから、それでいいかもとか思う。
寒いから、風呂もいいかもと思う。


まだコートを着たきりだったことに気が付いて、服を脱いだ。
ハンガーに掛けるついでに立ち上がり、布団を敷いてしまう。
ゾロがいないと、どうもものぐさになっていけない。
明日の和々の喫茶メニューも、早起きしてすればいいかなーとずるいことを考えてしまう。
起きてたってしょうがないし。
ゾロがいないのに。

もう少し部屋があったまったらストーブを消して寝ようと、布団の中に転がっていたら携帯が光った。
ゾロだ。
「おう、そっちはどうだ?」
『雪、ねえぞ』
「あったりまえだろが」
ゾロの声が耳に響いて、それだけで嬉しくなった。
直接話すより、携帯越しの方がうんと近い。
『そっちは降ってねえか』
「ん、さっき降ってたけど」
カーテンを引いて、空を確認する。
「止んでるみてえ」
『よかった』
朝、ドカ雪になるとサンジが和々に行けなくなる。
まあその時はウソップを呼ぶからいいけど。
「んで、そっちはどう」
『ああ、まあ色んな奴がいて面白え』
「また飲み歩いてんじゃねえのか?」
『おっさんらが元気なんだよ』
背後で、明らかに酔っ払いのダミ声が聞こえた。
楽しそうだ。
『大丈夫か?』
「なにが」
『風太はちゃんと番犬してるか』
「頼もしいぞ」
表できゅんとも鳴かない。
シモツキの夜は静か過ぎて、家鳴り以外音はない。
『こっち、やたらとチョコレート売ってるから土産に買って帰る』
「ああ、そりゃ楽しみだ」
1日遅れのバレンタインだ。
『悪いな』
「なにが」
サンジは枕を胸元に引き寄せながら、喉の奥でくくっと笑った。
「ファーマーズフェアの日程は、お前が決めたんじゃねえだろ」
『そうだけどよ、スモーカーもよ』
スモーカーも、たしぎにチクチク言われたんだろうか。
「たまには、こういう夜もいいな」
『あ?一人のが気楽か?』
ちょっと不満そうな声がする。
顔を見られない分、声の響きはとても表情豊かだ。
「離れてる分、てめえのことばかり考えてられる」
低く、そう囁いた。
返事がない。

「―――ゾロ?」
『・・・てめえ、明日憶えてろよ』
唸るようにそう言って、最後にらしくない台詞も呟いて通話が切れた。
サンジは布団の中に横になって転がり、声を立てて笑った。
笑いながら携帯を抱き締め、手足を丸める。
ゾロの熱がない布団はどこもかしこも冷たくて、息遣いさえない空気はしんと静まったままだ。
けれどサンジの耳には、さきほどのゾロの言葉がずっと残っている。

手を伸ばしてストーブを消し、灯りも消して再び布団に潜り込んだ。
雨の音も雪の音も、車の音も何もしない。
ただ時折、ぴしりと軋む家鳴りの音だけを子守唄に目を閉じる。
今夜はゾロの夢を見よう。



 END



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