■Jinx   -3-



初めてゾロからの口付けを拒絶して、サンジには後味の悪い思いだけが残った。
いつも自分ばかり損な役回りだったのになんだって、正直に断っただけでこんなにも気分が沈まなければならないのか。
理不尽さに一人で悶々としながら、ゾロの情報はわざとシャットアウトして週末はバイトに明け暮れた。
だからサンジは、何も知らなかった。



『来週には、一般病棟に移るって』
友人からの唐突なメールに、意味が分からず休憩時間に電話を入れる。
「一般病棟って、なに。誰か入院したのか?」
呑気なサンジの口調に、友人は大きな声を出した。
『なに言ってんだ、お前まさかロロノアの事故知らないのか?』
「え?」
一瞬で、頭の中が真っ白になった。

事故?
事故ってゾロが?
しかも一般病棟って・・・

『そうか、もしかしてお前ら卒業してから接点がなかったのか?もうお前、勝利の女神じゃねえんだな』
「――――・・・」
落胆したような友人の言葉に、そうじゃない、と否定の言葉も出なかった。
ゾロが事故ったという事実だけが、頭の中をグルグルと回り続ける。

『なら、お前には関係ねえ話って思われるかも知んねえけど、ロロノアが事故って・・・って言うか、貰い事故だなあれ。ともかく結構重傷だったんだ、集中治療室入ってて。でもさすがロロノアってえか、もう一般病棟移れるんなら、まずは一安心ってとこさ』
黙ってしまったサンジを気遣って、殊更明るい声を出す。
『あんまり大勢で押し掛けても迷惑だろうけど、ちょこちょこ顔出すのも疲れるだろうし、みんなでまとまってちょこっと見舞おうぜって話になったんだ。一緒に行くだろ?』
「――――・・・」
『サンジ?』
「行かない」
サンジは携帯を握り締め、首を振った。
「俺、行かない」
『・・・そうか』
友人はひっそりと、溜め息を吐いた。
『関係ないのに悪かったな。じゃあな』
薄情な態度に腹を立てたのか、友人は素っ気なく通話を切った。
サンジは力なく手を下ろし、項垂れる。

ゾロが事故ったなんて、知らなかった。
後ろめたさを誤魔化すように、敢えてゾロの情報は耳に入れないようにして学校とバイトに没頭していた。
それがまさか、こんなことになっていただなんて。

―――――俺が、キスを拒んだから。

そんな馬鹿なと、頭に浮かんだ考えを振り払う。
今までだって、サンジがキスしなくともゾロは何度も大きな大会をこなしてきた。
今回はたまたまだ。
たまたま、でも初めて。
ゾロからの要求を突っぱねただけで。
サンジが拒絶したからゾロが事故に遭っただなんて、そんなことある訳がない。
そう思うのに、動揺は収まらない。

思えば、サンジもあの夜からなにかと失敗続きだった。
学校で普段はやらないようなミスをしたり、バイト先でもうまく立ち回れなくて叱られたり。
集中できていないせいだと、自分でもわかっている。
もしゾロも、自分と同じように気が逸れてしまって、そのせいで事故を起こしてしまったんだとしたら。
―――――俺のせいだ。
いつの間にか、ガクガクと膝から下が震えていた。
サンジは壁に手を着いて、傾きそうになる身体を支える。

どうしよう。
俺のせいでゾロが大怪我を負ったとしたら、どうしたらいい?
俺のせいなんて、思うことこそがおこがましいのに。
それでも、無関係ではいられない。
だってゾロは、こんな自分でも験担ぎにしてくれていたのだ。
もしかしたら、頼られていたのかもしれない。
俺は神になんて祈らないと。
嘯いて強がっていたゾロだけど、大事なレース前には必ずサンジからキスを奪うことをジンクスにしていた。
例え悪ふざけでも、嫌いな男を相手に唇を付ける行為なんて、する意味がない。
ゾロは、ゾロなりに必死だったのかもしれない。

こんなことになるぐらいなら、キスなんていくらでもすればよかった。
ゾロが、怪我をしただなんて。
バイクで事故を起こしただなんて。
たった一度しか見ていない、けれどそれだけで心を奪われたあの光景は今でも脳裏に焼き付いている。
爆音を響かせて風のように走るゾロは、メカニックなのにどこか野生の獣のようだった。
いつまでも見ていたい、けれど見ているのが怖かった。
速さだけを競う世界で、不安定な二輪で万が一にも転倒なんてしたらひとたまりもないだろう。
車でも大惨事になるのに、バイクなんてほとんど生身だ。
いくら丈夫なスーツを身に付けていたとしても、あのスピードでは転んだだけでも無事には済まない。
そう想像するだけで恐ろしくて、サンジはもう二度とゾロのレースを見ないと決めたていた。
なのに、サンジが知らないところで、ゾロは事故を起こしていた。

どうしよう。
どうしよう。

今すぐにでもゾロに会いたいと思う半面、顔を見るのが怖くもある。
重傷だったけれどもう大丈夫、ということは、命に別状はなかったということだ。
だったらもう、大丈夫じゃないか。
自分が見舞いになんか行かなくても、いいんじゃないか。
見舞いに行くことでゾロの怪我が劇的に良くなるなんてことは絶対ないし、むしろ験が悪いって嫌がられるかもしれないし。
勝利の女神を自ら拒否した俺は、もうゾロに会う資格なんてないのかもしれない。

グルグルと、悪い方にばかり考えが向かう。
自分でもわかっていた。
どれもこれも、ゾロを心配しているように見えて、その実自分のことばかりだ。
ゾロにどう思われるか、嫌われるんじゃないか。
ただそのことだけが不安で、恐れてさえいる。
どこまでも身勝手で、浅ましいばかりの自分。

サンジはぐっと拳を握りしめ、怯みがちな気持ちを奮い立たせた。
―――ゾロに、会おう。
ゾロに会って、とにかく謝る。
事故が自分のせいでも、そうじゃなくても。
いつまでも目を背けて、逃げてばかりはいられない。
ゾロのためじゃなく、自分のために。
ここまで来たら、とことん自分勝手に振る舞ってやる。
こんな俺を、勝利の女神に据えたゾロの方が悪いんだ。

グルグルと思い悩んだ挙句、開き直りの方向に落ち着いて、サンジは善は急げとばかりに事故の情報を調べ始めた。





ゾロが入院している病院は、すぐに分かった。
来週は一般病棟に移れる、ということは今はまだICUか個室にいるのだろう。
そう判断して、ナースステーションを目指す。
予想通り、ゾロはナースステーションのすぐ脇の個室にいた。

「ご親戚の方ですか?」
「友人です。家族ではないと、ダメですか?」
ダメ元で駆け付けたが、実際にゾロの病室を目の前にして入れないのはもどかしい。
看護師は少し考えてから、いいえと答えた。
「ご家族の方は、先ほどお帰りになったところです。少しの時間でしたら・・・」
「ありがとうございます」
ゾロとは学区が同じだったから、家族とも顔見知りだ。
もし行き会っていたら、病室に入れてくれたかもしれない。
けれど、家族の前ではゾロにどんな顔をして会っていいかわからなかっただろう。

タイミング的にはラッキーだったと思いつつ、遠慮がちにノックをする。
「どうぞ」
思いのほか、普通の声で応えがあった。
「俺、入るぞ」
「―――――おう」
声でサンジとわかったのか、すぐにぞんざいな口調に変わった。

入り口で手指を消毒し、カーテンで遮られた通路を歩く。
顔を覗かせると、どこか不服そうな表情をしたゾロがベッドに横たわっていた。
「・・・よう」
「おう」

頭に包帯が巻かれ、頬にも大きな絆創膏が貼ってある。
頭上には点滴がぶら下がり、管が数本腕に刺さっていて痛々しかった。
「ざまァねえな」
「まあな」
サンジの憎まれ口にも、苦笑いを返すだけだ。
なぜだか不意に泣きそうになって、サンジはパイプ椅子を引き寄せて腰掛けた。
「お前が事故ったって、知らなかった」
「そうか」
「今日聞いて、びっくりした」
「そうか」
「大丈夫、なのか?」
「大丈夫だ」

サンジが言葉を失くすと、沈黙が降りる。
ゾロから視線を外ししばらく黙った後、意を決したように顔を上げた。
「ごめん」
唐突なサンジの言葉に、訝しそうに眉を顰める。
「あん時、その、キ・・・拒絶して、ごめん」
「別に、謝らなくていい」
ゾロは怒ったように、点滴を睨み付けた。
「俺が事故ったのは未熟だったせいだ。別に、てめえのせいじゃねえ」
「そりゃ、そうだろうけど、でも」
「レースの前にてめえにキスしてたのも、俺が勝手に作ったジンクスだ。お前が気に病むことじゃねえ」
「でも、ジンクスなんだろ」
サンジは消え入りそうな声で、続けた。
「だったら、やっぱり大事にするべきだった。俺が考えなしだった」
「違う」
「違わねえよ」
「違う」

仰向いたまま、頑なに否定するゾロに言い返そうとして、止める。
怪我人相手に大きな声を出しちゃ、いけない。
「とにかく、ごめん」
「謝るな」

なんなんだ一体。
サンジは猛烈に腹が立ってきた。
せっかく人が心配して、一応しおらしく謝罪に来てやってるのに、なんだってそんな何もかも否定するんだよ。
怒ってんのか怒ってないのか、どっちなんだよ。

「謝るなって、怒るなよ」
「怒ってなんか、ねえよ」
「じゃあ、なんでそんな面してんだよ」
「生まれつきだ、馬鹿」
「知ってるよ、アホ」
ポンポンと言い合っていたら、馬鹿らしくなった。
お互いに目を合わせ、どちらからともなく吹き出す。

「そんだけ元気なら、大丈夫だろ」
「最初から大丈夫だっつってんだろうが」
ゾロは笑いながら、顔を顰めて首を廻らす。
「今季は無理だろうが、怪我を治して一日も早くレースに復帰する」
その言葉に、サンジの笑顔が固まった。
「懲りてねえの?」
「こんなことで、懲りるか」
「だって大怪我したんだろ。痛かっただろ?・・・怖かっただろ?」
サンジの言葉に、ゾロは少し考えてから頷いた。
「まあな」
「だったら・・・」
「だが俺は、バイクを降りる気はねえ。次に同じようなことが起こったとしたら、今度はもっとちゃんと上手く避ける。俺はまだまだ、強くなれる」
事故のことを思い出しているのか、天井を睨むゾロの瞳は爛々と輝いていた。
そこに恐れや不安の色は微塵もなく、獲物を見つけた獣のように生き生きとして見えた。
「バイクの世界で、俺は頂点を目指す。その夢は、ずっと変わらねえ」
「―――――そうか」

サンジは諦めたように、膝の上で手を組んだ。
「お前は、そうして生きて行くんだな」
だったら、俺も覚悟を決めなきゃならない。

「ジンクス、まだ有効なら、俺ぁいつだってお前にキ―――・・・を、送るよ」
サンジの言葉に、ゾロが視線を向けた。
「まあ、お前が作ったジンクスだから、お前がいらねえっつったら無理に押し付けねえけどよ。でも、もう別に、嫌だとかやらねえとか言わねえ」
「――――・・・」
「もう、こんな思いすんのまっぴらなんだ。こんな、俺のせいじゃねえかもしんねえけど、こんな風にお前が事故るとか、こういうのはなるべく嫌だ。こんなことなら、キスの一つや二ついくらだってしてやる」
サンジがそう言うと、ゾロは困ったように眉間に皺を寄せた。
「・・・って、あ、もしかしてもう、いらねえ?」
悲壮な決意は空振りだったかと、俄かに不安になって聞き返した。
それに、ゾロも素直に頷き返す。

「勝利のためにとか、記録を塗り替えるとか。そう言うジンクスは、俺はもう必要ねえ」
「――――あー、そう・・・」
梯子を外された感で、サンジはがっくりと来た。
次いで、猛烈な羞恥に襲われ一人で身悶える。
せっかく、キスしてもいいとか宣言した途端これかよ。
もうこいつ、いっそ俺がトドメ差しちゃった方がいいんじゃないだろうか。

湧き上がる殺意に身を震わせるサンジを、ゾロはじっと見つめた。
「ジンクスとか、そういう口実は止めにする」
「口実?」
「俺ぁまだ自分で起きれねえし、当分レースにも出られねえ。けど、いまお前のキスを俺にくれ」
「――――は?」
ぽかんとしたサンジを、ゾロは横たわったまま睨み付けた。
「ジンクスとか関係なく、単にてめえにキスしたかっただけだ俺は。いい加減気付け馬鹿」
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは」
反射的に言い返してから、ゾロの言葉を頭の中で反芻する。
え、こいつなに言ってんの?

「だから、お前から俺にキスしろ」
なんで、いつまでも命令口調なのお前。
ベッドに縛り付けられて、寝返りさえ打てない状態の重傷なのに。
なんで俺様態度で人にキスをねだるんだよ。
それでいて、額まで真っ赤だぞお前。

頬に貼られた絆創膏の白さが、余計に際立って見える。
サンジは呆れたように眺め、それから溜め息を一つ吐いて立ち上がった。
いくつかの機械に触れないように静かに近寄り、ゾロの顔の上で腰を折る。
「俺からのキスには、意味があるぞ。それでもいいのか?」
サンジの言葉に、ゾロはむっとして言い返す。
「俺のキスにも、ちゃんと意味はあった」
「言わなきゃ伝わらないだろうが」
サンジは呆れて、けれど優しく微笑んで。
初めて、サンジからのキスをゾロに届けた。




おおきくなったら、なにになる?
「一流のコックになって、可愛いお嫁さんに毎日美味しいものを食べさせてあげる!」

二人三脚でリハビリに励み、無事復帰を果たしたゾロは一足先に世界最速の夢を叶えた。
コックの卵として働き始めたサンジの夢は、まだ半ばだ。
美味しいものを食べさせる相手も可愛いお嫁さんではないことは残念だが、これも自分が選んだ道だから仕方がない。

「行ってらっしゃい、がんばれよ」
「お前もな」
サンジのキスで送り出されたゾロは、今日も野を駈ける獣のようにサーキットを走り抜ける。
ゾロにとっては、サンジの存在こそが験担ぎそのものだ。



End



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