光 -2-


――――世間は白いねぇ。

表長屋の小料理屋『風車』の店内。
厨房前の食卓前に備え付けられた椅子に腰掛け、ゾロはほけ〜っと入口の方を眺めた。
木戸と鴨居で真四角に仕切られた入口の向こうは、朝日で煌いている。
その中、店先を箒で掃いているサンジが、行き交う人々と会話をしながら手を動かしていた。
ゾロの視線を時折遮る女は、『風車』の女将で、店内の卓を手早く拭いている。
大八車の通り過ぎる音。
追い駆けっこをする小さい子供の歓声。
表通りを行過ぎる商人達や、手習いに行く娘達。
飛脚が勢いよく駆け抜けていく様。
籠担ぎの威勢のいい掛け声。
それらは多分、彼らにとっては日常の風景。
だが、夜を生きるゾロにはどれもこれも珍しくて、眩しく感じてしまう。
朝日も、活き活きとした人々も、活気付いた町並みも。
そんな光の世界で、サンジは当たり前のように笑顔を返し、言葉を交わしている。
自分には縁の無い、いや、縁の無くなった昼間の世界だ。

思えば物心付いた頃、天明の大飢饉で両親が村を捨てた。
その時からゾロの今の生活は始まった。
偶々江戸に居た親類の援助のお陰で住む場所だけは確保できたものの、生活は楽ではなく、直ぐに両親は無くなった。
途方に暮れ、辿り着いた寺が件(くだん)の寺だった。
気付けば、兄貴分の下で悪事をする一味に入っていた。
生きていく為には、食べていく為には仕方なかった、というよりそれしか知らなかった。
夜賭場で働いて、昼は寺の空き部屋とかで寝て、また夜起きて賭場で働いて。
明るい時間帯に明るい世界を見る事など皆無だったのだ。
今こうして改めて目にして、ゾロは思う。
人は光り輝く存在なのだ、と。
額に汗して働いて、自分の仕事に誇りを持って、誰かの為に…少しでも誰かの為になるように。
通りで転んだ子供をサンジがニッコリと笑いながら、抱き起こすのが目に映る。
砂を払ってやり、泣いてる女の子を優しく宥め、頭を撫でて「大丈夫?痛くない?」と声を掛ける。
後から視界に入ってきた女は母親だろうか、サンジにお礼を言いながら女の子を抱き上げる。
女の子が涙をグイッと拭い、これまたにっこりと笑ってサンジに「ありがとう!」と告げる。
それにサンジも母親も一緒になって笑い、軽く一礼をして別れる。
多分こちらの世界ではごく当たり前の光景。
サンジが生きていく、光の世界。
余りに眩しくて、ゾロは思わず食卓に顔を埋め、光で痛んだ目をゆっくりと閉じた。
きっと自分は馴染めないに違いない。
もう既に暗闇に染まりきっているのだから。
そもそも自分が今ここに居る事自体信じ難いのだ。


朝食後、サンジの話から出てきた兄貴分の名前に引っ掛かっていたゾロはサンジに警告した。
「今日も来るかもしれねぇな。」と。
サンジの話が真実であるならば、昨日の兄貴分が言ってた用事の相手はサンジだ。
兄貴分は自分自身では決して動かず、表立って動くのは下っ端だけだ。
その中でもゾロは腕っ節は立つが、何故だか勾引(かどわ)かしは任された事が無い。
それを生業としている連中が動く筈だ。
今朝のサンジの蹴りを考えれば、そしてそれを兄貴分が知っているとなれば使う部下も限られてくる。
また酒に強いとなれば、自ずと絞られてくる。
サンジがその相手を適当にあしらって逃げて来た事を考えれば、兄貴分の昨日の機嫌の悪さも合点がいく。
上機嫌で寺を出た時、兄貴分が言っていたのだ。
「偉い色白の上玉を見つけたんだ。」とか。
ゾロの兄貴分が賭場を開いている寺の僧侶たちの衆道好きは、ゾロも知っていた。
特に昨今は色白がお気に入りなのか、今寺に居る稚児たちも色白揃いである。
場所を貸してもらっている以上、便宜を図ってやるのも頭である兄貴分の務め。
何より兄貴分自身衆道の趣味もある。
そして、兄貴分の諦めの悪さもゾロは知っている。
グルグルと嫌な予感が頭を駆け巡るゾロの耳に、サンジの言葉が飛び込んできた。
「…………てめぇ今日暇か?」
「は?」
思ってもみない台詞にゾロが素っ頓狂な声を出して顔を上げれば、サンジが言葉を続ける。
「腕っ節も強そうだし、結構訳有りそうだし。それにオレの飯と身体食わせてやった礼もして貰わなきゃ割りに合わねぇだろ?」
「…………何だ、そりゃ?何しろっつんだよ?」
「店の用心棒!後、もしてめぇの知ってる奴等なら、話付けてくれよ。」
「………………。」
昨晩ゾロがサンジにした事ってそんなに簡単に許されてもいいものだろうか?
まぁ確かに女じゃないから『傷物にされた』って泣き崩れる事は無いのだろうけれど。
それに下っ端のゾロが話を付けて丸く収まる筈も無く、そう考えてるサンジの能天気さもどうかと思ったのだが。
目の前でニカッと笑い、「どうだ?」と聞いてくるサンジに呆れながらも、ゾロは小さく頷いた。
殆ど条件反射的に。
だが、やはり場違いだと認識し、ゾロが立ち去ろうと腰を上げた時。
大八車が店前に横付けされ、サンジが何やら大八車の持ち主と話をしていて。
この会話が終わったら出て行こうと決めて様子を窺っていると、大八車の荷物に手を掛けたサンジが眉間に皺を寄せる。
そして、急に店の中を覗き込んできて、外を見守るゾロと目が合った。
その瞬間、思い付いたかのように目をクリッとさせると、ニカッと笑って口を開いた。
「ゾロっ!!!これ、この味噌樽厨房に持ってってくれよ。腰が馬鹿になっちまって言う事聞かねぇって。」
あっけらかんと笑いながらそう言うサンジが、ゾロを手招く。
まるで闇の世界から光りの世界へと誘うように。
サンジの居る世界にゾロを連れ出そうとするかのように。
自分でも分からないが妙に温かい気持ちになって、ゾロは照れ隠しに目をゴシゴシ擦ってから表へと足を踏み出したのだ。

その後、商いも始まり、ゾロはサンジの言うままにあれやこれやと力仕事に精を出した。
体を動かして、汗を掻き、入ってきた客に少し愛想の無い対応をして。
気付けば昼時の一番の掻き入れ時を何とかやり過ごし、ゾロはサンジと2人で遅めの昼食を取っていた。
女将さんは用事があると言って、午後からの商いをサンジ1人に頼み、ついさっき出て行ったのだ。
「賄いな。」とサンジが出してきたのは、栗ご飯にさんま、水菜のお浸しで。
ゾロは朝以上のまともな食事に目を白黒させながら、何度もサンジの顔を見た。
サンジは最初、ゾロの意図が分からずきょとんとしていたが、ああと悟ってどうぞと箸を手渡してきた。
「旬のさんまだ。栗もオレが剥いたんだぜ。ま、料理屋の包丁預かってんだから当たり前だけどよ。
遠慮しねぇで食え。」
何ならオレのもと差し出そうとするサンジの手を抑え、ゾロは自分の方に置いてあったそれらを全部食べ尽くした。
余りの食べっぷりに又しても驚いたのだろう、サンジは箸も動かさずにじーっとゾロの動向を見ていたのだが。
それが気になって手を止めたゾロに、サンジが嬉しそうに笑って言った。
「そんなに美味そうに食ってくれると作り甲斐があるってもんだ。力仕事もちゃんとこなしてくれたしよ。
もし良かったら明日からも来ねぇ?」
そして、小さな声で飯だけなら食わしてやるぜと続けて呟く。
照れ臭そうに笑うサンジに、何か心が熱を帯びて、ゾロはグッと米を詰まらせると厨房に駆け込み、柄杓で水を一杯飲んだ。
その時だった。

邪魔するよとの低い声と、入口から差し込む日の光を遮る影。
入ってきた顔ぶれにゾロは、やはりと顔を背けた。
兄貴分に取り入る3人組の男達だったからだ。
彼らはゾロの横顔を見るなり少し怪訝そうな顔をしたが、直ぐに気を取り直してサンジへと向き合った。
「兄さん、昨日はどうも。」
「おう、どうだ?昨日の下戸は見当たらねぇけど、どした?二日酔いならいい薬紹介してやるぜ?」
「それにゃ及ばねぇ。二日酔いどころか、今は傷だらけで動けねぇよ。」
「あ?」
「オレ等の頭ぁ優しいからねぇ。頭痛いっつってたからよ、そっちの痛み取り除いてくれたのよ。」
「………………てめぇ等……。」
男達の台詞にサンジの顔色が変わる。
怒気を含ませ、ゆっくりと立ち上がるサンジの手はぎゅっと握り締められていた。
「まぁそんな怒りなさんな。一緒に来てくれりゃ悪いようにはしねぇよ。」
「断るっ!!!」
「アンタ次第で出先の女将さん、帰りが遅くなっちまうかもしれねぇぜ?」
楽しそうに笑う男達とは対照的に、サンジは顔を青褪めさせる。
握り締めていた手などは最早血の気も無い程に力が込められていて、表情が無くなっていた。
暫くの沈黙の後、サンジが低い声で問うた。
「…………今直ぐか?出来りゃ店閉めてからにしてくれ。」
「ああ、そりゃあ構わねぇよ。兄貴は寛大なお人だからねぇ。」
「わかった。場所は?」
「場所?……ああ、ゾロ、てめぇ連れて行って差し上げろ。」
突如振られた話に、ゾロは無言で男達を見上げてから立ち上がる。
視線と視線がぶつかり合い、そのゾロの視線の強さに男達が眉間に皺を寄せた。
ゾロが食卓に手を付き、ザッと鼻緒の向きを変え、男達に向かい合う。
一触即発、サンジはそう踏んだのだろうか。
食卓に付かれたゾロの手の上に左手を乗せて、ゾロと並んで言った。
「ゾロに連れて行ってもらえばいいんだな?」
「…………ああ、そうだ。物分かりの良い兄さんで。」
男達は笑いながら、邪魔したなと言い、そのまま店を後にした。
居なくなった入り口を睨み付けるゾロの手をサンジはぽんと叩いて笑う。
「頼むぜ、ゾロ。」
「…………サンジ、逃げろ。後はオレが何とかする。」
「ん?逃げねぇよ。」
「何で?!!!」
「女将さんが心配だしよ。逃げたらてめぇが困んだろ?」
「っ?!!!!」
「ま、ある意味昨日てめぇに掘られて正解だったんじゃね?少なくとも大事に扱ってくれたもんな。」
後半日宜しく頼むな、とそう言って笑うサンジにゾロは愕然とする。
この期に及んで、事実を知って尚自分に笑うサンジに。
多分どう扱われるか等既にお見通しだろうに。
ゾロが仲間であると完全に分かったのだろうに。
昨夜の事を合わせて考えたなら、もう自分と口を利いてくれなくなってもいい筈なのに。
何故、何故サンジは――――?!!!
グルグルと頭の中を疑問が浮かんでは消える。
ふと気付けばゾロの左手の傷にサンジが手を寄せて、そっと撫でていて。
「サンジ?」
そう問い掛けると、サンジが笑う。
「傷、そのまんまだったな。手当てしてやるから待ってろ。」
「手当てなんざいい!」
「よかねぇって。待ってな、薬箱取ってくっから。」
あん時てめぇがおサキさんにしてやったみてぇにな、とそう言い残してサンジが戸口に立つ。
瞬間、真昼の中天に上った太陽の光がサンジの身体を包み込んだ。
眩しいその背中を、ゾロは無言で見送るしか無かった。

ガヤガヤと賑わう寺の本堂。
夜も更けて、賭場が相も変らず開かれていた。
集う面子も知った顔ばかりだったが、その誰もが本堂の片隅を時折怪訝そうに眺めていた。
それもその筈、いつもなら本堂奥、開山堂に続く扉前で酒を片手に座り込むゾロが斜向かいの角で男達に囲まれていたからだ。
サンジの店が一日の商いを終え、ゾロはサンジを連れて寺まで来た。
山門前で一度躊躇し、サンジの顔を窺ったが、サンジはただニッコリと笑っただけだった。
手にした提灯の薄明かりの中ではあったが、はっきりとゾロには見えた。
太陽の光の下で見た、いつものサンジの顔だった。
そして、ゾロの先に立ち、サンジは本堂へと続く石畳を行く。
本堂前に立っていた見張りの男達が気付いたのだろう、数人が本堂内に入り、数人がサンジの方へと近付いて来た。
後は想像通り。
サンジは直ぐに開山堂の方へと連れて行かれ、ゾロは少しの小言と手荒い歓迎を受けた後本堂の片隅に追いやられた。
自分自身情けなくて、どうしていいか分からずにただ呆然としていた。
サンジは別にいいと言った。
投げ遣りでもなく、ゾロを責めるでもなく、淡々と全てを受け入れるかのように。
もしかしたらこれで、サンジはゾロと同じ闇の世界へと堕ちて来るのだろうか?
今までゾロが見てきた人たちのように、この世界に居る事が当たり前になるのだろうか?
そう、まさに今のゾロのように。
考え込むゾロの頭上で、昼間サンジの店に来た男達がぼそぼそと話し始める。
好奇心丸出しのいやらしい声で、ヘッへと笑いながら。
「兄貴が仰る通り、色白の別嬪さんだったなぁ。」
「さっき腕取った時触らせて貰ったが、肌も上級だったぜ。」
「ホント掘り出しモンだな、ありゃ。オレたちにもお零れはあるのか?
「どうだかな。兄貴次第じゃね?とにかく、サキ婆に感謝しなくちゃな。」
聞き知った名前が出てきて、ゾロはガバッと顔を上げ、男達に問い掛けた。
「サキ婆?どういう事だ?!」
「あ?ゾロ、てめぇにゃ関係無ぇだろ!」
1人はそう答えたが、まぁまぁと隣の男が相手を制してゾロの顔を覗き込んだ。
「関係無くも無ぇだろ。あん時だよ、ゾロ。兄貴がサキ婆んとこ説教しに行ったじゃねぇか。」

3ヶ月程前だったろうか?
サキが兄貴分の島を荒らしたからと言って、サキの長屋に乗り込んだ事があった。
賭場で偶々サキの話が出た時に、居場所を知っているとゾロが口走ってしまったのだ。
男達数人でサキに焼きを入れたのだが、その外にゾロも居た。
長屋の入口で見張り番をやらされたのだ。
男達が去った後、ゾロは急用があると兄貴分に言い渡して1人戻り、サキの手当てをしてやったのだ。
島を荒らしたと言っても、ただ通り掛っただけだとサキは言っていた。
多分その通りで、事実サキがそこで店を広げたのを見た者は居なかった。
その日偶々兄貴分の店で稼ぎが悪かった為、運悪くその前を上機嫌で通り過ぎたサキが標的にされただけだった。
ゾロはその時サキしか目に入っていなかったのだが。
「てめぇが1人どっか行った時だったかなぁ?えらい勢いで通り過ぎた兄ちゃんがいてよ。それがあのサンジさんだったってわけだ。」
「兄貴目の色変えて振り向いてよ。ずっと探し回ってたって訳よ。」
「サキ婆が可愛がってるんだってよ。何でも知り合いの息子らしいぜ。」
「そうそう、昔惚れてた相手だとか、何とか。」
「お天道さんとか言ってたな。それが闇に堕ちたとなりゃ、笑い種だよなぁ。」
心底可笑しそうに笑う男達を前に、ゾロは血が一気に頭に上るのを感じた。
解け掛けた左手の晒し、それを見下ろしながらゾロは自分自身に怒りを覚えたのだ。
今自分がいる闇の世界。
それが当たり前と思っていたゾロの前に、そこから出られる扉を示してくれたのはサンジだ。
その向こうに光の世界があると教えてくれた。
そしてそんな闇の世界で見ても尚、薄暗い光の中笑ってくれたサンジの顔は決して堕ちてはいなかった。
お天道さんとサキが言うのも頷ける。
サンジこそ、今の自分を導いてくれる光そのものなのだ。
何故そのサンジをこうも簡単に闇に引き渡す事が出来たのだろうか?
未だ大笑しているその声を聞くに堪えず、ゾロは壁を拳でドンと思い切り叩いた。
バキッと木材の砕ける音がして、男達も賭場の音もピタリと止まる。
ポカンと口を開け、間の抜けた表情で見下ろしてくる男達を、グッと睨み上げたゾロが一気に動いた。
立ち塞がる男達の足を薙ぎ払い、賭場のど真ん中を掛け抜け、開山堂に続く扉へと突進する。
怒声と悲鳴と、何かが壊れ砕け飛び散る音で賭場はごった返した。
それに目もくれず、辿り着いた扉を開けようとしたのだが。
流石にそれは取り押さえようと、ゾロ相手に何人もの男達が飛び掛ってくる。
サンジが開山堂に入ってから、どのくらいになるのか分からなかったが、時間が無い事は確かだろう。
そう思い、焦ったゾロは肩に掴みかかった男を逆に掴み上げて、その身体を思いっ切り扉に叩き付けた。
骨が砕ける嫌な音と共に、扉を構成している木材が勢いよく外へ砕け飛び散った。
漆黒の闇が目の前に広がる。
吹き抜ける風が室内の灯りを消し、開山堂前の松明が視界に飛び込んできた。
その前に立つ見張りの男2人が慌てたようにこちらへ走り寄ろうとしたのが目に取れた。
一気に方を付けようと、ゾロが周囲の男達を振り払い、開山堂に続く階段を駆け上ろうとしたのだが。
見張りの男達がぎょっとしたように背後を振り返る。
異変を感じて立ち止まったゾロの目の前で、轟音が響き、突風が舞った。
思わず腕を翳して目を閉じ、それが通り過ぎるのを待ってから目を開けば驚くべき光景が広がっていた。
松明が開山堂脇の森に飛んだのだろうか、雑草を燃やしている。
その火は徐々に広がりを見せ、周囲の木々を燃やし始めた。
中心にある開山堂に入口は無く、扉の残骸だろう木片はゾロの1尺ぐらい前にも飛んできていた。
開山堂内にある蝋燭は辛うじて火を点していたが、兄貴分はその場に見えなかった。
よくよく目を凝らせば、堂入口とゾロの場所の中間点くらいに人が倒れているのが見える。
その人の着ている物が兄貴分の物と気付くと同時に、暗闇に声が響いた。
「ったく、遅ぇんだよ、ゾロ!」
その声に驚いて見上げれば、衿元を正すサンジが堂入口に笑いながら立っていた。
「…………サンジ。」
「てめぇがここにしか居場所が無ぇってんなら仕方無いって思ってたんだけどよ。その気があるならとっとと示せっての。」
「オレの……為…かよ。」
「どうなんだ、ゾロ?何処で生きるか、お前が決める事だろ?」
炎が作り出す暖かい光の中で、サンジが言う。
眩しさのせいだろうか、滲む視界に目を擦りつつ、ゾロは口を開いた。
「オレは――――」
「ゾロ、てめぇ!!誰のお陰で生きてこれたと思ってんだ!!!」
ゾロの台詞を遮って、サンジとゾロの間でゆらりと人影が立った。
ゾロの兄貴分、賭場の支配者である男が立ち上がったのだ。
「てめぇに誰が宿と飯与えてやったと思ってんだ?それが無きゃ生きて生けなかったろうが!!」
「………………。」
「分かってんだろうな。この様子じゃ、てめぇの言う事ならアイツぁ聞くんだろ。ひと言言ってやっちゃあくれねぇか?そうしたら幹部に昇格させてやるぜ。」
「……………兄貴。」
ゾロは兄貴分たる男に目をやり、その上に居るサンジへと視線を移す。
闇と光、ゾロにとってその象徴たる彼ら。
自分がどちらに向いているか、それはゾロには分からない。
分からないが、ゾロには1つ分かった真実がある。
「兄貴。」
ゾロは意を決して口を開いた。
「兄貴には恩があります。親無しになって途方に暮れてたオレに生きる場所を与えてくれた。生きる術を教えてくれた。それは感謝してます。」
「だろ?分かってんなら――――」
「ですがっ!!!」
兄貴分と視線を合わせて、ゾロは一気に言い放った。
「サンジはオレに生きる意味を教えてくれた。生きてていいんだって、オレでも人の役に立てるんだって思わせてくれた。」
「ゾロ………馬鹿な事言ってんじゃねぇっ!!」
「馬鹿で結構!ここで、アイツを闇に引き摺り落とさない為ならオレは命を落としても構わねぇ!」
「てめぇっ!!!!」
兄貴分が激昂し、階段を駆け下りようとしたのだが。
足が言う事を聞かないのか、バタンともう一度その場に崩れ落ちる。
それを見下ろしながら、サンジがケタケタと笑った。
「オレの蹴り、まともに受けて立てるヤツぁ居ねぇよ。ゾロの事馬鹿にした罰だ。」
ペタペタと音を立てて降りてくるサンジの足は素足だ。
よく見れば、所々痣があるし、着物も破れているところが数箇所ある。
倒れてる兄貴分を踏ん付けて、サンジがゾロの前に来たのだが、膝がかくんとなって身体が崩れそうになった。
それを間一髪で支えたゾロに、サンジがクスリと笑う。
「何が可笑しい?」
「あ?いや………ゾロ。」
「何だ?」
「オレに惚れたかよ?」
こんな場所で、こんな状況でからかうようにそういうサンジにゾロは瞠目する。
そして、目を見合わせて大笑いすると、直ぐに笑いを引っ込めてサンジを真摯な目で見て言った。
「ああ、惚れた。ぞっこんってのはこういうのを言うんだろうな。」
今度はサンジが瞠目する番だ。
周囲の火で照らされたサンジの色白の肌が更に朱に染まり、ゾロはそんなサンジの身体を支えながら振り返る。
一部破壊された本堂前には何十人もの無頼が立って、こちらを向いている。
普通に考えれば突破する事など不可能だろう。
サンジの肩を持つ手にギュッと力を入れると、サンジもゾロの意図に気付いたのか、体勢を立て直して下を睨み付けた。
「話は後だ。とにかくここを突破するぜ。」
「だな。全滅させていいか?寺は大丈夫なのか?」
「いいんじゃね?坊主の方も気に入らなかったからな。徹底的に行こうぜ。」
「了解。んじゃ遠慮無しに行くか。」
言うや否やだっと階段を駆け下りた2人。
後に大怪我を負った無頼達が言うには、彼らの背後で燃え上がった山火事がまるで彼らから発せられたようだったと。
真っ暗闇に燃え上がる炎は、眩しい光の束となり、それを背負った彼らがまるでその光の化身のように見えたと。


雲1つ無い晴天の真っ昼間。
足元に転がる炭になった木片を爪先で蹴りながら、1人の男が寺院跡の前を歩いていた。
そこは以前は寺院として栄えていたものの、3年前突如襲った山火事でその大半を焼失したのだ。
火の勢いが凄まじかった事もあるが、その炎に包まれた寺院の門前に何人もの男達が縛られた状態で転がされていた
事で寺社奉行及び火付盗賊改の出番となる。
彼らが無宿人と知るや否や、直ぐにしょっぴかれ、厳しい尋問と相成った。
中でも彼らの頭は今までの罪状一方ならず、刑は定かでは無いが、獄門は免れなかったろうと思われる。
頭のすぐ下で働いていた者達は遠島・江戸払い等、府内より追われたらしい。
下っ端連中は無罪にはなったものの、無宿人だった事もあってか石川島の人足寄場送りとなった。
5年間というのが標準的な使役期間らしい。
だが、その中で1人3年と言う短い期間で出所して来た者が居た。
それが今寺院前を闊歩している男、ゾロであった。
寺院門前に無宿人を抵抗出来ない状態で連れ出した事が上に認められた結果だと言う。
そして自分自身無宿人であるにも拘らず、粛々とお縄に付いた事も上に好印象を与えた。
中でも、その時出動した町火消た組の親分であるミホークがその態度や好しと身元引受人になった事で更に期間は短くなった。
そして、今日漸く人足寄場を後にし、昼間の太陽の下を歩いているというわけだ。
懐かしげに寺院跡を見上げた後、ゾロはもう一度焦げた木片をカンと蹴り上げる。
光の中を黒い物体が放物線を描き、それが到達したところに派手な着物姿の女が居た。
ちょうど太陽の方向だった為、ゾロは誰だか分からずに目を細めたのだが。
「ちょいと!もう善人になったんだろ?悪い事したらごめんなさいって言ったらどうだい?」
「…………サキ婆、か?」
ケタケタと笑いながら近付いてくる女に、ゾロがそう毒付くと変らないじゃないかと女が笑い声を更に高くする。
「迎えに行ってくれって言われたから、私が来てやったんじゃないか。」
「言われた?ミホークの旦那か?」
「違うよ。火消しの親分が私に頼むわけないじゃないか。あの子、サンちゃんだよ。」
「は?サンジが?」
「そうじゃなかったら来ないよ。私の大事なお天道さんのお願い、断れるわけないだろ?」
直ぐ傍まできたサキは、ほらとゾロの手を取るとスタスタと歩く。
転がっていた木片を脇目に通り過ぎ、ゾロは手を取られたまま仏頂面で歩みを進めた。
そして、この3年間ずっと気になっていた事を口にした。
「サンジに……嫁はきたのか?」
「…………………。」
「3年経った。もうあの店にゃ居ねぇのか?」
「…………………。」
「おサキ?……おい、何とか言えっ……て……。」
返事が無いのに苛立って立ち止まり、サキの顔を覗き込んだゾロだったが。
サキは、そのゾロの顔にブーッと思い切り吹き出して、先程など比べ物にならない大笑いをした。
「何笑ってやがんだ?!オレは――――!!!」
「あっはははははは、これが笑わずにいられるかいっ!!やっ……もう大笑いさ!!」
「てめっ!!」
衿を引っ掴み、胸倉を掴み上げたゾロだったが。
その後の台詞に耳を疑った。
「嫁なんて取るもんかい!ずっと前から惚れてた相手が帰ってくるかもしれないってのにさ。」
「あ?……どういう意味だ?相手の女は凶状持ちか?」
「何言ってんだよ?あの子が惚れてんのはアンタだろ?」
「は?オレ?掘られてその気になったとかって言うんじゃねぇだろな?」
「失礼だね。そんな馬鹿じゃないよ、あの子は。3年前、アンタがアタシの手当てしてくれてた時だよ。」
「はぁ?」
サキ曰く、サキの異変を聞いて慌てて帰ってきたサンジが目にしたのは、神妙な顔をしてサキの手当てをしている如何にも無頼者の男、そうゾロだった。
ゾロが時折サキの長屋に出入りするのを見た事があったサンジは、驚いて木戸の陰で様子を見ていたと言う。
サキの隣に住んでいるサンジだ。
薄っぺらい長屋の壁、ゾロが来た日にサキがどんな事をされていたか知っているサンジは、ゾロの態度が信じられなかったのだそうだ。
そんなサンジに気付かず、ゾロは何も言わずにただサキの傷口を洗い、手拭いを裂いて巻き付ける。
そして、最後にサキに無言で頭を下げて去って行った。
その姿が目に焼き付いて離れなかったと、後にサンジはサキに告げているのだそうだ。
「あの日からねぇ、サンちゃんは事有る毎にアンタの事を聞いてきたっけ。どんな性格で、どんな食べ物が好きで……楽しそうだったよ。」
「…………で、てめぇは何て答えたんだ?」
「そんなの決まってるさね。乱暴で気遣いの気の字も知らない無頼モンだって。」
「はぁ?!!!」
「でもさ、心根はきっと優しいよって言っといたさ。いつも終わったらアタシに布団掛けてから家出てくんだってね。」
「………………。」
「笑ってたよ、サンちゃん。ほら、あんな風にさ。」
サキが指差した先。
気付けば、もうサンジの住む長屋の近くまで来ていて。
ちょうど表長屋の店先で箒を持ったサンジがこちらを向いている。
掃く手を止め、ゾロの方を見て。
本当に嬉しそうに、でも少し泣きそうな顔でゾロに手を振る。
太陽の下、眩しいばかりの光の下で、サンジがゾロに手を振る。
まるでそれがいつもの光景のように。
ああ戻ってこれた、いや光の世界へ漸く出てこられたのだと実感する。
ゾロは眩しさに目を細めた後、頬に薄く笑みを浮かべて、その光の中心へと駆け出した。


終わり




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