果てへの森



鬱蒼とした深い森の中を男が一人、足音も立てず通り過ぎていく。

空に光る月は時折厚い雲に覆い隠され辺りは真の闇となる。
遠くで獣の鳴く声が聞こえる以外、生き物の気配すら感じさせない陰気な森だ。
男は足を止めて耳を済ませた。

目指す城は、森を抜けた直ぐそこにある。




すべて死に絶えたかのような静寂の森に、不似合いな生の息吹を感じた気がした。

「誰だ。」
ゆらりと闇の間で影が揺らいだ。
雲の切れ間から差し込む月明かりが燐のごとき青白い光を浮かび上がらせる。
影に見えたのは丈の長い黒いコート。
光は照らし出された金の髪。
一見して幽鬼を思い起こさせる白い顔はなんの表情も浮かべず、見つめる瞳はどこまでも蒼く冷たい。

「誰だ。」
男はもう一度、その影に問うた。
軽く腰を下げ、柄に手を掛ける。

「お前こそ誰だ。」
闇から響く声は、揶揄を含めて意外に軽い。
「ここはバラティエ公の敷地と知っての侵入か。ならば・・・」
樹々の合間から木漏れ日のように月光が降り注いだ。
コートを脱いでなお、黒いスーツを身につけた痩身の男が立っている。
「後悔、させてやるぜ。」
言い終わるや否や、黒い塊が空を切った。
紙一重で避けて、飛び退く。
だが男は間髪入れずに突っ込んできた。

蹴りか。
特に武器を持っている訳ではない。
ただその長い足が繰り出される度に、避け損ねた服が裂け、皮膚が切れた。
背後に茂る林が風圧で薙ぎ倒される。
なんて蹴りだ。
人間業とは思えない威力。
男の髪は輝く月をそのまま写し取ったかのように光り、白い貌は唇だけが艶かしく紅い。
ゾロが追うヴァンパイアを彷彿とさせるが、直感で違うと感じていた。
こいつは人間だ。
だが恐ろしく強い。

ゾロは何度か蹴りを受け止めながら、間合いを取って鞘で痩躯を弾き飛ばした。
男はバランスを崩しながらも軽い身のこなしで体勢を整える。また雲が月を隠した。
迫る闇の中で、ゾロは腰の刀を抜いた。
残された光を吸い込んだかのように、鈍く刃が光る。
身構える男に妖刀を振り翳しても、うろたえる気配がない。
やはり人間だな。
ゾロは確信した。

「人間のお前が、なぜヴァンパイアを庇う。」
ぴくりと目の前の影が揺れた気がした。
「お前は人間だな。下僕共はどうした。ここまで難なく辿り付けたぞ。」
「下僕なんざいらねえ、俺一人で充分だ。」
繰り出された蹴りを刃で受け止めた。
だが男は目にも止まらぬ速さで身体を回転させて次の蹴りを繰り出す。
なんて技だ。
バラティエ公の別名は「赫足のゼフ」
ヴァンパイアでありながら武闘、特に蹴りの達人だったと聞く。
やはりゼフの下僕か?
しかしなんで人間なんだ。

振り下ろされた踵を素手で掴んだ。
骨が軋む音がする。
鋭い痛みに耐えて、ゾロは男の足を持って引き倒した。
乗り上げて体重を掛けると、その首元に刃を立てて縫い付けた。

「俺はヴァンパイアハンターだ。人間を狩る趣味はねえ。ゼフんとこまで案内するなら見逃してやるぜ。」
雲の陰から月が現れた。
両手を一纏めに掴んで戒められ、組み敷かれた白い顔は悔しげに歪んでいる。
「案内を乞うまでもないのか。あの城はカラなのか。」
思い当たって、ゾロは顔を上げた。
闇夜に聳える重厚な門の向こうに禍々しい気配はない。
「ああ空っぽだよ。俺は留守を任されただけだ。」
男はへへと笑いを漏らし、媚びた目つきでゾロを見た。
「そうか、そりゃあ・・・」
地面に刺した刀を引き抜き、身を起す。
「嘘だな。」
返す手で男の鳩尾に柄を叩き込んだ。
「ぐう・・・」
低くうめいて意識を失う。
ゾロは男を捨て置いて、城に向かった。













両親をヴァンパイアに殺された日から、ゾロはハンターとして生きてきた。
奴らが従える下僕を数え切れぬほど倒し、妖刀を携え、不死の首を狩りつづけた。
復讐の為の狩りはいつしか生業となり、生きるために狩るのか、狩る為に生きるのかすらわからなくなってきている。

修羅のごとき人生の中ではじめて得た相棒のくいなも、ヴァンパイアの手にかかって死んだ。
もう失うものは何もない。
生きる限りこの世に潜むヴァンパイアを狩り続けて、その首に掛けられた賞金で食っていくのみだ。



ひと振りすれば、門はあっけなく崩れた。
だが当然攻撃してくるはずの下僕共の姿はない。
静まり返った石の城は、死に絶えた森のように陰鬱で脆弱だ。
冷たく固い石畳に己の足音だけが木霊する。

ヴァンパイアが潜む、お決まりの地下に下りれば、滅び逝くモノの饐えた臭いがした。
壁に掛けられたランプに灯りを灯す。
ただっ広い地下室の奥に、幾重ものカーテンで遮られた寝台が見えた。
無機物の呼吸。
ヴァンパイアはここにいる。

「赫足のゼフか。」
ゾロの声が石の壁に反響した。
どこからか流れ込んだ風で火がゆらめく。
一呼吸置いて、カーテンの向こうから声が届いた。
「いかにも。」
ひどく衰えて、力ない声。
「俺はハンターのロロノア・ゾロだ。お相手願いたい。」
「よかろう。」
裾の破れた、分厚い布の切れ間から、手が差し出された。
不自然な動きでゆっくりと巨体が姿を現す。
ゾロは思わず息を呑んだ。
千年を超えて生き続けた伝説のヴァンパイア。
幾千の下僕を従え、一つの国をも滅ぼしたと言われる赫足のゼフは見る影なく痩せ細り、覚束ない足取りでゾロの前に立っている。

「ロロノア・ゾロ・・・三本刀の剣士か。聞いておるぞ。」
だがにやりと笑う目は悪鬼の如き強い光を留めて眇められた。
ゾロはすらりと刀を引き抜くと、一本を口に咥え二本を構えた。
「バラティエ公、―――参る。」

暗闇に刃が煌いた。
衰えた姿からは想像もできない機敏な動きで攻撃をかわす。
枯れ枝のような腕が伸びて鋭い爪がゾロの胸元を引き裂いた。
血飛沫と立ち昇る瘴気を振り払って、ゾロは返す刀でその腕を切り落とす。
がくりと膝をついたゼフは蹲り、肩で大きく息をしている。
「老いぼれたとは言え、さすが大吸血鬼。だが・・・」
刀2本を鞘に収め、鬼撤を構えた。
「俺の敵じゃねえ。」
振り翳す背に、悲鳴に似た声が届く。


「やめろ!殺すな!!」
金髪を振り乱して、先刻の男が転がるように飛び込んできた。
ゼフを庇ってゾロに向き直る。
「ジジイは確かにヴァンパイアだけど、もう誰も殺してねえ!」
両手を広げて果敢にも立ちはだかる。
「見てわかっだろう。お前が手をくだすまでもねえ。金が欲しいならこの城のモンをなんでも持ってっていい。」
ゾロは鼻で笑った。
「金なんざ捨てるほどある。俺が欲しいのはそいつの首だけだ。人間のくせに何故そいつを庇うんだ。」
ゼフは男の後ろで忌々しげに舌打ちをした。
「余計なことを・・・するなチビナス。」
「うっせえ!なあ、俺食えよジジイ、俺を食ったらこんな奴・・・」

「そうか。」
ゾロは思い当たった。
ヴァンパイアの中には食料として人間を飼う者もいる。
死なない程度に血を吸って常に側に侍らせる常備食。
「お前は餌か。だがなぜそいつの肩を持つ。」
「うっせえっつってんだよ。確かに俺あ餌だが、ジジイに助けられたんだ。ジジイが拾ってくれなかったら俺は死んでた。」
「助けたわけじゃねえ、てめえは餌だ。」
苦しげに咳き込みながら、ゼフが声を絞り出す。
「わかってっよ。けど疫病で死に絶えた家ん中で一人で泣いてたガキの俺を、連れて帰ってくれたのはあんたじゃねえか。美味いもん食わせて、あったけえ寝床で寝かせてくれたのはあんたじゃねえか。だから俺は餌でいいんだよ。なんで食ってくれねえんだよ!」
男は自分のシャツを引き裂くと肩を肌蹴だ。
ゆらめく灯りの下に、白い鎖骨が浮かび上がる。
「ガキん時から食ってたじゃねえか。なんで止めたんだよ。誰も何も、獣すら食わなくなって、もうジジイの身体がもたねえじゃねえかっ」
責める言葉は泣き声に近い。
男はゼフの前に跪いて懇願するように身体を擦り付けた。
「俺を食えクソジジイ。千年生きてきたんだろ。無敵の大吸血鬼だろ。下僕共を呼び戻そうぜ。あいつらだって絶対待ってる。俺を食い尽くしていいから・・・」
ゼフは残された手を男の肩に掛けた。
爪が食い込むほど力強く引き寄せる。
目は燐光を湛えて青白く輝き、くわりと口が開いた。
そこだけ豊かにたくわえられた口髭の下から鋭い牙が光る。
男はその牙を見て、満足そうに目を閉じた。

ゼフの光る目が、ゾロに訴えかける。



「承知した。」

感情を含まぬ渇いた声と共に、鬼撤が振り落とされた。
切り離された首は床に落ちる前に塵と化す。
肩を圧迫する力がなくなって、男が目を開けた。
身を委ねた筈の身体は力なく崩れ落ち、さらさらと砂に変わっていく。
「・・・あ、あ・・・」
呆けたように目を見開いて、残された服を掻き抱いた。
手繰り寄せ抱きしめても、零れ落ちるのは砂ばかり―――
「ジジイ!」
呆然と座り込んだを見下ろして、ゾロは刀をしまった。
しゃがみこんで塵の中に遺された死の証となる紋章を探る。

「ち、くしょう・・・」
男が抱えていた服を投げ捨てゾロに掴みかかった。
「てめえよくも!ジジイを殺しやがったな!くそお、仇を取ってやる!ジジイをっ・・・」
へたり込んだまま拳で何度もゾロの胸を打った。
だが厚い胸板はびくともしない。
「畜生・・・殺す、蹴り殺す・・・」
乱れた前髪の間から覗く瞳は濡れていて、幾筋もの涙が頬を伝う。
男は震える手でゾロの胸倉を掴んで額を打ち付けた。
「殺す、殺す・・・ジジイを返せ!」
ゾロは痩せた肩を両手で掴んで顔を上げさせた。


「師匠に、聞いたことがある。」
男はしゃくりあげながらも、目を逸らさずゾロを睨みつけた。
「ヴァンパイアは、愛を知ると生きていけないのだと。」
ぱちり男が瞬きをした。
拍子に新たな涙が頬を伝う。
「ヴァンパイアは命を喰らって生を紡ぐ。愛することを知ったとき・・・愛するものから奪うことを躊躇った時から、もう生きていくことはできない。」
子供を諭すように、穏やかに言葉を綴った。
男は頭を振ると、駄々っ子のように身悶えする。
「なんでっ、なんでだよ、畜生!俺を食えって言ったのに・・・」
ゾロは暴れる男を羽交い絞めするように抱きしめた。
子供のような慟哭が胸に伝わる。
「ジジイだけ・・・だったんだ。生き残りの俺を抱きしめてくれたのはっ・・・嵐の夜も、寝込んだ時も・・・
 側に居てくれたのは―――」

ひ―――と喉の奥から声が漏れる。
哀しみに耐え切れず撓る背をゾロは柔らかく撫でた。

ヴァンパイアの餌でありながら愛されて育った男。
一度食われた者は他のヴァンパイアにも嗅ぎ付けられ、狙われる。
「てめえ、俺と来い。」
「いつか殺す。」
「ああ、だから俺の側に居ろ。」
この餌を使って誘き寄せればヴァンパイアを狩るのもより楽になる。
だがそんな打算的な計算以上にこの男を必要とする何かが―――

ゾロは金色の髪に顔を埋めて自嘲した。
人を求める心が、まだ俺にも残っていたか。
「俺と来い。側に居ろ。」
「うっく・・・くしょう、行ってやる。」
ぐいと袖で顔を拭って前を見据えた。
「そんかわり、いつか殺してやるからな。」
「首を洗って待ってっぜ。」
まだ剥き出しの首筋にキスを落とすと、驚いて飛び跳ねた。
「な、なにすんだ!お前ヴァンパイアか!」
慌てて前を掻き合わせる仕種がおかしくて、思わず苦笑が漏れる。
「ちげーよ、だがそのうちてめえを喰うかもな。」
「ええっ」











金に輝くゼフの紋章を手に、地下室を出た。
主を失った城は昇る朝日に照らされて、無残な姿を晒している。
振り向けば、男は金色の髪を靡かせて、眩しげに目を細めていた。

「朝ってのは綺麗だな。」
しみじみと、声が漏れた。
「ここにいても、俺はお陽さんが好きだったぜ。時々窓から覗いて下僕共にこっぴどく叱られたもんだ。」
男は立ち止まり、もう一度廃墟となった城を振り仰いだ。
「おい餌、もういいだろ。行くぞ。」
「餌って呼ぶな!俺はサンジだ。」
振り向いて目を剥く男・サンジは、ゾロが最初に直感したとおり、生命力に満ち溢れて逞しい。

「餌は餌だ。せいぜい俺に喰らい尽くされないように気をつけろ。」
「食うってなんだよ。人間のくせにどう俺を食うんだよ。」
「さあな。」

笑いながら歩き出したゾロに、サンジは不機嫌そうに眉を顰めたまま、それでもその後に続く。










昼なお暗い闇の森の、一際高い大木の梢では、小鳥たちが囀りながら舞っていた。


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