春の夜の夢    -4-



墨を流したように闇色に染まる水面が、淡い月光を弾いて時折閃く。
波音以外なにも響かない静寂の中で、ゾロはうっそりと笑った。
サンジが知っているゾロの貌ではなく、ゾロの中に入っているという紳士的な男のモノとも印象が少し違う。

「親子ほど年の差が離れているとは言え、サンジ君のことを想えばそれなりに愛しさはある」
「…いや、それはもういいから」
気恥ずかしさと鬱陶しさと、ゾロの顔をして自分でない男のことを語るゾロに嫉妬に似た嫌悪を覚えて、サンジは苛々と首を振った。
「あんたが誰とどうホモろうが、俺には関係ねえだろ」
「それがそうでもないんだよ」
ゾロは、少し悪戯っぽく瞳を眇める。
「現時点でサンジ君に対して性衝動を伴った情欲を感じていない俺だが、なぜかこちらでは違う」
「ああ?」
不穏当な発言に、サンジはぎょっとして目を剥いた。
「正直、君を目にするだけで劣情に駆られている。こういう感覚は俺的には非常に久しぶりというか懐かしいというか、…実に青い」
「――――・・・」
回りくどい言い方だが、つまりサンジに欲情しているということだろう。
ゾロの身体だけが。

「…まあ、わかんねえでもねえけどよ」
サンジは乱暴に前髪を掻き上げ、上向いて口端から煙を吐いた。
「お察しのとおり、俺とゾロとはキス以上どころかしょっちゅうヤってる仲だから?そりゃあ、身体だけでも馴染んでるだろうよ。あんたにしてみりゃ懐かしい、青い衝動ってやつ?とにかく覚えたての猿みてえにさ、暇さえありゃヤりまくってんだから中身がオッサンでも身体に引きずられて…ってのあるかもしんねえなあ」
言いながらも、サンジはそれとわからない程度に微妙に腰をずらしゾロと距離を取った。
もしこれで、身体の情欲に負けて襲いかかってでも来たら、全力で蹴り飛ばしてやる。
さり気なく身構えるサンジを、ゾロは言葉とは裏腹に落ち着いた声で宥めた。
「あくまで、この身体の現状がそうだということだ。ただ、俺自身はその衝動に任せて君をどうこうしたいとは思っていないし、理性で抑制できる」
「ふーん、ならいいんじゃないの」
一体、このゾロが何を言いたいのかサンジにはわからない。

「それでも、常に君を見ていたい傍にいたいと願うのは、まるで本能のように備わっているな。目が覚めてから今までずっと、何がしか理由を付けて君に構いだてしたのは、そういうことだ」
「単に、趣味の悪いオッサンの嫌がらせかと思ったぜ」
顔を顰めるサンジを、ゾロは真面目な顔で見返した。
「身体に入っているせいなのか、俺はこのゾロの気持ちが手に取るようにわかるよ。君への想いも」
「…止せよ」
“想い”だなんて、それこそガラではない。
気持ちより先に身体から繋がった関係だ。
「俺らは後腐れなくて手っ取り早い、単なる性欲処理のみの間柄だぞ。オッサンのメルヘン脳でモノを考えんな」
「頭で考えるんじゃなく心で感じている。君を見ていると、この身体はそれだけで温かい気持ちになっているよ」
「止めろ」
サンジは苛々と手を振ってから、煙草を揉み潰した。
そんな言葉、ゾロの口から聞きたくもない。
まるでサンジ自身が望んでいるかのような、そんな言葉は。

「君が思っている以上に、君達の関係はドライではないのかもしれないね」
「黙れっ!」
思わず声を張り上げて、怒鳴ってしまった。
はっとして動きを止めると、ゾロの後ろにある窓が発光していた。
まるで朝日が昇るかのように、清冽な白い光が辺りを染めていく。
眩しさに目を細めると、ゾロの輪郭が次第にぼやけた。

「無意識にでも君が彼を求めているように、彼もまた君を慕わしく思っている」
声だけが、サンジに届く。
そんな訳ねえだろと張り上げたはずの自分の声は、響かない。

「――――もしかしたら、俺の口から本音を伝えたかったのかもしれないな」
白い光がひときわ強くなり、眩しさに目を開けていられなくなった。
サンジはぎゅっと目を瞑り、それから眉間の力を抜いた。
瞼の裏には、光で焼き付けられた白い残像が残っている。
それなのに、目を開くと周囲は真っ暗だった。





虚空をじっと見つめていると、次第に目が慣れてものの輪郭が見えてきた。
いつもの男部屋で、ボンクの中だ。
波のリズムに身を任せ、一度寝返りを打ってからゆっくりと起き上がる。
ちょうど目覚める時刻で、我ながら体内時計の正確さに感心した。

なにか、長い夢を見ていたような気がするが思い出せない。
なんとなく楽しいような嬉しいような、それでいてなぜか悔しい気持ちも湧いて出るが、それがなぜなのかはわからなかった。

いつものようにキッチンに行き、カレンダーを見て今日が自分の誕生日だと気付く。
そう言えば、昨夜はみんなに好きなものを尋ねていたんだっけか。
骨付き肉、ミートパイ、海獣の唐揚げに新鮮な野菜サラダのオレンジソース和え、綿菓子、そして海鮮辛口パスタも。
後は、キノコたっぷりスープと、チョコレートをふんだんに使った濃厚ガトーショコラ。
好物じゃないものも織り交ぜているが、なんでも“みんなの大好物”に変えてみせる。
妙な部分で闘志に沸きながら、宴の仕込みを済ませ朝食の準備に取り掛かった。

ふと、足音を聞いて手を止めた。
――――こんな朝っぱらから、珍しい。
この重い靴音は、誰よりも遅くまで寝くたれている寝腐れ剣士だ。
まだ仲間の誰も起き出していないのに、一番に起きて来るとは珍しいを通り越して不吉な気もする。
雨や嵐どころじゃなく、槍でも降るのか。
そこまで考えて、いや待てよと首を傾げる。
確か、ゾロは昨夜見張りだった。
それでも寝坊するのが常なのだけれど、もしかしたら珍しく一睡もせずに朝を迎えたのかもしれない。
それで、眠気覚ましのコーヒーでも貰い降りて来たか。
いや、寝覚めの酒か。

つらつらと考えてから、一瞬妙な思考が脳裏をよぎった。
――――もしかして、今日は俺の誕生日だから。
誰よりも先に「おめでとう」と、言いたかったから…とか?

なんでだか途轍もない妄想に襲われかけて、慌てて頭を振った。
いやいやいやいや、ないない。
それはない。

静かに扉が開いた。
サンジはなるべく平静を装って、横顔だけを向けた。
「おう、珍しいな寝腐れマリモが」
そう言って軽口を叩き、咥えた煙草の先を軽く上下に動かす。
横目で盗み見る限り、そこに立っていたのはゾロだった。
ぞろりとした着流しに、腰に提げた三本の刀。
緑の毛先があちこち跳ねているから、見張りだけれどやはり寝ていたのだろう。
少し眠たげな眼は、サンジを見て軽く見開かれた。
何度見ても見慣れない、隻眼。

ゾロの、一つしかない目がすうと眇められる。
そこに柔らかな笑みを見出して、サンジの方が戸惑った。
ついぞ、目にしたことのない表情だ。
思わず顔を上げ、ぽかんとした表情でゾロを見返してしまった。
ゾロはと言えば、どこかバツが悪そうに片手で頬を撫でる。
耳の裏までごしごしと指で掻いてから、サンジに向き直った。

何か言いたそうに口を開き、けれど言葉を探すようにして再び視線を泳がせる。
およそゾロらしくない態度に、サンジの不信感はますます募った。
こいつ一体、なにがしたいんだ。

ゾロの目がカレンダーに向いたので、サンジも仕方なくそちらに視線を寄越した。
ナミが書いてくれた、2の文字を囲む赤い花丸印が嫌でも目に入る。
「今日は俺の、誕生日なんだぜ」
仕方なく、サンジの方から水を向けてやった。
ゾロはふうんと気のない返事をしながらも、また片手でゴシゴシと顎を擦る。
「そうか、そりゃァめでてぇな」
「…どうも」
それだけ言うと、ゾロはふらりとキッチンを出て行った。

「…なんだったんだ」
誰もいなくなったキッチンで、サンジはそれまで無意識に詰めていた息をほうと吐いて肩の力を抜いた。
妙に身構えて、緊張してしまった。
ゾロを相手にこんな状態になるのは癪だが、それにしたって奇妙な朝だ。
狐に抓まれたような心地とは、こういうものか。

サンジは手にしていた包丁を置いて、片手で頬を擦ってみた。
先ほどゾロがしていたような癖は、前からあっただろうか。
よく目にしたような、それでいて見慣れないような。
形容しがたいふわふわした気持ちが、朝からずっと続いている。
いまのゾロの行動を反芻していたら、笑いが込み上げてきた。
見張りなのに朝まで寝ていて。
目が覚めたからってキッチンまで降りてきた?
それにしては水を飲むでもなく、他に何をするでもなく。
つまりこれは、サンジに「おめでとう」を言いたかったからわざわざ降りてきたと。
そう思っても、いいのだろうか。

あのロロノア・ゾロが。
誕生日を祝う言葉を言うためだけに。
でもそれだって、「そりゃァめでてぇなあ」って、世間話みたいな一言だけで。

思い起こしていたら、じわじわと頬が熱くなってきた。
なんだよこれと、慌ててもう一度頬を擦ろうとしたらバタンと音を立てて扉が開いた。
次はなんだと振り返る間もなく、ズカズカと大股で迫ってきたゾロが乱暴に肘を掴んで振り向かせる。
「―――――?!」
唐突なキスが、サンジの唇を塞いだ。
驚いて目を見開くと、まるで睨み付けるようなゾロの視線とかち合う。
目を逸らしたら負けだとばかりに至近距離で睨み合って、けれど合わさった唇はどこか優しく柔らかく舌を絡めた。
お互いに唇を食み吸い合う内、サンジの瞼がとろりと下がる。
顎を上げて息を吐きながら唇を離した。
甘いキスの余韻が、いつの間にか壁際まで追い詰められていた身体の隅々で沁み渡っていく。

「今晩、ヤるぞ」
「は?」
ゾロはそう一言残して、またズカズカと大股で歩き去って行った。
また戻って来るんじゃないかと、サンジは壁に凭れたまましばらく様子を窺ったが、今度こそ本当に立ち去ったようだ。
ほっと息を吐いてから、一体なんだってんだと髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。
―――今晩ヤるぞってなんだ。
いままでヤるぞもクソもなく、ヤりたい時に勝手に仕掛けて来たくせに。
さっきの展開もいつもだったら、間違いなくこの場で押し倒されていた。
いつ起きてくるかわからない仲間の動向にヒヤヒヤしながらも、とりあえず下だけ脱いでとっとと入れて出すか、サイアク口で宥めて済ますのがパターンだ。
ムラッと来たら即出しが定番だったのに、今晩ヤるぞ宣言はないわ。
そんな先延ばし、関係を持って以来初めての事案じゃね?

ぐるぐる考えれば考えるほど混乱して、サンジは取り出した煙草を噛みながら「ああもう!」と口に出して呻いた。
おかしな夢を見た気がするし、起きたら起きたでゾロがおかしな行動に出るし。
そもそも、一方的に振り回されてるみたいで気に入らない。
今晩ヤるぞなんて宣言されたら、夜まで「今日はするのかこれからするのか」って考えてしまうじゃないか。
いままで、考える前に実行だったから余計なことなど思わなかったのに。
夜までに猶予があると、それこそ意識して余計なこと考えまくりで恥ずかしいことこの上ない。

「誰が、てめえの思う通りになんかさせるもんか」
声に出して呟いて、サンジは一人決意した。
今日のバースディケーキは、特大チョコレートケーキを作ってやる。
しかもあらゆる技術を駆使して、色とりどりのチョコでバラの花なんかも形作って飾り付けたりして。
見た目に華美で超豪華で甘ったるい濃厚チョコレートケーキを作ってやる。
ゾロが一目見たら、うげっと引くほどデコラティブな奴だ。
いつものゾロならそんなもの、見るなり嫌そうに顔を歪めて近寄りさえしないだろう。
けれどもし、一口でもケーキを食べたとしたなら今晩付き合ってやらないでもない。
その代わり、いつも通り避けて一口も食べなかったならどんだけ迫ってきても全力で拒絶してやる。

そうだそれがいいそうしようと、自分が主導権を握る形で妄想が捗る。
けれどなぜか、どんなに派手で華美で濃厚な甘さのチョコレートケーキでも、今夜のゾロはぺろりと食べ尽くしてしまうだろう。
なぜか、そんな予感がした。


End



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