春黄金 -6-



遠くで野良犬の遠吠えが聞こえる。
ゾロは柱に凭れてうとうとと船を漕ぎながら、膝の上のサンジの髪を梳いていた。
中空にはぽっかりと丸い月が浮かんでいる。
そう言えば、塀の外に積んだならず者共の山はどうなったかと思い出したが、朝までに消えていればそれでいいかと思い直した。
夜明けにはまだ早く、汗ばんだ肌に夜気の涼しさが心地良い。

額を梳く指が濡れて、ゾロはそっと視線を落とした。
膝の上に頭を凭れ掛け横倒しに眠るはずのサンジの、長い前髪から覗く唇が小さく震えている。
しとどに髪を濡らすのは汗ではなく、月の光に照らし出された横顔は先ほどまでの艶めいた表情から一転して白く蒼褪めて見えた。

サンジが泣いている。
声を上げず呼吸も乱さす、ただ静かに密やかに、涙を流し続けている。


「どうした」
瞼を閉じさせるようにして、溢れる涙を拭った。
さきほどまであれほど甲高く啼いていたのに、今は死に絶える間際のように萎れている。
「辛かったか?」
ゾロの穏やかな問い掛けに、ふるりと首を振った。
その拍子に、また新たな涙が白い頬を伝う。

「ゾロ、お前の手で俺は大人になっちまった」
サンジは掠れた声で呟いた。
「ずっと子どものままだった。子どもの姿でいたなら、何も知らず何も求めず、ずっと一人で生きていけると思ったから――」
そこまで言って、諦めたように瞼を伏せる。
「けど知っちまった、もう戻れない」
肩に掛けられた着物の下で、己が身を両手で掻き抱く。
「だからゾロ、せめてたった一つだけ・・・俺の望みを叶えて欲しい」
ゾロは何も言わず、サンジの言葉をじっと待った。

「俺のこの本性を知っているのは、お前だけだ。この先もずっと、お前しか知らない姿だ。お前の前でだけ、俺はこの姿を晒すだろう。お前が望むなら、俺はいつだって姿を変えられる。お前が望むことはなんだってしてやれる。この先お前が誰を娶ろうと文句はないし、山に帰れと言うのなら喜んで姿を消そう」
ゾロが何か言いかけたのを、サンジは目で制した。
「ただ、一つだけ俺の願いを叶えてくれ。他には何も望まない」
そこで一旦言葉を切って、祈るように目を閉じた。

淡い月明かりの下、白皙の横顔が浮き上がって見える。


「お前が逝く時、必ず俺を連れて行ってくれ」



もう、一人で取り残されるのは嫌だ。
果てのない孤独を、癒されぬ渇きを抱えてただ生き続けるのはもう嫌だ。
お前が逝けば、俺の心も死ぬだろう。
現し世に残された淫らな身体だけが、お前を求めて啼き続けるのは耐えられない。

「だから俺を、連れて行け」
涙に濡れた睫毛を瞬かせ、サンジはまっすぐにゾロを見上げた。
月光を映し煌めいた瞳に、一瞬青白い焔が立ち昇る。
ゾロはぞくりと背を震わせて、妖しくも激しく美しい妖狐の情人を、その腕に引き寄せた。


「約束する」
それ以上言葉はいらず、ただ黙って誓い合うように唇を合わせた。












「おはようございます」
「おはようおサンちゃん、今日はいい天気だねえ」
芋を洗う手を止めて、おかみさんは顔を上げ眩しそうに目を細めた。

「あれまあ、おサンちゃん・・・」
「はい?」
何か言いかけたおかみ衆に振り返り、立ち止まる。
おサンの顔をまじまじと見つめていたが、ふと柔らかく微笑んでおかみさんは再び芋を洗い出した。
「いえね、お宅の山茱萸、剪定したら挿し木に分けて欲しくてさあ」
「サン、シュ?」
「春黄金だよ。塀の上から可愛い黄色い花を見せてるだろ」
男っぽい話し方で、おかみさんが指差した。
以前、サンジがこれは何かとゾロに問うた、黄色い花が芽吹く木のことだ。
「あれ、サンシ・・・ユ?って言うんですか」
「ああ。春先に金色の花をつけるから、春黄金とも言われてるよ。そっちのが言いやすいねえ」
「春・・・黄金」
梢を見上げながら口の中で呟くおサンの横顔を、おかみさん達は目を細めて見ている。
「根がつきにくいから、枝は多目にお願いね」
「わかりました。今度持って上がります」
丁寧にお辞儀をして立ち去るおサンの後ろ姿を見送ってから、誰ともなく溜め息が漏れた。


「まったくもう、ロロノアの旦那も隅に置けないねえ」
「いや〜、あたしゃもうちょっと先のことかと思ってたんだけど」
「でもさあ、おサンちゃんちょっと顔付きが変わったんじゃない。垢抜けたって言うか」
「綺麗になったねえ。最初に山から下りて来た時とはまるで別人さね」
年頃だしねえと誰しもが納得し、井戸端会議に花が咲いた。










「んでな、今度剪定したとき枝を捨てるんじゃねえぞ」
少しずつ温かさを増す春の風を感じながら、縁側で二人して火鉢を囲んでいる。
「春黄金つうんだってよ、ほんとの名前はサン・・・なんとかっつうんだけど」
「ほう」
湯飲みから立ち昇る湯気をふうと吹いて、ゾロは茶を啜った。
「前に住んでたお武家さんが植えた珍しい木だって。ちゃんとつくといいなあ」
「おう」
「俺、山の中でこんな木見たことなかったもんなあ」
「そんな珍しいものか」
ゾロは胡座を掻き直し、改めて庭の木々を眺める。
「確かに、なんかお前みたいな花だなとは思っていたぞ」
「え、俺?」
サンジは丸い目を見開いて、小首を傾げた。
「おう、先っちょに黄色いのがぽこぽこ生えてきてな、光が当たると黄金のようだった」
ゾロはそう言って、傍らを振り返りにかりと笑った。
「そっか、へへ」
そうかーと独り呟いて、サンジは嬉しそうに口元を綻ばせると、食べ終えた懐紙を膝に乗せたままころんとゾロの脇に凭れかかった。

「秋には赤い実がなるって」
「そうか」
「食えるんだぞ、知らなかったのか」
「ああ」
後ろ頭を擦るように揺らし、肘の辺りを枕と定めたようだ。
「秋には秋茜って呼ばれるんだって」
「ほう」
「季節で呼び名が変わるって、なんかおもしろいなあ」
「そうだな」
ゾロに凭れたまま、サンジはふわあと欠伸をした。

「なんか今日はあったかいなあ・・・」
「もう春だからな」
「これからこの庭も、色んな花が咲き出すんだぞ」
「楽しみだな」
だなーと返す声が、少しずつ間延びして小さくなっていく。



ゾロの袂に鼻を埋めるようにして、うつらうつらし始めたサンジは、以前の通り金色の小さな童子だ。
人の目がある時はおサン、ゾロの前では小さなサンジ。
そして時折、金色の妖狐となる。

先ほど、春黄金と呼ばれた花を目にして「お前の柔毛のようだ」とからかいたくもなったが、止めておいた。
童子姿でいるということは、今サンジは甘えたいのだ。
心細い山での暮らしで失われた安らかな時間を、ゾロの元でゆっくりと取り戻そうとしているのかもしれない。

可愛いサンジが懐いてくるのに悪い気はしないし、あまりに無防備でいとけない寝姿には、いくらゾロでも劣情より先に庇護欲が湧いて出る。
いつまでも、そしていつでもゾロの側で安らげる子どもでいさせてやりたい。
柄にもなくそう思い、ゾロはそっと微笑んだ。

サンジがその気になりさえすれば、すぐさま淫らな狐と化して腰を摺り寄せてくるだろう。
その時はゾロとて、それ相応の態度で応えてやればいい。

だから今は、このままで―――



チチチと小鳥が囀りながら、黄色の花が咲き揃う梢の間を飛び交っている。
ぽかぽかと暖かい日差しを背に受けながら、ゾロもまたサンジと共に船を漕ぎ始めた。

それは、穏やかな春の日の午後のこと―――














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