冬に咲く花



規則正しく続く心地良い揺れに誘われるように、ゾロはゆっくりと目を覚ました。
見慣れない、白い天井。
部屋を満たす薬品の匂いと、かすかに混じる潮の香り。

視界の隅に金色を見つけて、ゾロはそっと視線だけを下ろした。
首を傾ける余裕がない。
どこもかしこもがっちりと固定されたかのように強張って重く、ゾロ自身、身を捩る気にもなれなかった。

横たわっているのは清潔なシーツの上だ。
血の匂いは残っているが、汚れはない。
この状態から察するに、自分は怪我を負って手当てを受け、救護室に寝かされてでもいるのだろう。
それはわかったが、まだわからないことがある。
俺は、誰だ?




ゾロの腕に凭れるようにして眠っている、金色の頭を見た。
長い前髪の間から覗く鼻梁と、半開きの口元。
顔色は青白く、目の下に隈ができている。
元々肌の色自体が白いのだろう。
シーツを握り締めるように形作られた拳も、色を失くして蒼い静脈がくっきりと浮いている。
不眠不休で看護を続けた結果、限界が来て眠ってしまったというところか。
ベッドサイドの灰皿には、吸殻が山のように積み重ねられていた。

少しずつ強張りガ解けて来た身体を徐々にずらしながら、ゾロはそっと頭を擡げた。
なんとなく、傍らで眠る男を起こしたくなかったからだ。
白いシャツに黒いズボンを身につけて、身体をくの字に曲げて眠る姿は、あまりに細くて頼りなげだ。
シャツの裾を捲り上げた腕はほどよく筋肉がついた男のそれなのに、筋張って引き締まった手首の蒼さに目を奪われる。
産毛が光る肌
節の長い、少し指先が荒れた手
薄い背中はシャツ越しに見てもしなやかで、尖った腰からベルトが浮き上がり、隙間ができてしまっている。

ゾロの腕に擦り付けるように、頬が動いた。
金糸の間から覗く、同じ色の睫毛に縁取られた目元はしっとりと濡れている。
それに気付いたと同時に、ゾロの胸がとくんと高鳴った。

―――また見つけた
誰も知らない。
恐らくは自分自身すら気付いていないだろう、彼の素顔。



「・・・ん」
ゾロの視線に気付いたのか、男はゆっくりと頭を振った。
思わず舌打ちをしそうになって、ゾロは視線だけ逸らせる。
「あ・・・俺、寝て・・・」
髪を掻き上げて首を振り、ゾロを振り返る。
「え、あ・・・」
目が合うと、大きく口を開けて固まった。
ゾロが知っている通りの、澄んだ蒼い瞳。

「起きた。てめ、起きたのかっ」
白い面がさっと刷毛で刷いたかのように赤味を帯びた。
「起きた、んだな。この野郎っ」
男は立ち上がりゾロの胸元に手を置くと、急に両手を上げて座り直し、また腰を浮かせた。
「クソ、この馬鹿っ・・・つか、チョッパー呼ばねえと・・・」
どういう人間かはわからないが、どうやらかなり慌てているらしい。
そのまま部屋を出ようときびすを返し、男は立ち止まって振り返った。
黙って見ているゾロの、様子がおかしいことに気付いたらしい。

「お前、どうした?大丈夫なのか?」
その場でウロウロと無駄な動きを見せる。
仲間を呼びに行きたい気持ちと、ゾロを気遣う気持ちが、彼の右足と左足とで分かれたかのようだ。
「なんか、変だぞ。頭打って脳味噌が豆腐になったのか」

面白い。
自分のことでここまで素直にうろたえる彼の姿は珍しいから、もう少し見ていたいとも思う。

「大丈夫かよ、なんか言えっ」
ゾロの様子が尋常じゃないことに焦って、男は飛び込むように戻って来た。
寝転がったままのゾロの胸元のシーツを、遠慮がちに掴む。
「クソマリモ、言葉忘れたのか?」
大きく見開かれた目が、不安に揺れる。
咄嗟に宥めたくなってゾロは口を開いた。
「大丈夫だ」
「っくそう、心配掛けんじゃねえよ」
噛み付く勢いで怒鳴り返してくる。
表情と声音と台詞がなんともちぐはぐだが、ゾロはそれを不快には感じなかった。

なるほど、心配してくれているわけだ。
その事実にほっとしている自分がいる。
恐らくは仲間だろう間柄にあって、怪我をすれば心配するのが当然だろうにそれを嬉しく感じるのは、少々不自然ではないか。
どこか客観的に分析いていると、目の前で白い指がパラパラ振られた。
「おーい、大丈夫か〜・・・どっかイってねえか?」
ゾロが口を利いたことで随分安堵したらしい。
声の調子が砕けて来ている。
「やっぱチョッパー呼んで来るから。とりあえずじっとしてろよ。つか、動けねえよなてめえ」
そう言い置いて身を翻すと、軽やかに扉を開けて出て言ってしまった。
残念だ、となぜか悔しい。






数分も置かずに、今度はおかしな生き物がやって来た。
毛むくじゃらで小さな身体に、でかい角と帽子。
しかも人語を喋る。

「大丈夫かゾロ、起き上がれるか?」
目覚めた時より、身体も動かしやすくなっていた。
硬い蹄に支えられて、静かに身体を起こす。
甲斐甲斐しく枕を腰に当てて支えてくれるケダモノは、随分と親切で頼もしい。
「打撲や裂傷よりも、矢に塗られていた毒の方が問題だったんだ。かなり高熱が続いたから、まだ頭がぼうっとしてるんじゃないかな?」
銀色の聴診器が包帯の上からチョンチョンと当てられる。
「ゾロ、わかる?」
つぶらな瞳が正面から見上げてきた。
鼻先が青い。
珍しい生き物だが、自分は確かにこれを知っている。
「わからん」
仕方ないから素直に答えた。
「お前も、俺のこともわからん。ここはどこだ?」
ゾロの言葉に小さなケダモノは目を一杯見開いてしばし固まってから、無闇に駈けずり回った。
「い、医者〜〜〜」
「医者はお前だろ」
冷静に突っ込んでから、何度もこんなことがあったと思い返す。




「なんとなく、わかるような気はするが、どれもはっきりと思い出せない」
「一時的に記憶が混乱しているんだな・・・」
落ち着いたケダモノは、ゾロと頭を突き合せて腕組みをしていた。
とそこに、ノックの音が割り込んで来る。

「どうだDr.チョッパー」
顔を覗かせたのは、さっきの金髪だ。
片手に湯気の立つトレイを持って、咥え煙草で近付いてきた。
「ああサンジ、ゾロの身体は大丈夫だけど、頭の方が大変なんだ」
「え、そりゃ前からだろ」
辛辣だが、そんな軽口も今はなぜか心地良い。
「熱のせいだと思うけど、記憶喪失になってる」
「記憶喪失う?」
金髪は素っ頓狂な声を上げた。
そんなに大袈裟に言わなくていいだろうと、さすがにこれにはムっと来る。
「そ、んなドラマティックな・・・って、治るのか?」
ふざけてるのか深刻なのか、よくわからない反応でもって金髪はケダモノに詰め寄った。
「多分、一時的なものだと思うよ。脳自体にダメージはないと思うから、一晩眠ればすぐにちゃんと整理されると思う」
「思う思うって、ほんとかよ。他にもおかしくなってっとこねえんだろうな」
ゾロから見てもきつい剣幕で詰め寄る金髪に、ケダモノは怯んだようだ。
「だ、大丈夫だよ・・・でも、絶対大丈夫とは言えないんだ。人間の身体は頑丈なようでいて結構複雑で、思いもよらない症状とか症例とかあるから・・・」
しどろもどろで答えるケダモノに、金髪は我に返ったように顔付きを改めた。
「あ、ごめんチョッパー。責めてるんじゃねえんだ」
掴んでいた襟首を離して、優しい手付きで椅子に座り直させる。
「悪い、なんか俺取り乱したな」
「仕方ないよ。サンジはずっとゾロのこと心配してたもんな。いくら責任感じることじゃないと 言ったって、理屈で通るもんじゃないし・・・」
ケダモノの慰めの言葉に、苦い顔付きで下を向いた。
話についていけないまでも、なんとなく状況が飲み込めてくる。

「よくわからんが、今晩寝たら明日には元通りになるんだろ」
口を挟んだら、二人してさっと顔を上げた。
「その保証はないんだよ。でも可能性としては、高い」
やや自信なさげにケダモノが呟いた。
「多分そうだろうよ。俺はそんな気がする」
当事者たるゾロが言い切るから、情けない顔付きだった金髪が表情を緩めてぷっと吹き出した。
「なんだよ、なんでお前がわかるんだよ」
「さあな」
からかいにも抗わず、ゾロは傍らに置かれたトレイに手を伸ばした。
「とりあえず、腹が減った気がする」
「ああ、すまね」
金髪が飛んで来て、ゾロの手を熱いお絞りで拭きはじめた。
実に気持ちがいい。

「ゾロ、俺はチョッパーっつってこの船の医者だ。そしてこっちはサンジ。コックで、サンジが作った飯は美味いんだぞ」
「ゾロ、チョッパーはすごい名医なんだぜ。どんな病気や怪我でも、ちゃんと治してくれる」
「そうか」
ゾロは二人にいちいち顔向けて、律儀に頷いた。
「あと、俺達は麦藁海賊団っていう海賊なんだ。船長はルフィっつってゴム人間、それに鼻の長いのと魔女二人とサイボーグがいるんだ」
「そうか」
チョッパーの説明に、ゾロは素直に頷いている。
「え?全部信じちゃうの?ちょっとはなんかリアクションねえの?」
呆れたような金髪の声に、ゾロは軽く首を振った。
「なんで疑わなきゃなんねえんだ。お前ら俺の仲間だろ。んでもって、てめえの腕がいいのはよくわかるじゃねえか」
熱々のおじやを啜り、ゾロは美味いと喉の奥で唸った。
金髪は煙草のフィルターを噛んだまま、なぜか頬を真っ赤に染めて押し黙る。

「何か、ゾロが凄く素直で面白いな。なに言ったって、そのまま信じちゃうかもしれない」
チョッパーがいたずらっ子みたいにエッエと笑った。
「な、ゾロ。サンジは物凄く心配してここ1週間ろくに寝てなかったんだ。ずっとゾロの側についてて、見守ってくれてたんだぞ」
「コラ馬鹿!チョッパ・・・」
「ほんとのことだからいいだろ。それに、もしかすっとゾロは明日になると今日のこととか忘れちゃうかもしんない」
「え、そうなのか?」
ゾロから見たら、金髪のがよっぽど馬鹿素直な態度で反応して見える。
「今日のゾロはいつものゾロと違うって思った方がいいよ。だから今日くらい、仲良く過ごせばいいんだ」
ケダモノはそう言うと、何故か益々顔を赤くして縮こまっている金髪を置いて椅子からぴょんと飛び降りた。

「ゾロが混乱するといけないから、俺からみんなに病状説明しておくよ。この部屋には誰も入れさせないでおく。明日以降の方が、きっと話が早い」
「・・・そうだな」
部屋の外にいる仲間とやらにも興味はあったが、ゾロは黙ってベッドの上でおじやを食べていた。
お世辞ではなく本当に美味い。
でかい土鍋の底が見えるのが、惜しいくらいだ。

「じゃ、後は頼むよ」
「ああ、ありがとよチョッパー」
金髪にそう言い置いて、ケダモノはトコトコと外に出て行ってしまった。
扉を開けた瞬間、わっと何か人の声が押し寄せた気がしたが、それを留めるかのように扉が閉ざされる。
自分を心配する仲間とやらに、さっきのケダモノは懇切丁寧に説明しているのだろう。


記憶や知識が欠如していても、感情はすっかり落ち着いていた。
この船の雰囲気や匂い、意識して覚えている以外の事柄のすべてが、ゾロをリラックスさせている。
感情より感覚で理解するゾロにとって、理論立てた説明などは不要だ。

「ご馳走さん。美味かった」
嘗め尽くされたように綺麗に空になった土鍋を前に、ゾロはパンと手を合わせた。
金髪はケダモノが去った後もなんだか落ち着かず、火の点いてない煙草を咥えたままうろついたり椅子に座ったり、また立ち上がったりを繰り返していたが、ゾロが食事を終えたのを見て安堵した顔になった。
「ちゃんと食えたな。もう大丈夫か」
言ってから一人で「でも大丈夫じゃねえんだよな」と呟いている。

「じゃあ、俺はもう寝る」
「もう寝るのか。あんだけ寝て、まだ眠れんのか」
またしても頓狂な声を上げた。
それでいて慌てて口元を覆い、照れ隠しみたいに煙草に火を点ける。
「うん、寝ろ。それがいい。怪我人は寝てろ」
「またお前が見ててくれるんだろ」
ゾロの言葉に目を剥いて顔を上げたが、何も言い返さず下を向く。
「・・・どうせ覚えてねえんだもんな」
「ああ?」
横たわってじっと金髪の横顔を眺めていたら、はー・・・とこれ見よがしに深い溜め息を疲れた。

「このクソ馬鹿マリモ脳味噌まで筋肉腹巻は、な」
そう言いながら、ゾロを指差す。
「頼んでもいねえのに、人のこと庇いくさって。俺はあんくらいの弓矢攻撃なんて一蹴できたっての」
吐き捨てるようにそう言って、横を向き煙草を吹かす。
ゾロはなんとなく合点がいった。
どうやらこの男は、仲間に庇われて怪我をされたらしい。
だから目が覚めるまで心配だったし、責任も感じていた訳だ。
「そりゃあいらん心配かけてすまなかった。この通り俺は元気だから、安心していいぞ」
「記憶もねえくせに、なにえらそうに言ってやがる」
低く言い返して、鼻から豪快に煙を噴き出す。
随分とつんけんした態度だ。
とても1週間付きっ切りで、泣き寝入っていた男とは思えない。

ゾロはかすかな違和感を覚えて、寝たまま手を伸ばし、シーツの上に肘をついた金髪の腕に触れた。
「・・・な、なんだよ」
ビクッと身体を震わせて見たものの、手を退けるのはみっともないと思ったのかそのままの形で固まっている。
「俺達は、どんな間柄だったんだ?仲間、か?」
「な・・・」
そうだとはっきり言えばいいのに、金髪は何故か言いよどんだ。
「庇われて腹が立つような、仲間か?」
金髪の目が泳いでいる。
何かを逡巡しているようで、短くなった煙草が指先を焦がしそうになるのに気付いてもいない。
「あ、のな・・・そりゃもう腹が立って・・・」
はっと気付いて灰皿に煙草を押し付けた。

「俺を庇って怪我するなんざ。侮辱だよ、侮辱。俺は放っといたって大丈夫だってんだ。なのにてめえ、飛び込んできやがって。もう少しで背中まで怪我するところで・・・」
火が消えてしまっても、ぐりぐりと潰す動作を繰り返している。
「しかも矢に毒が塗ってあったとかで、ほんとに身体ン中に火が点いてんじゃねえかと思うくらい、熱が出てよ。てめえが大汗掻きながら、ウンウン魘されてんだよ。自分で足切ろうとしたり、胸に大傷作ったりしても自力で治そうなんてしてたてめえがよ。汗掻いて、呼吸も止まりそうなくらい唸って・・・」
灰で真っ黒になった指先を見詰め、金髪は自嘲するように顔を歪めた。
「このまま死んじまったらどうしようって・・・死ぬ訳ねえよ。知ってるよ。死ぬ訳ねえのに、ふと、そう思ったらなんかもう・・・」
長い前髪の向こうで、目が眇められた。
蒼い瞳が潤んでいる。

「誰か庇って死ぬなんざ、てめえのキャラじゃねえっての。それは俺の専売特許だ。人のお株奪うんじゃねえ」
この瞬間、ゾロは明確な怒りを覚えた。
瞬時に沸いた激情は、けれど発散する理由がなくて、辛うじて身の内に留まる。

「お前だから、じゃねえのか?」
代わりに発した言葉は、自分でも意外なものだった。
金髪が、ぽかんとした顔で口を緩く開けている。
「お前だから身体張ったんじゃねえのか?俺は」
「そん・・・」
笑おうとして、失敗したみたいに口端が歪んだ。
金髪の白い頬の上に、堪えきれない雫がパタパタと落ちた。

ゾロの胸が、何故か熱いモノで満たされる。
最初に目覚めた時に気付いたものと同じだ。
また見つけた。
取り澄ました、冷たい表情の裏に隠れた。
彼の本音。

「そんな訳、ねえよ。だってお前・・・俺の事・・・」
言い掛けて、はっとしたように顔を上げる。
じっと見返すゾロの瞳に、安堵したのか眉を下げた。
「そうかもしんねえ。だって、あのよ・・・俺ら、割と仲が良くて―――」
まるで苦いものでも噛んだみたいに、奥歯を歪めながら笑う。
「同い年でさ、初めて会った時から気があって。よくつるんでた」
「そうか」
ゾロは横たわったまま頷いた。
「仲間から・・・気味悪がられるくらい、仲良くってよ・・・でもそういうの、気持ち悪い・・・だろ?」
顔色を窺うようにチラチラと視線を上げ下げして、金髪は消え入りそうな声で言う。
「別に、そうじゃねえかと思ってた」
「えっ」
やはり反応が実にクリアだ。
「え、そんな訳ねえよ。な、え?」
「落ち着け」
笑いを堪えると、脇腹が軋む。
ゾロの表情でからかわれたと察したか、金髪は気が抜けたような顔をした。

「・・・やっぱわかるか、嘘だよ全部嘘」
「どこからだ?」
「最初から。俺とお前は仲良しじゃねえ」
そうかなと、やはりそちらの方に違和感がある。
「お前とは、寄ると触ると喧嘩ばっかりだしよ。お前すぐ俺をからかうし、俺もてめえには憎まれ口ばっか叩くし―――」
「だから、さっきの狸は仲良くしろっつったのか」
「たぬ・・・」
金髪は絶句し、はあ・・・と肩を落として見せた。
「ほんとに全部、忘れてんだな。・・・そいでもって、多分今夜のことも忘れるんだな」
気落ちして見えるが、どこか安堵しているようにも映る。
不思議な男だ。
ゾロの目の前で、いつだって定まらずに揺れている。

「どうせ忘れるんなら、本音を言えばいい」
「本音?いつだって言ってるさ」
新しい煙草を取り出して火を点ける。
その仕種はいつもの彼だ。
取り澄まして、冷たい。
つんとした横顔。

「ちったあ、俺の気持ちがわかったろ」
え?と首を巡らした。
気取ったポーズが長続きしないタイプだ。
と言うか、感情が素で垣間見え過ぎる。
「人を勝手に庇って死に掛けてんじゃねえよ。今度やったら俺が代わりに殺してやる」
ゾロの台詞を、呆然と聞いている。
「それ、俺の台詞じゃねえの?」
「おんなじことを、前に俺も思った気がするんだよ。覚えてねえが」

そう。
覚えてはいないが残っている。
腸が煮えくり返るような、遣り切れない怒り。
ぶつけようのない憤りと歯痒さ。
こんなにも人の心を乱しておいて、飄々と死に行こうとする無責任な偽善者。

「ふざけんなって引っ叩きたくなんのは、大事だからだろ」
信じられないものでも見るかのように、金髪の目がゆっくりと見開かれる。
「それが、自分のために死なれちゃたまんねえよな。俺だったらそう思う」
ゾロの言葉に促されるかのように、金髪の頭が下がってことんと腕に額をつけた。
「・・・覚えてなんか、ねえくせに」
「ああ」
「これも、忘れるんだろ?」
「・・・さあな」

金髪の額はひやりとして心地良かった。
自分の熱がまだ高いだけなのかもしれないが、まるで氷のように冷たく滑らかだ。
その皮膚を、温かな雫が濡らす。

「もう・・・こんなんは金輪際、ゴメンだ―――」
くぐもった声を漏らして、金髪は嗚咽を殺した。



辛い想いをさせたのだろう。
どうみても頑丈そうな、恐らくは強い自分が矢傷に倒れて生死の境を彷徨った時。
この男はどんな気持ちで、どんな想いで、自分を見守っていたのだろうか。
雪のように冷たく取り澄ました仮面の奥で、ずっと秘められていた感情が迸るほどに。

「―――ゾロ・・・」
感極まった声で、名を呼んだ。
その名が自分のものだと、そんなことも判然としない己がもどかしい。
せめて名を呼び返してやりたいが、この男の名がなんだったか、さっき聞いたはずなのにもう忘れてしまった。

だから、ゾロは名を呼ぶ代わりに金色の髪を撫でた。
地肌を包むように、指先に力を込めてその髪を、丸い頭を、白い額を慈しむように撫でる。
耳の裏から髪を梳き、指に絡めた。

「柄でもねえこと、してんじゃねえよ」
金髪は顔を上げて笑った。
前髪が涙で張り付いて、くしゃくしゃの顔をしている。
その顔を見たら、ゾロの腹の底から何か熱い塊がぐわっとせり上がってきそうで、寝そべっていることが苦しくなった。

「もう、寝ろ」
お返しのように、金髪は腕を伸ばしてゾロの秀でた額に手を当てた。
ひやりとして気持ちいい。
指の先まで氷のようだ。
「ああ」
普段の彼からは想像もできないようなやわらかな動きに誘われて、ゾロは静かに目を閉じた。

普段の彼。
それがどんなものなのか、思い出すことができない。
ただ、今目の前にいる男は自分を大切に思っていて、恐らくは自分もまたそうなのだ。
叶うならば手を伸ばし、思い切り抱き締めたい。
身体から湧き上がる熱を分かち合いたいと願うほどに、激情を誘う相手。
そのことを、普段の俺は知っているのだろうか。
この想いを、この確信を抱かずして、これからも「普段の彼」としか付き合っていかないのだろうか。

それならば、眠るわけには行かないと思った。
せめて、彼にだけは伝えたい。


どれだけ愛しいと思っているか。
どれだけ惹かれているか
どれだけ理解しているか
お互いがお互いを
少なくとも、今の俺はお前を―――








ゾロの意思に抗うように、睡魔はゆっくりと確実に眠りの淵へと引きずり込んで行く。
夢か現か混沌とした闇の中で、彼の腕をしっかりと握り締める手の甲に、温かな感触が触れた。
その熱に促されて、唐突に思い出す。


このベッドの上
目覚めた時に気付いたのではなかったか。

―――また見つけたと
誰も知らない。
恐らくは自分自身すら気付いていないだろう、彼の素顔。
そのことを、昨日までの自分は知っていた。
ずっと前から、気付いていた。
知っていた。
愛しいことも、覚えていた。
だから―――


ならば大丈夫だ。
問題ない。

ゾロはそう安堵して、ゆっくりと深い眠りの海に落ちていった。


END


back