Fire's out




「せんせいさようなら、みなさんさようなら」
礼節に厳しい鷹の目保育園では、子ども達も保育園児とは思えないほどお行儀がよい。
春から入園して来た子達も、集団での生活に慣れると同時に自然と言葉遣いや振る舞いに落ち着きが出てきた。
子どもの順応力は本当に素晴らしいと、新米のサンジ先生は感服するばかりだ。

子ども達を正しく導くには先ず大人からと、鷹の目保育園では職員同士の言葉遣いも厳しく指導されている。
ここは良家の子女が通う寄宿舎かと疑うばかり、とにかく普段の言葉遣いが丁寧で上品だ。
ガサツな男所帯で育ったサンジは、当初園内の言葉遣いで面食らった。
元より女性ばかりの職場との覚悟はあったが、まさかこれほどまでに厳格な職務規定が敷かれているとは思わなかったのだ。
慣れない敬語を駆使し、子ども相手にも丁寧語を使い、常に笑顔を絶やさずほがらかに働く。
サンジは就職当初から巨大な猫を被り続けて今に至っている。

「サンジ先生、お先に失礼致します」
「お疲れ様でした、お気をつけて」
先輩のビビ先生とカヤ先生が、ごきげんようと会釈しながら帰っていった。
二人とも保育園の指針に違わず、非常に品良く立ち居振る舞いにソツがない。
しかも美人でスタイルも良く性格までいいと、まるで女神か天使のような奇跡の女性達なのだ。
彼女だけでなく、この保育園に努める先生方は皆それぞれにレベルが高かった。
マキノ副園長を筆頭に、ヒナ先生、カリファ先生、たしぎ先生と美女揃い。
しかもみんな頭が切れて強くて優しくて、まさにサンジにとっては天国のような職場だった。
多少不自然な口調になろうが巨大な猫を背負い続けようが、この楽園を失うことに比べたらなんら苦ではない。
なのでサンジは、今日もせっせと働いた。


保育延長時間も残り5分となった頃、保護者が相次いで迎えに来て園児達は弾む勢いで玄関へと飛び出していった。
「サンジせんせい、さようなら」
「さようなら、また明日ね」
親と手を繋いで、輝くような笑顔でバイバイする子どもは、まさに天使と見紛うばかりに可愛らしい。
昼間は元気な悪魔に見えたとしても、この瞬間の笑顔がサンジにとっては癒しだった。
「きょうはう〜う〜くるかなあ」
「どうだろうねえ、来ると怖いね」
語り合いながら帰っていった親子を見送り、遅番のマキノ先生と一緒に戸締りをする。
日誌を付けて業務終了だ。

「これらの事項は明日申し送りするということで、今日はお疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
畏まってお互いに頭を下げ、帰り支度を始める。
「先に表から出てください、戸締りしてすぐ裏から回ります」
「いつもすみません、でもいいんですよ送ってくださらなくても」
「いいえ、俺が心配で帰れませんから」
マキノを表に待たせ、サンジは手早く戸締りを済ませると裏口から回った。
遅番の時は、必ずもう一人の先生を自宅、もしくは最寄り駅まで送るのが習慣だった。
大切な先生方になにかあったら大変だからだ。

「サンジ先生がいらしてくれて、保育園でも防犯上とても安心できてます」
「そうですか、そう言っていただけると少しはお役に立っているのかな」
照れて笑うサンジに、マキノは勿論と目を輝かせて大きく頷いた。
「やっぱり男の方はいてくださるだけで安心感が違いますもの。子ども達もとても落ち着いてリラックスしています。素晴らしいです」
実際、サンジは鷹の目保育園にとって始めて採用された男性保育士だったが、評判は上々だった。
物腰が柔らかく応対も丁寧なので(猫+相手が女性のみ)保護者の受けもよく、体力があるから子ども達にも大人気だ。
サンジ本人は毎日相当くたびれるのだけれど、先輩先生方は女性なのに日々のハードワークをこなしているのを見ると負けてはいられないと発奮する。
「俺なんかまだまだです、皆さん本当に凄い。保育士は体力勝負だと、つくづく思い知ってます」
「それはそうですね。でもサンジさんがいらしてくれてから、本当に助かってます」
標的がサンジに限定されているからだろう。
子どもに懐かれて嬉しくない訳がないが、時々勘弁してくれと思うのも本音ではある。

「それに最近は物騒で・・・さっきもまどかさんが仰ってたわ」
「ああ、あの『う〜う〜』ですか」
「連続放火だなんて、なんて恐ろしい」
区内では、数ヶ月前から断続的に不審火が発生していた。
消防署のみならず地域の消防団も警戒してパトロールを繰り返しているが、つい先週も隣の空き地で車両火災が発生したところだった。
幸いまだ人的被害が出てはいないが、このままエスカレートしては時間の問題とも思える。
「放火なんて、最悪ですよね」
「大切なものを灰にしてしまう愚かな行為です、許せません」
いつも温和なマキノが顔付きを厳しくしているのを見て、サンジも生真面目な表情で頷き返した。

「それでは、お疲れ様でした」
「おやすみなさい」
マキノを最寄り駅まで送り、Uターンしてアパートへと帰る。
サンジの住まいは保育園のすぐ近くだから、毎回遠回りの帰宅になるが別に誰かが待っていてくれる訳でもない。
気楽な独り暮らしだ。

この時間では商店街も閉まっているかと、24時間営業のスーパーに寄って食材だけ買った。
そのまま裏通りを抜けまっすぐにアパートを目指す。
表通りとは違い、密集して家屋が立ち並ぶ狭い路地は足元が見づらいほどに暗かった。
外灯が一つ、電球が切れたのか点いていない。
「自治会長さんに連絡でもした方がいいのかな」
電柱番号を写メろうと携帯を取り出したら、目の端になにか黒い影が映った。

はっとして振り返ると、物影から男が飛び出しサンジの横をすり抜けるようにして行き過ぎる。
「てめっ」
理屈より勘で動いて、サンジは咄嗟に長い足を差し出し男を引っ掛けた。
「うわっ」
転んだ拍子に、手にしたペットボトルが落ちる。
蓋が開いていたのか、中の液体が撒き散らされた。
立ち昇る異臭に、サンジは鼻の頭に皺を寄せ後ずさった。
「てめえ、これっ」
いきなりボンっと破裂音がして、男の背後で火の手が上がった。


「うわあああああ」
「わあああああ」
男と一緒になって絶叫する。
どうやら夜に出されたゴミに、火を点けた後だったらしい。
近くでガソリンを零したものだから引火したのだ。
火はガソリンを引っ掛けた男のズボンに燃え移り、サンジは慌てて上着を脱いだ。
「この、この、馬鹿野郎っ!」
今日は少し肌寒いからと、厚手の上着を着てきて正解だった。
慌てて転げる男の腹に一発蹴りを入れて気絶させると、上から叩いて火を消した。
幸い、服を燃やしただけですぐに火は消し止められた。

ほっとしたのも束の間、サンジの後ろでゴミが轟々と火の手を上げていた。
どうも燃え易いものが入っていたらしい。
「火事だーっ!」
サンジはアパートの窓に向かって絶叫した。




火事ってのは110番だったっけか。
いや、119番だ。
携帯って0発信じゃねえんだっけ。
つか、市外局番っている?!

すっかりパニックになって、アワアワと携帯を操作する。
そうこうしている内に野次馬が集まってきた。
「こいつ、こいつだ放火犯!」
サンジの上着に包まれている男を再び足蹴にし、消防と救急と警察も呼べと誰彼構わず怒鳴る。
アパートからは次々と人が飛び出してきた。
真っ黒な煙が上がり、風向きによって周囲一体を視界不能なほどに覆う。
「ここもダメだ、逃げろ!」
「風上どっちだ」
パニックになった現場で、サンジは小さな泣き声を聞いた。
職業柄、子どもの声には即反応してしまう。
黒煙の中を掻い潜り、非常階段の手すりに掴まって見上げたら風で途切れた煙の間に、小さな影を見つけた。
2階の角部屋で、子どもが泣いている。
「子どもがいるーっ!」
「えええ」
「ほんとだ、子どもだ」

地上で大騒ぎしている大人たちに驚いたのか、子どもは文字通り火が点いたように泣きじゃくっていた。
「降りろ、飛び降りろ!」
無茶な指示をしてみるが、窓の柵は子どもの背丈より高かった。
サンジは必死で視線を巡らし、先ほどまで黒煙で覆われていた非常階段がすっきりと晴れ渡っているのを見た。
また風向き次第でどうなるかわからないが、上がるのなら今しかない。

全身に水でも被っていくべきなのだろうけど、今はどこに水道があるかもわからない状態だ。
迷っている暇はないと、サンジは考えるより先に駆け出していた。
「あんたどこ行く!」
「危ないよっ」
野次馬たちの声を背に受け、サンジは一気に階段を駆け上った。

下から見上げれば、子どもの部屋はすぐ近くに思えた。
実際、非常階段を昇ってすぐに扉がある。
ここで間違いないとドアを掴み、押しても引っ張っても捻っても開かない。
「開けろ!ドアを開けろ!!」
ドンドンと叩いて叫ぶが、中からは子どもの泣き声がするばかりだった。
恐らく一人で留守番しているのだろう。
あの年齢では、自分で鍵が開けられるかどうかも怪しい。
「くそうっ、開け!」
サンジは渾身の力を込めてドアを蹴った。
殺人的とまで称された、自慢の蹴りだ。
だが鉄製の扉はびくともしない。
「くそっ!くそっ」
足の痛みも忘れ、サンジは蹴り続けた。

遠くにサイレンが聞こえる。
遅えよと毒づきながらも、どこかほっとしてサンジは顔を上げた。
そこに、風向きが変わって黒煙が襲い掛かる。
「―――!」
臭いだけでなく明らかな熱がサンジを襲った。
もはや火の手はすぐそこまで迫ってきているらしい。
ドアを開けることに夢中になっていたが、振り返れば周囲は何も見えないほど真っ暗だった。
どっちが非常階段の方角だったかも、もはや定かではない。
「・・・くっ」
扉の向こうで子どもの泣き声がしている。
泣いていると言うことは、まだ生きていると言うことだ。
なんとしても、助けたい。
「畜生」
上着を脱いでしまったから、薄いシャツを引き上げて口元を覆う。
それでも煙は防ぎきれず、咳き込みながら目の前が暗くなった。
その時―――


「そのまましゃがめ」
低い声と共に、肩を大きな掌が抱いた。
その力強さに、ふっと意識が途切れそうになる。
そんなサンジの口元に、ごつい呼吸器が押し付けられた。
空気に触れると激しく咳き込み、涙と鼻水がだーだー流れ止まらない。
「姿勢を低くして」
消防隊員と思われる男が、サンジの肩を抱いて廊下に横たえた。
その後ろで、もう一人の男が斧を使って扉を破壊している。

―――ああ、助かった。
「こ、ども・・・が」
声が掠れて上手く言葉にならない。
そんなサンジに、男はしっかりと目線を合わせて頷き返し軽々とその身体を抱き上げた。
火災の轟音に紛れ、男の背後でひしゃげた扉が開く。
流れ込む煙より先に、隊員が中に飛び込んだ。
サンジは必死に男の首にしがみ付き、部屋の中に消える男達の背中を追った。

だが身体は男に運ばれて、どんどん遠ざかって行く。
――― 子ども・・・
再び押し当てられたマスクで声も出ないのに、サンジは泣きながら壊れた扉を目で追い続けた。

「発見!」
「よし!」
黒煙の中から声が聞こえる。
そして、消防隊員の腕に抱かれた子どもの姿が目に飛び込んだ。
その腕の中で、元気よく泣いている。
「―――あ」
煙に捲かれたときより激しく、涙が溢れ出た。
男に抱き上げられていることも忘れて、えぐえぐと泣き続ける。
いつの間にか階下にまで運ばれていたサンジは、救急車の手前で地面に降ろされた。
担いでいた消防士の顔は、煤で真っ黒だ。
背後で燃え盛る炎に照らされ、目だけが白くギラついて見える。

サンジを降ろして改めて呼吸器を外すと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をごつい手袋で擦った。
そうして初めて、にかりと顔を綻ばせる。
零れるような白い歯が覗いた。
「よしっ!」
腹の底にズシンと響く、太く大きな声だった。
サンジは雷にでも打たれたように背筋を痺れさせ、呆然と男を見やる。
「もう大丈夫だ」
そう言ってサンジの肩をポンポンと叩き、さっと立ち上がりまた現場へと戻る。
サンジに貸していた呼吸器を装着し、再び黒煙渦巻く階段上へと駆け上っていった。


「ご家族ですか?」
泣き続ける子どもを救急車に乗せ、救急隊員がサンジに声を掛けて来た。
呆然としたまま、首を振る。
「違います、俺は大丈夫なんで」
一緒に救急車に乗るよう促されても固辞して、サンジはとりあえず逃げるように野次馬の中に飛び込んだ。
まだ喉は痛く目はヒリヒリするけれど、身体に特に外傷はない。
足が痛いような気もするが、別に歩けないほどではない。

野次馬でごった返す中、あちこちで赤色灯が回っていた。
パトカーも何台も止まっている。
あの放火犯は、無事掴まったようだ。

「・・・よかった」
サンジはほっとして、恐らくは煤で真っ黒だろう顔を隠すように足早にそこから立ち去った。
現場から離れれば離れるほどドキドキして、胸が苦しくなるほどに動悸が激しくなる。

初めての火事現場。
子どもの泣き声。
どうにもならない現状。
助けに来た消防士。

今起こった出来事を思い出しても、とても現実感が湧かない。
ただ、あの男に抱かれた肩だの熱さだけが印象に残っていた。
力強い、頼りがいのある腕だった。
これで助かったと、無条件で安心できた。
よし!と叫んだ笑顔が、思いの外可愛かった。

「―――・・・」
走りながら片手で口元を覆い、なにやら喚き出しそうな声を必死で抑える。
なにがなんだかわからないが、心臓が口から飛び出そうなほどにドキドキしている。
熱風に煽られて倒れそうだった火事現場よりも、彼のことを思い出す今の方がサンジには熱く感じられた。



End




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