遠雷 -1-


ジーワジワジワジワジー…





やる気がないような蝉の声が頭上から降り注いで来る。
サンジは手を翳して空を見上げた。
抜けるような青空が目に染みる。
「あっち〜」
何度目かの台詞を呟いて、手のひらで風を扇いだ。
なま暖かい空気の揺れでは清涼効果などない。
太陽が真上に昇り、少なくなった影を求めて木造の駅舎に戻った。
風がないから蒸し暑いが、日差しを遮る分だけ涼しく感じる。

「ん〜参ったな」
予定より1本早い電車で着いてしまって(つまり1時間早い)、仕方ないから歩こうと思っていたのに
イザ外に出てみたら、あまりの灼熱具合に意欲が削がれてしまった。
田舎とはいえ、暑いものは暑いのだ。
せめてもう一服してから歩きだそうかと、気合いを入れて煙草を取り出したら、駅舎内の自販機に買いにやって来たおっさんと目が合った。

「あんれ?」
おっさんは日に焼けた丸い顔を大げさに傾けて、サンジに笑い掛ける。
「ゾロんちの、お友達さんでねえの?」
「ゾロ」の響きに即座に反応して、サンジは煙草を咥えたままハイハイと手を挙げた。
「そうです、サンジと言います」
「そうなの、やっぱりね。うちの母ちゃんが言ってた通りだ」
おっさんは一人ウンウン頷いて、金を入れたばかりの自販機を指差した。
「どれにする?」
「え?」
意味がわからずきょとんと問い返す。
「暑いでしょ。好きなの選んで」
自分が飲むつもりで金を入れたのだろうに、おっさんはピコピコ光っているボタンを指差した。
「そんな、いいです」
「若い者が遠慮するもんじゃないよ」
促されて、それじゃあと清涼飲料水のボタンを押す。
ゴトンと落ちてきたペットボトルを取り出している間に、おっさんは再び小銭を入れた。

「あの、どこかでお会いしましたか?」
「いんや」
おっさんはペットボトルの蓋を開けると、一気に呷ってぷはあと息を吐いた。
「母ちゃんがな、茶ばっかり飲んでっと熱中症になるって、たまにはこういうのも飲めってうるさいのな」
おっさんの広い額から玉のような汗がコロコロと落ちる。
―――それで、このおっさんは誰なんだろう
いぶかしげなサンジの視線に気付いたか、おっさんは首に巻いたタオルでつるりと顔をひと拭いしてにかりと歯を見せた。
「俺ね、ゾロんちの隣。川挟んでね」
ああ!と合点がいった。
川向こうのお隣さんだ。
「いつもゾロがお世話になってます」
改めて深々と頭を下げ、ジュースの礼も言う。
いをやあとおっさんは手を振り、ペットボトルを傾けた。
「うちの母ちゃんが、ゾロんちに時々金髪のきれえな兄ちゃんが来てるって言ってたからさ。
すぐわかったの」
「はあ…」
「ところで、これからどうやってゾロんとこ行くの。まだ迎え来ないの」
「いや、それが…」
ゾロは昼過ぎまで直売所の当番が当たっているのだ。
勝手に早く着いたのが悪いのだから、自力で家まで行こうと思っている。
「歩いて?相当距離あるよ」
「先月も歩いたんで」
半分くらいでゾロに拾われたのだけれど。

「そりゃあ無理だ。この天気じゃ100メートルも歩けば干上がっちまう。ちょうどよかった、うちのに乗るといい」
「え、いいんですか?」
「いいのいいの。どうせこのまま家に帰るだけだったから」
まさに、地獄に仏だ。
おっさんはペットボトルの蓋を閉めると、チャプチャプ言わせながら表を指し示した。
「荷物そんだけ?んじゃ、こっちだよ」
先に立ってさっさと歩きだすおっさんに着いていく。



ゾロと同じ軽トラだが、こちらは窓も自動で何よりエアコンが付いていた。
「エンジン止めてたから、まだちと暑いね。すぐに涼しくなるから」
気を遣ってくれるおっさんに、いいえとサンジは首を振った。
「窓閉めてても乗れるってだけで感動です。ゾロのはエアコン付いてないから」
「あははあ、そうだんね」
おっさんは笑い声を立てて、軽トラを発進させた。




「ゾロは今日は、どこ行ったんかね」
「直売所の当番だって行ってました」
「ああ、お盆だから稼ぎ時だあね」
見慣れた風景の中を、初対面のおっさんと一緒に走るのはなんとも妙な感じだ。
両手を膝頭に乗せてしゃちほこばっているサンジの緊張を解くように、おっさんは喋り続ける。
「なんなら、昼飯うちで食うかい?」
「ええ?いえ、とんでもない」
びっくりしてブンブン首を振った。
「今、俺飯食うために家に帰るの。母ちゃんに言えば3人分も4人分もたいして変わらねえよ」
親切な申し出をありがたく思いつつ、サンジは丁寧に断った。
「あの、せっかく早めについたんで、ゾロの食事の準備とかしとうこと思って。何か今日は朝が早かったみたいだし、昼飯は遅くなるって聞いてるんで」
「そうだんな、今日は早開きだった」
おっさんは、ん?と首を傾げて見せた。
「食事の準備って、あんたがするの?」
「俺、コックなんです」
へえーと大袈裟なくらいの驚嘆の声が上がる。
「兄ちゃん、コックさんけ?へー、そりゃ驚いた。てっきりモデルか何かだと思ってたのに」
「いやあ・・・」
ゾロにはホストに間違われたっけと、なんだか懐かしく思い出す。
「コックさんか。んじゃ食事はお手のもんだね。そうか、じゃあこっち来る度にゾロに飯作ってやってんの」
「はい」
「コックさんて何?やっぱり洋食かなんか?」
「フレンチです」
「フレンチってえと、フランス料理?」
「そうです」
「いや、そりゃあすげえや」
おっさんは子どものようにはしゃいだ声を上げた。
「んじゃ、ゾロは兄ちゃんがくる度にフランス料理を食ってるのか」
「いやあ、あいつは和食のが好きみたいで」
「え?兄ちゃん和食も作れるの」
「はい、何でもひと通りは」
「そりゃすげえ」
話している間に、軽トラは川沿いの道に入った。


「あ、俺ここでいいです。お宅はこちらでしょ?」
「別にいいよ、ゾロんちまで送ってってやる」
「いえ、すぐそこですから。歩いて行きます」
わざわざ川向こうまで送ってもらって、また引き返してもらうのは忍びない。
サンジの申し出におっさんもあっさり引き下がった。
「そう、じゃあここでね」

いつも遠目にしか見ていなかった一軒家の前に車が停まる。
台所では昼食の準備がされているのか、いい匂いが外まで漂ってきていた。
「どうもありがとうございました。おかげで助かりました」
サンジが丁寧に頭を下げると、おっさんは照れたように手を振った。
「お安い御用だ。こっちにはゆっくりしてられっのかい?」
「16日までいるつもりです」
「そうか、お盆の間中だな。今夜は夏祭りとかあるからおいでね。田舎だからなーんもないけど、ゆっくりしてけね」
はいと笑顔で答え車から降り、くるりと振り返った。
「いつも奥様にお漬物やお惣菜をいただいて、ありがとうございます。すごく美味しかったと伝えてください」
いやあ〜とおっさんは禿げ上がった額まで真っ赤にして手を振った。
「恥ずかしいなあもう、兄ちゃんのが専門家なのに。しかも奥様って奥様?うひゃひゃ」
玉のような汗を零しながら、おっさんは肩を揺すって照れ笑いした。
「母ちゃん喜ぶで言っとく。じゃあね」
「ありがとうございました」
早足で家の中に入ってしまったおっさんの背中を見送ってから、サンジは荷物を抱え直し踵を返した。




川向こうにあるゾロの家が、なんだか懐かしい。
舗装されていない畦道を歩き出せば、予想していたほどに暑くないことに気付いた。
青々とした田んぼの上を吹き渡る風が肌に涼しく、足元から立ち上る熱気もアスファルトとは比べ物にならないくらい和らいでいる。
無意識にポケットから煙草を取り出そうとして、止めた。
代わりに伸びをして胸いっぱいに空気を吸い込む。
むっとする草いきれは夏のものだが、どこか爽やかで気持ちがいい。


ゾロの家の玄関はやはり鍵が掛かっていなくて、ちょっとガタつきながら開く。
「ただいま」
誰もいないのを確認してから、そっと呟いてみた。
それから一人にへらと笑い、改めて中に入る。
家の中には湿気と古臭い木の匂い、それから野菜の青臭さが立ちこめていた。
玄関から台所へとまっすぐ進み、サンジはぎょっとして足を止める。
炊事場のシンクの中にまでぎっしり、野菜が山積みになっていた。
それぞれ種類別に竹籠に盛られてはいるが、なにせ量が多い。
きゅうりやピーマンはいいとして、トマトなんかは積みすぎて底の方が潰れ、汁が染みていた。
「・・・なんだこりゃ」
口に出して呟いてから荷物を降ろし、改めて台所に足を踏み入れた。

バラティエに送ってくれたものとさほど変わらない、典型的な夏野菜があちこち山積みになっている。
ナスにとうもろこし、枝豆と瓜、それに―――
冷蔵庫を開けてみて、さらに仰天した。
小さな冷蔵庫に無理やり詰めこむようにして、どでかいスイカが一個どんと陣取っている。
これだけでいっぱいいっぱいで、ビールすら外に出されていた。
「なんじゃこりゃ・・・」
その扱いの乱雑からして、これらは売り物ではないのだろう。
と言う事は、今日から2日間サンジはこの野菜と格闘することになる。

サンジはしばらく腕を組んでそれらを眺めていたが、その内肩を震わせ腹を抱え始めた。
なんだか大変な状況なのに、おかしくてしょうがない。
ひとしきり笑った後、うし!と気合を入れる。
「やってやろうじゃねえの」
煙草を咥えて一服してから、サンジはエプロンを身につけ台所に立った。



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