狗尾草



どこからか、線香の匂いが漂う季節になった。
「お隣さんかな」
「ん?」
「お線香臭」
「ああ」
ゾロは野菜が入った背負籠を担いで立ち上がり、タオルで額を拭う。
「かなり帰って来てんな、車でいっぱいだ」
田んぼを2枚隔てた向こうに見えるお隣さんの家の前は、太陽光を車が反射してキラキラと光って見えた。
お盆を前に続々と帰省してきたのだろう。

「今年は盆が平日でレテに行けねえって、残念がってたぞ」
「こればっかりはね、2周年フェアは週末にしちゃったしな」
サンジはピーマンをせっせと選別し終え、トマト畑へと移る。
「ピーマン、尻腐れひでえ」
「もう時期も仕舞いだな。また葉っぱ炊いてくれよ」

お盆は、帰省客をターゲットにして直売所が稼ぎ時だ。
ゾロ達は勿論、若手農家の仲間達も里帰りはなしにして、せっせと収穫に励んでいる。
「ヘルメッポの菊、予約だけで完売だと」
「あいついい花作るもんなあ。墓場だけじゃ勿体無いくれえ」
「罰当たるぞ」
世間話をしながら、ざっと畑を一回りした。
どうにか、日が高くなる前に収穫し終えた。

「今日は雲行きが怪しいな。午後から雨降るかも」
「うし帰るか、風太、颯太」
呼ばれた風太は、綺麗に草が刈られた土手でぴょんと飛び上がるように立ち上がった。
対して颯太は、知らん顔してつんと横を向いたきりだ。
「帰るぞー」
ゾロとサンジが家に向かって歩き出すと、風太はちょここと小走りで歩いてゾロの横にぴたりと付けた。
颯太はやれやれと面倒臭そうに立ち上がり、暢気に伸びをしてからサンジの少し後をトボトボとついてくる。
サンジが振り返ると、ぴたりと足を止めて首を下げ、伺うように上目遣いで睨み付けた。
「帰ろう、颯太」
そう言ってにこっと笑い、また前を向いて歩き出す。
3歩ほど歩いた辺りで、颯太が再び歩き出すのがわかった。
アスファルトを叩く軽い足音がタタタタタとついてくる。
こうして大人しく後をついてくるようになっただけ、随分な進歩だとサンジは思った。







まだ梅雨が来る前のこと。
役場から帰ってきたゾロが、軽トラから降りて縁側へと回ってきた。
飛びついてじゃれる風太を構いながらお帰りと声を掛けるのに、中にも入らないで珍しくモジモジとしている。
なんだか悪戯を告白する子どものような、忘れ物を言い出す生徒のような、そんな感じだ。

「どうした?」
首を傾げて問えば、ゾロは一旦振り返り、またサンジに向き直った。
「あのな」
「うん」
「犬、を、拾った、んだが」
「・・・は?」
風太の前足を持ったまま、サンジはぽかんと口を開いた。
「犬?」
「おう」
「どこで」
「役場」

なんでも、用事を済ませて役場裏の職員駐車場の方へ回ったら、そこに野犬捕獲機が置いてあったのだという。
中には2頭の子犬がいた。
ワンワンキャンキャンやかましく、それでいて近付くと怯えた声で唸り出す。
「ロロノアさんとこ、もう犬いるからだめですよね」
話しかけてきた職員は、取り敢えず1頭は自分が連れて帰ると言っていた。
もう1頭は見つからなければ明日、保健所に連れていくと。
「どっちを連れて帰るんですか?」
「茶色の方を。こいつは人懐っこいんで、可愛いんですよ」
と言うことは、余るのは白の方だ。
ゾロが覗き込めば、白犬は腰を下ろし警戒するように後ずさりした。
鼻先に皺を寄せ、グルグルと低く唸る。
およそ子犬らしくない、険悪な表情だ。

「・・・別に、一匹や二匹、増えたって構わないがな」
つい、ぽつりとそう呟いてしまった。
若い職員の表情がぱっと明るくなる。
「そうですか、よかったら連れて帰ってもらえませんかね。僕も、選ばなかった方が保健所行きとか夢見悪くて」
さっそくこちらを、とダンボールやら古いタオルやらを手渡され、嬉々として檻を開けられる。
仕方なく捕獲機の中にしゃがみこみ両手を差し出した。
普通の子犬なら、警戒しつつも匂いを嗅ぎに近寄ってくるものだ。
それが、茶色はともかく白色の方は後退りして檻の角にぴたりと身体をくっつけてしまった。
鉄柵の間から、白い毛並みがぼわんと食み出すくらいに身体を押し付けている。
「なんもしねえよ、来い」
噛まれるかと思ったが、唸るだけで後はブルブル震えるばかりだ。
細い前足を掴んで引きずり出せば、捕獲機の床に黒い染みが広がった。
「怖すぎて、漏らしちゃってますね」
「そんなに怯えなくてもいいだろう」
ゾロは腕の中でぶるぶる震え続ける犬を古いタオルで包むと、そのままダンボールの中に入れて軽トラの助手席に乗せた。





「と言う訳なんだ」
箱ごと連れてこられた犬は、傍目に見てもわかるくらいぶるぶると震えている。
ゾロの肘が動く程度でいちいちびくっと身体を震わせ、どこを警戒していいのかわからないようにあちこちに視線を彷徨わせていた。
「・・・可愛い」
落ち着きがなく、震えるか唸るかしかない犬だが見た目はとても可愛らしい。
色は真っ白で毛足が長い。
鼻が黒く、つぶらな瞳を縁取る睫毛が真っ白だった。
「綺麗な目だな」
サンジが感心したように覗き込めば、犬はビクビクッと首を竦め低く唸った。
どうしても警戒が解けない。

「噛むか?」
「いや、噛み癖はねえ。ただものすごく怯えている」
サンジはそっと両手を箱の中に入れ、犬を掬い上げるようにして抱いた。
腕の中で、震えが大きくなる。
犬は力を抜くでも、サンジの胸に凭れ掛かるでもなく。
ただ座った状態でまっすぐに首を伸ばし、どこを見ていいのかわからない戸惑いのままぶるぶると震え続けた。
「可哀想に」
サンジがその背中を優しく撫でても、震えが止まることはなかった。






人間には警戒心が強いとは言え、同じ犬である風太には比較的早く懐いた。
根っから天真爛漫な風太は、面倒見もいい兄貴分気質のようだ。
颯太と名付けられた白い犬は風太が傍にいるせいか夜鳴きすることもなく、風太の犬小屋にさっさと入って中で寝ていたりする。
ただ、人間に対する警戒心は半端ではなく、ゾロやサンジが餌を持っていっても決して小屋から出て来ようとはしない。
散歩に連れて行こうとしても、喜んで飛び跳ねるのは風太だけで颯太は胡乱気な表情で下からねめつけるばかりだ。
首輪に鎖をつなげようと手を伸ばすと、びくっとして顎を下げる。
近付こうと一歩足を踏み出すと、尻尾を下げながら後退りする。
ゾロやサンジの姿を見て喜んで尻尾を振るなんて真似は決してしないし、差し出された手を舐めたり、ごろんと横になって腹を見せたりなんてのは論外だ。

「懐かねえなあ」
さしものゾロも、手懐けるのを諦めた。
代わりに、風太がフンガフンガ言いながらゾロの顎をべろべろ舐めるに任せている。
颯太はと言えば、ゾロがしゃがんでいる前で相変わらず腰を下ろし警戒に余念がなかった。
「相当怖い目に遭ったんだな」
サンジは洗濯籠を持って縁側に降り、そのまま颯太に近付いた。
途端、尻尾を丸めて鎖の限界まで後ずさる。
「ほらな」
「なんだ?」
風太がぴょんぴょんと足元に纏わり付くのを、頭を撫でて宥めてやった。

「颯太は、手に何か持って近付かれるとやなんだよ。特に鞄とか、すっげえ怖がる」
「そうか」
「あと、足」
そう言って、自分の足を颯太に差し出した。
颯太は大げさなほどびくっと身体を震わせて、その場に蹲ってしまう。
「多分、鞄でぶたれたり、蹴られたりしたんじゃないかな」
「・・・野良犬だったからな」
捕獲機に入るまでは、子犬ながらあちこち放浪していたのだろう。
この村の人で、野良の子犬を虐めるタイプがいると思いたくはないが、もしかしたら遠くから連れてこられて捨てられた可能性もないとは言えない。
なにせ、颯太はぱっと見珍しいと思える犬種だ。
身体が大きくなるに連れ真っ白だった毛色は茶色が混じり、斑な白茶になって雑種であることは間違いないが、
毛が長くて顔立ちが実に愛らしい。
この辺の犬は大概、風太のような短毛でどこにでもいる犬の姿をしているから、颯太は目立つ。
散歩をしていても「あら可愛い犬ねえ」と褒められて、風太贔屓のゾロはやや不満そうだ。
「風太の方が可愛い」
「拾ってきた本人が、ナニ言ってんだ」



なんてことを思い出しながら、嵐のようなヒグラシの声に包まれて、畦道を歩いて家まで帰った。
前はゾロが歩いてくれるし、後ろに颯太がいてくれるから安心だ。
にょろりと蛇が出てきても、長靴を履いているから平気だと思える程度に慣れてきた。
「あんまり綺麗な夕焼けじゃねえな」
「今週はずっと天気が芳しくねえ。今晩降らなきゃいいが」
今夜は公民館で盆踊りだ。
たこ焼きやらカキ氷やらフライドポテトやら、定番の手作り屋台でみんな腕を振るうのだろう。
「風太も颯太も、行こうな」
颯太にとっては初めての、人中へのお出掛けだ。
子犬からぐんぐん大きくなって、もう大きさは風太と変わらなくなった。
それでも、人に対する警戒心はまったく薄れない。
いつまでもゾロとサンジの顔色を伺うように見やって、ビクビクしている。
それでいて、決して媚びず服従しない頑なな態度は見ていて痛々しい。
「颯太もデビューだ。風太、頼んだぞ」
まるで言葉がわかってでもいるように、ゾロの後ろを歩く風太がサンジを振り返った。





「こんばんは」
「雨、止んでよかったねえ」
「一時はどうなることかと思ったねえ」
日暮れに一雨降って、地面を濡らしてしまってから空はからりと晴れた。
それでも雲が分厚いのか星は見えない。
露に濡れた広場で、ぼんぼりの灯りが煌々と光っていた。
「こんばんは、あら犬が増えてる」
「こんばんは」
挨拶をしながら行過ぎる人の足元で、颯太はサンジの背後に引っ込んでは恐々首だけ覗かせていた。
尻尾を捲いて逃げ出そうとしないだけ、ましかもしれない。
「風太、こんばんはー」
「あー可愛い」
子ども達が勢い付けて駆け寄ってきて、颯太は更に後ずさった。
けれど子ども達はお構いなしだ。
「可愛いねえこれ」
「なんて名前?」
「颯太だよ」
「風太と颯太だ」
「颯太―」
あっちこっち触られるのに、颯太はサンジの後ろでほとんど固まってしまった。
噛まないのはありがたいし、思ったより拒否反応が薄いのは意外だった。
祭りにやってくる人は手に荷物をもっていないし、子ども相手だとさすがの颯太もわかるのかさほど怯えて見せなかった。
その代わり、大股で歩く大人の男が傍を通り過ぎるだけでビクビクしている。
「颯太君、お祭りデビューね」
たしぎがパウリーを抱いてやってきた。
パウリーはエノコログサを握ってご機嫌だ。
「こんばんは、スモーカーは?」
「あっちで当てモノやってるわ」
ヘルメッポとコビーも、金券交換でひと働きしている。
ウソップ達は里帰りし、来週まで帰ってこない。
「盆踊りまでしばらくあるから、一休みしてましょう」
「ちょっと挨拶してくる」
「おう、いってらっしゃい」
ゾロが公民館へと向かうのを見送って、サンジはパウリーを膝に抱いた。
「パウちゃんご機嫌だねー」
「さっきお昼寝から起きたのよ」
たしぎと並んでベンチに座り、行き交う人と挨拶を交わして世間話に興じる。
人の多さで落ち着きがなかった風太と颯太も、その内ベンチの横に腰を下ろして周囲を眺め始めた。

「あ、まただ」
「なあに」
パウリーを抱く膝の下、サンジの左足の甲に颯太がちょこんと尻を乗せている。
「なんだろな、これ風太もよくやるんだよ。お尻をこっちに向けて引っ付けて座るの」
「へえ、風太はやってないわよ」
たしぎの向こう側で、風太は前足を伸ばしたライオン座りをしている。
サンジ側に座った颯太はそっぽを向いたきりだが、尻だけがサンジの足の上に乗っているのはなんだか可愛かった。
「颯太がこうしてくれるのも最近のことだよ。ここまで傍に寄ってきてくれることなかったし」
「なかなか懐かなかったものね」
たしぎが団扇で仰いで風を送ってやると、パウリーはきゃっきゃと笑って手を叩いた。
子どもの高い体温は、夏の湿り気を帯びた熱とまた違って心地よい。
「お、番犬2匹連れてんな」
近所のおじさんが頭にタオルを巻いて赤ら顔でやって来た。
途端、颯太が前足をじりじりと下げたが、尻はぴたりとサンジの足の上に乗せたきりだ。
「颯太、重いよ」
「はは、守ってんだよ」
おっさんはビールを呷りながら手を伸ばし、パウリーの頭をぐりぐり撫でた。
「背後に主人を守って、見張ってんだ。いい犬だ」
「え、そうなの」
ビックリした。
てっきり、そっぽを向いて尻だけ申し訳程度にこちらに向けているのかと思ったら。
「忠犬だよ、サンちゃんを守らなきゃって思ってんだな」
おっさんはわしわしと颯太の頭を撫で、ついで風太の頭をポンポンと叩いて去っていった。
もうパウリーも犬も同じ扱いだ。
おっさんに頭を撫でられている間、上体を低くして固まっていた颯太が、ついっと背筋を伸ばす。
そうしてまた、サンジの足に尻を乗せたまま前を向いた。

「そうか・・・守ってくれてんのか」
「いつの間にか、頼もしくなっちゃって」
背後からたしぎがそっと頭を撫でても、颯太は頭を下げたりはしなかった。




End



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