End game  -4-



夕焼けが西の空を染め始めた頃、店主は表の灯りを点けた。
まだ夕食時には早いが、既に往来にまで食欲をそそる匂いが漂い始めている。
それに釣られるように、常連客が相変わらずの不景気顔で次々と扉を開けた。
今日も実入りのいい仕事ができなかったのか。
そのどれもが暗い目をしているのに、店に入った途端はたと足を止め、ショボくれた瞳を丸く開いた。

「いらっしゃい!」
奥から響く威勢のいい声に圧倒されたように、よろめいて後ずさっている。
見知らぬ店員がいるのに気付いて更に目を見開き、なにか間違いでもしたかと一旦表に出て看板を見直したりした。
「どうぞ、開いてますぜ」
見慣れない金髪の優男は、煙草を咥えたまま空いたテーブルを示して椅子を引いた。
いつもと同じ店の筈だ。
なのに何かが、違う。
「灯り、増やしたのか?」
「なんでえ、随分明るいじゃねえか。こう、店ん中がよ」
きょろきょろと店内を見回しながら、席に着いた。
いつもと変わらない、古ぼけた傷だらけの机にガタつく椅子。
けれどよくよく見れば、備え付けの調味料入れはどれも綺麗に手入れし直されていて、床は艶めき窓のくすみは消えている。
「景気いいのか?」
半信半疑にそう問い掛ける客に、店主はにこりともしないで首を振った。
「別に、なんも」
事実、灯りを増やしたわけではない。
ただサンジが丁寧に掃除をし、少し位置を変えただけだ。

「メニューも、ちと変わってやがる」
昨日までディナーメニューはA.B.Cの3セットのみだった。
それが今夜は、なにやら細かい料理名と共にごちゃごちゃと文字数が増やされている。
「俺ぁ字、読めねえんだ。これなんて書いてあんだ」
「わかんなきゃ、適当にA言っとこうぜ」
「俺もAな」
「んじゃ俺B」
「あいよ、Aセット2つにBが1つ」
狭い店だから聞こえているが、敢えて口に出して言うことに意味があるのだとサンジは言った。
これぞ景気付けみたいなものだと。
店主は仏頂面のまま、黙々とフライパンを揺する。
本来作り慣れているセットメニューばかりだが、要領よく作り置きされたソースのお陰で手際はより早い。
更に数品、単品メニューを追加してくれているから気持ちにも余裕がある。

混み合う夕食時になると、地元民だけでなく旅行者が次々と店にやってきた。
いつもなら「たった3種類かよ」と必ず飛び出すボヤき言葉も、今日は聞こえなかった。
食事が進むと酒も入る。
久しぶりの島だからと高い酒を奮発する一見の客もいて、いつの間にか店内に入りきれない客が外待ちをするまでになっていた。
「なんでえ、やっぱり景気がいいじゃねえかよ」
いつもは閉店まで時間潰しに飲んだくている常連客が、居心地悪そうに腰を上げ始めた。
すかさず金髪が明るい声を掛ける。
「ありがとうよ。また明日も来てくれな」
「兄ちゃんがいるなら来るよ」
普段は叩かないような軽口も飛び出して、和やかに笑いながら勘定を済ませた。



店主は忙しく手を動かしながら、横目で店の様子を窺った。
昨日と今日とでは、飯の味もさほど変わってはいないはずだ。
押し掛けのバイトがいるとは言え、彼は料理にはサポートのみで一切手出しをしていない。
ガラリと劇的に味が変わった訳ではない。
なのになにか、どこかが違う。
何より、満足そうな表情で帰っていく客達の背中がしゃんと伸びている。
「A3つとC2つな」
「おう」
サンジの声に弾みが付いて、店主はいつの間にか滅多にしない返事と言うものを返すようになっていた。

「倉庫のストック、全部使うぜ」
「そんなに出たか」
不景気な為か比較的夜が引けるのも早い街は、まだ宵の口だと言うのにぽつぽつと灯りが消え始めている。
「冷蔵庫ん中の、別に置いてある奴は手え付けてねえ」
「ああ」
サンジは明日の仕込みも兼ねてストックのチェックをしながら、ちっと舌打ちした。
言葉足らずと言えば、身近にも言語能力皆無の唐変木がいることはいるが、ここの店主はそれを輪に掛けて言葉に乏しい。
せめて必要最低限の説明くらいする気にもなってはくれまいか。
「冷蔵庫の食材は、何かに使うのか?」
「ああ」
「何に?」
「ああ」
いい加減キレ掛けた時、店主はぼそっと呟いた。
「隣の、夜食用だ」
「隣?」
「ああ」
「誰用に、何人前だ?」
ご馳走さんと声を掛け出て行く客に愛想を返して、サンジは苛々と火の点いていない煙草を噛みながら返事を待つ。
「隣の・・・つうか、裏の高台にある娼館の夜食だ。娼婦達の夕食だよ」
「あんだとお?!」
いきなりサンジがいきり立った。
その勢いに気圧されて、店主は包丁を持ったまま仰け反る。
「娼館のって、プロのお姉様方に夜食をお届けするのか?!なら早く作れ、飛び切り美味い飯を作って差し上げろ。辛気臭いおっさん共の飯なんて後回しでいいから!」
「おいおいおい」
「いっそ清々しいほど言ってくれる兄ちゃんだな」
ほどよく酒が回った客達は、サンジの暴言にもケラケラと笑っている。
店主はやはり雰囲気が変わったなと首を傾げながら、包丁を持った手で指し示した。
「なんならあんたが作ってくれてもいいよ。俺、こっちするから」
「おおし任せとけ!ああ、そんなことならさっきの肉を客に出すんじゃなかった!」
「聞こえてるぞー」
また笑い声が立った。
この店で笑い声が響くなんて、初めてのことじゃないか。
店主は自分の口元も綻んでいることに気付かないまま、黙々と調理を続けた。



「お姉様方が15人+館主か。野郎はまあ、どうでもいいや」
専用の折詰に、できる限り栄養面を考慮した彩りのいい料理を詰めていく。
その流れるような手付きに、客あしらいを一段落させた店主は黙って見入っていた。
「美貌と健康のためにも奮発しなきゃな、原価は極力抑えたつもりだけど、どうだ?」
「ああ、上等だ」
「随分美味そうじゃねえの」
「どれ、俺にも味見させてくれ」
いつの間にかカウンター越しに客が覗き込んでいて、それに気付いたサンジがうがあと蹴散らしに掛かる。
「これは麗しのお姉様方の夕食だ。むくつけき野郎共が見るな、腐る」
「なにが麗しのだ」
「兄ちゃん、女に幻想持ってちゃいけねえぜ」
うっせえよと乱暴に返して、いそいそと折詰を包み始めた。
この勢いで届けに飛び出しそうで、店主が慌てて口を挟む。
「いつも決まった時間に向こうから取りに来るんだ」
だから置いておけとの言葉に、サンジはあからさまに落胆した。
「お届けついでにお話を・・・と思ったのにー」
「茶あ引いてんのはお互い様だったろうにな」
「そうでもねえな、今日はこっちは大忙しだったじゃねえか」
茶々を入れる客を追い払うように手を振り、肩を竦めて煙草に火を点けた。
「用意しておけば、その内来るさ」
言ってる傍から、裏口の戸を叩く小さなノックの音が聞こえた。
お!とすぐさま姿勢を正すサンジの肘を客がカウンター越しに強く引いて、有無を言わさず座り直させる。
「あんだよ」
「しっ」
無口な店主が裏口の鍵を開けると同時に、扉が開いた。

「こんばんは」
おずおずと顔を出したのは、まだ幼さが残る少女のような女性だ。
ぱっと見た限りでは、とても娼館からの使いには見えないだろう。
けれどよく見れば口端が腫れているし、着ている服は派手な色味で胸元は大きく開いている。
更にそこに破れ目を見つけ、サンジは遠目からも瞳を眇めた。
「今夜の分は、これだから」
店主はいつも以上にボソボソと声を低め、大きなガタイを縮めるように猫背になって娘に折詰を渡している。
「少し重いよ」
「大丈夫です、いつもありがとうございます」
礼を言って頭を下げた拍子に、開いた胸元から下着が丸見えになった。
背後でひょ〜と鼻息を立てる客の頭を振り返りもしないで叩き、サンジはますます剣呑な表情で二人を見つめた。
「あの、明日はもう一人分、増やしていただけますか?」
「わかった。あ、ちょっと待って」
扉を閉めようとする少女を制し、店主はのそのそと引き出しを開け中から花柄のスカーフを取り出した。
「おふくろの、形見なんだけど」
そう言いながら、荷物で両手いっぱいになっている少女の肩に大判のスカーフを羽織らせ、不器用な手付きで前を結んだ。
「ありがとうございます」
少しはにかんで笑った少女に、可憐な小花柄のスカーフがよく映える。
「それじゃ」
再び扉を閉める少女を見送ってから、店主は黙って裏口の鍵を掛けた。
心持ち肩を落として振り返り、厨房に戻りながらふと顔を上げて、こちらをじっと見つめているサンジと他客2人に気付く。
なんだよと言いたげな目線のまま、無口な店主は一言も発さずまた仕事に戻った。



「随分可憐なお嬢さんだったけど、彼女も・・・なのか?」
「いやあ、あの子は館主の親戚の子でね」
「身寄りがなくなってこの島に来たんだが、ほとんど下働きみたいなもんで」
「主も客を取らせたくはねえようだが、それも時間の問題だろうなあ」
ろくに着る服もないから、商売用のお古でも着ているのだろうか。
笑えば花が綻ぶような可愛らしい少女だったのに、切れて腫れた口元の痣が痛々しかった。
それに気付いていながら、労わりの言葉一つ言えない店主の不器用さもまたもどかしい。

「ふうん」
サンジは思案げに目を細め、ぷかりと鼻から煙を吐いた。




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