堕天使


用件のみを口にして行くつもりだった。
海を眺めてTS号のシンボルマークに腰掛ける船長の背中から視線を外してきびすを返すと、甲板で朝食後のお茶を楽しんでいた筈の女性陣が階段の手摺に凭れて立っていた。
物言いたげな様子は察する事が出来たが、その内容も容易に想像出来ただけに敢えて視線は合わせなかった。
完全に無視して通り過ぎた事で敏感な彼女達だ、こちらの心境が通じただろうに。
やはり、そう簡単には見逃しては貰えないらしい。
視界の端から外れそうになるかならないかで小さな声が耳に届いた。

「私たちは何もしてないわよ。ねぇ、ロビン。」
「そうね。あくまで『私たちは』だけれど。それが気にいらないんでしょ、ゾロ?」
「…………………。」

無言で視線だけを滑らせると、ナミは目を閉じて呆れた風に『悪魔ね。』と言いながら両肩を上げ、ロビンは同調するようにしたり顔で微笑む。
それを了承と自分勝手に決め、彼女達の脇を通り過ぎ、階段へと足を下ろした。
そんな自分の背中に名を呼ぶ船長の声が届く。
少し遠く聞こえるのは、多分ルフィもこちらに顔を向けていないのだろう。
彼らしい潔さにクッと小さく笑いながらも、視線は後部甲板に向けたまま足を止めた。

「いい加減腹括れよ、ゾロ。この船の面子、頑固者だらけだって分かってんだろ?」
「それを言うならお互い様だ。オレは絶対譲れねぇ。」
「ふぅん…………ま、確かに可能性で言ったらゾロのが無理だな。」
「分かってんじゃねぇか。じゃあ行くぜ。」
カツカツと階段を下り、甲板脇の手摺りに手を掛けてヒョイと体を浮かせると、寄航していた島に一気に飛び降りた。

晴れ渡った春島の空。
カモメが陸から海へと飛んでいくのを見上げて、自分とは逆だなぁと思いつつ、歩を進めようと足を上げた。
その時、トンと軽い音が背後でして、船長が降り立ったのを感じた。
「ナミから伝言だ。迷子になんなよ、これはタイミングが大事だからってさ。」
「納得いかないが………了解した、船長!」

背中を向けたまま、今度は足を止めずに軽く右手を上げて歩みを進める。
ふわりと春の萌えるような草いきれを感じて、ゾロは自分の心の中の靄が少しだけ晴れるのを感じた。




あれから何ヶ月経ったろうか。
もうそろそろ会えてもいい筈だろうにと思い始めていた。

やはり別れ際のルフィが言っていたように、ナミが心配していたように、自分は迷子になったのだろうか?との考えが頭を過ぎったが。
いやいやそんな筈は無いと考え直す。
この危険極まりないグランドライン、自分1人で筏作って渡ろうなんて無謀な事はしてこなかったし、せずに済んだ。
名が売れていた事もあるのだろうが、用心棒の口は引く手数多だったからだ。
商船・海賊船・時には辺境の海軍と何隻もの船を乗り継いで、グランドラインを渡ってきた。
だが、世界一とうたってもいいだろう航海士が乗るTS号だ。
追い付く事は容易ではないらしいと、ゾロが苦笑していた矢先だった。

ログが溜まるのに時間が掛かる島なのか、商船に乗り込んで辿り着いた島。
港とは反対側の絶壁下に見慣れた麦藁髑髏を見つけて、ゾロはニマリと笑みを浮かべる。
そして、先程通ってきた歓楽街へと足を向けたのだった。




直ぐに着くと思っていた通りは思っていたよりも遠く、昼には着くだろうと考えていたのに、既に通りの周囲は真っ暗闇。
そんな漆黒の中、その通りは眩しいネオンと紫煙に包まれ、妖艶な雰囲気を醸し出していた。
彼方此方から掛かる声に適当に相手をしていると、ある一角からその場に不似合いな物騒な気を感じる。

――――来たか。

心の中で愉快そうに呟くと、顔には出さず、その一角を通り過ぎる。
そして、次に声を掛けてきたブロンドの女の前で立ち止まり、その括れた腰に手を当て、案内されるままに1軒の娼館の前へと進む。
その館のドアの取っ手を握った時だった。

バンと大きな音がして、その扉が揺れる。
ゾロが手にしたノブの上に白い筋張った手が置かれていたのだ。

「無視すんじゃねぇぞ、ゾロ!」
息を切らし、それ以上にキレている声がして、ゾロは手をそのままに振り向いた。
案の定、その辺の雑魚が目にしたら後退りするか、その場から動けなくなるような殺気を身に纏った男がそこに居た。
「ああ、コック、てめぇか?オレに何か用か?」
「………『何か、用か?』だと?!!!巫山戯んなっ!!!」
ゾロの胸倉を掴み上げ、怒鳴り付けるサンジに、通りの先程までの妖艶な雰囲気は吹き飛んだ。
シーンと静まり返る周囲の中、サンジの余りの気迫に、ゾロの隣に居た娼婦がへたり込む。
それを見下ろし、ゾロはへっと笑うと、女に向かってニコリとその場に不釣合いな笑みを浮かべた。
「悪ぃな、姐さん。今どうやらゆっくり出来ねぇみてぇだ。」
コクコクと壊れた人形のように頷く女にもう一度笑うと、サンジに向かってゾロが言う。
「で?オレにどうしろって?」
「…………コッチ来い!!聞きてぇ事がある!!!」
「へぇ…………行ってやるからには何か見返りがあるんだろうな?」
「っ!!!………とにかく来いっ!!!」

胸倉を掴んでいたサンジの手が、ゾロの右手首を掴む。
その手が異様に熱い事に、ゾロはしてやったりとほくそ笑む。

――――だが、まだまだだ。

前だけ向いて歩くサンジに自分の顔が見えなかった事を幸運に思いながら、ゾロは引き摺られるままにサンジに付いて行った。




周囲に灯りなど1つも無く、唯一の光源は下弦の月のみ。
振り返れば、遠くに先程まで居た通りの厭らしいネオンが瞬いて見えた。
そんな小高い丘の天辺まで来て、サンジは漸く歩みを止め、ゾロへと振り返る。
月明かりのせいだけではないだろう、サンジの顔は青褪めている。
今のところ、ゾロの想定通りだ。

だから、ゾロはロの手首を掴んだままのサンジの手を振り払ってみせる。
そして、敢えて興味無さそうにふぅと小さく溜息を吐くと、手をプラプラと振りながら口を開いた。

「で?」
「……………………。」
「お楽しみのところを邪魔しに来たんだろ?ここまで来て、用が無ぇたぁ言わせねぇぞ。」
「……………………。」
「時間の無駄だな。言いたい事が無ぇならオレは戻るぜ。」

グッと足元の草を踏み躙り、ザッと音を立ててサンジに背を向ける。
1歩、2歩、3歩。
背後の気配は未だ怒りに満ちている。
4歩、5歩、6歩。
少し遠くなったが、未だその気配は変らない。
7歩、8歩、9歩。
薄くなりゆく気配が徐々に変り始めたものの、近付いてくる様子は無い。
10歩、11歩、そして12歩。
まだまだだったなと思いつつ13歩目を踏み出した時、すぅっと大きく息を飲み込む気配を感じた。
そして、ガサガサっと草を踏み、此方へと駆け寄るのを。

サンジの手がゾロの前に回ったのは、ゾロが13歩目の足を地面に付けるか付けないかという時だった。
行かせまいとぎゅっと抱き付くサンジに、ゾロは笑いを堪えなければならなかった。

――――まだ、だ。まだまだ足りねぇ。

そのまま動かず、背中を向けたままサンジのするがままにしていたが、何も口にしないサンジに焦れる。
焦れて、それでもここで自分が動いては何にもならないとゾロは只管耐える。
そして、もう限界だと思った時だった。
サンジがゾロの耳元で堰を切ったように呟いたのだ。

「行くなっ!」
「………………。」
「てめぇが男で、オレも男で……普通考えたら女相手にするのが当たり前だって、そんな事ぁ分かってる。分かっちゃいるが、オレは……オレはもう、てめぇじゃなきゃ駄目なんだ。」
「…………へぇ、そりゃ初耳だな。」
「てめぇが出てって気付いた。惰性で日々こなしてきたが、何も手に付かねぇたぁこの事だ。てめぇの事忘れようったって忘れられなかった。時折チラつくてめぇの気配が堪んねぇんだよ!!」
「ふぅん………で、こんなんなってるわけか?」

左手をサンジと自分の間に差し入れて、サンジの股間を撫で上げる。
突然の刺激に驚いたのか、クゥンと子犬が啼くような声をサンジが上げる。
腕の力が抜けて、それに乗じてゾロが振り返る。

――――こっからが大事だ!!

先程よりも赤みを増した頬に手を当て、ゾロはサンジと額を視線を合わせて言う。
「ナミとロビンは?」
「え?」
「女共はどこに居る?」
「…………今日はルフィと一緒に船番で、多分船に……。」
「なら、その船の中央甲板で、オレに足開けるか?」
「っ?!!!!!!」

愕然と目を見開いてゾロを見つめるサンジに、ゾロは最後通牒を突き付ける。
「それが出来ねぇなら、てめぇとはもう仕舞いだ。」
「……………………。」

額を離し、頬に当てていた手でサンジを少し押すようにして離れ、ゾロは少し仰け反ってサンジを見つめる。
月はゾロの背後で、多分サンジにはちゃんとゾロの表情が見えていないだろう。
それだけに、ゾロははっきりと顔に出す、『してやったり』という感情を。
何故なら、月明かりの中、サンジの顔は少し安堵と喜びを表していたからだ。

そして、サンジは小さな声で「……分かった。」と呟き、小さく頷く。
一旦ゾロに背を向け、一歩踏み出してから、後ろを振り向いて顎をしゃくる。
それに促されるように、ゾロは足を動かす。
態と一定の距離を保ち、時折サンジが振り返るのを確認しながら。




辿り着いたTS号のキッチンからは煌々と灯りが洩れていた。
それを見たサンジの横顔は、始めためらいが窺えた。
多分船を出てきた時に、キッチンで女性陣に茶でも振舞ってきたのだろう。
あの環境下でゾロに対し身体を預ける事が、サンジにとってどれ程の事か、ゾロは分かっている。
分かっているからこその要求だ。
それこそ、願ったり叶ったりだ。
そうでなくては、ここまでした意味が無い。

だが、ゾロは気付いてもいた――――船は無人だと。

サンジは一杯一杯で気付いていないのだろうが、2人で船を見下ろす背後に3人の気配がする。
恐らくルフィが気付いて、彼女達を連れ出したのだろう。
自分もそこまで野暮では無いし、何よりアノ時のサンジを他の人間に見せる等以ての外だ。
そんなゾロの心情に気付いている女共と、感で動いている船長には本当に恐れ入る。
意を決したのか、先に甲板に飛び降りるサンジを見送ってから、ゾロは後ろを振り返る事無く軽く右手を上げる。

「もう巻き込まないでよ、ゾロ。」
「それはアイツに言ってくれ。」
「相手の全てを受け入れるのも『愛情』じゃなくて?」
「そりゃオレには無理だ。全てがオレのもんじゃなきゃ気が済まねぇ。」
ゾロの返答の直後、又しても『やっぱり悪魔ね。』と呆れたような呟きとくすくすと同調するような笑う声がする。
その上に、快活な船長の声がした。

「じゃ、行くけどよ、ゾロ。」
「おう。」
「サンジの事、もう苛めんなよ。」
「絶対たぁ言えないが………了解した、船長!」

そう言いながら下を見ると、不安そうに上を見上げる遠くのサンジと目が合い、ゾロはニッと笑う。
そして、ルフィのニシシシシという笑い声と共に崖上の地を蹴った。




ゾロがダンと音を立てて飛び降りると、待っていたかのように飛び込んでくる肢体。
久し振りに感じるサンジに、ゾロは思い通りに運んだ事態に満足を覚える。

自分が悪魔ならば、本能の赴くままに悪魔で居てやろう。
船上の、誰からも好かれる金髪碧眼の天使が、今宵から自分だけの物になるのだ。

そう、正に自分のところまで堕ちてきた天使。
その堕天使の心地好い感触にゾロはほくそ笑みながら、その聖なる唇を乱暴に貪った。


END



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