牡丹恋歌 -3-



そして大江戸――――
どこから上京したのか、一組の若夫婦が「長崎屋」という回船問屋を開いた。
小さいながらも商売は繁盛し、あれよあれよという間に店を広げ、いつしか町の大店として名が通るようになる。
若夫婦は仲睦まじく実直に働いたが、添って五年後に一人娘に恵まれた。
妊娠したと知った時の女将の驚きようは尋常でなく、隣近所からの祝いの言葉にも目を白黒させていたほどだ。
長い人生、たまには信じられない奇跡もあるというもの。

おたえと名づけられたその娘は、やがて江戸一番の弁天様と呼ばれるほど美しく成長し、年頃になり婿を取った。
これで長崎屋も安泰かと思われたが、若夫婦にはなかなか子宝に恵まれなかった。
ようやく授かった一人息子は三日と生きずに亡くなり、一家は悲嘆に暮れ、ついでに娘婿の隠し子騒動で揺れた後、更なる悲劇が長崎屋を襲った。
大女将としてすべてを取り仕切っていた「おさん」が、突然この世を去ったのだ。
年齢を感じさせない若さと気風のよさ、そして美しさで長崎屋を切り盛りしていた大女将の死は、店や家族に大打撃を与えた。
火の消えたような寂しい雰囲気の中にあって、長崎屋の主人ゾロだけはいつも矍鑠として、妻の死を悼む素振りも見せず飄々と暮らしている。

そしてようやく長崎屋に訪れた春―――
おたえが玉のような男の子を出産した。












紅の夕暮れが、障子に長い影を落としている。
庭からは、楽しげに笑う孫の声。
身体の弱い子だが、しっかりとした兄やたちに見守られ、優しく育っている。
これでもう思い残すことはないなと、ゾロは床に横たわったまま、静かに目を閉じた。

「お父上、おやすみですか?」
おたえの声が耳に心地よい。
薄く目を開けると、おさんによく面差しの、愛しい娘が穏やかに微笑んでいる。
「うむ、温めの白湯を持ってきてくれるか」
「かしこまりました」
しとやかに頭を下げ、音を立てずに部屋を出て行く。
その後ろ姿を見送って、ゾロはまた目を閉じた。
枕元に、愛しい者の気配を感じる。


「そこまで老いぼれたてめえを見るのは初めてだな」
声が中空から浮いて聞こえた。
「俺も、ここまで生きたのは初めてだったな」
目を閉じたまま笑いを漏らし、ゾロは深く息をついた。
「だがもうそろそろだ。思えば良い人生だった」
「ゾロ」
目を開き、唇に笑みを湛える。
初めて出会った時と同じ、愛しい金色の妖が傍らに座っている。

「荼吉尼天様は、よくしてくださるか」
「ああ、良い方にお仕えできた。一太郎も授かったし、人の世で暮らすより俺には性が合っている」
「おたえは・・・」
「藤兵衛がついているから安心だろう。ちょっとばかし考えの足らない大馬鹿者だが、 おたえを思う気持ちは本物だ」
「一太郎は」
「あればかりはどうにも危なっかしいが、仁吉と佐助がついているから大丈夫だろうよ。俺も時折様子を見に来る」
「そうか・・・」

もう何も遣り残したことはないのだ。
サンジと出会い、すべてを捨てて江戸まで出てきた。
店を構え、驚いたことに子まで授かり、跡取りもできた。
もはや、この生に何の未練もない。

「また、しばしの別れ・・・だな」
「ゾロ・・・」
サンジが、布団の中に手を差し入れ、枯れ枝のようなゾロの腕を掴んだ。
「荼吉尼天様が、庭番を探しておられる」
「・・・・・・」
「なにせ広いお庭でな、四季を問わず花が咲き乱れ、樹々が繁る美しい庭だ。だが、時折小鬼や邪気どもが入り込んでは悪さをして、困っておられる」
ゾロは目を閉じたまま、耳を傾けている。
「それらを見つけては懲らしめ、追い出してくれぬか」
ゾロの口元が、ふっと笑いの形に歪んだ。
「小鬼と言っても六尺は背丈がある。邪気など気配だけで本体を持たぬ。なかなか手ごわいものどもよ」
「退治し甲斐があると、言うもの」
「ゾロ・・・」
「・・・うむ」














「失礼いたします」
ひざまずき、両手で障子を静かに開けておたえが顔を覗かせる。
「お父上、白湯をお持ちしました」
応えはない。
ゾロは先ほどと同じ寝姿で、布団の中に横たわっている。
穏やかな表情で目を瞑る姿に、おたえは目を細めた。
「よく、お休みですか?」

布団からはみ出た指先に、そっと触れる。
おたえは後ろに控えていた女中を振り返った。
女中は顔色を変えてさっと立ち上がり、廊下を早足で走り去った。
「お医者様!源信様をっ」
俄かに慌しくなった長崎屋の屋敷の中で、おたえはゾロの枕元に正座し、開け放たれた障子の向こうを静かに見やった。











おさんの血を引くおたえの目には、はっきりと映っている。

紅に染まる雲の向こう
若い姿のゾロとサンジが、共に手を携え――――





微笑みながら消えて逝った




END


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