Bird cage



真っ白なシーツの上に、緑の産毛がぽわぽわと立っている。
よくわからないが皆に言わせれば俺に生き写しらしい、赤い猿みたいなしわくちゃな顔が一丁前にあくびをした。
それを見たら、不意に奴の顔が浮かんだ。
これを見たら、めちゃくちゃ喜びそうだと思ったら見せたくなった。
そう思って初めて、もう随分奴の部屋に行ってないことに改めて気付く。


壁も床も天井も白に囲まれた監獄のような病室の中で、まるで骸骨みたいに痩せこけた親父は、それでも喜色を満面に浮かべて小さく弱々しい孫に目を細めていた。
これで、俺の役目も殆ど終わったようなものだ。
これからたしぎは子供を連れて、1月ばかり実家で過ごす。
車で送って行ったら、帰りに奴の部屋に久しぶりに寄ろうか。
いい思い付きだと鼻歌の一つも歌いながら、俺はハンドルを切った。




足は勝手に通い慣れた部屋の前で止まる。
合鍵を取り出し鍵穴に差し込んでも、手応えはなかった。
―――――壊れたか?
折り曲げたりしただろうか。
鍵に異常がないのを確認して、改めてドアを見る。
表札なんか出ていないが、確かこの番号だった。
階を間違えた訳でもない。
もう一度まっすぐ鍵穴に刺し込もうとして、雀みたいに喋りながら近付いてくる女の集団に気付いた。

何気なくそっちを向いて、その中の一人と目が合う。
そいつは「あ」とあからさまに声を上げて立ち止まり、俺を睨んだ。
見覚えのない女に睨まれる筋合いはないから、俺も思わず睨み返す。
友人らしい女たちも立ち止まり戸惑ったように俺と女の顔を見比べていた。

「いませんよ、引越しされましたから。」
つっけんどんな言い方よりも、その台詞に驚いた。
「引っ越した、だと?」
俺に挑むみたいに女は腕を組んで胸を逸らす。
「もう1月ほど前になりますよ。知らなかったんですか?」
「どこにだ?」
「知りません。」
つんと顔を背けて俺の前を通り過ぎる。
それ以上追求せず黙った俺に、きっと振り返った。

「だって、あなたもう3ヶ月近くここに来てなかったですものね。」
捨て台詞のようにそう呟いて、隣の部屋に入っていった。
連れの女達も訳がわからないまま首を竦めて部屋の中に吸い込まれるように消えて行く。
俺は一人その場に立ち竦み、もう一度奴がいた筈の部屋のドアを眺めてポケットの中の合鍵を握り締めた。

引っ越した、だと――――
俺に黙って――――
一気に頭に血が上り、俺は階下の管理人へ向かって駆け出した。




「いい加減にしてください、警察を呼びますよ。」
引越し先など知らないと突っぱねる管理人に食い下がったら、声を荒げてそう言い返された。
そこまで言われては引き下がざるを得ない。
俺はジャケットのポケットに手を突っ込んで、舌打ちを残しアパートを出た。

あいつが、いなくなった。
1月前だと?
確かに最後に奴の部屋に行ってから3ヶ月くらい経っているかもしれない。
結婚してすぐたしぎの妊娠がわかり、危篤状態だった親父が持ち直した。
驚異的な回復力を見せて一般病室に戻った親父を見舞いながら道場を切り盛りし、そうしている内に今度はたしぎが切迫流産になって入院して、無事産まれるまですったもんだだ。
3ヶ月も、経ってたのかよ。

最後に見たあいつと何を話したかなんて覚えていない。
何を食ったかも定かではない。
ちょっと乱暴に扱いすぎて蹴られたかなとか、その程度だ。

たしぎが入院したことは、話したっけか。
親父が持ち直したことも…
俺は車に乗ってハンドルに手をかけ途方に暮れた。

唯一の連絡手段である携帯にかけても、コール音が鳴るだけで出やしない。
奴はどこに行ったのか。
探す手立てもない。
共通の友人は高校ん時の同級生だけだ。
少なくとも俺には殆ど付き合いがない。
なんとかって学校に通ってたはずだが、もうとっくに卒業してるだろう。
あいつ、就職したんだろうか。

あんなにも長く傍にいて、奴のことを何一つ知らなかったことに改めて気付く。
あいつがどこに勤めていて、誰と親しくて、何が好きで、どんなことを思って俺と付き合っていたのか。
何一つ。
俺は当ても無いまま車を走らせた。



信号を渡る人波、行き交う見知らぬ他人の群れ、洪水のような車の列。
この街だけでもこんなに広い。
俺に何一つ告げず姿を消したあいつを、再び見つけるなんて不可能に近いだろう。

―――逃げた。
奴は、俺から逃げたんだ。
行き先も告げず、黙って行方を眩ました。
携帯に出ないってことは、俺を避けてるんだろう。

逃がすかよ。
胸の内を嵐のようにどす黒い感情が渦巻いた。

俺から逃げられると思うなよ。
許さないと言った筈だ。
身勝手でも横暴でも、俺は奴を手放さないと言った筈だ。
それでも俺から逃げたってんなら、これは裏切りだ。
許さねえ。
俺は乱暴にハンドルを切り、唯一の手がかりに向かって車を走らせた。





数年前に一度名を聞いたきりの学校の前に立つ。
奴は料理を天職のように言ってたから、きっとここは卒業しているだろう。
ならまだ後輩がいる筈だ。
門に立つ俺の姿が珍しいのか、出てくる奴らは皆こっちを見るような見ないような微妙な素振りで通り過ぎようとする。
俺はそいつらを一々捕まえて、奴のことを聞いた。

今年卒業しただろう金髪の変な眉毛と言うだけで、話は通じるようだ。
やはり学校でも目立っていたらしい。
奴のことは知っていても就職先までは誰も知らない。
いよいよ学校に乗り込んで教師を問い質すべきかと思い始めた頃、親しかったという後輩を捕まえることができた。

「サンジさんなら、2丁目のレストランに就職決まったって聞きましたよ。」
田舎から出てきたばかりって感じの純朴そうな男だ。
まだあどけなさが残るような童顔で、だが俺の顔を正面から見上げてくる。
「あんたサンジさんの連れの人、だね。」
連れ、という言い方に驚いた。
奴は、俺のことを他人に話したりしてたんだろうか。

「いえね、一度酔っ払ったときに愚痴みたいに聞いたことあるんすよ。友人でもないのに離れ難い連れがいるって。」
その言い方はどこか面映い。
俺がなんとも返せないでいると、その男もどこか挑むように口元を引き締めた。
「そんなあんたに、サンジさんは何も言わないでどっか行っちまったんですか。」
言外に逃げられた、と言われた気がした。
なんとなくむっとして、レストランの名前まで強引に聞き出す。
短く礼を言ってそこから離れた。

奴が俺のことを他人に話していたことが、新鮮な驚きだ。
だが、悪い気はしない。
翻って自分はどうか。
俺は奴のことを、たしぎにだって話したことはない。
一度、友人として紹介したきりだ。



レストランはすぐに見つかった。
なるべく事を荒立てないようにと、気を引き締めて店に入る。
客として案内される前にすぐに店員に尋ねたら、生憎今日は休みだという。
アパートの管理人との件もあったので、俺は慎重に理由をでっち上げた。
今度同窓会を開くのだが、彼だけが連絡が取れない。
ここで見かけたと聞いたから一応尋ねに来てみた。
同級生であることを強調してそれとなく住所を聞き出したら、あっさりと教えてくれた。

俺の家の、目と鼻の先だ。
なんでも老夫婦と親しくなって、その家を譲り受けただと。
なんてこった、その白い洋館なら俺も知っている。
灯台元暗しとはこのことかと思いつつ、俺は店を後にした。


奴は、俺のすぐ傍にいた。
1月も前から、黙ってそこにいたってのか?
車を走らせているうちに、ぽつぽつとフロントガラスにしずくが落ちて来た。
それはやがて雨となって行く手を濡らす。
俺は見慣れた街並みを抜け、自分の家に車を止めた。
奴が住むという洋館まで、歩いても5分とかからない。


俺は傘も差さずゆっくりと踏みしめるように雨に煙るアスファルトを歩いていく。
以前から誰か住んでいるかどうかも怪しい寂れた家だった。
荒れていた庭は、少し手入れがされたらしい。
むき出しの土の中で、植えられたばかりらしい小さな苗が雨に打たれて横たわっている。
ペンキの剥げたドアに鍵はかかっていなかった。
扉を開けて、靴も脱がずに中に入る。
玄関から真っ直ぐに抜けるフロア。
閑散としたその空間の先に、台所へと続く扉は開け放たれていた。

大理石のでかいテーブルの上に、金色の髪が散っている。
両手を投げ出して突っ伏した身体はぺたんこで、テーブルと一体化しているようにも見えた。
足音を立てて大股で近付いても、身体を起こそうとはしない。
よくみればこちらに首を傾け、長い前髪の間から見つめる瞳と目が合った。
白い顔が白いままに、笑みを浮かべる。
俺は雨の雫を滴らせてそいつの前に立った。
見上げる奴の瞳が、喜悦に歪んでいるような気がした。

「俺は―――」
ぽたりと、雫がテーブルに落ちる。

「てめえのこと、何も知らなかった。」
流れ落ちる水滴が雨なのか汗なのかはわからない。
「てめえがどこに住んでて、誰と親しくて、何が好きで、いつ泣いてるのか―――」
何も、知らなかった。
知ろうとしなかった。
奴の目が優しく微笑む。

「知らなくていい。」
乾いた唇から懐かしい音が響く。
「てめえは俺のこと、知らなくていい。俺のどこが感じるとか、どうすれば啼くとか、キスが好きだとか、そのことだけを知ってればいい。」
ゆらりと、身体を傾げながら身を起こした。
「それを知ってるのはてえめえだけだから。」
妖艶とも言える笑みでそう言われて、俺は身の内から迸る感情に目が眩みそうになった。


うつ伏せたままだらりと伸ばした両手を掴み、乱暴にテーブルの上に引き倒した。
椅子が音を立てて倒れたが俺もこいつも頓着しない。
一枚纏ったきりのシャツを引き裂くように剥いでそれで両手を戒めた。
サンジは初めて嫌がる素振りを見せて俺に膝を当ててくる。
「嫌なんだろう。」
俺は殊更冷酷に言った。
「てめえは腕縛られるの嫌がるもんな、知ってるよ。だからやってんだ。」

薄い腹に拳を入れて、俺はサンジの長い手足をテーブルの上に固定した。
愛用しているオリーブオイルをふんだんに使って、ケツを解した。
きちんと整頓された抽斗から使い慣れている麺棒を取り出し、それで奴を穿つ。
自分が最も大切にしている商売道具をプレイに使われるなんて、最低最悪な屈辱だろう。
それがわかってて、最高に嫌がることを俺は実行した。

サンジは案の定怒り狂い泣き喚いて、しまいには許しを乞うた。
それでも俺は許さなかった。
嫌がり打ち振る首元に包丁を突き立て、起立したペニスの根元を押さえて麺棒で何度も前立腺を擦り上げ射精を促す。
白い露が浮かんだ先端を指で抉じ開け箸を突き入れてやれば、サンジは悲鳴を上げながら射精せずにイってしまった。

まだ細かく痙攣を続ける身体の中から、勢いよく麺棒を引き抜く。
その刺激だけで小さく射精して、サンジは涙交じりで呻いた。
「…こんなもんで、イくんじゃねえよ。」
濡れた麺棒を見せ付けるように鼻先につきつけてから、俺はそれを床に叩きつけた。
どこか壊れる音を立てて、ごろごろと床の上を転がっていく。

「てめえをイかすのは、これだけだ、なあ。」
十分に怒張したペニスを取り出せば、サンジはテーブルの上に戒められたまま、俺に向かって舌を突き出した。

ああ、お前はこれが好きな筈だ。
お前の好きなものは何だって知っている。
どこを攻められれば啼くかも、どうされれば悦ぶのかも、すべて―――

俺はサンジの戒めを外し、両手で抱き締めながら熱い身体の中に全てを埋め込んだ。




親父の葬式が終わり、広い屋敷は俺たち親子だけの暮らしになった。
小さい子供がいるだけで、家自体が随分賑やかになるようだ。
たしぎは広いから掃除が大変だとぼやいている。

俺に似てよく眠る子供を抱いて、たしぎは熱心に本を読んでいる。
俺はジャケットを羽織りながら声を掛けた。
「ちょっと飲みに行ってくる。」
「ああ、はい。気をつけて。」
こんな夜更けにどこまでなんて問い質さずに、素直に送り出してくれるたしぎの顔をじっと見て、
俺は徐にその唇に口付けた。
「!…なにするんですか!」
たしぎは真っ赤になって俺の肩を軽く叩いた。
そんな仕種が愛おしいと思う。

「行ってくる。」
よく眠る子供の額をそうっと撫でて、俺は我が家を後にした。



友人でもない、恋人でもない。
大切でも守るべきものでもない、だが離れ難い
誰よりも深い


おそらくは―――

終の番いの元へ


END

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