■泡ぶく言の葉


ポカポカと、麗らかな日差しが降り注ぐ昼下がり。
凪いだ海に釣り糸を垂れ、ルフィ達が釣果を競っている。
ナミとロビンはそれぞれデッキチェアに寝そべって、読書と株価の動向を確認中だ。
一通り鍛錬を終えたゾロは、マストに凭れてウトウトと舟を漕いでいた。
そこに、イワトビウオの群れが銀鱗を輝かせながら通り過ぎる。

「ルフィ―!獲物だっ」
「うほ〜、捕まえろっ」
数は多いが一匹一匹が実に素早く、網の目のように繰り出されるルフィの拳をことごとく避けてサニー号を飛び越えていく。
その内の一匹が、ルフィの肘に当たって跳ねた。
甲板に飛び込んでゾロの膝の上でバウンドする。
「ん?」
尾鰭を広げてその場でピョンとジャンプしたトビウオが、寝ぼけたゾロの唇にぶつかるようにして口先をくっ付け、そのまま身を翻して海へと落ちた。
「あー逃げたー」
「ありゃあ小さいから食いでがねえよ、もっとでけえの狙おうぜ」
思わぬことで昼寝から目覚めさせられたゾロは、いましがた見た光景を思い出し、訝りながら首を捻る。
膝から飛び退さる刹那、トビウオがニヤリと笑った気がしたのだ。



異変に気付いたのは、それからすぐ後のことだった。
「おやつだぞー」との一声で、ルフィが反射的にラウンジに飛び込んで即座に蹴り出された。
ウソップとチョッパーが手伝うために、蹴り出されたルフィと入れ替わるようにしてキッチンに向かう。
フランキーとブルックが場所を整え、ナミとロビンは寝そべっていた身体を起こした。
「ナミすわん、ロビンちゅわん!今日はふんわりサクッと色々味のシュークリームだよ〜」
両手と頭の上にトレイを乗せたサンジが、相変わらずアホの子みたいな緩みきった笑顔で颯爽と現れる。
ナミとロビンに恭しくデザートプレートを捧げた後、マストに凭れてぼうっと見ているゾロを振り返った。
「クソ緑、おやつだって言ってんだろ。とっとと手え洗ってこい」
―――んだと、ヒヨコ頭が偉そうに。
そう言い返すつもりが、できなかった。
口はパクパクと動いたのに、声が出てこない。
「あんだァ、ふざけてんのかてめえ」
ゾロの様子にサンジは即座に気付き、ガン付けながら踏み出して額を付ける。
「言いてえことがあんなら、とっとと言え!」
「―――…」
ゾロも額でサンジを押し返しながら、異常事態に戸惑っていた。
「なにやってんの、あんた達」
ナミの呆れた声にサンジはすぐさま振り返って、よそ見したままゾロを指差した。
「だってナミさん、こいつがふざけてやがんだよ。金魚みてえに口パクパクさせてさ」
―――あんだと、この野郎!
頭に血が上って、目の前で指し示す手首をガシッと掴んだ。
サンジが驚いて、弾かれたように振り向く。
喧嘩をするときも手を出すときも、言い合いの末に行動に移すパターンばかりだったから、無言の反撃にぎょっとしたらしい。
ゾロも、そんなサンジの反応に戸惑って動きを止めた。
「…どうしたの?」
さすがにナミも異常に気付き、トーンが下がった声におやつをパクつくことに夢中になっていた仲間達も振り返る。
「だから、言いたいことがあるなら言えって!」
イラつくサンジを前にして、ゾロは自分の口を自ら指差した。
そうして、意識して大き目に口を開け閉めする。
「…もしかして、喋れないの?」
ナミの指摘に、ゾロは眉間に皺を寄せたまま頷いた。

「それを早く言え!」
サンジが掴まれたままの手首を振りほどき様、向う脛を蹴った。
ゾロは顔を顰め、なにか言い返すように唇を動かしたがまったく声が聞こえない。
「いやだから、喋れないんだろ」
サンジに突っ込みつつ、チョッパーがトテテテと駆け寄ってゾロの顔を覗きこんだ。
「ちょっと見せてくれ。こっち、明るい方を向いて」
おやつタイムが俄かに診察の場となったが、みな呑気なものでモグモグと頬張りながら見学している。
「特に、喉に腫れもないし異常は見つからないな。呼吸も正常だ」
チョッパーは聴診器を外すと、腕を組んでう〜んと唸った。
「なにか、心当たりは?」
そう問いかけるのに、ゾロは無言のままだ。
なにか伝えたくとも声が出ないし、そもそも説明が面倒臭い。
「話せないんでしょう、紙に書いてはどうかしら」
ロビンが気を利かせて、メモとペンを運んできてくれた。
手渡された紙に、ゾロがさらさらとペンを走らせる。
『わからん』
「そんだけかい!」
突っ込んだウソップをジロリと睨むと、すぐさま「いやいやいや〜」と萎れてみせた。
「一番もどかしいのはゾロだもんな、俺らがどうこう言ったって仕方ねえし」
「血液検査もしてみるから、とりあえず結果待ちで様子を見よう」
チョッパーがそう言い、じゃあそういうことで・・・と各々が持ち場に戻る。
綺麗に食べ尽くされた皿やカップを一か所に集め、サンジは一人前だけ残されていたトレイをゾロの前に置いた。
「声が出なくったってモノは食えるんだろうが。とっとと食え、片付かねえ」
ずいっと目の前にシュークリームを差し出され、ゾロは眉間に皺を寄せたまま仕方なそうに受け取った。
一口で頬張って、モグモグゴクンと飲み込んでコーヒーも飲み干す。
それから一瞬サンジを見上げ、両手を合わせて軽く会釈した。
「・・・ふん」
いつも食べた後は知らん顔してるくせに、声が出ないと殊勝なもんだ。
そう嫌味の一つも言ってやりたかったが、どうせ言い返して来ないと思うとつまらないのでサンジは黙って食器を下げた。



元々ゾロは口数が少ないし、なにか話さないと物事が進まないような用事はない。
少なくとも仲間達の間では、ゾロが話せないことに関してさしたる影響はなかった。
ゾロ自身、喋れないことにストレスを感じることもなく、せっかくロビンが用意してくれたメモ帳一式もあまり活用されていない。
「調子はどう?不便なこととかない?」
チョッパーが医師の立場で気遣うが、それには「問題ない」とジェスチャーで答えた。
「ゾロって必要なこと以外喋らないしな」
「これがサンジ君だったら大変よ、きっと欲求不満溜まっちゃう。本人も周りも」
「あいつはよく喋るし動くし、手も口も忙しいよな」
噂をすれば影と言うべきか、倉庫から食料袋を担いでサンジが現れた。
「あんだてめえら、んなとこで油売ってんならこれ運んでくれよ」
「よし来た」
快く引き受けるフランキーの後ろで、ゾロものっそりと腰を上げる。
「てめえも、声出ねぇだけで具合悪い訳じゃねえだろ、とっととキリキリ働きやがれ」
サンジがゾロの膝裏辺りを蹴ろうとするのに、反射的にはしっと刀で払う。
「あんだぁ、やるってのか?」
煙草を噛みながらネクタイを緩め、サンジが挑発する。
それを、むつっとした表情で流し見るだけでそっぽを向いた。
「てめえ、シカトしてんじゃねえよ!」
食い下がるサンジに、ナミは呆れた声を出した。
「馬鹿ね、いくら無口なゾロって言っても、サンジ君と喧嘩する時はちゃんと言い合いしてたじゃない。それができないから、ゾロもつまんないのよ。あんまり突っかからないであげて」
「ナミすわん・・・」
ナミに窘められ、サンジはショボンと肩を落とした。
「別に、俺が一方的に喧嘩仕掛けてる訳じゃねえし」
「どう見ても一方的ね。違うかもしれないけど、傍から見てるとサンジ君が突っかかってるだけに見えるわよ。なんせ声に出して挑発してるのはサンジ君だけだし」
「そりゃあ、こいつが声出せねえからだろう?」
不満そうに言い返したサンジに、それよとナミは胸を張ってみせる。
「サンジ君だってわかってるじゃない。どうしようもないのはゾロの方なの、こんな時くらい気遣ってあげなさいよ」
暗に諭され、サンジはガビンとショックを受けた。
――――ナミさんに・・・怒られてしまった・・・
床に手を着きがっくりと項垂れるサンジを尻目に、ゾロはそそくさとラウンジを後にする。
下手に関わると、コックにも悪いような気になっていた。



声を出せないというのは、案外と不便なものだ。
さほど不自由がないとはいえ、例えばトレーニングをする時も少し力が入り辛かったり、体感にちぐはぐさを感じたりする。
そんなゾロの様子を、ロビンが鋭く観察して言い添えた。
「動さを始める前にヨッコイショとか、無意識に掛け声をすることがあるでしょう。あれも、口に出すことで身体が身構えたり、体幹が整ったりするのだそうよ。だから、声を出すという行為も侮れないのかもしれないわね」
そんなものかと納得し、自分でも意識しない程度の気鬱さに覆われていることを実感した。
第一、コックが突っかかってこないのだ。
勿論、喧嘩を吹っかけられれば鬱陶しいし、言い返せないのはもどかしい。
だが明らかに避けられると、それはそれで腹立たしかった。
コックに気を遣われるなんて御免だし、どうにも尻の座りが悪くてモゾモゾする。
それもこれも、ナミが余計なことを言うからだ。
―――女になんか言われると、すぐ従いやがって。
結局、サンジに対して苦々しい想いを抱いて、ひたすらに一人でトレーニングを続ける。

人の気配がして、展望室の扉が開いた。
金色の髪がひょこりと覗き、ゾロを見つめて剣呑に目を顰める。
いるのが分かってて来ておいて、なぜ不機嫌な表情を見せるのだろう。
まったく不可解な奴だと、不機嫌になりつつもゾロの方は顔には出さなかった。
無駄に喧嘩を引き起こしても、モヤモヤが募るだけだとわかっている。
サンジの方も嫌味など口に出さず、ほらよと飲み物が入ったピッチャーを置いた。
その傍に添えたのは、手製のかりんとうだ。
ゾロの表情が、僅かに明るくなる。
この菓子は好物だと、サンジは知っていた。

錘を下ろしてタオルで手を拭き、ゾロは早速サンジの前に腰を下ろした。
まずは飲み物で喉を潤してから、カリカリに揚げられたかりんとうを摘まむ。
ポリポリと咀嚼して、思わず知らずニンマリとほほ笑んだ。
「・・・へへ」
釣られたように、サンジにも笑みが広がる。
「お前、それ好きだよな。揚げたてだし、風味も格段と違うだろ」
普段のゾロなら「別に」と素っ気なく返すところだが、今は声も出せないからなぜか素直に態度に表してしまった。
口元を緩めたまま頷き返し、再びかりんとうへと手を伸ばす。
子どものように頬袋を膨らませて、ひたすらモグモグと味わうゾロを満足そうに眺め、サンジは火の点いていない煙草を咥え直した。
「別に、喋れたっててめえが“美味い”とかいうことねえんだけどよ、でもやっぱ、声を失くしてんのはイヤなもんだね」
最後の方は独り言のようで、ゾロは訝しく思いながらもそうっと横目でサンジの表情を盗み見た。
ゾロが聞いているとは思っていないようで、中空に視線を漂わせている。
「いい加減、てめえの声を聴きてえな」
小さな小さな呟きだったが、他に何の音もない空間にその声はすっと通った。
サンジははっとしたように我に返り、慌ててゾロを振り返り首を振った。
「って、いや、別に俺はンなこと全然思ってねえし!」
なにがだ、と突っ込みたいが言えない。
「ってか、てめえいい加減喋れバカ!声ぐらい自力で出せんだろうが、根性見せろこの筋肉マリモ!」
最後は理不尽な八つ当たりまで投げかけて、サンジは赤い顔をしたまま展望室から降りていく。
なんだったんだ・・・と不条理な想いを抱きつつ、ゾロの口元は自然と緩んでしまった。



――――つい、本音を漏らしてしまった。
キッチンに帰り、サンジは今しがた犯した失敗を反芻しては頭を掻き毟り後悔に苛まされていた。
なにもかも、ゾロがいけない。
声が出ないから仕方ないんだけど、いつものからかいも悪態も突っ込みもないからとにかくつまらなくて、物足りなくて、寂しいのだ。
いや、寂しいってなんだよ。
自分で突っ込んで、さらにはわわわわ〜〜〜と頭を抱える。
おかしい、どうにも調子が出ない。
あまつさえ、ゾロの声が聴きたいとか本気で願ってしまっている。
あの声が恋しいだなんて。
例え罵声でも嘲りでも、なんでもいいからゾロの声が聴きたいだなんて。
おかしいだろ、絶対。

「サーンジー!」
「うわあっ?!」
背後からいきなり声を掛けられ、サンジは文字通り飛び上がった。
ルフィがバケツを掲げて、しししと笑う。
「なーんだぁ?どうした」
「いや、なんでもね・・・」
「さっき釣りやっててこいつら釣れたんだ。あんまり小せえと逃がすか?」
バケツの中には小魚が数匹、困ったように泳いでいた。
中身を覗き込みながら受け取る。
「ああ、丸ごと素揚げして甘酢漬けにするといいな」
「うほっ、うまそ〜〜〜」
「預かるぜ、ありがとよ」
頼むなー!と、また元気に飛び出して行ったルフィを見送って、サンジはさてと足元にバケツを置いて腕まくりをする。
「グダグダ考えたって始まらねえや、調理しよ」


『―――モシ』
ふと、足を止めて振り返る。
『モシモシ』
「は?ゾロ?」
一瞬、ゾロの声が聴こえた気がした。
だがキッチンには他に誰もいないし、そもそもゾロは『モシモシ』なんて言わない。
『モシモーシ、アナタ』
「はあ?!」
声がする方を向いたら、バケツだった。
正確にはバケツの中身、魚が一匹水面から顔を上げてパクパクと口を動かしている。
『コエ、モラッタ』
「なんだと?!」
掴み上げようとしたら、ピタンと鰭で叩かれた。
なにせ相手は魚だから、無闇に陸に揚げると死んでしまう。
「お前、その声は・・・ゾロか?」
『コエ、カエス』
魚は瞼のない丸い目をきょろりとサンジに向け、ぎこちない動きで口を動かし続ける。
『コエ、オカゲデ、ツタワッタ。ヒメサマニ、ダイジナコト』
「姫様、だと?声ってことは、人間の姫様か?」
『タスケテクレタ、ヒメサマ。コンドハワタシ、タスケル、タスケタ、ツタワッタ』
どうやら、ゾロの声が役に立ったらしい。
そうして、魚は律儀に声を返しに来たのだ。

「どうやって返すんだ。このままじゃ、お前を食っちまうぜ」
『コノママ、ウミ、ソト、イク』
どうやら外に出せ、と言うことらしい。
この場で掴もうとすると避けて鰭で手を叩くので、サンジはバケツごとキッチンを出て船べりに乗せた。
「んで、どうすんだって?」
両手で掬うように水の中に差し入れると、魚は大人しく身体を預ける。
目線まで持ち上げたら、魚は正面からサンジを見つめた。
中々に、可愛らしい。
うっかり情が移りそうになって首を竦めたら、魚がいきなり身を跳ねさせてサンジの手からすり抜けた。

体当たりするようにして、サンジの口に口先をぶつける。
ふっと、なにかが唇に宿った気がした。

呆気にとられたサンジの手を弾き、ついでに船べりに置いたバケツも尾鰭で弾いて、バケツと中身の水&魚ごと海へと落下する。
小さな飛沫をあげて、魚たちは見る間に四方へと泳ぎながら散って行ってしまった。

――――してやられた、な。
せっかくの釣果に全部逃げられたが、仕方ない。
ルフィには後で謝っておこうと、息を一つ吐いてから顔を上げる。
さて、俺はこのままどうするべきか。

なにをどうする、との説明は一切なかったが、なんとなくわかる気がした。
一言も声を発さず、黙って展望室を目指す。
顔を覗かせると、ゾロは「なんだ、また来たのか?」と不思議そうに見返してきた。
けれど、その表情に面倒臭さや嫌悪などは浮かんでいない。
むしろ、少し嬉しそうかもしれないなんて思ってしまうのは気のせいだろうか。
ここまで来てやや躊躇したが、理由はあるんだからと己を励ましつつゾロに近寄った。
思いつめた顔をしているからだろうか、ゾロもいつになく生真面目な様子で表情を引き締める。

魚だって、伝えたいことを“言葉”で伝えられたんだ。
普段からくだらないことばかり言い争ってる俺達も、せっかく言葉を持つのなら大切なことをきちんと伝えたい。
―――いまならきっと、できるはず。

お互いに真正面から向き合って、しかもどちらからも目を逸らせずじっと見つめ合った。
サンジが徐々に顔を近づける。
その動きがわかっていて、ゾロは敢えて目を逸らさない。
とうとう、鼻の頭が触れる距離まで近付いた。
近過ぎて目の焦点が合わず、お互いの顔がぼやけた。
どちらからともなく目を閉じて、唇を触れ合う。

合わせた唇の間で、小さな泡がパチンと弾いた。
――――ような、気がした。

静かに離れてから、二人が最初に口にした言葉は、同じだった。


End





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