迎えに来た天使



 もしそのとき雨が降っていなければ、サンジは足を止めなかっただろう。
 なぜならばそれはレディではなかったし、体格が良くてくたばるようには見えなかったし、そして腹を空かせているようでもなかった。
 まだ春は遠く、雨は冷たかった。
 だからサンジは放っておけなかったのだ。
 倒れて雨に打たれている、緑髪の男を。





 こぽこぽというささやかな音と、あまい匂いにゾロは目を覚ました。体が重い。立ち上がろうとして力が入らず、ずるずる這おうとして、どしりと落下した。そのときになってようやく、ゾロはやわらかなベージュの毛布を掛けられ、白いソファに寝ていたことを知った。
「おい、大丈夫か」
 最初に飛び込んできたのはやたらチカチカする頭。キンキラの長い前髪からは左目しか覗いていない。その目の上。
「なんで眉毛巻いてんだ?」
「──……、」
 うっかりというか平常通りというか、ゾロの口からは思ったことが思うと同時に出てしまっていた。

 目を覚まして第一声がそれかよ。
 気の短いサンジは、ついうっかり怒鳴り付けそうになってしまった。思いとどまったのは、その男がひどい熱だったのを思い出したからだ。額に冷たいタオルを当ててやっていたら、徐々に熱は下がってきた。おそらく今は微熱ぐらいだろう。
 サンジが手を伸ばすと、男は一瞬目を鋭く細めて警戒した。
「熱、下がったかみるだけだ」
「そうか」
 素直に目を閉じて顔を上げた男の額に、サンジは手のひらを当てる。ほのかにあたたかいが、それはサンジの手が冷たいからだろう。

「ん、大丈夫みたいだな。何か食うか?」
「いや、…」
「そっか。まだ食欲ねェかな」
「食う。腹減った」
「おう、じゃあ少し待ってろ」
 本当は腹は減らない。だが、金髪の男がちょっとつまらなさそうな顔をしたので、ゾロはなんとなく腹が減ったと言ってしまった。そうしたら、金髪は途端にうきうきと嬉しそうな顔になった。言ってよかったとゾロは思う。
 早速何かを作り始めた金髪が、機嫌よさそうにキッチンからゾロに声をかける。
「おれ、サンジ。コックやってんだ。お前は?」
「──ゾロ」
 お前の名前なら知ってる。とは、ゾロは言えなかった。



***



「ゾロ!やっと見つけた」
 くいなが息を切らせて駆けてきたとき、ゾロはトレーニングの最中だった。走り込みの後で剣の素振りをしていただけだ。だいたいいつもの場所だと思うから、くいなが自分を探すのにそんなに息を切らせる理由がわからない。
「ゾロに何か命が下ったみたいよ」
「そうか」
 それなら、と剣を鞘に収め、師匠のコウシロウの元へと急ぐ。くいなが道場はこっちよと叫ぶので、訝しく思いながらもそれについて行った。

 コウシロウから聞かされた、ゾロの受けた命令というのは、サンジという男を連れてくるというものだった。
「男?あのおっさん、そういう趣味もあんのか」
「余程気に入ったのでしょうね。なかなかにお強いそうですから、気を付けて」
「剣を使うのか」
「いいえ。蹴りが素晴らしいと聞いていますよ」
 その言葉に、ゾロは少しがっかりする。命令なんて、面倒くさい。せっかく行くなら、剣士の方が張り合いがある。
 しかし、命令は絶対なので、剣士でないから断るなんてことはありえず、ゾロは神妙に頷いた。


 ゾロは天界に住んでいる。職業は神の使いだ。つまり、天使。本当は使いの仕事なんて性に合わないのだが、天界では神でなければ大体がそんな仕事ばかりだ。
 天使は技能によってグループに分けられている。ゾロは剣士のグループに在籍していた。コウシロウは師匠で、くいなも同じグループにいる。近ごろ地上では剣を使うことが少なくなっているそうで、だからゾロのグループに命が下ることは滅多になかった。それをいいことに、ゾロは体を鍛え、剣の技を磨いていた。時々、ほかの剣士と試合をする。いつかグループの最高峰にいるミホークに勝ち、天界一の剣士となるのがゾロの夢なのだった。
 ゾロのグループの天使に命を与えるのは、主にバロックワークスに所属する神だ。彼らは戦いを司る神々で、やはり強いらしい。もし神でなければ一戦交えたいとゾロは思うが、そんなことは叶わない。
 男を連れて来いという命令は、その頂点にいる神クロコダイルからのものだ。要するに、神への生贄である。元来、人間たちは自ら生贄を捧げてきた。ところが最近では神がいることすら普段は忘れていて、都合のいい時だけ神に祈る者ばかりだ。生贄のことなんてすっかり忘れ去られている。だから神は、生贄を指名するようになった。クロコダイルはかわいらしい少女を好む。苛めるのが好きらしい。悪趣味だ、とゾロは思う。クロコダイルが男を指名するのは、ゾロが知る限り初めてだ。


 天界の記憶は、ゾロがコウシロウの前で頷いたところで途切れている。
 すぐに地上に落とされたのだろう。



***



 サンジに呼ばれて、ゾロはテーブルに着いた。地上では、天界よりもずっと体が重く感じる。が、これも鍛錬になるのならよしと思う。
 白い深皿には、淡いピンクのスープが入っていた。
「さっきからこの匂いがしてた」
「おう。ポタージュにしてあるからわかんねェだろうけど、野菜いろいろ入ってるからな、栄養あるぞ」
 スプーンを渡されて、ゾロはふわりと湯気の立つ皿にそれを突っ込んだ。口に入れると心地よい温度で、意外に舌触りはざらりとしている。あまい香りが鼻から抜けた。
 実は天使は食べる必要がない。栄養なんて関係がない。しかし味は感じる。これまでにもゾロは、地上で何度か物を食べたことがあるが、サンジのスープは今までで一番うまいと思った。なんだか体の芯から力が付きそうだ。栄養が体を作るのだとしたら、このスープは確かにゾロの栄養になりそうだと思う。

「うめェな」
 ひとこと呟いただけで、あとは黙ってはふはふとスープを口に運んでいる。かわいい、と一瞬思ってしまい、サンジは慌ててその考えを打ち消した。かわいいって何だよ、凶悪面した変な緑頭のおっさんじゃねェか。
 いや、おっさん──ではないか、もしかして。
「お前、いくつだ?」
 ゾロは首を傾げた。
「おれ、もうすぐ21だけど。同い年ぐれェか?」
「ああ……、おう」
 曖昧に頷くゾロの頬がスープと同じような淡いピンクになっていて、サンジはまたかわいいと思った。今度は打ち消すことさえ浮かばないほど、無意識だった。

 年齢を訊かれて、ゾロは焦った。地上に下りてくるのが久しぶりだったから、数えておくのを忘れていた。いま1000と少しで、地上では天界の50倍ぐらいで年を取るらしいから、──21ぐらいか。まァ、そう間違ってはいないだろう。


*


 1週間、雨が降り続いている。
 ゾロがサンジの部屋に居ついてからずっとだ。
 家はと訊くと、ないと言う。とにかくもうすっかり熱も下がったので、晴れたら追い出そうと思っていた。それなのに、雨が止まない。だから、サンジはゾロに出ていくように言えずにいた。
 サンジが仕事から帰ると、ゾロは腹筋運動をしていた。床にはゾロ用のマットを敷いている。ぼとぼとと汗がフローリングに落ちるのが嫌だった。だからと言って、ゾロが来たその日にマットを買いに行くことはなかったのに。あれは本当に魔が差したのだとしか言いようがない、とサンジは思う。マットを買ってしまったせいで、ゾロはここにいていいと思ったのではないか。
 2000を数えて、ゾロは動きを止めた。はあはあと荒い息を吐く。マットの上に仰向けになった後、すぐに起き上がってTシャツを脱いだ。着替えを持っていなかったから、そのTシャツもサンジの買ってやったものだ。ほんの少し握れば汗が落ちそうに、びっしょりと濡れている。
「あーもう!風呂場で脱げよ、ほら!」
 足で腰のあたりを蹴ると、ゾロはTシャツを抱えて立ち上がる。一応水分が落ちないようにしているようなので、もう少し言いたかった文句をサンジは飲み込んだ。代わりに広い背中を睨みつける。ふと、くっきりと左右対称な傷が2本あるのに気付いた。サンジは思わず、その傷に触れた。
「なんだ、これ」
「ああ、背中の傷か。それは天使のは、」
「てんし?」
「──いや、……剣士の恥だよな、背中の傷なんて」
 困ったように少し笑って、ゾロは風呂場に向かった。
 ゾロは剣士らしい。剣士という職業がこの時代にあるなんてサンジは知らなかった。ゾロはそれ以上詳しく説明しないが、剣道の選手とか、そんなのかもしれない。

 気を許し過ぎだ。ゾロは反省した。うっかり口を滑らせるところだった。
 地上に下りた天使の背中からは羽が消える。背中の傷は、天使の羽の跡だ。天界に戻れば、そこからまた羽が出てくる。
 今日、天界から連絡が来た。天候を動かす天使のナミだった。ナミたちウェザリアの天使は、天界の者が地上にいる時、必ず雨を降らせる。空間の歪みが生じやすくなるから、天界と地上との間に妙な道筋ができないように遮断するのだ。『いつまで雨を降らせればいいの』とナミは訊いた。最初の連絡では、3日もかからないと伝えていた。『ちょっと難儀してる。もう少しだ』と言うと、ナミは『ふうん。あんたがねぇ』と疑わしそうだった。
 正直に言えば、ゾロはまだサンジを天界に連れていく努力を何もしていない。
 コイツをクロコダイル神のところに引っ張って行きゃァいいんだな。そう考えた時、なんだかムカついた。何にかはわからないがムカムカして、一向にやる気にならないのだ。

 サンジは新しいシャツを脱衣場に置いてやった。シャワーの音が、雨と同じように聞こえる。

 頭を拭きながらゾロが風呂場から戻ると、サンジは大きな鍋に湯を沸かしているところだった。
 ふと、ソファの上に硬い表紙の本が置いてあるのに気付く。
「なんだ、これ」
「汚すなよ。その絵本、素敵なリトルレディのお客様に貰ったんだ。おれが天使様に似てるってさー」
 サンジはにやにやして鼻の下を伸ばして、──変な顔だ。
 いやそれより。
「てんしさま」
「そうそう。丁寧に扱うなら見ていいぞ」
 サンジは湯を火に掛けたままで、リビングまで来た。勝手に見ていいようなことを言ったくせに、ゾロの手から絵本を奪う。そうしてページを広げて、ゾロに見せた。
「これ」
 そのページには、見開きいっぱいにひとりの天使が描かれていた。髪は金色で、前髪が長く右目を隠している。肌は白く、手足が長い。そしてどういうわけか、
「眉毛が巻いてる……」
「てめェの注目点はそこかよ」
 ぐいとこめかみ辺りを押されたが、いやそこだろうとゾロは思った。眉毛が巻いている人間も眉毛が巻いている天使もなかなか見ない。
 どうしても目がいってしまう眉毛から視線を逸らせて全体を見ると、なるほど雰囲気もサンジに似ていた。サンジは普段はからりとして口も悪いが、この絵のようにやさしく包み込むような目をすることがある。
 人間のイメージする天使って感じだな、とゾロは思った。
 本当のところ、天使なんてそんなおキレイなモンでもない。いたずら好きなのが多いし、人間嫌いなのが結構いる。そもそも天使の仕事である神の命に汚れ仕事が多いから、その絵本のようにキラキラした天使ばかりではないのだ。
 ソファに座っていたゾロは、立って絵本を開いて見せているサンジを見上げた。
 蛍光灯の白く安っぽい光を髪がやわらかく吸い取って、ほのかに輝いている。絵本をくれた少女のことでも考えているのか、やさしい目をしている。そのすべらかな頬に、ゾロは手を伸ばした。
「──なに」
 驚いたのか少し掠れた声をきいて、けっこう重大なことを、ゾロは瞬時に決意した。

「話をきいてくれるか」
 真剣なゾロの表情に、サンジは息を飲んだ。
「火、消してくる。ちょっとだけ待て」
 キッチンに入ると、鍋の火を消した。それから、大きく深呼吸をした。3度。

 キッチンから戻ったサンジは、ゾロの横に座った。ゾロは体を捻って、サンジの目をまっすぐに見た。

「おれは、天使なんだ」
「────はァ?」
「いや、信じられねェと思うが。しばらく黙って聞いてくれ」
 意を決して聞こうと思ったのに、ゾロの話はサンジの予想のどこにもないところから始まった。ふつりと怒りが頭をもたげそうになったが、ゾロがやはり真剣な目をしているので、サンジは口を噤んだ。
 ゾロは神の使いでサンジを連れに来たことを丁寧に話した。
「これは仕事だ、おれは神の命に背くことはできねェ。だが、天界に入れるのは純潔の者だけだ。だからお前は、そうでなくなればいい」
 まず目の前の男が天使、という事実からして、サンジには受け入れ難かった。しかしどうしても冗談を言っている目には見えない。
 ゾロが言っていることが本当だとしても嘘だとしても。
 そうだ、どちらにしても。
「その相手、お前でもいいの?」





 おれはお前がいい、とサンジは言った。
 だからゾロは、ほんの少しだけ残っていた迷いを断ち切った。
 そんなことをすれば、ゾロも天界に帰れなくなる。
 けれど、どうしても。



「────……ぞろ、……てんに、のぼるみてェ────」

 そう言ったとき、サンジの背中には大きな翼が見えた。ゾロは両目を擦って何度も瞬きして見たが、くっきりと、今まで見たどの天使よりも立派な翼が、まるでゾロを包み込むように。





 サンジが眠っている間に、ミホークが来た。
 結局のところ、ゾロは神の命に背くことになってしまったのだから、何か報いがあるのだろうとは思っていた。
 剣を構えたミホークに、ゾロは正面を向いて両手を広げた。
「背中の傷は、天使にも剣士にも恥だからな」
「見事」
 笑うゾロに、ミホークは剣を振り下ろした。
「ヒマつぶしに地上に下りてくることがあれば、今度はきちんと相手をしてやろう」
 意識が落ちる直前、ゾロははっきりとその言葉を聞いた。

 目を覚ましたサンジは、ゾロの胸を大きく割る傷跡を見て真っ青になった。
 昨日までは無かった、深く大きな傷なのに、不思議なことにほとんど塞がっている。
「お前の心配することじゃねェ」
 暢気に欠伸をしながら言うゾロの背に、サンジは両腕を回した。
「……あれ?」
 手のひらで撫でてみて、つるりとした感触に、目で見て確かめる。
「背中の傷が、ねェ」

「──ああ、そうか」
 天使ではなくなったから、羽の位置が消えてしまったのだろう。
 そう言うと、サンジはホッとしたように笑った。
「なァ、おれここで暮らしてもいいか」
 目を見て告げると、サンジは火をつけたように急に真っ赤になった。
 深々と頷くサンジの背に手を回すと、分からないぐらいにささやかな傷が残っている。
「でっけェ誕生日プレゼントだな」
 ぽつりとサンジが呟いた。
 窓を開けてもいないのに風が吹いて、ソファに置きっぱなしの絵本がぱらぱらと捲れた。きっとサンジに似た天使のページが開いているのだろう。
 飛んで行ったりしないように、しっかりと抱き締めていよう。
 ゾロはそう思って、早速金色の頭を上に向かせてくちづけた。

 1週間ぶりに、雨が止んだ。



fin


*****




天使の羽根と剣士の恥!!←まずそこw
いや〜やられました、色々してやられましたさすがあみちゃん!
最後のサンジェル出現と背中の名残は意味深で、余計ふおおおおとなってしまいましたよふおおおお。
しかし、クロコダイルが神ていやだなあ(笑)
この二人にはぜひ、神の手の及ばぬ現世で温かく穏やかに愛を育んでいただきたいです。
しっとりと静かな雨に包まれた優しいお話をありがとうございますv



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