雨の降る日は屋上で -20-


スモーカーに怒られヒナに笑われ、ギャルディーノに嫌味を言われガンフォール校長に労わられて、二人はタクシーでサンジの家に帰宅した。
車から降りてすぐにゾロは肩を貸し、そのまま自室へと連れて行く。
ドアを開けて中に入れ、それじゃあこれで・・・とは、当然のように行かなかった。
当たり前みたいな顔をして先に上がり、照明を点けたり湯を沸かしたりと甲斐甲斐しい。
道中に二人分の食事をコンビニで買い求めるなど、気遣いも徹底している。

「えーと、色々ありがとう。もういいから」
サンジ的に牽制してそう言えば、ゾロはニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「そうはいくか」
ああ、やっぱり?
諦めてソファに腰を下ろすと、ゾロは風呂を張りに洗面所に向かった。
足を怪我した状態で風呂に入るのは面倒臭いが、雨で湿気た身体は気持ち悪いし、あちこちに泥跳ねも付いている。
なんのかんの言って、すべて段取りしてくれるゾロの存在はありがたい。
サンジは観念して、テーブルの上にある灰皿を引き寄せた。
煙草に火を点け軽く吹かしていると、洗面所から出てきたゾロがそのままキッチンに向かう。
「なんか飲むか?コーヒーはインスタント・・・じゃねえな」
「俺んちなんだからどうぞお気遣いなく。なんか飲みたけりゃ冷蔵庫から勝手に選べ、俺は特にいらない」
ゾロは遠慮なく冷蔵庫を開け、缶ビールを手にして戻ってきた。
「お前も、こんなもん飲むのか?」
珍しそうにそう言って、サンジの足元に腰を下ろした。
フローリングに直に胡坐を掻いて、プルトップを開ける。
「・・・たまにはな」
それは嘘だ。
ゾロが家に来た時用にと、以前に買い置いたまま飲まずにずっと放っておいたものだ。
冷蔵庫を開ける度に否応なしに目に飛び込んできた、場違いな銀色の缶ビール。
それがいま、渡るべき相手の手の中で空になって行く。

サンジは唇に指を当て、ぼうっとその様子を眺めていた。
いつの間にか唇が渇いて、煙草のフィルターがくっ付いている。
それをさりげなく引き剥がしていたら、ゾロが缶ビールをもう一本開けてずいっと差し出した。
「お前も、飲め」
「・・・ん」
もう自宅だし、そろそろ夕方だし。
一杯くらいいいだろう。
捻挫した足にアルコールは大丈夫かとチラリと思ったが、薬も飲んでいないからさほど影響はないだろう。
ある程度酔った方が、感覚は麻痺するかもしれない。
唇を湿らす程度に舐めて、煙草を揉み消した。
二人の間に立ち昇る紫煙を、しばらく黙って見つめている。

「あのよ」
「ん?」
「俺は、なんとなく嬉しかったんだが」
「は?」
なにを言い出すのかと、目線を上げてゾロの顔を見た。
ゾロは、らくしくなくどこか照れたような表情をしている。
「お前がさ、結果的にはルフィと・・・ナミって生徒を庇うために、俺との写真をでっち上げたっつっただろうが」
「うん」
サンジにとって、後ろめたい行為だった。
自分の勝手な判断で、ゾロをスキャンダルに巻き込んだのだ。
怒られこそすれ、喜ばれるはずなのどないのに。
「なんか、お前の身内に見做されたかと思うと、嬉しかったな」
ゾロはそう言って、ぐびりと缶ビールを飲み下した。
尖った喉仏が上下するのを眺めながら、サンジは「は?」と怪訝な顔をする。
「・・・馬鹿じゃね?」
「そうだな」
手の甲で口元を拭い、テーブルに肘を着く。
「馬鹿だと自分でも思うが、お前に関わるとなんでも嬉しくなる」
「・・・馬鹿だ」
本当に、大馬鹿だ。

サンジは片手を額に当てて、肘を着いた。
長い髪が顔に掛かって、自嘲するように歪む口元だけが覗く。
「馬鹿だ馬鹿だ、俺みてえなのに関わって喜ぶとか、とんだドMだ」
「かもな」
「そんななのに・・・」
サンジは掌で顔を覆い、ゆっくりと撫でつけてから顎まで引き下ろす。
「嬉しいとか思う、俺も相当な馬鹿だ」
そう言って、くしゃりと顔を歪ませた。



「前の学校は俺にとって初めての赴任地でさ、すっげえ張り切ってた訳よ」
サンジは缶ビールを片手に、ポツポツと昔語りを始めた。
ゾロはただ黙って聞いている。
「俺ってこんな外見だし、最初は結構ギャップとかあって・・・でもそれがきっかけにもなって、生徒達とは割と早い段階で仲良くなったんだよな」
その中でも特に、慕ってくれた女子生徒がいた。
サンジはとにかく“いい教師”になろうと必死だったから、どんなことでも親身になって自分の時間を削ってでも、相談に応じていた。
「言い訳じゃなく真実を語るなら、俺と彼女の間にはなにもなかったよ。身体の接触はおろか、恋愛感情も何一つなかった。少なくとも、俺の中には」
「相手は、違ったのか?」
サンジは黙って、コクリと頷く。
「いまから思えば、俺も早く気付くべきだったし、もっといろいろできることがあったと思う。でも、それもいまだから言えることだ。当時は全然、気付きもしなかった」
女生徒の中で一方的に膨れ上がり、募ったサンジへの恋心。
それをうまくかわすには、サンジには経験が足りなかった。
「平等に接してるつもりだったんだよ俺は、誰に対しても。そりゃあ男子生徒には多少つっけんどんだったかもしれねえけど、みんな俺にとっては大事で可愛い生徒だった」
けれど、女生徒の想いは違った。
サンジが唯一大切で、特別な存在だった。
「保護者から指摘を受けて、その子だけを贔屓にしてるって他の保護者の間でも問題にもなって。そこで初めて俺は、事態を知ったんだ」
なにもかも遅すぎた。
少女の思い込みと保護者の心配と、他生徒の嫉妬と憶測があっという間にサンジを取り囲んだ。
「彼女が、泣きながら俺に縋ったんだ。先生も同じ気持ちだよねって。私のこと大好きって言ってくれたよねって」
その涙の訴えに、サンジは負けてしまった。
ここで「生徒の勘違いだ」と、断じることで彼女を傷付けることを恐れてしまった。
結果、サンジは女生徒と恋愛関係を持ったと結論付けられ、処分を受けた。
「ほんと、いま思うと馬鹿だったなーって思うよ」
もっと器用に立ち回る方法はあったはずだ。
或いは、心を鬼にして違うものは違うと言い、少女の気持ちを傷付けてでも現実を知らせるべきだった。
「なにを言っても言い訳にしかならないとか、一途な想いを突っぱねちゃいけないとか。なんか、自己保身とか無駄な矜持とか余計な気遣いとか、そういうものが俺の中でぐちゃぐちゃになっちまって、結局なんにもできないまま学校を去ったんだよな」

ゾロは、なんとも言えない気持ちでそう独白するサンジの横顔を眺めた。
もし自分だったらどうするだろうと考えてみると、すぐに答えが出る。
―――生徒相手に恋愛感情など持ち合わせたことはない。この子の勘違いだ。
そうきっぱり、言いきってしまうだろう。
女生徒が傷付こうが泣こうが喚こうが、それが真実だとしれっと言い放ってしまう。
年端もいかない少女を勘違いさせるなんて、と責められたならば、それはその通りだと謝罪するしかない。
すべては自分の、不徳の致すところだ。
「まあ、俺にもいろいろ黒歴史ってのがあってだなあ」
「ああ、わかる」
ゾロにだって、人には気軽に言えない黒歴史の一つや二つ、三つや四つくらいある。
それはきっと、誰にだってあるのだ。
恥の多い人生でしたと胸の中で呟いて、まだ人生終わってないけどなと遠い目をする経験がなんと多いことか。

「どっちにしろ、それは誰が経験したってきつい話だ。たまたまお前だっただけで、思春期の子どもと接するこの仕事にはよくあることだろ。誰だってその危険性はある」
「…慰めてくれんの」
「事実を言ったまでだ」
サンジは空になったビール缶を持って、手の甲を頬に当てた。
「思春期…そう、相手はまだ大人になりきれない子どもなんだ。だから、やっぱり大人であり先生である俺が気を付けなきゃならなかった」
「だが、その経験を踏まえて今のおまえがあるんだろ?人気教師の」
“サンジ君”と気軽に呼ばれながら、きちんと生徒との距離を保って理想的な教師として振る舞うサンジは、やはりゾロから見れば目標にしたい尊敬できる先輩だ。
「やめてくれ」
「本気で言ってんだ。生徒もそうだが教師だって、いろんな経験積んでって初めて、学習できるんだろうなあ」
つくづくと言いながら、ゾロはサンジの手から空のビール缶を受け取った。
そうして、空いた掌を合わせて軽く握る。
「だから…まずいんだって」
「なにが」
この期に及んでゾロの手を振り払おうとするのを、やや強引に抱き寄せる。
「教師だからって、恋愛まで自制する必要はねえぞ」
「けど、お前だってあの場にいただろうが」
なにが?と首を傾げるのに、サンジは苛立たしげにゾロの指を掴む。
「マキノ先生が妊娠したって言うだけで、拒否反応示した生徒がいたろうが。子どもってのはほんとにデリケートで、細心の注意を払わないと…」
「アホか」
ゾロはサンジの頭に手を置いて、ぐしゃぐしゃと撫ぜた。
まるで子どもを宥めるかのような仕種に、サンジの眉間の皺がより深くなる。
「お前のがアホだ。れっきとした夫婦でも、時として恋愛は生々しく感じられるんだぞ。増してや同性同士だなんて、嫌悪されこそすれ認められるもんじゃないし、おいそれと認めていいもんじゃない」
「頭固ぇなあ」
「俺が当事者じゃなきゃ、えんがちょだ」
支離滅裂な抗議の声に、ゾロはしょうがねえなと目を細める。
「そう思ったから、ルフィ達のスクープを幸いに俺との合成写真作って、それで牽制したつもりだろうが。俺が諦めると思って」
「―――ううう」
「生憎だったな、俺は諦めが悪いんだ」
てめえは往生際が悪いと、鼻先に軽く唇を押し付けるようにしてキスをした。
サンジは目をぎゅっと瞑って唇を引き結んでいたが、ついっと顎を上げて顔をずらし、ゾロの唇を唇で受け止める。
「てめえが、毎日俺にメールくれてさ」
「うん」
「どうでもいいようなことダラダラ書いてさ、んでもってサガのこととかマヤちゃんのこととか、なんかこう、おお?とか思って、ついあれこれ返事したくなって」
「返事くれなかったじゃねえか」
「出せるかよ、こっちは必死で我慢してんのに能天気にくだらねえこと毎日書いてきやがって。俺がどんだけてめえと話したかったか…」
そう言って、サンジの方から手を伸ばしゾロの頬に口づけた。
「俺の方がどんだけてめえに会いたかったか、てめえは知らねえだろうが、馬鹿」
「ああ」
ゾロは目を眇め、サンジを抱く手に力を込める。
「それは、知らなかった」
そのままゆっくりと押し倒しかけて、サンジはちょっと待てと胸を押した。

「風呂、沸いたんじゃね?」
「ああそうだな」
ゾロはさっと立ち上がり、風呂場に向かってすぐ戻って来た。
「ちと張り過ぎた感があるが、溢れちゃいねえ」
そう言って、ソファに寝そべったままのサンジの背中に腕を差し入れ抱き上げた。
「俺がちゃんと、隅々まで洗ってやる」
「怪我に響かないようにしてくれよ」
「それは、お前次第だな」
小さく笑い合って額をくっ付け、湯気の立ち込める風呂場へと二人で消えた。





文化祭も体育祭も剣聖祭も終わったが、合唱コンクールから期末考査へと目まぐるしく季節は巡る。
短いスカートを翻し、段飛ばしで駆け降りてきたナミと危うくぶつかりかけた。
「あ、ごめんなさいサンジ君。足、大丈夫?」
「もうすっかり治ったよ」
どうぞと道を開けると、ナミはサンジが立つ段まで下りてきて両手を前に揃えた。
「この間は、どうもありがとうございました。ご迷惑をお掛けしました」
きっちりと頭を下げるナミに、サンジは笑顔でどういたしましてと返す。
「これからバイト?」
「ううん、友達と買い物に行く約束なの」
友達?とサンジが表情を変えたから、ナミは悪戯っぽく笑った。
「そうよ、シロップ女学の子達でね。お嬢様学校って馬鹿にしてたけど、話してみたら気が合っちゃって」
「そりゃあよかった、今度紹介してよ」
「サンジ君なら、喜んで」
じゃあね、と足取りも軽く階段を下りていく。
サンジは自分まで浮き浮きした気分になって、笑顔のまま階段を上がった。
と、今度はゾロが鬼のような形相で駆け降りてくる。

「どうした、血相変えて」
「サガの馬鹿が退部するとか言い出しやがった、今から居残り命じて鍛えてくる」
「手加減しろよ、暴力教師」
「うっす」
風圧を残して走り去るゾロの背中を見送って、サンジはハハッと一人で笑った。



あれから、屋上へと昇る階段は厳重に封鎖された。
それでも相変わらずちゃちな柵はひょいと跨げる高さにあるし、ゾロもサンジも上手に時間をやりくりしては、時々屋上で秘密の逢瀬を楽しんでいる。


End



back