Alone -9-


忌々しくも、さっぱりとしたゾロが自室に引き上げた後、サンジはゆっくりと風呂に入り時間をかけて台所を片付けた。
誰も来ない屋敷と言うのは、閑散として自由だ。
心なしか、気分まで開放的になる。
腰にだるさは残るものの、男の性ゆえか、ここの所コンスタントに射精しているため、どこかすっきりとしている。

やる必要はないとわかっていたが、一通り掃除機をかけて脱衣所に置きっぱなしの衣類を洗濯した。
だが、美しく整えられた中庭には物干し台などない。
備え付けの乾燥機を回し、夕食の支度をする前に思いついておやつを作った。
たまには脳に糖分を与えてやらないといけないだろう。




この屋敷に来てゾロと関わってから、自分の中の良識とか道徳とか、羞恥心とかが悉く麻痺して来ているような気がするのは思い違いではないだろう。
ほんの1週間前ぐらいでは想像もしなかった、関係の変化。
こんな目に遭うなら舌噛んで死ぬとまで口走る程度には、お堅い性格をしていると自負していたのに、いざとなると案外愚鈍で強かなものだと我ながら感心する。

洗濯物を片付けてしまってから、サンジはおやつを携えてゾロの部屋を訪れた。
相変わらず鍵もかけられない扉は簡単に開き、夕暮れの紅さえ届かない遮光カーテンに覆われた室内は白熱灯が冴え冴えとした光を照らすばかりだ。

「おやつだぞ」
「ありがとうございます」
顔を上げないで礼を言う。
その背中が少し丸まって、シャーペンを持つ指の節が白く浮き立って見えた。
集中しているのだ。

「もう翳って来たけどな、天気のいい日くらい日光入れないと身体に悪いぞ」
せめてカーテンを開けようとして、ゾロの声に遮られる。
「止めてください。気が散るんで、悪いけど出て貰えますか」
反射的にカチンと来る。
ついさっきまでこちらの都合などお構いなしで好き放題しておいて、どこまで身勝手なガキなんだこいつは。
「そりゃ悪かったな」
つんけんと返事して、誰がこんなとこに長居するかと大股で部屋を出た。
扉を閉める間際ちらりとゾロの様子を窺ったが、その横顔はひたむきに手元の参考書を見つめ、シャーペンの動きに淀みすらなかった。






翌日の日曜日も、サンジはひたすら勤勉に過ごした。
本来なら大学の友人と連れ立って出歩くかナンパに励むのだが、どうにもそんな気分になれず最近は付き合いが悪いものでコンパの誘いもない。
なので、掃除をして洗濯をして食事を作って、ゾロの求めに応じる“お勤め”も果たしている。

なんとなく、この広い屋敷にぽつんと一人でいると、世間から取り残されたような孤独と、それに相反する優越感のようなものが沸いてくる。
あくせくとした世間の流れや、事件・事故はテレビの中の話でしかない。
友人が失恋したとか、ゼミで一緒になった子から最近メールが来ないとか、学食で隣に座ってた子の名前が知りたいとか友人に借りたレポートが一枚行方不明とか助教授の不倫疑惑とか実はあの二人できてたんだって、えええっとか・・・
そう言ったたわいもない、けれど生活の根本にあった“日常の憂いと小さなハプニング”というものから、隔絶された空間だ。
ともすれば、この世にゾロと自分の二人だけしかいないような、そんな錯覚すら生まれてしまうくらい密接で閉塞的な世界。
それはサンジの意思一つで容易に脱出できる脆弱な檻であるのに、サンジ自らその場に留まっていることは否定できない。




こまめに働き身奇麗にして、ゾロに夕食を取らせているときに思いもかけず“奥様”が帰ってきたのは、サンジにとって幸いだった。

玄関から人が入ってくる気配がしてはじめて、ゾロはそう言えばと呟いた。
「おふくろが戻るっつってたんだ。メールがあった」
「それを早く言え!」
サンジは慌てふためいて立ち上がり、なぜか髪を整えたりした。
ええと、大丈夫。
ここでイタしたのは昨日しかない。
なんて馬鹿なことを確認していたら、毛皮のコートを羽織った奥様がハンドバック一つで身軽に入ってきた。

「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえりなさいませ」
その場に姿を見せただけで、一気に花が咲いたような華やかな空気が流れ込んでくる。
「お夕飯はいかがですか?」
「あまりお腹は空いてないのだけれどお夕飯はまだなの。ちょっといただけるかしら」
「勿論です」
この家で、ゾロ以外の家族に食事を供するのは初めてのことだ。
なんの準備もしてなかったけれど、自分の分を後回しにすればなんとかならないことはない。
「すぐ用意いたしますので、着替えてらしてください」
サンジの言葉に、奥様はふふっと可愛らしく笑って首を竦めた。
「先生ったら、シゲさんより家政婦さんらしいわ」
「いや〜それほどでも〜」
「・・・褒められたんですか?」
ゾロの突っ込みに目を剥いている間に、奥様は颯爽とダイニングを出て行った。




「まあ素敵、まるでお店でお食事してるみたい」
僅かな時間の間にテーブルセッティングを終え、サンジは張り切って料理を出した。
急遽庭から摘んで来た、八重咲のバラは可憐過ぎて奥様には似合わないけれど、食卓に彩を添えてくれる。
「ワインをお飲みになりますか」
「ええ少し。先生、選んでくださるの?」
「ご期待に添えるかどうか、あやしいところです」
それでもワインセラーから料理に合いそうな1本を選んで来る。
「なんか、俺の時と全然違いますよ」
ゾロの視線が、何やら恨みがましい。
「当たり前だろ。お前にはお前に似合った食事。受験生らしく栄養バランスが取れて、DHAとかビタミンB群とかしっかり補充させるためのもんだ。けど奥様は、旅のお疲れもあるだろうからヘルシーかつビューティなアペリティフから・・・どうぞv」
「ふふ、ありがとう」
奥様も行儀良く手を合わせ、華奢な指先を翻すようにフォークを使って上品な口元に料理を運んだ。

「・・・まあ、美味しい!」
「でしょう?」
サンジより誇らしげに相槌を打ったのはゾロだ。
「ええ、本当に。ゾロが言ってた通りだわ」
瞬きすると音が立ちそうなほど長い睫毛に縁取られた目を瞠り、奥様は大きく頷く。
「・・・え、あのー・・・お二人は、いつ会話をされているん、で?」
気安さからつい聞いてしまった。
「メールよ」
優雅な奥様にしては珍しく、フォークを繰る動作が機敏だ。
よほど美味しいらしい。
「メール?」
「ええ、毎日メールでお話してますもの。ねえ」
ゾロに向かって首を傾げると、ゾロも真面目な顔で頷いている。
さすがのサンジも一瞬引いてしまった。

「ああ、残念だわ。こんな美味しいお料理を作ってくださる先生なのに、もうお別れなんて」
「―――は?」
「実はね、依頼していた派遣会社から連絡が入ったの。住み込みの家政婦さんが見つかったって」
「・・・は・・・」
思いがけない展開に、一瞬頭の中が真っ白になってしまった。
サンジとて、この生活がずっと続くとは予想していなかったはずだ。
ましてや、この状況から逃れたいとまで思い詰めた、尋常でない過酷な労働環境だったはずなのに・・・
どこか愕然として、サンジは口を開いたまま奥様の美しい顔を凝視し、やや遅れてゾロへと視線を移した。
「そうなんですか」
ゾロは平然と食事を続けている。
その顔に声に、動揺の色はない。

「明後日からいらしてくださるのよ。シゲさんより5つほど若い方らしいけど、独身だから時間の対応も比較的自由ですって」
そう言ってワインを一口飲み、奥様はサンジに視線を移した。
「それで、先生はどうなさいます?」
「え、俺ですか」
「申し訳ないんですが、家政婦としてのお仕事は明日で終了していただきます。あと家庭教師なんですけど・・・」
ちらりとゾロに視線を投げた。
ゾロは知らぬ顔で食事を続けている。
「実際のところ、今のゾロに家庭教師は必要ないんですの。勿論、ゾロが望むなら先生に続けていただいてもいいわ。どうする?」
サンジはゾロを見た。
ゾロは茶碗を置いて母親を見返し、それから少し視線を漂わせて考える仕種をする。
「そうですね。先生の食事が好きだったんで残念ですが、家政婦さんが新たに入るとなると先生に来ていただく必要はなくなります」
ガンと、ハンマーで頭を殴られたような気がした。
それほどまでにショックだった。
何にショックを受けているのか、理解したくないほどにショックだ。

「それじゃ先生、勝手ばかりで申し訳ないんですけれど」
奥様が視線を戻す。
口元には嫣然とした笑みが湛えられていて、悪びれた様子はない。
「明後日で、先生との契約は終了と言うことでよろしいでしょうか。お疲れ様でした」
「・・・お疲れ様でした」
母親に次いで、ゾロも頭を下げる。
二人に頭を下げられて、だがサンジはそれに追随して礼をすることができなかった。
ただ呆然と、親子の食事を眺めているだけだ。





まだ現実感が伴わないが、サンジはともかく身の回りの片付けを始めた。
最初から身一つで越して来たから、持って帰る衣類もバッグ一つで知れている。
1週間もいなかった客間のベッドルームは、明日で立ち去ると思えばやけに余所余所しい雰囲気になった。

奥様は、明後日の朝までこの部屋を使って良いと言って下さった。
これを機に今日にでもこの家を出て行ってもいいのだろうが、それでは明日と明後日の朝食をゾロに食わせてやることができない。
やっぱりすべてを遣り果せてから立ち去ろうと心に決めて、まだ使う生活用品だけ荷物から取り出す。

もう、ゾロの夕飯の献立を考える必要もないのだ。
あのおかしな言動に惑わされることもない。
ましてや暴力的な強姦や脅しに付き合わされることもない。
金輪際、本当に?



サンジは不安を押し隠して、ゾロの部屋に夜食を運んだ。
ノックをすれば、くぐもった声で応えがある。
また、勉強に熱中しているのだ。

「ゾロ、夜食だ」
「ありがとうございます」
ゾロの態度に変化はない。
元々、ゾロがその気にならなければサンジに手を出してくることはないし、下手に周りをうろつくと邪魔だと邪険にされるのがオチだ。
いずれにせよ馬鹿らしいから、ゾロの部屋に長居はしない。
だが今は―――
サンジの目には何故か、ゾロが勉強に集中している“ふり”のように映る。

「スープが冷めるから、早めに食えよ」
ゾロは鬱陶しそうにシャーペンを握り締めたまま、視線だけちらりと上げた。
「どうせ俺の夜食食えるのも、あと2回くらいじゃねえか」
煙草を咥えて椅子に腰を下ろすと、ゾロは観念したようにシャーペンを転がし伸びをした。
「そうっすね」

土鍋の蓋を取ると、中にはパスタスープが入っていた。
割り箸を使ってまるで蕎麦のように啜る。
「お前さあ、もっと怒るかと思ったのになあ」
サンジは湯気に曇るゾロの眼鏡を見詰めながら言った。
「え?なんで?」
ゾロも鬱陶しかったのか眼鏡を外して、やや顔を顰めながらサンジを振り仰ぐ。
「俺の契約が突然切れて、ビックリとかしねえの?」
「したよ、そりゃ」
ずずっと音を立ててパスタを吸い込む。
「けど先生はカテキョなんだから、契約が切れたらそれまでだ。仕方ねえだろ」
その執着心のなさが、却ってサンジの気持ちを波立たせた。
「ほんっとに腹立つガキだな、どこまで自己チューなんだ。てめえ、もしかして相手見て駄々捏ねてるだけなのか?」
サンジの言葉に、ゾロは僅かに目を見開いた。
ああ、この顔だ。
いつぞやの奥様と、その前に見たゾロと、幾つもの情景がフラッシュバックする。

「・・・ああ、そうかもしれませんね」
サンジはがっくりと脱力した。
これだ、これでいつも毒気を抜かれるんだ。
どこまでも悪気の無い非道。
他者を思い遣れない、良心の欠落と邪気の無い悪意。
嘘偽りの無い欲望。

つるんとパスタを口に入れて、ゾロがモグモグ咀嚼している。
いつもは乾いている唇が、蒸気とスープでてらりと艶めいて見えて、ふと触れたくなった。
唇で。
その衝動に自分自身が衝撃を受けて、一人ブンブンと首を振る。
「・・・なんすか、先生」
「いや、なんでもね・・・」
サンジは視線を逸らし、サイドテーブルに置いてあるパソコンを見詰める。
「あのなあゾロ」
「はい」
「そのパソコンの中に、な・・・」
さすがに言いよどんで代わりに煙草を吹かした。
すぱすぱと漂う紫煙に顔を顰め、ゾロが土鍋を持ってスープを啜る。

「先生のアレですか。まだありますよ」
「・・・それ、消せ」
「はい」
またしても素直な返答。
素直すぎて却って胡散臭いのだが、ゾロの動向をある程度把握したサンジは気が抜けた。
「・・・ほんとに消せよ」
「はい、それもちょっと残念なんですけど」
スリープ状態を解除すると、あろうことか壁紙に静止画像がランダム表示されていた。

「き、貴様―――」
恥ずかしさに耐え切れず勢いよく立ち上がったサンジを、ゾロは両手を上げて制止した。
「大丈夫、誰も俺の部屋に入りませんし。音消してあるから」
あっけらかんとそう言って、「これ気に入ってたのに」などと名残惜しそうに操作する。
ファイルからゴミ箱へ。
それだけで消えたのか、サンジにはわからない。
「そんで、もう消えたのか?」
「はい」
「さっぱり消滅か?この世から」
「さっぱりかと言うとそうでもないんですが、俺が復活させようとしない限りもうありませんよ」
「それが一番問題なんだ!」
うきーと叫ぶと、ゾロがはははと笑い声を上げた。
サンジの中で愉悦に歪む笑い声とはまったく違う、快活な響きだった。



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